手探り、手作り🐘

「ミッション・インポッシブル」新作の予告を見たのですが、かなりいいですね✨

「進みながら強くなるーー欲望道徳論」鹿島茂

進みながら強くなるーー欲望道徳論鹿島茂 集英社新書 2015

エマニュエル・トッドの家族人類学によれば、日本は直系家族類型に属する。子供が成長して生計を立てられるようになっても、親はそのうち一人の子供と同居する。その子供に子供ができても同居する。「親ー子ー孫」の縦型の家族である。ドイツ、オーストリアチェコスウェーデン、朝鮮などもこの類型にあたる。

 このタイプでは、父親ばかりか母親にも権威があり、それに準じて家の跡継ぎである長男とその嫁にも権威が付与されているため、女性の地位が相対的に高くなります。次男以下は、独身で同居している場合には、兄嫁にも敬意をもって接しなければなりません。そうしたこともあって、長男の嫁の結婚年齢は高くなり、夫とそれほど歳が違わないのを通例とします。兄嫁が弟たちよりはるかに年下であっては、権威を保つことはできないからです。

 そして、母親と長男の嫁に一定の権威が与えられていることが、教育熱心という伝統を生み出し、識字化の波が押し寄せると、この直系家族類型は、他の家族類型に先駆けて識字化革命を達成しますが、しかし、その反面、親子の関係が権威主義的であるため、子どもたちは親や長男の権威に縛りつけられて、自由を獲得することに手間取ります。というよりも、自由よりも権威に服従することに高い価値が与えられていますので、近代的な自我の確立や個人の自立といったことは遅れ、その結果、前工業社会においては、人間関係の近代化(農村共同体の解体)に手間取るため、工業化社会の成立においても核家族類型の核家族類家の国々の後塵を拝します。

 ところが、ひとたび、工業化社会が到来すると、教育熱心で識字率が高いことが幸いして、あっというまに世界の先進工業国の仲間入りを果たします。

 ただし、千万人いえども我行かんという自立独立の精神には乏しいので、世界のイノベーターとなることは少なく、だれかが発明したものを改良することに秀でるという特徴を持ちます。 98-100頁

家族類型の規範力はとても強く、ある集団が何かの制度や組織をつくると、その類型の特徴が反映されてしまう。会社でも役所でも学校でもクラブ活動でもボランティアでも、日本では直系家族的タテ社会となる。

 そして、日本的な道徳意識というものも、この擬制的直系家族のタテ社会から演繹されているのです。

 つまり、頂点にはビッグ・ファーザーたる超越的な父親的存在が君臨し、その存在の権威をピラミッドの構成員が次々に下に伝えるという構造、戦前の日本の軍隊では、「上官の命令は天皇陛下のご命令だと思え」と教えられましたが、そうした上からの権威を下へ下へとリレーしていく構造は、直系家族がイデオロギー的に投影されたイメージであり、これが近代的な様相を帯びるとファシズムへと転化することがあるのです。

 こうした擬制的な直系家族システムの社会では、常に個人は、無意識の中で超越的な父親から見張られているように感じますが、一般に良心と呼ばれるのは、この無意識の中の超越的な父親の存在なのです。フロイトはこれを「超自我」と名づけました。

 フロイトユダヤ系のオーストリア人でしたが、ユダヤ社会もオーストリア社会もともに典型的な直系家族ですので、社会とその反映である個人の内面を説明するのにこの超自我というのはとても便利な作業仮説となったのです。

 このように、直系家族社会では、自宅にいても会社や学校に行っても、至るところ直系家族における父親の代理としての超自我だらけです。それどころか、個人の内面に最も強く超自我は存在していますから、直系家族にいる限り、個人は常に見張られているような圧迫感を覚えるのです。

 この圧迫感があるため、日本人が直系家族ではない核家族の国に行って暮らすと非常に大きな解放感を味わうことになるのです。

 しかし、その反面、この「超自我の偏在」は強い道徳意識を支えることになりますから、直系家族類型の社会では概して犯罪は少なくなります。 111-113頁

さて、本書で鹿島さんは、日本も徐々にイングランドに代表されるアングロサクソン系の「絶対核家族」類型に移行しつつあるので、新しい道徳をつくるべきであると主張する。

核家族類型の社会が作り出したシステムは資本主義(経済的自由主義)と民主主義(政治的自由主義)の二つである。この二つのシステムの中核にあるのは「自己利益」と「自己愛」だ。自己利益と自己愛の追求を肯定するような道徳が必要である。

それは、「正しく理解された自己利益(自己愛)」を根幹にすえた道徳である。長期的に見れば、また広い視野で考えれば、こうしたほうが得になる、そのような「正しい損得勘定」を身に付けるべきだと。

どうだろう。この本の出版から7年が経過した。その間の日本社会の変化を見ると、新しい道徳は拡がってゐないように思える。階層化が進み、それが固定しつつある。序列化と権威主義の強化を望んでゐるかのようだ。

長期的な視点や広い視野から考えた自己利益ではなく、いまここの自己利益にしがみつく傾向が強まってゐる。選択の幅をせばめ、与えらえた場所と分際でがんばることや、ちいさな工夫をして楽しむことによって、自分の生活を守るという感じ。

そうなってしまうほどに余裕がなく追い込まれてゐるということでもあるけれど、自由度を狭め、諦めることで、幸福度を上げる努力をしてゐるようにも見える。批判精神への嫌悪や、自己責任論の横行を見るにつけ、そんなことを考えてしまう。

個人が近視眼的な合理性で動いてゐるので、結果として、全体としては悪い方向に進むという合成の誤謬(?)が起ってゐるんぢゃないかしら。なんしか、いろいろうまく嚙み合ってゐないと思う。

日本人は長期的かつ広い視野に立つ「正しい損得勘定」を身に付けることができるのだろうか。それとも擬制的直系家族からは抜けられないと観念し、権威主義道徳をマシなものにする方法を考えるべきだろうか。