生活の芸術

正しいことをひかえめに言う練習

ブログの全体像&自己紹介

はじめまして。

林広貴です。ご訪問いただきありがとうございます。

ここではブログの全体像の説明と、簡単な自己紹介をさせていただきます。
なお、仮名づかいについては「正しい日本語の書きかたー表語仮名づかい宣言ー」をお読みください(準備中です汗)。

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記録中
年表       第二次安倍政権年表」を作成中です。   
国政選挙まとめ  2012年11月の衆院選以降の国政選挙についてまとめてゐます。
首相動静+α    首相動静を読み、毎回+αとして何か調べたことを書きます。
 
書いて考える
大ネタ      拉致問題北朝鮮核問題等の大ネタを扱ってゐます。 
ちょ、待てよ。  時の話題に応じて、ああだこうだ考えたものです。
回顧シリーズ   2018年以降、一年毎の回顧録です。
 
ことば       気になったことば、日本語や文学など。
 
本と映画      本と映画の紹介です。
 
踊り        踊りってほんとうにいいものですよね。
 
雑文        上記カテゴリにおさまらないものを。
 

「生活の芸術」とは 

 
 タイトルの「生活の芸術」は林語堂(1895-1976)という作家の英文著作「The Importance of Living」(1937)の中国語版タイトル「生活的芸術」からとりました。日本語では「人生をいかに生きるか」という題で出版されてゐます。ぼくはこの本を学生時代に古本屋で見つけて読みました。
 
 タイトルの通り、「人生をいかに楽しむか」という大問題について、古今東西の哲学文藝を自在に援用しながら、書、画、詩、食、茶などなど諸事万端を縦横に語った痛快な本です。作家の底知れぬ教養、批評精神、ユーモア、そしてそれらを統合する大きな人格に触れて、当時のぼくは感激しました。彼のような自由闊達でおおらかな精神をもって生きたいと思いました。
 
 彼は自身の人生態度について「Nonconformist」という言葉で語ったことがあります。日本語では不羈。「羈」とは馬のおもがい・たづなのことで、最近はあまり使われない言葉ですが「独立不羈」とか「不羈の精神」などの用法があります。漢語を使わずに言うと「とらわれない」「こだわらない」ぐらいの意味になるかと思います。
 
 もし「学問の目的」というものがあるとしたら、結局のところこの「とらわれない」「こだわらない」人格を作り上げることが一番になるのではないでしょうか。もちろんそれは「何でもどうでもいい」という放埓な態度とは違ってゐて、むしろ反対のものです。
 
 林語堂は自由闊達な精神を抑圧するものに対して抵抗した作家でした。生没年から明らかなように、彼の青年期から壮年期は日本の帝国主義時代と重なってゐます。彼はその時期、中国人の生き方・歴史・文化を紹介する評論(中国=文化と思想)や、義和団事件から日本軍による占領までの動乱を背景とした小説(北京好日)を英文で書き、いづれも世界的ベストセラーとなりました。執筆の背景には帝国主義の圧制に苦しむ中国人を鼓舞し、民族の自立を促すという意志がありました。
 
 ぼくは林語堂のように自由闊達な精神をもって人生を楽しみ、とらわれない人格をつくり、それらを抑圧するものに対しては抵抗したいと思ってゐます。そしてそのためには、やっぱり、学問をするしかないんぢゃないかと思ってゐます。
 
 「生活の芸術」はぼくの学問(読んだり書いたり、踊りや武術の稽古をしたり)の経過を示すものです。その経過をネット空間という公共の場に提示することで、こころざしを同じくする人々の役に立てたらと思ってゐます。
 

「正しいことをひかえめに」

 
 上にブログタイトルの由来を述べましたが、ここまでに登場した「自由闊達な精神」とか「人格」とか「学問」とか「こころざし」とかいうことばに、ちょっと引いてしまった人も多いと思います。「真面目か!」というツッコミが聞こえてきそうです。
 
 ぼく自身、読んでみて「ああ、この人メンドクサイかも」と思いました。同意します。人付き合いより、自分と付き合うことのほうが疲れます(自分もまた他者であると考えれば同じことなのかもしれませんが)。
  
 かなりメンドクサイですが、30過ぎまでこういう気質が残ってゐるのだから、もうどうにもなりません。
 
 気質は変えられない。変えられない以上、それを受け入れた上で、そこからメンドクサイ感じが表れないようにしないといけない。やはり、人からメンダクサイと思われるのは嫌ですし、何よりも、話を聞いてほしいですから。
 
 そこでブログ説明に「正しいことをひかえめに言う練習」とあるわけです。
 
 正しいことをしたいし、正しいことを言いたい。けれど、それを「~であるべきだ」と「~せねばならぬ」でゴリゴリ押していくと、通る筋も通らないし、うっとうしいですからそもそも話を聞いてもらえない。下手をすると相手を怒らせたり傷つけたりしてしまって、関係が壊れてしまう。それは困る。
 
 だから「正しいことをひかえめに言う」テクニック、できたら「愛嬌をそえて、面白く言う」テクニックが欲しい。これがなければ、いくら立派な考えが頭にあっても、まったく役に立たない(自分が間違ってゐることもあるわけだし)。ぼくはこの平凡な真実に30過ぎて気がつきました。遅くてすみません。
  
 ただ、今の世の中、「正しいことをすべきだ」という発想のまるでない人があまりに多いように思います。
 だから理性も倫理も欠けた、ためらいなく不正をなす人達が日本の中枢に居座ってゐられるのでしょう。今の日本は理非曲直のまるでない国になってゐる。
 
 では「正しいことをすべきだ」という発想のない人はどういうふうに社会と向き合ってゐるのかというと、おそらく「うまく適応すべきだ」でしょう。家族・学校・労働・政治、ぼくらはいろんな制度やシステムに適応して生きていくわけですが、日本ではとにかく「適応しろ」というメッセージばかりが発せられる。
 
 制度やシステム、既存の枠組みに対して「これに適応していいのか?」「適応すべき制度なのか?」と問う懐疑や批判的思考は「和を乱す」として、むしろ疎んじられる傾向が強いように思います。根源的に「正しいかどうか」を問うことなく、現状に適応し、体裁を保つためにガンバル力(コミュ力)が不当に高く評価されてゐるように感じます。
 
 空気を読み、流れに棹さし、和を以って貴しとなす。なるほどこれらは和気靄靄とした共同体をつくるためには必要かもしれません。が、これらが美徳として成立するためには、さらに別の美徳が背後に控えてゐなくてはいけないと思います。
 
 それは「空気の性質」「流れの方向」「和の内実」を問う懐疑精神、正邪善悪を判断する力、不正に対して否という勇気です。これらが根本にないのならば、「和を以って貴しとなす」は「黙って言うことを聞け」と同義になってしまう。
 
 けれど今の日本では「従順」は美徳であっても「勇気」は美徳ではない。子供たちに「人に迷惑をかけるな」と言っても「正しいことをせよ」とは言わない。
 
 これでは「正しいことをすべきだ」という発想のない人がマジョリティなるのも当然だと思います。批判をすると「悪口」と言われ、理想を語ると冷笑されるのですから。こうなると、傍観者でゐることが一番賢い処世術だということになる。 
 
 この風潮は良くない。
 
 というのも、現状を批判的に見て、勇気を出して正しいことをする(失敗しても)、あるいは正しいことを言う(間違ってゐても)人がある程度の割合でゐなければ、既存の制度やシステムを変えることは難しい。
 
 そして、ぼくの実感では、現実はどんどん変化してゐるのに、家族・学校・労働・政治など、制度のほうがついていけてゐない。だからそれに適応できない人がどんどん増えてゐる。
 つまり苦しんでゐる人・生きづらいと感じてゐる人が増え続けてゐる。
 適応できてゐる人にしたって「我慢して」「がんばって」適応してゐるものだから、すごくしんどい。これは困った。
 
 当然ぼくも生きづらいと感じてゐます。だからもうちょっと生きやすい世の中になって欲しい。そのためには「正しいことをする人」、「正しいことを言う人」がもっと増える必要があると思います。
 
 ただ、前述のとおり、そういう人は冷笑されて疎んじられることが多い。「意識高い系」と揶揄されたり「出る杭は打たれる」でいぢめられたりする。これは「他者との摩擦に耐えられない」という日本人の国民性によるところが大きいとは思いますが、おそらくこういうこともあると思うんです。
 
 つまり「自分が正しい」と信じてゐる人のもの言いが押し付けがましい、傲慢に感じる。自分を否定されてゐるように感じる。それが嫌だ。
 その感覚はぼくの実感に照らしてもよく分かります。自分が正しいと信じこんで、「自分は間違ってゐるかも知れない」という謙虚さを欠いた場合には陶酔気味になりますから。
 
 だからぼくは「正しいことをひかえめに言う」技術、できたら「愛嬌をそえて、面白く言う」技術が必要だと考えるのです。これは相当程度「心の持ちよう」の問題かもしれませんが、心の操作も一つの技術と考えることもできると思います。
 
 高い倫理観を土台にして、明確な主張を行い、且つ相手を不快にさせずに、相手を動かすことができる文章。そういう文章はもう具体的な「力」と言っていいと思います(林語堂はそういう文章を書ける作家でした)。
 
 そしてそういう文章を書く技術が、誰もが習得可能な「作法」のようなかたちで公的なものになれば「正しいことを言う」ことに対して抵抗を持つ人も減るだろうと思います。それは世の中全部にとっていいことです。
 
 かなり難しい課題ですからたくさん練習する必要があるでしょう。だからたくさん書くつもりです。
 

自己紹介

 林広貴といいます。

 1986年生。生まれも育ちも奈良県奈良市。いまは東京品川区の中延という町に住んでゐます。

 仕事は「会社員→ホテル従業員→タイ古式マッサージ師→ハンバーガー屋店員→日本語教師→コールセンター→短期派遣いくつか」と転職を繰返し、2017年春から中国特許文書の校閲をしてゐます。けれどブログでは特許について書くことはないと思います。あまり詳しくないので(汗)。 
 
 趣味は舞踊と文学です。
 2012年からフォンジュン(fonjerng、 北タイの武術・舞踊)、2016年からカタック(kathak、北インドの伝統舞踊)を習ってゐます。欲張りなんだなあと自分で思います。
 
 習ってゐるのは伝統舞踊ですが、舞踊芸術全般が好きです。
 好きな舞踊家・ダンサーはMadhuri Dixit, Pandit Birju Maharaj, Nutan Patwardhan, Shantala Shivalingappa, アクラム・カーン,キム・ヨナマイケル・ジャクソン,原田薫・・・etc.(敬称略)です。
 
 好きな作家は福田恒存夏目漱石井上ひさし斉藤茂吉中島敦等。最近はあまり文学を読む時間がなくて困ってゐます。
 
 今、ぼくの問題意識として大きいのは「日本人のアイデンティティ・クライシス」と「朝鮮半島の平和と日本の独立」で、ざっくり言うと以下のようなものです。
 
 冷戦終結とバブルの崩壊以降、日本及び日本人は長いアイデンティティ・クライシスに陥ってゐる。その反映として現在の似非愛国・排外主義の興隆がある。「日本はこんなにスゴイ」と叫びながら、中国人・朝鮮人の悪いところを血眼になって探してゐる。結果として日米同盟(対米従属)以外の選択肢が消え、沖縄に基地を押し付ける。こんな自己欺瞞をしてゐて自尊心を回復できるはずがない。
 ここから抜け出すには米国からの独立を果たすしかない。そのためには朝鮮半島の平和に尽力し南北朝鮮と真の友好関係を築くことが不可欠だ。その上で韓国と緊密に連携しながら日米同盟の質を変え、米国から自立することが可能なのではないか。
 
 本当を言えば、踊りの練習にもっと時間をそそいで、人に教えられるところまでいきたいのですが、上記した問題に関連するものを読んだり書いたりするのに時間をとられて焦り気味です。
 「悠々として急げ」という開口健のことばを拳拳服膺して日々生きてゐます。

 

「華氏119」

「華氏119」2018

監督:マイケル・ムーア

www.youtube.com

 TOHOシネマズ新宿で鑑賞。

 土曜12時10分の回。観客はほとんど中年以上の男性。やっぱり、こういう映画に向けてアンテナを張ってゐて、且つわざわざ1800円払って劇場に足を運ぶのはそういう層に限定されてしまうのか。残念。

 映画は「なぜトランプが大統領になってしまったのか」を膨大な情報量と扇情的な編集でゴリゴリ描いていく。

 かなり面白いし、すごく勉強になるけれど、アメリカの選挙制度や風土、登場するけっこう有名であるらしい人々についてほとんど知識のない自分は、中盤でちょっと疲れてしまった。

 脳ミソの情報処理が追いつかなかったのだ。ネットで事前に情報を仕入れていったほうがよかったようだ。

 しかし、見てよかった。見るべき映画だった。

 なぜならこれは日本でも現に進行してゐる、「民主主義の死」に到るかもしれない大きなプロセスの一部を巧みに写し取った映画だからだ。

 ムーア監督はハフィントン・ポストのインタビューでこんな風に語ってゐる。(こちら

 この映画は、究極的にはファシズムについての映画だ。それも"21世紀のファシズム"だ。

 トランプのような人間が、人を自分の味方につけ、社会を引き継ぐかたちをとっている。それも、人を強制するのではなく、「僕についてきてくれれば、僕は君たちのためにこんなことができる」というかたちなんだ。
 非常に危険な事が起こっている。アメリカ以外の国でも同様なことが起こりつつある。
 そういう意味で、この映画は日本にむけてのメッセージが多くこめられた映画だと思う。アメリカで起こっているようなことが日本で起こらないための警告だよ。
 この映画を観た日本の観客が、首相に「トランプ大統領と距離を置いてほしい」という懇願の手紙を出してくれればと思う。
 今のところ、安倍首相はトランプ大統領の親友の一人のように見える。よい事ではないね。

 「日本で起こらないための警告だよ。」と監督は言ってゐるけれど、「もう起こってるよ」とぼくは思う。

  大統領選挙においてトランプの得票数は6300万、ヒラリーの得票数は6600万、そして投票に行かなかった人が1億人だった。票の多いヒラリーが負けてゐるというのも妙な話だし、何よりも、1億人もの人が政治を、あるいは既存の政党を諦めてゐるという事態が、極めて不健全だ。

 この不健全さは日本でもまったく同じだ。既存の政党がマジョリティを代表することができなくなって、多くの国民が政治を忌避するようになる。そうして投票率が5割程度の中で、かなり偏った考えを持つ人たち(それだけに結束は固い)が権力を握り、国家を乗っ取る。

 この映画を見て、本当に怖くなった。自民党安倍晋三のために総裁任期を6年から9年にした。だから今も首相にゐるわけだ。それが12年になり15年にならないとどうして断言できるだろう。

 違憲立法をしても、公文書改竄をしても、「LGBTは生産性がない」と言ってもおとがめなしなのだ。絶対多数を議会で握ってゐる状態では、実際どんな法案でも通せてしまう。彼は本当に自分のことを「立法府の長」だと思ってゐるだろう。

 安倍が倒れることがあったとしても、それで安心してはゐられない。たとえば橋下徹のようなもっとトランプ的で頭の切れるデマゴーグが、あっというまに首相の座に上りつめるなんてこともありうるのではないか。

 本当に怖くなった。

 全力で止めねばならないと思う。