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ブログの全体像&自己紹介

はじめまして。

林広貴です。ご訪問いただきありがとうございます。

ここではブログの全体像の説明と、簡単な自己紹介をいたします。

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 ◇国政選挙まとめ 2012年11月の衆院選以降の国政選挙についてまとめてゐます。
 
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 ◇資料・メモ   メモ・覚書です。
 
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踊り        ライフスタイルとしては、舞踊本位、踊り第一です。
 
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おすすめ記事

少なくとも、力を入れて書いた、とは言えるもの。これが精一杯。

キム・ヨナの芸術  ヨナさん、最高!

第二次安倍政権年表 しっかり距離をとり、正気を保ってゐたいですね。

国政選挙まとめ   解散権の制限を憲法に明記すべきではないでしょうか。

自己紹介

1986年生。生まれも育ちも奈良県奈良市です。

2012年1月から東京品川区の中延という町に住んでゐます。

中延商店街と戸越銀座商店街武蔵小山商店街の真ん中あたりで、とても住みよいところです。

仕事は、英文特許文書日本語訳の校閲をしてゐます(派遣)。 
 
趣味は舞踊と文学です。
2012年からフォンジュン(fonjerng、 北タイの武術・舞踊)を習ってゐます。
2016年からカタック(kathak、北インドの伝統舞踊)を学んでゐます。当初は先生についてゐましたが、現在独習です。
 
習ってゐるのは伝統舞踊ですが、舞踊芸術全般が好きです。
好きな舞踊家・ダンサーはNutan Patwardhan、Madhuri Dixit、アクラム・カーン、キム・ヨナ、Shantala Shivalingappa、マイケル・ジャクソン・・・etc。
 
好きな作家は福田恆存夏目漱石井上ひさし斉藤茂吉中島敦等。 
最近はあまり文学を読む時間をつくれなくてつらいです。 
政治・社会にかかわる記事が多いですが、ライフスタイルとしては舞踊本位、踊りに熱中することを生活の最優先としてゐます。
duoxie.hengcun@gmail.com

「かなづかい」について

このブログでの日本語の書き方、ぼくの「かなづかい」はヘンテコです(「第二次安倍政権年表」は公共性を意識して例外的にふつうに書いてゐます)。

「住んでゐます」とか「まづ、はじめに」とかおかしいですよね。

ここでは、具体的に何がどう違うのか、また、なぜそのような普通とは違うかなづかいで書いてゐるのかをご説明いたします。

敗戦後、占領期に実施された「国語改革」により、「漢字」と「かなづかい」の簡易化が行われました。

「国語改革」とは1946年に公布された「当用漢字表」と「現代かなづかい」にもとづく「日本語の書き方」の変革のことをいいます。

当用漢字表」および「現代かなづかい」は、「漢字の全廃」を最終目標として作成されたもので、「当用」とあるとおり、「さしあたっての便宜」のために極めて拙速につくられたものです。

ですから、正統性を欠き、原則として機能しないものです。

「漢字全廃」をあきらめた政府は1981年に「常用漢字表」を、1986年に「現代仮名遣い」を公布して方針転換しましたが、改革の非を認めたわけではなく、現状を追認して、それを「正書法」だと言い張ることにしただけのことです。

現在通用してゐる「正書法」が正統性を欠き、原則として機能しないことに変わりはありません。

実際、多くの人はそれと知らずに「常用漢字表」を無視して漢字を使い、「現代仮名遣い」を破って語を書いてゐます。

常用漢字表」の無視については分かりやすいことで、「改ざん」と書けば「常用漢字表」に従った書き方であり、「改竄」と書けば「常用漢字表」を無視した書き方です。

隠ぺい、ねつ造、払しょく、忖たく、信ぴょう性、けん制、けん引、へき地、抜てき、急きょ、安ど・・・

など枚挙にいとまがありませんが、このような「交ぜ書き」は「常用漢字表」を守ることから生じるものです。

漢字の音をかなで書くというのは漢字の表意性をとりのぞくということですから、たいへん読みづらいし、意味を推測できないので不合理かつ不便です。

だから、「常用漢字表」を遵守して書いてゐるのは公文書や新聞社くらいのもので、多くの作家も、一般の人が気軽に書く場合も、それを無視して書きます。

ぼくも当然、気にせず使います。

では「現代仮名遣い」はどうでしょうか。

これについては、ほとんどの人が「守ってゐる」という意識だと思います。

が、実際にはそうではありません。

「一人づつ」とか「つまづく」とか「うなづく」とか書いてしまう。そういう書き方をしばしば見かけます。

これは、「現代仮名遣い」では

「一人ずつ」、「つまずく」、「うなずく」と書かねばなりません。

前者の書き方は「歴史的かなづかい」の書き方です。

そして、「歴史的かなづかい」のほうに正統性があり、「現代かなづかい」および「現代仮名遣い」は「歴史的かなづかい」を表音化という方向で簡易化したものです。

国語教育において、語の書き方、「かなづかい」について習うのは、ほとんど助詞の「は」「へ」「を」の使いかたくらいのもので、「四つがな(「じ・ぢ」「ず・づ」)」の使い分けなどについてきちんと教わることはありません。

「歴史的かなづかい」とは何なのか、

かなの性質とはどのようなものか、

助詞の「は」「へ」「を」はなぜ「ワ」「エ」「オ」と発音するのか、

「じ・ぢ」「ず・づ」はなぜ同じ音なのか、

これら日本語の歴史と性質について体系的な知識をあたえず、いいかげんにすませて、だいたい発音のとおりに書けばよい、ただし「は」「へ」「を」だけは例外です。そういうふうに教わります。

だから「一人ずつ」を「一人づつ」と書いてしまうし、それが「現代仮名遣い」としては間違いであることに気づかない。

また『「現代仮名遣い」としては間違いである』ということの意味がわからない。

ぼくは「歴史的かなづかい」が正統な書き方であり、それを簡易化した「現代かなづかい」および「現代仮名遣い」には正統性がないと考えます。

「歴史的かなづかい」はむづかしいので簡易化が必要である。

それについては同意しますが、「国語改革」によって行われた簡易化はいきすぎであり、間違いであったという立場です。

したがって、「常用漢字表」を無視して漢字を使うように、「現代仮名遣い」にも従わずにことばを書きます。

簡易化の度合いをよわめ、正統である「歴史的かなづかい」にちかづけた書き方をしてゐます。

具体的には、以下の語について「歴史的かなづかい」で書きます。

・助詞の「さへ」「づつ」

・存在を意味する「ゐる」「をる」

・「ぢ」「づ」「じ」「ず」、いわゆる「四つがな」を使用した語

これで具体的にどこが違うのかがお分かりいただけたかと思います。

次に「なぜこんなかなづかいで書くのか」について、もう少し詳しく述べます。

上記のとおり、国語改革は敗戦後の占領期に実施されたものであり、いわゆる「戦後処理」の一環ということができます。

19世紀末に幕藩体制が終わり、大日本帝国ができ、日本は近代国家となりました。

それが1945年の敗戦によって崩壊し、連合国に占領され、日本国憲法ができ、サンフランシスコ平和条約日米安保条約によって日本は独立し、「戦後の日本国」ができました。

「戦後の日本国」をデザインしたのはアメリカです。

大日本帝国の失敗の上に新しい国家をつくるという「戦後処理」が冷戦構造のなか、朝鮮戦争のさなかに、アメリカの国家戦略に都合のいいように行われた。

そのために「戦後処理」はいろいろな問題をあいまいにしたまま決着されました。

天皇制。慰霊。アジア諸国との関係。核。日米同盟。沖縄。

このままではいけないのは明らかです。

ぼくの感覚では、これらの問題について、このままでよいかのようにふるまうこと、これでよいようなふりを続けることは、もう限界です。

「戦後の日本国」はもう終わりなのだという感覚があります。

そしてのその「終わり」は、大日本帝国の悪しきものが復活し、「戦後の日本国」の良きものを破壊するというかたちで進行してゐるように思います。

次の日本国のありかたを構想するためには「戦後処理」のどこにどのような問題があったのか、じっくりと腰をすえて検証することが必要だと思います。

「国語改革」の意味もまた、問い直すことが必要でしょう。

国語改革批判に最も功績のあった福田恆存という作家は次のようなことばを残してゐます。

國語國字改革運動は國語國字を易しくしようとして、それも國民全體に國語國字を正しく使はせようといふ完璧主義あるいは病的合理主義が動機であつたのに、かへつてそのために、混亂をひきおこし、結果としては難しい國語、不合理な國字を生むことになつてしまつた。それより困ることは、國民全體に言葉や文字などどうでもいいのだといふ觀念を植ゑつけてしまつたことです。それが戰後の國語屋がもたらしたおそらく唯一最大の效果でありませう。 「私の國語教室」1960

「國民全體に言葉や文字などどうでもいいのだといふ觀念を植ゑつけてしまつた」

はじめてこの本を読んだのは10年以上前ですが、そのときは「そんなことないよ」と思いました。

しかし今は「まったくそのとおりだ」と思います。

ことばは「現実」であり「人間」そのものです。

今の日本人は「言葉や文字などどうでもいい」と思ってをり、「現実」も「人間」もどうでもいいと思ってゐるのではないでしょうか。「現実」を大切にする、「人間」を大切にするということが分からない。そうして自分を抑圧し、他人を攻撃してゐる。それでみんな苦しんでゐる。

21世紀のぼくたちは、あの敗戦の戦後処理をあいまいにすましてしまったことの復讐を受けてゐるのではないでしょうか。

こういう状況が「国語改革」のみによってもたらされたわけはないですし、それを問い直したところでそういう状況が変わることもないでしょう。

けれど、何かをしなくてはならないし、いろいろな人がいろいろなことをしなくてはならない。

ぼくは個人的に「国語改革」に関心があるので、自分のできる範囲で勉強して考えて、その実践としてこのようなかなづかいを試してゐるという次第です。

このかなづかいは、「戦後の日本国」のありかた、国語改革への抵抗であると同時に、次代のありかたを考えるための模索であり実験です。

占領がなくても国語改革は実施され、簡易化は行われてゐたに違いありません。

しかし、もし大日本帝国がもう少し早い段階で戦争を終わらせることができ、占領がなかったとすれば、漢字の字体は今と違うものになってゐたでしょう。字数制限もなかったかもしれない。

そしてかなづかいは、もっと歴史的かなづかいに近いものであったはずです。

ぼくは、それを考えたいのです。

もう一点、現在は「戦後の日本国」の終わりであると同時に、「国民国家」というシステムの終わりであるかもしれません。

これは微妙な問題ですけれど、今のわたしたちが自明の前提としてゐるような「国家」のありかたはもう無理という感じがします。

「国家」が「国家語」としての「日本語」をつくり「正書法」を定め、それを「学校」で「教育」して「国民」を育てる。

上の文章の「」でくくった語は「近代」の「国民国家」が要請したフィクションであり制度です。これらの観念がゆらぎつつあり、さまざまなところでほころびを見せてゐますから、それに応じた修繕なりリフォームなりが必要になってきてゐます。

まづ「正統」とは何かということをはっきりさせたほうがよいと思います。

そしてそれとは別に、「共通語」としての日本語というのがあってよいと思います。

たとえば、現在の教育課程で「国語」と呼んでゐるものを「共通語」として初等教育でおしえる。そして中等教育では「日本語」という科目を選択できるようにし、古典・歴史的かなづかい・旧漢字などを学ぶ。さらに「移民のための簡易日本語」などというのもあってよいかもしれません(そもそも学校教育というのをなくして、みんな好き勝手私塾のようなところで勉強するようになるかもしれません)。

いづれも優劣はありません。正統がえらいということではありません。正統というのがあって、そこからの距離をめいめいがいいように考えて実践すればよいと思います。

もちろんぼくが間違ってゐる可能性はおおいにありますが、現在ぼくはおおよそ上のように考えてゐます。

ここに書いた内容を、より詳細に、もっと整理したものとして、「日本語の書き方」と題する記事を現在執筆中ですので、ご関心のあるかたはそちらをお読みいただければ幸いです。

「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル

それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社 1993

 

ナチス強制収容所で三年間を過ごした精神科医フランクルが1946年に行った講演。

フランクルタゴールの次の詩を引用し、「人間は楽しみのために生きてゐるのではない、生きることは義務である」という。

私は眠り夢見る、

生きることがよろこびだったらと。

私は目覚め気づく、

生きることは義務だと。

私は働くーーすると、ごらん、

義務はよろこびだった。

生きることは義務であり、たったひとつの重大な責務である。人生にはよろこびはあるが、よろこびそのものを「欲する」ことはできない。よろこびはおのづから湧くものであり、幸せは結果にすぎない。

そして「人生の問いのコペルニクス的転回」を提出する。

(・・・)私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。 

 こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつでまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。 27-28頁

 「現在がすべて」である。

一般化された「人生の価値」や「生きる意味」などというものはない、その瞬間瞬間に、自分がおかれてゐる具体的な状況にどのように対するか、それだけだ。

具体的な「ここ」と「いま」において、問いと向きあわなければならない。

「ここ」と「いま」においてなされる問いは、あなた固有のものだ。それに答えられるのはあなた一人だけだ。ここにおいて一人の人間の「代替不可能性」を見出すことができる。

(・・・)なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代替不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。 32頁。

「ここ」と「いま」においてなされる問いを「運命」と呼ぶことができる。この「運命」に応じることが自分の責任であり、人生の意味である。

では、その運命そのもの、世界そのものに意味はあるのか。無意味であるとも、意味を超えた意味(超意味)があるとも、どちらとも言いうる。どちらとも論理的に正当であり、不当である。

フランクルは、「超意味」を信じることができるという。

信じることを真実のことにするのだと。

(無意味か、有意味について)人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。どちらを選ぶかを決断することができるのです。

 ただ一つのことははっきりしています。究極の意味、存在の超意味を信じようと決断すると、その創造的な結果があらわれてくるでしょう。信じるということはいつもそうなのです。信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。 112-113頁

生きることは義務であり、個々人がそれぞれに人生からの問いに答え続ける責任がある。

責任ということばはしばしばぼくたちを責め立て、苦しめる。

しかし、この責任というものを直視したとき、人は、その測り知れなさに気づくことになる。

 おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の可能性を実現するか失うかするのです。さて、その瞬間その瞬間には、何千もの可能性があるのに、そのうちのたった一つの可能性を選んで実現するしかありません。しかし、一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性に対して、存在しないという選択を下すことになるのです。しかもそれらの可能性は「永遠に」存在しないことになるのです。

 それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。 160-161頁

人生の責任はおそろしいものであり、同時にすばらしいものである。

人はどのような困難な状況にあっても、責任を担い、人生を肯定することができる。

人生にイエスということができる。