手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

2023年のこと

世の中のこと

2022年に始まったウクライナでの戦争が継続中である。今年10月にはイスラエルハマス紛争が勃発し、ガザ地区では非戦闘員の虐殺が行われてゐる。この数年はのちに第三次世界大戦の序章であったと記述されるのではないかと誰かが言ってゐた。そうかも知れない。

でも、複雑すぎて、正直言って理解できない。ただ分かるのは、「西側」とか「自由主義陣営」とか「先進国」という言葉で呼ばれるーー本邦が属してゐるとされるーー集団なり秩序みたいなものの力がいよいよ失われつつあるということだ。

日本でもいろいろなことがあった。いづれも巨大なシステムの崩壊またはそれに抑圧されてきたものの噴出、あるいはその予兆のように見える。

創価学会の元会長で公明党創設者の池田大作が死んだ。カリスマの重しが取れたときになにが起こるだろう。重しが取れたと言えば安倍晋三の死から一年、自民党最大派閥である安倍派の裏金着服が明らかになり、所属議員が政権の要職から退いた。

増税メガネ」こと岸田首相の支持率は20%代にまで下がり、なにをどうしようと回復する見込みはなさそうである。その全然支持されてゐない政権が着々と軍事力の増大と武器輸出の準備を進めてゐる。いちおうの理屈としては上記したような緊迫した国際情勢に対応するためであろう。

が、彼らは世界のために日本がなにを為すべきかという確たるビジョンを持ち、冷静な観察と分析に基づいて、そうしてゐるのではない。世界は危険だ、だから軍事費増大だ(もっと対米朝貢を)、といういちばん安易な道を歩んでゐるに過ぎない。その結果はもう出てゐるではないか。貧困。

未来に希望がもてる政治および社会状況ではまったくないため、少子高齢化の傾向が改善することはとうぶん期待できない。この人口動態ではこれから数十年は生産年齢人口の減少と老年人口の増大が続く。とすると劇的な生産性の向上がなければいまの若者が高齢になるまで「失われた○○年」が継続するのではあるまいか。

どの業界でもどの職種でも人出不足は深刻で、すでに誰もが実感してゐることと思う。人口減少は所与であるのに、日本政府にはどういう社会を目指すかという大局観がまるでなく、打ち出す施策は例えば「運転手の不足に対応するために大型トラックの高速道路での最高速度を引き上げる」、というようなことである。

いま享受してゐる基礎インフラ、社会的サービスは維持できなくなる。もう十分すぎるほど悲惨なのに、かてて加えて2025年には大阪万博である。各種報道から察するに、大阪万博はそうとうひどい。東京五輪が立派に見えるほどである。

おまけに万博のあとにカジノだという。開催費用は際限なく膨張してゐるようだが、日本維新の会は身を切るつもりはないようだ。では誰が切られるか。もちろん国民である。血税。「いのち輝く未来社会のデザイン」。

こちらも重しが取れたことによる結果だろう、BBCの特集によってジャニー喜多川の性加害が告発され(昔から知られてゐたことだったが)、ジャニーズ事務所が解散したのも大きな事件だった。

東山・井ノ原の会見の当日だったと思う。キムタクがインスタグラムに「Show must go on!」というメッセージとともにキメキメのドヤ顔を投稿した。あの立場のキムタクがあの軽さとは、いったいどういうことなのか。

一説によれば「ドヤ顔」とは松本人志の造語であるらしい。その松本に、年の瀬の文春砲によって、性加害疑惑が浮上した。高級ホテルのスイートルームでパーティーがあり、後輩藝人が連れてきた女性に対して性行為を迫ったとのこと。報道によれば女性たちの携帯電話は事前に没収されてゐた。このあたりに計画性が想定され悪質である。

報道及びその後の反応に対して、松本は「いつ辞めても良いと思ってたんやけど… やる気が出てきたなぁ〜。」とつぶやいた。記事が事実でないなら反論すべきだろう。このつぶやきはキムタクの「Show must go on!」と併せて、藝能界で最も影響力と権力をもつひとたちの社会性のなさ、あるいは忌避を見事に示してゐる。この社会性の欠如、外部の不在こそが忖度・隠蔽文化の温床に違いない。

松本が所属する吉本興業大阪府市で権力をもつ日本維新の会は極めて深い関係にあるから、松本問題の波及如何によっては万博にも影響があるかもしれない。

自分のこと

個人的には充実した一年だった。一月は無職で過し、二月からいまの会社に派遣され、総務経理チームで様々な業務に従事した。みなさん親切で、事務職の経験がほぼ皆無の自分にはこれ以上ないという環境で働くことが出来た。うそいつわりなく、これまで経験したなかでいちばん良い職場である。

仕事のストレスが少なかったから、精神的にも比較的に安定してゐた。おかげでその他の活動にもしっかり資源を注ぐことが出来た。犬ともずっと仲良しでたくさん遊んだ。ダンスも上達した。一度も休まず、しっかりノートを取り、復習し、共有した。安定の林クオリティである。来年はインドに行って先生の直接指導を受けたい。

読み書きもだいぶんした気がする。今年はふたつの点で契機となった。

第一に、日本語表記についての関心が薄れたこと。一昨年の暮れに日本語表記に関する記事を三つ書き(「本ブログの表記法について」にまとめてある)、自分にはこれが限界だと思った。表記はもういいから、別のことに力を割り当てようと決めた。

別のこととは、日本人と超越的なものとの関係について。つまり日本の思想史を学びたいと思った。この問題意識は今年「日本人の規律について」という文書を書いたことで、自分のなかで一気に前景化してきた。

書いたあとに、ああこれだ、ここが本丸だと感じた。政治家にまったく構想力がないのも、藝能人に社会性がないのも、批判を忌避し現状追認する言説が好まれるのも、要は日本人が「いま・ここ」に存在しない理念とか価値といった抽象的観念を理解しない、あるいは扱うのが下手であるという性質から来るのだ。

わたしはこの問題系を福田恆存の「日本及び日本人」「絶対者の役割」「西欧精神について」「個人と社会」等の論文で知った。それを思い出しながら「日本人の規律について」を書いた。書いたあとで、もっと考えたくなって、加藤周一の「日本文学史序説」と「日本文化における時間と空間」を読んだ。

加藤は古事記から戦後文学まで厖大な文献を渉猟し、「抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。」という日本人の思想を綿密に跡付けてゐる。

この性質はそう簡単には変わらないだろう。とすれば、そのことを強く明確に自覚したうえで、可能な限り被害を最小化するような策を講じねばならない。「日本人の規律について」は評判が良かった。どうやらそういう性質があること自体あまり知られてゐないらしい。

いや、みんな「空気の支配」みたいな言葉でなんとなく知ってゐる。けれども被害を抑えるためには、もっと解像度を高めて理解する必要があるだろう。知識人はそのために本を書いてくれてゐるのだ。というわけで、来年はこの問題系に関する福田と加藤の言葉を紹する記事を書きたい。語録みたいなものでいい。

第二に、舞踊探求について勉強の仕方を変えた。これまでは読んだ本の感想や引用を記事にして「カタック資料集」に残して来た。今年は趣向を変えて、読んだ本ではなくテーマを決めてそれについて調べたものを書く「○○ノート」を始めた。これが非常によかった。これからはこの形式で行きたい。

来年は本や映画の感想はなるべく書かないようにする。その資源を「○○ノート」に割り振る。調べたいこと、考えたいこと、書きたいことがたくさんある。もう三十代後半なのだから、優先順位と資源の配分を戦略的に考えないといけない。

今年はそのことを痛感し、また実践を始めた年だった。来年はこれを習慣化する。