第二次安倍政権年表

忘れないために作りました。

2012年

4月11日 金正恩朝鮮労働党の第一書記に。
4月27日 自民党日本国憲法草案発表。
11月16日 第46回衆議院議員総選挙民主党大敗、「日本を、取り戻す。」をコピーに掲げた自民党が第一党に復帰。(こちらも参照ください
12月26日 第2次安倍内閣発足。安倍首相はこれを「危機突破内閣」と命名。記者会見では次のように述べた。「今、この瞬間にも、尖閣諸島沖では、海上保安庁自衛隊の諸君が日本の海や空を守ってゐます。日本の安全保障は人ごとではなく、今、そこにある危機であります。」「この政権に課せられた使命は、まづ、強い経済を取り戻していくことであります。人口が減少していくから成長は難しい。確かに難しい条件ではありますが、成長をあきらめた国、成長していこうという精神を失った国には未来はないと思います。」

2013年

1月20日 安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ完全版」発売。2006年発売の「美しい国へ」に終章として「新しい国へ」を増補したもの。「新しい国へ」の末尾の言葉は次のとおり。「(「日本を、取り戻す。」という文句は)単に民主党政権から日本を取り戻すという意味ではありません。敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」
2月 経済政策「アベノミクス」発表。「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」の3本の矢を放つとする。
2月20日 日本人拉致問題が進展してゐないことなどを理由に朝鮮学校を高校無償化の対象から除外に。
2月25日 韓国、パククネ大統領就任。
3月 TPP交渉参加表明。前年の総選挙の際、自民党は「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない」と書かれたポスターを全国に張り出してゐた。
4月4日 日銀による「異次元緩和」始まる。「2%の消費者物価の上昇」を目標に長期国債ETF(上場投資信託)を買い入れ市場に資金を供給。需要を喚起して「デフレ脱却」を目指す。
4月23日 安倍首相、参議院予算委員会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まってゐない」と発言。(参照
4月28日 「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」。天皇皇后両陛下が退席する際に「天皇陛下バンザーイ!」の声起る。安倍首相も参加。サンフランシスコ講和条約が発効したこの日は、沖縄にとっては「屈辱の日」である。
6月 成長戦略「日本再興戦略-JAPAN is BACKー」を閣議決定。「異次元のスピードによる政策実行/国家戦略特区を突破口とする改革加速/進化する成長戦略 」を提言。
6月 エドワード・スノーデン、米国家安全保障局NSA)がテロ対策として極秘に大量の個人情報を収集してゐたことを暴露。スノーデンによれば、NSAは日本のメールや電話も傍受してゐる。
7月21日 第23回参議院議員通常選挙自民党勝利、衆参の「ねぢれ」が解消される。
7月29日 麻生太郎副首相、国家基本問題研究所のシンポジウムで「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わってゐたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言。
8月9日 財務省、国の借金が1000兆円を突破したと発表。
9月7日 2020年の東京五輪開催が決定。安倍首相はプレゼンテーションを行い「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています(under control)。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と述べる。
9月7日 中国、習近平「一帯一路」構想を発表。
9月25日 安倍首相、ニューヨークのハドソン研究所で講演し。中国の軍事費増強に言及した上で「日本は今年11年ぶりに防衛費を増額し、その幅も0.8%にすぎない。それでも私を右翼の軍国主義者と呼びたいのなら、呼べばよい(So call me, if you want, a right-wing militarist)」と述べる。
10月1日 2014年4月に消費税を8%に引き上げることを表明。
12月4日 国家安全保障会議(NSC)発足。
12月6日 特定秘密保護法成立。「防衛」「外交」「特定有害活動の防止」「テロリズムの防止」、即ち日本国の安全保障に関わる情報を秘匿することができる。
12月17日 国家安全保障戦略閣議決定。積極的平和主義のもと、日米同盟を強化して抑止力を向上させると宣言。(参照
12月26日 安倍首相、靖国神社を参拝、「哀悼の誠」を捧げる。首相はかねて「第1次安倍政権で任期中に参拝できなかったことは痛恨の極みだ」と語ってゐた。中国・韓国が即座に反発。更に米国政府は「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望してゐる」と表明。
12月27日 普天間移設問題、沖縄県仲井真弘多知事、辺野古埋め立てを正式承認。

2014年

3月18日 ロシア、クリミア自治共和国編入を表明。
4月1日 消費税率8%に引き上げ。
4月1日 従来の「武器輸出三原則」を改め、「防衛装備移転三原則」を閣議決定。条件を満たせば武器輸出が認められるように。(参照
4月11日 「エネルギー基本計画」を閣議決定原発を「重要なベースロード電源」と位置づけ、再稼動を進める方針を明記。
4月16日 韓国、セウォル号沈没事故。
5月16日 拉致問題ストックホルム合意を発表。拉致被害者の再調査を約束。
5月30日 内閣人事局設置。審議官級以上の官僚約600人の人事を官邸が掌握。
6月29日 最高指導者バグダディ、イスラム国樹立を宣言。
7月1日 集団的自衛権の行使容認を閣議決定(「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」)。1972年、政府は集団的自衛権は「憲法上許されない」との判断を示し、さらに1981年には集団的自衛権の行使は「必要最小限度の範囲を超えるもので、憲法上許されない」との答弁書閣議決定してゐる。歴代政府はこれを踏襲してきた。(参照
10月20日 小渕優子経産相政治資金規正法違反、証拠をドリルで破壊)と松島みどり法相(選挙区内の有権者にうちわを配布)がダブル辞任。
11月16日 沖縄県知事選挙、普天間基地辺野古移設反対を主張する翁長雄志が当選。
12月14日 第47回衆議院議員総選挙。2015年10月に予定されている消費税率の10%への引き上げ延期を問う「アベノミクス解散」、コピーは「景気回復、この道しかない。」。安倍首相は延期に関し「再延期はしない。それは明確だ」と述べた。

2015年

3月27日 教育指導要領を一部改正。小学校で2018年度から、中学校で2019年度から道徳教育を「教科化」することに。
4月29日 安倍首相、米国連邦議会上下両院合同会議において「安保法制を夏までに成立させる」と表明。「私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。」
5月20日 安倍首相、ポツダム宣言を「つまびらかに読んでゐない」ことが明らかに。日本共産党・志位委員長との党首討論、委員長は過去の戦争が間違った戦争か正しい戦争か、その善悪について首相の認識を問うた。「ポツダム宣言は日本の戦争について、第6項と第8項で間違った戦争であるという認識を明確に示してをります。総理はポツダム宣言の認識をお認めにならないのですか?」との質問に対し、安倍首相はこう答えた。「このポツダム宣言を我々は受諾し、敗戦となったわけで御座います。私もつまびらかに承知をしてゐるわけではございませんが、ポツダム宣言の中にあった連合国側の理解、例えば日本が世界征服を企んでゐたということ等も今ご紹介に習いました。私はまだその部分をつまびらかに読んでをりませんので、承知はしてをりませんから、今ここでただちにそれに対して論評することは差し替えたいと思いますが、いづれにせよ、先の大戦への痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、我々はこのことを忘れてはならない。このように思ってをります」
8月11日 鹿児島県、川内原発1号機が再稼動。これまで約2年間、全ての原発が停止してゐた。
8月14日 安倍首相、戦後70年談話を発表。(参照
9月8日 安倍晋三自民党総裁に無投票で再選。
9月24日 安倍首相、「1億総活躍社会」の実現のために「新しい3本の矢(希望を生み出す強い経済、夢を紡ぐ子育て支援、安心につながる社会保障)」を放つと宣言。しかし、それは「矢」ではなく「的」ではないかとの批判が相次いだ。そのためだろうか、翌年、時事通信社の新年互礼会に出席した首相は「我々は、『戦後最大のGDP600兆円』、そして、『希望出生率1.8の実現』、『介護離職ゼロ』という新しい的を掲げまして、新たな『三本の矢』を射込んでいくことを、この年スタートしていきたいと考えているところでございます。」と、矢を的に変えて誤魔化した。
9月19日 安全保障関連法成立(自衛隊法など10本の改正法を束ねた「平和安全法制整備法」と、自衛隊の海外派遣を随時可能にする新たな恒久法「国際平和支援法」の2本を合わせたもの)。憲法学者の9割がこの法制を「違憲」と認識。政府の見解は以下のとおり:日本をとりまく安保環境が厳しさを増してゐる。日米同盟を強化し、自衛隊と米軍との一体化を進めることで抑止力を向上させることが必要である。抑止力が高まれば中国艦艇が接続水域に入ってきたり、北朝鮮がミサイル実験したりしなくなるはずだ。それにより日本は一層安全になり、戦争に巻き込まれるリスクが更に低下する。(参照
10月13日 沖縄、翁長雄志知事、辺野古埋め立て承認を取り消し。
10月21日 野党及び無所属の衆議院議員125名、参議院議員84名が臨時国会の召集を要求する文書を衆議院議長参議院議長を通じて内閣総理大臣に提出。憲法53条には「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」とあるが安倍内閣はこれを無視、結果翌年の通常国会まで国会は開かれなかった。
12月15日 アジアインフラ投資銀行(AIIB)発足、日米は参加見送る。
12月28日 慰安婦問題で日韓合意。両国の外相が共同会見。岸田外相「安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」(参照

2016年

1月4日 マイナンバー制度始まる。
1月28日 甘利明経済再生相が辞任。口利きの見返りとして建設業者から現金を受け取ってゐた。
1月29日 日銀、マイナス金利政策の導入を決定。
3月29日 安全保障関連法施行。
4月14日~16日 熊本地震。震度6以上の揺れが三日間に7度発生した。
4月26日 主要7カ国首脳会議・サミット(G7)が三重伊勢志摩で開幕。各国首脳と伊勢神宮を「訪問」。「参拝」だと政教分離に反するから「訪問」だという。安倍首相は会議で「リーマン・ショック前の状況に似ている」と発言。各国首脳から否定されるも、「危機感を共有した」と強弁。消費税10%引き上げの再延期の条件として挙げてゐた「リーマン・ショック級の世界経済の危機」に結びつけたかったと見られる。
4月27日 オバマ大統領広島訪問。「世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きてゐます。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。」
6月1日 消費税率10%への引き上げ2年半延期を表明。安倍首相は「再延期はしない」との前言を反故にしたことについて「今回、再延期するという私の判断は、これまでのお約束と異なる新しい判断です」と説明。
6月23日 イギリス国民投票。EU離脱派が残留派を上回る。
7月10日 第24回参議院議員通常選挙。自民勝利、改憲勢力で3分の2を獲得。自民党のコピーは「この道を、力強く、前へ。」
7月26日 相模原障害者施設殺傷事件。植松聖被告(事件時26歳)が知的障害者施設に侵入し19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた。彼は逮捕後 「権力者に守られてゐるので、自分は死刑にはならない」と語った。犯行前の2月、彼は大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けてゐた(その前に、安倍首相に届けるために自民党本部を訪問してゐたとも供述):「私は障害者総勢470名を抹殺することができます。 」「世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。」
7月31日 小池百合子東京都知事が誕生。公約は以下の「7つのゼロ」:(1)満員電車ゼロ、(2)残業ゼロ、(3)介護離職ゼロ、(4)待機児童ゼロ、(5)ペット殺処分ゼロ、(6)都道の電柱ゼロ、(7)多摩格差ゼロ。
8月8日 天皇陛下が退位の意向をにじませたお言葉表明(参照
11月8日 ドナルド・トランプ、大統領選挙でヒラリー・クリントンに勝利。
11月15日 安全保障関連法に基づき、自衛隊南スーダンPKOに対し「賭け付け警護」の任務を付与することを盛り込んだ「実施計画」を閣議決定
11月17日 安倍首相、訪米し就任前のトランプ氏に面会。「私は、トランプ次期大統領は正に信頼できる指導者であると、このように確信しました。」
12月2日 自衛隊・日報隠蔽問題始まる。ジャーナリストの布施祐仁氏は9月、7月に南ジュバで発生した大規模な戦闘に関し「南スーダンに派遣された部隊が作成した日報」の情報公開請求を行った。12月2日、防衛省は布施氏に対し「日報は廃棄済みであり存在しない」旨を通知、これを布施氏がツイートしたことから問題が拡大。翌年2月に実際は保管されてゐたことが明らかとなり、稲田朋美防衛大臣が辞任することとなった。
12月20日 普天間基地辺野古移設をめぐり、埋め立て承認を取り消した翁長知事を国が訴えた裁判、県側の敗訴が確定。
12月21日 高速増殖炉もんじゅ」の廃炉が決定。1984年に着工し94年に臨界に達するも、事故続きでほとんど稼動しなかった。投ぜられた国費は1兆円を超える。
12月25日 オリバー・ストーン監督含む日米の歴史学者ら約50人が、安倍首相に対してその歴史認識を問う公開質問状を発表。(参照
12月27日 安倍首相、オバマ大統領と共に真珠湾訪問、「哀悼の誠」を捧げる。(参照

2017年

1月20日 ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領に就任。安倍首相、施政方針演説で「日米同盟は不変の原則」と述べる。「これまでも、今も、そしてこれからも、日米同盟こそが我が国の外交・安全保障政策の基軸である。これは不変の原則です。」(参照
2月17日 森友学園問題。安倍首相が「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわってゐないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわってゐたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。」「繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います」と発言。
3月5日 自民党党大会、党則を改正し総裁3選を可能に。
4月14日 「主要農作物種子法を廃止する法律」成立→2018年4月1日に施行。
4月25日 辺野古の護岸工事が開始。
4月26日 今村雅弘復興相が辞任。東日本大震災に関し「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。首都圏に近かったりすると、莫大な、甚大な額になった」と述べたことが問題となった。
5月3日 日本国憲法施行70年、安倍首相「2020年の新憲法施行を目指す」と述べる。憲法9条、1項の「戦争放棄」、2項の「戦力の不保持」を残しつつ、「自衛隊の存在を記述する」という案を提起。
5月10日 韓国、ムン・ジェイン大統領就任。
6月15日 テロ等準備罪」を新設した改正組織犯罪処罰法(共謀罪法)が成立。
6月16日 天皇の退位等に関する皇室典範特例法」成立。
7月2日 東京都議選都民ファーストの会が勝利。自民は大幅議席減。
7月4日 北朝鮮ICBMの発射実験に成功したと表明。北朝鮮危機高まる。
7月7日 核兵器禁止条約が国連で採択される。日本は不参加。
9月1日 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」、小池百合子東京都知事は過去の知事が踏襲してきた通例を覆し、知事名の追悼文を送らなかった。「民族差別という観点というよりは、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだ」というのがその理由だ。地震の犠牲者と虐殺の犠牲者を同列に並べ「公平」に扱うことで「虐殺」を隠蔽するという歴史改竄の典型例であった。
9月3日 北朝鮮、6度目の核実験。「水爆実験を成功させた」と発表。
9月17日 安倍首相、ニューヨークタイムズ紙に寄稿:「北朝鮮の場合には,問題解決のために,外交的手法を優先し,話し合いを重視する本来のやり方では効果をもたない。国際社会の一致した圧力が伴うべきことを歴史が物語っている。」(参照
9月20日 安倍首相、国連総会で演説:「私の討論をただ一点,北朝鮮に関して集中せざるを得ません。」「冷戦が終わって二十有余年,我々は,この間,どこの,どの独裁者に,ここまで放恣にさせたでしょう。北朝鮮にだけは,我々は,結果として,許してしまった。それは我々の,目の前の現実です。かつ,これをもたらしたのは,「対話」の不足では,断じてありません。」「すなわち1994年,北朝鮮核兵器はなく,弾道ミサイルの技術も,成熟にほど遠かった。それが今,水爆と,ICBMを手に入れようとしているのです。対話による問題解決の試みは,一再ならず,無に帰した。なんの成算あって,我々は三度,同じ過ちを繰り返そうというのでしょう。北朝鮮に,すべての核・弾道ミサイル計画を,完全な,検証可能な,かつ,不可逆的な方法で,放棄させなくてはなりません。そのため必要なのは,対話ではない。圧力なのです。」(参照
9月28日 臨時国会召集、冒頭で衆院解散(安倍首相は「国難突破解散」と命名:国難とは北朝鮮の脅威と少子高齢化)。野党の臨時国会開会要求を98日間無視し、ようやく開いた臨時国会だった。
9月29日 日本、国連人権理事会の「同性愛行為が死刑の対象になること」に対する非難決議で反対票を投じる。
10月5日 ニューヨークタイムズハーヴェイ・ワインスタインの性的暴行疑惑を報じる。「Me、too運動」が世界に波及。
10月18日 伊藤詩織「Black Box」を発表。
10月22日 第48回衆議院議員総選挙。自民・公明合わせて3分の2の議席数を維持。麻生太郎副総理兼財務相は勝因について「明らかに北朝鮮のおかげもありましょうし、いろいろな方々がいろんな意識をお持ちになられたんだと思って、特に日本海側の遊説をしてゐると、つくづくそう思って、声をかけられる話が、そういう声をかけられるのがすごい多かったのが、遊説をしていた私どもの正直な実感です。」と述べた。
11月2日 世界経済フォーラム」、男女格差の度合いを示す「ジェンダーギャップ指数2017年版」を発表。日本は過去最低だった前年111位から更に後退し144カ国中114位。
11月29日 北朝鮮ICBM発射実験。キム・ジョンウン委員長、「国家核戦力完成の歴史的大業、ロケット強国偉業が実現された」と宣言。
12月10日 ICAN核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞が決定。授賞式では被爆者のサーロー節子氏が演説を行った。
12月19日 地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」2基の導入を決定。2023年、秋田と山口に配備を予定。当初「1基800億円」と言われてゐたが、その後いろいろ追加され2基で4000億円を越える見通しとなってゐる。

2018年

2月9日 ピョンチャン冬季五輪開幕。ムン・ジェイン大統領とキム・ジョンウン委員長の特使との面会が実現。2017年から続いてゐた北朝鮮危機が融和ムードに転じる。各国が歓迎を示すなか、日本のみが「対話には得るものがない」との認識を示す。
3月2日 森友学園問題。財務省による決済文書の改竄が発覚。ここに到り、問題は「政治家の便宜供与」から「公文書改竄」「行政全般への不信」にその次元をあげた。
4月27日 第3回南北首脳会談。板門店宣言を発表、2018年内の朝鮮戦争終戦朝鮮半島の完全な非核化を目指すと宣言。会談の実現に関し、安倍首相は産経新聞のインタビューに答え「まさに日本が国際社会をリードしてきた成果ではないですか。決して日本が蚊帳の外に置かれていることはありません。」と述べた。
6月12日 シンガポールで史上初の米朝首脳会談
6月19日 加計孝太郎理事長が会見。国会招致に関して「お待ちしてをります」と述べる。
6月28日 BBC、伊藤詩織のレイプ被害を扱ったドキュメンタリー「日本の秘められた恥」を放送。
6月29日 働き方改革」関連法案成立。2019年四月に導入。TPP11関連法成立。
7月3日 第5次エネルギー基本計画を閣議決定原発を「重要なベースロード電源」として再稼動させる方針を明記。
6月28日~7月9日 平成30年7月豪雨。7月5日午後、気象庁が緊急会見し「非常に激しい雨が断続的に数日間降り続き、記録的な大雨となるおそれがある」と注意喚起。同日夜、安倍首相、岸田政調会長を含む数十人が「赤坂自民亭」と称する飲み会に参加。複数の議員が宴会の模様をSNSに投稿。宴の締めの挨拶は松本智津夫元死刑囚らの死刑執行を翌日に控えた上川陽子法相の「バンザイ!」だったという。さらに6日の夜、安倍は無派閥議員を公邸に招き自民党総裁三選のために囲い込みをはかってゐた。政府は8日午前にようやく非常対策本部を設置、安倍首相は「時間との戦い」「先手先手の支援を」行うと述べる。平成最大の豪雨被害となり死者は200名を越えた。被害拡大を受けて野党が国会休戦を申し入れるも与党は無視して「カジノ法案」の審議を続行。
7月6日 オウム真理教事件、教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)含む幹部7人の死刑が執行。
7月18日 参議院の定数を6増とする改正公職選挙法が成立。
7月18日 自民党杉田水脈衆院議員、「新潮45」8月号に「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題する文章を寄稿。「LGBTカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と述べる。激しい批判が起り、抗議デモが行われたが、自民党の二階幹事長は24日「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ杉田氏の発言を問題視しない姿勢を示した。事態は鎮静化せず8月1日、自民党は「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり、本人には今後、十分に注意するよう指導したところです。」とホームページに発表。2日、安倍首相は「人権が尊重され、多様性が尊重される社会を目指すのは当然だ」と述べた。すなわち党は「注意」しただけであり、首相は一般論を述べただけだった。
7月20日 カジノ法案成立。
7月23日 埼玉県熊谷市で国内最高の41.1℃を記録。東京でも都内初の40℃越えを記録。「できるだけ外出は避け、運動は禁止」すべきだという「命に関わる危険な暑さ」が続く。16日~22日の1週間で熱中症で救急搬送されたのは2万2647人、うち死者65人。気象庁はこの暑さを「災害」と表現。
7月26日 オウム真理教事件、元幹部6人の死刑を執行。6日の7人と合わせて、事件に関連して死刑が確定してゐた13人全員の死刑が執行されたことになる。
7月27日 沖縄県翁長知事、辺野古埋め立て承認の撤回を宣言。
7月29日 稲田朋美・前防衛大臣、「安倍総理を勝手に応援する草の根の会」の会合に参加したことをツイッターで報告。「支部長は大先輩の内野経一郎弁護士。法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっていることに感謝!」とつぶやき問題化。その後削除し「あまりにも誤解を招きやすい表現だった」と説明。
8月2日 東京医大が2011年度以降、医学部の一般入試において、女性受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えてゐたことが明らかに。女性の医師は結婚や出産を機に離職することが多いため、女医の増加は結果的に医師不足につながる。そのため女性合格者を全体の3割程度に抑えることが目的だったという。
8月8日 翁長雄志沖縄県知事膵臓癌のため死去。享年67歳。3日後の11日、辺野古埋め立て海域への土砂投入に反対する県民大会が那覇市で開かれ7万人が参加。翁長氏の遺志が確かに受け継がれたことを示した。
8月15日 平成最後の「戦没者追悼式」。天皇陛下は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」とお言葉を述べた。安倍首相は「戦後、わが国は平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んできた。戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合う」と述べた。1994年の村山富市首相以来、歴代首相(第一次安倍政権も)が言及してきた「加害と反省」には6年連続で触れなかった。
8月17日 複数の中央官庁が障害者雇用の実績を水増ししてゐたことが明らかに。障害者手帳などを確認せず、40年以上にわたり、自己申告だけに基づき障害者の雇用数として計上してゐた。続報によれば、水増しは衆院事務局や国会図書館最高裁など立法・司法の諸機関でも行われたゐた。
8月31日 沖縄県、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設のための埋め立て承認を撤回。9月7日には、言語学者のノーム・チョムスキー、映画監督オリバー・ストーン歴史学者のジョン・ダワーを含む144人が撤回を支持する声明を発表。
9月4日 超追大型の台風21号が四国・近畿を直撃、関西国際空港が浸水し機能停止。関西全域で200万戸以上が停電となった。
9月5日 麻生太郎副首相、盛岡市で「安倍晋三自民党総裁を応援する会」に出席。「G7の国の中で、我々は唯一の有色人種であり、アジア人で出てゐるのは日本だけ」「今日までその地位を確実にして、世界からの関心が日本に集まってゐる」と述べる。
9月6日 北海道胆振(いぶり)地方を震源とする地震が発生。北海道で初めて震度7を記録。一時、約300万戸が停電。
9月7日 平野貞夫・元参院議員、弁護士の山口紀洋氏、元公明党副委員長の二見伸明氏が安倍首相を「内乱予備罪」で検察庁刑事告発。事由は、一に公文書改竄による国会審議の妨害、二に2017年の臨時国会冒頭解散、三に解釈改憲による集団的自衛権の行使容認が、刑法77条の「内乱罪」にあてはまるという。
9月10日 歴史修正主義団体「慰安婦の真実国民運動」が台湾を訪れ、初の「慰安婦像」の即時撤去を求める抗議を行った。その際、幹事の藤井実彦氏は慰安婦を蹴った。これが問題化すると藤井氏は「長旅でうっ血した足をストレッチで伸ばしただけ」と主張した。
9月12日 ウラジオストクでの「東方経済フォーラム」で、プーチン大統領が日露の平和条約に関して「年末までにいかなる前提条件もなしで締結しよう」と述べる。北方領土問題の棚上げを提案したことになる。これを受けて菅官房長官は「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する基本方針に変わりはない」と述べた。この時点で安倍首相とプーチン大統領は22回会談を行ってゐる。

空洞としての安倍晋三

 目次

安倍晋三年譜

参考:
安倍三代             青木理  2017 朝日新聞出版
安倍晋三 沈黙の仮面       野上忠興 2015 小学館
新しい国へ 美しい国へ 完全版  安倍晋三 2013 文春新書
 
1954年 9月21日 安倍晋太郎、洋子の次男として東京都に生まれる。
1957年 2月25日 祖父・岸信介内閣総理大臣に就任。父・晋太郎が毎日新聞を退社し秘書官に。
1960年 5月19日 岸信介、新安保条約を強行採決安保闘争始まる。幼い晋三が祖父に「アンポって、なあに」と聞くと岸は「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」と答えたという。(美しい国へ 第一章「わたしの原点」)
1961年 4月 成蹊小学校に入学。安倍はその後、中学・高校・大学と全てエスカレータ式に進み、都合16年成蹊学園に通う。
1970年 4月 成蹊高等学校に進学。「70年安保闘争」に関して社会化の教師と論争。このときの先生のうろたえた姿が「決定的だった」という。(美しい国へ 第一章「わたしの原点」)
1973年 4月 成蹊大学法学部政治学科に進学。アーチェリー部に所属。このころの安倍にはまだ、はっきりとした政治家への強い意欲はなかった。ゼミの友人の一人は以下のように語ってゐる。「本当に後を継ぐ気であれば、もっといろいろな知識を吸収して“将来日本はこうあるべきだ”といったモチベーションがあってもよかった。でも当時の安倍君には、そういうビジョンはなかったし、その片鱗を語ることもなかった」。(沈黙の仮面)
1977年 3月 成蹊大学を卒業。進路に悩んでゐた安倍は米国遊学を決意。「学究に燃えてということでもなかった。とりあえず世界を、アメリカなんかをみたいな、という程度の気持ちだった。ずっと英会話は習っていたし、英語に磨きをかけたいとも思った。まあ、語学が多少できるようになれば、ということで決心した」(沈黙の仮面)。春にロサンゼルスに渡り9ヶ月ほど英語学校で語学研修を受ける。
1978年 1月 南カリフォルニア大学に入学。取得したコースは全部で6、そのうち3つは“外国人のための”英語で、政治学は入ってゐない。春季・夏季・秋季のみに在籍して約2年の米国留学を終えることになるのだが、安倍はかつてこの経歴を「南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」と記してゐた。が、2004年、週間ポストのスクープにより虚偽が発覚、これを受けて安倍は留学の経歴をプロフィールから消した。
1979年 5月 米国から帰国し神戸製鋼所に就職。ニューヨーク事務所に勤務。
1980年 4月 神戸製鋼所加古川製鉄所に配属され、工程課厚板係となる。6畳一間の独身寮の相部屋で同僚と生活。夏になると体調を崩して東京の病院に入院(潰瘍性大腸炎と診断される)、療養生活を送る。現場勤めは無理と判断された安倍は翌年2月頃、東京本社に異動させられる。
1981年 2月 東京本社輸出部に異動。当時の上司は安倍のことを以下のように評してゐる。「まったく普通の子。真面目だし、エバるわけでもないし、腰も軽かった。仕事をまかせても、さしたる失敗をした記憶はありません。人づきあいの勘が良くて、要領がよくて真面目で、敵をつくらない。だからみんなに好かれてゐた。まるで子犬のようだった。」(安倍三代)
1982年 11月 中曽根内閣誕生。父・晋太郎が外務大臣に就任。父に「オレの秘書官になれ」と言われた安倍は「わたしにも会社があります。これでも年間数十億ぐらいの仕事はしているんです」と抵抗。が、そもそもが政略入社であり、神戸製鋼所にとって晋三は、晋太郎から「預かってゐる」状態。上司の説得を受け入れ、晋三は退職を決意。秘書官に就任。
1987年 6月 森永製菓社長令嬢の昭恵と結婚。
  8月7日 祖父・岸信介90歳で死去。
1989年 1月7日 昭和天皇死去。
  11月9日 ベルリンの壁崩壊。
1991年 5月15日 父・晋太郎67歳で死去。
  11月 ソ連崩壊。米ソ冷戦の終結
1993年 7月 祖父と父の「地盤・看板・カバン」を継ぎ、第40回衆議院総選挙に出馬し初当選。
  8月9日 細川内閣成立。自民党、1955年の結党以来初の下野。野党議員として政治家人生をスタートさせる。
1994年 4月28日 羽田内閣成立。
  6月30日 村山内閣成立(自社さ連立政権)。
1995年 1月17日 阪神淡路大震災
  3月20日 地下鉄サリン事件
  8月15日 戦後50年村山談話
1996年 1月11日 橋本内閣成立(自社さ連立政権)。
1997年 5月30日 日本会議設立。
1998年   年間自殺者数が統計のある1897年以降で初めて3万人を越える。2003年に34,427人で最大となり以降減少し2012年に3万人を割る。
  7月30日 小渕内閣成立。
2000年 4月5日 森内閣成立。森善朗首相は安倍晋三の父・晋太郎の弟子だった。森は「恩人の息子」である晋三を内閣官房副長官に抜擢する。
  5月15日 森首相、神道政治連盟国会議員懇談会において「日本の国、まさに天皇を中心としてゐる神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く(その思いで活動してきた)・・・」と発言。
  6月~8月 山口県下関市安倍晋三自宅と事務所に、5回にわたり火炎瓶が投げ込まれる。事件の経緯は次のとおりである。1999年の下関市長選挙に際し、安倍の秘書が暴力団関係者に対立候補を中傷する文書を書くことを依頼。その成功報酬は500万円だったが安倍事務所は300万円しか支払わなかった。火炎瓶はそれに対する報復だった。
  7月 第2次森内閣官房副長官に就任。
2001年 4月26日 小泉内閣成立。官房副長官に再任。
  9月11日 アメリカで同時多発テロ事件。
2002年 5月13日 早稲田大学講演で「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね、憲法上は。小型であればですね」と述べる。反響大きく「タカ派の旗手」と目されるようになる。
  9月17日 小泉首相訪朝、「日朝平壌宣言」。午前の会談で拉致被害者8人の死亡が通告された。ここで安倍は小泉に「謝罪がないななら調印は考え直したほうがいい。このままなら帰国すべきです」などと強気の交渉を進言。これが会談後メディアに大きく取り上げられ、反北朝鮮ナショナリズムに沸騰してゐた世論に「拉致の安倍」として評価されるようになる。
  10月15日 拉致被害者5人が帰国。ここで安倍は「一時帰国」という北朝鮮側との約束を守るべきとの方針の外務省に反対し「5人を帰すべきではない」と主張。小泉はこれを受け入れた。この「約束違反」により日朝交渉は早々に破談してしまったのだが、「強硬姿勢の安倍」の人気は一気に高まるのだった。
2003年 3月 イラク戦争始まる。
  7月26日 イラク特別措置法成立。
  9月21日 自民党幹事長に就任。拉致問題への強硬姿勢以外に実績がなかった安倍を抜擢したのは「国民受け」を狙った小泉首相の「サプライズ人事」だった。
2004年 7月11日 参院選。自民敗北し民主党に第一党の座を奪われる。これを受けて、9月の内閣改造で安倍は幹事長を更迭される。
2005年 9月11日 小泉「郵政解散」を受けての選挙。造反議員を「抵抗勢力」と呼び刺客を立てるという「劇場型選挙」を演出。結果、自民は大勝利。
  10月31日 第3次小泉改造内閣官房長官に就任。
2006年 7月21日 美しい国へ」発売。
  9月26日 53歳で内閣総理大臣に就任(戦後最年少・戦後生まれで初)。「戦後レジームからの脱却」を掲げて「美しい国づくり内閣」を組閣。小泉が郵政解散で獲得した圧倒的議数を背景に政権運営を進める。教育基本法改正(愛国心の涵養)、防衛庁設置法改正、国民投票法の制定、イラク特別措置法改正(イラク派遣の延長)等。
  12月2日 在日特権を許さない市民の会設立。
2007年 7月29日 参院選自民党大敗し、民主党躍進。「ねじれ国会」となる。
  9月12日 臨時国会所信表明演説を行った2日後のこと、突如退陣を発表。理由として「テロ特措法の再延長について議論するために民主党代表・小沢一郎に党首会談を打診したが断れた。局面を転換するために、新たな総理の下でテロとの戦いを継続していくことを目指すべきと判断した」と説明。が、実際のところは持病・潰瘍性大腸炎の悪化が原因だった。
  9月26日 福田康夫内閣成立。
2008年 2月6日 橋下徹大阪府知事に就任。橋下は「大阪都構想」の実現を掲げて、2011年には府知事を辞任し大阪市長に就任。2015年、「大阪都構想」を問う住民投票が行われ否決され、年末の任期満了に伴って政界から引退。
  9月15日 リーマン・ブラザーズ破綻。
  9月24日 麻生内閣成立。
2009年 8月30日 第45回衆議院議員総選挙民主党大勝利、単独過半数獲得。
  9月16日 鳩山由紀夫内閣成立。
2010年 6月8日 菅内閣成立。
  9月7日 尖閣諸島中国漁船衝突事件
2011年   人口減少社会に突入。戦争直後の人口は7200万人、1967年に一億人を突破、2010年に1億2806万人でピークとなった。2060年には8674万人になると予想されてゐる。
  3月11日 東日本大震災
  8月30日 野田内閣成立。
  9月3日 BS11「未来ビジョン」に出演。日本国憲法について持論を述べる。《前文にある「平和を愛する諸国民」などというのはどこにもゐない。だからインチキである。日本国憲法は敗戦国日本が戦勝国から「侘び証文書け」と言われて、しかも他人が(アメリカ)が書いたものだ。また「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」における「地上から永遠に除去しようと努めてゐる」の主語は「日本」ではない。「平和を愛する諸国民」がそう考えてゐるから、その人たちの褒めてもらおうぢゃないか、というのが日本の態度である。まことにいぢましいもので、こんないぢましいものをよく66年間も大切に拝んできたものだ。》
2012年 9月26日 自民党総裁選挙。石破茂との決戦投票に勝利し総裁に。1回目の投票では地方票で石破に大差をつけられ2位だった。
  11月16日 第46回衆議院議員総選挙民主党惨敗。自民党第一党に。

 

空洞としての安倍晋三

 
 安倍晋三は総理の座に復帰した2012年末からこれまでの間に、実に多くのことを成し遂げた。特定秘密保護法の制定、東京五輪の招致、原発再稼動、解釈改憲による集団的自衛権の行使容認、共謀罪法の制定等。個別の政策について取り上げれば、国民の過半が賛成してゐるわけではない。大きな反対が起り、デモが行われることもしばしばだ。
 
 しかし、国政選挙では復帰以来負けなしであり、与党が過半数を占めてゐる状態が変わらないから、彼の政権は強引に(正当な手続きを破壊しながら)法案を通し、反対意見を一顧だにせず、ごりごりと政策を進めていく。その姿勢が受けてゐる。彼の「悲願」であるところの憲法改正が本当になされるかもしれない。
 それはまだ先のこととして、既に十分に、安倍政権はこの国の秩序と国民の精神を大きく変えた。
 
 彼の望むとおり、「押し付けられた、みっともない」日本国憲法に基づいて戦後日本が築いてきた、平和国家としての理念や民主制、自由と平等、法治の原則といった普遍的価値は大きく損なわれた。その代替物として登場してきたのは、「勝てば官軍、愛国無罪」という理非曲直が完全に失われた似非愛国・排外カルトシステムだった。そこでは「和を以って貴しと為す」という聖徳太子以来の美徳のもとに、「和」に逆らうもの=現政権に逆らうものが「反日」として徹底的に排除・抑圧される。
 
 「勝てば官軍」、「和を以って貴しと為す」。これほど日本人の国民性を見事に表した文句が他にあるだろうか。「和」そのもの、「みんな一緒」であることが絶対的な規則であり、「和」の中身が正しいのか、筋が通ってゐるのか、理はあるのか、そんなことはどうでもいいのである。「みんな一緒」であれば何をしても、その結果がどうなっても、水に流せばすんでしまう。
 
 第二次安倍政権が誕生してから5年9ヶ月経ち、日本は本当に殺伐とした社会になった。安倍政権の根本原理は「いぢめ」である。弱いものいぢめをしてそのことに相対的優位を覚え、それを気持ちがいいと感じる。嗜虐性。安倍政権の5年9ヶ月は社会全体がこの嗜虐性に淫していく過程だった。
 
 嗜虐性が引力であるような政体がこれほど長く続き、安定的な支持率を得てゐるということに、ぼくは深い哀しみを覚える。と同時に、なんとかこの現象を、そしてその中心にゐる安倍晋三という人間を理解せねばならないという切迫した気持ちがある。
 
 正直、ハムレットよろしく「世の中の関節は外れてしまった!」と叫びたい気分だ。
 一体どうなってるんだ?
 
 安倍政権を積極的に支持してゐる人も、消極的に支持してゐる人も、傍観してゐる人も、彼が主導してゐる政策と目指してゐる未来について、あまりにも楽観的過ぎるように思う(安倍自身、自分が日本をどう変えたか、あるいは変えつつあるかについてまともな認識を持ってゐるようには思えないが)。
 
 ずるずるずると、丁度、浮き輪にのって海に揺られてゐるうちに岸から遠く離れてしまうように、いかにも日本的に、そう、なし崩しに、なんとなく、抵抗を感じながらも、猛烈に反発する胆力もなく、ただ起ったことに黙って従うという国民道徳を健気に守りながら、やっぱり和が大事なんだなどとつぶやいてゐるうちに、ある日唐突に「こんなところに来てゐたのか」と驚愕し「こんなはずぢゃなかった」と、滑稽にも、無垢な叫びを上げる日が来るのではないか。
 
 迂闊にも「まあ、そこまで悪いようにはしないだろう」くらいに思ってゐる人が、どうも多すぎるようだ。ずいぶん沖に流されて陸地が見えなくなってゐるのに「みんな一緒だから大丈夫だ」と不安から目をそらしてゐるだけのように思える。先行きがあまりに不安で、国のあり方をどうしていいのか分からないから、本質的な問題から目を逸らしてしまう。そういう空気感が国民全体を包んでゐる。
 その中で安倍晋三のなりふり構わぬ対米従属と戦前的価値観への回帰が「マシ」に見えてしまうという政治的貧困が日本を覆ってゐる。かなり深刻だ。
 
 安倍晋三のことを考える時、ぼくがいつも困惑するのは、その凡庸さと彼が実際為しつつあることのギャップがあまりに巨大であることだ。彼はよくアホだバカだと糞味噌に言われるが、実際にぼくもそう思う。なかなかのクルクルパーだと思ってゐる。酷い言い方で申し訳ない。けれど、彼の言動を観察すると、どうしても知力の「だらしなさ」が気になってしまう。例えば2014年の春、彼は自身が主催する「桜を見る会」でこんな俳句を披露した。
 
 給料の上がりし春は八重桜
 
 これはないヨ。
 「給料が上がった」と、彼はどうしても経済政策の成果を誇示したかった。そして古語をひとつくらい入れて格調を高めたいから「上がりし」とした。最後に助詞「は」のもつ無限の包容力を存分に利用して「八重桜」を据えた。そうして金と桜が結びつくことになった。まことに絶妙なみっともなさであって、彼に風雅を尊ぶこころのないことがよくわかる。
 
 2014年の春、というと彼が政権に返り咲いてから1年と少しだ。この時点で彼の周りには「これまずいっすよ。〇〇って俳人につてがありますから、60点くらいの句をひとつもらってきます。それに変更しましょう」と言う人がゐなかった。あるいは安倍にそれを聞き入れる度量がなかった。現代の政治家が歌の名人であることなど誰も期待してゐない。ゴーストライターをつけったて誰も怒らないのだ。けれど、彼は「給料の上がりし春は八重桜」という句を発表した。
 
 既に多くの人が指摘してゐるように、彼に教養・知性が著しく欠如してゐること、そしてそれを恥じるこころのないことがこの選択からもわかる。いやそれどころか、ぼくはここに彼の憤怒を感じる。彼をこれまで苦しめてきた「教養」や「文化」に対して「こんにゃろ」とメンチを切る感じの卑小な憤怒を。
 
 彼の育ちのいいにこやかなドヤ顔が浮かんでくるほどに、この句は彼の人柄をそのまま映し出してゐるように思える。実際、ぼくが彼のことを理解しようと思い、彼の著作や評伝や演説を読んで抱いた感想は、この句をはじめて読んだ時のそれを一歩も出なかった。
 
「総理になった見栄坊」
 
 これである。見栄というのは中身がないから、自分に自身がないから張るものだ。彼の言説における「いわば」「まさに」の執拗な連呼、「みじんもない」「1ミリも動かない」「毛頭ない」「一点の曇りもない」等の強調表現の多用(それが彼を窮地に追い込むことさえあるのだ)はおそらく、見栄で支えられてゐる彼の自我を支えるための無数のフレームであるだろう。
 
 「君子豹変す」という。きちんと筋を通して理由を説明すれば「豹変」することは美徳になるものだ。しかし安倍にはそれが出来ない。というのも君子が豹変できるのは芯があり軸があるからだ。だから外側を組み替えて豹変しても彼の自我は壊れない。ところが安倍の中身は空洞であり、外側を「いわば」「まさに」で積み上げて、それを「一点の曇りもなく」「1ミリも動かない」ように固めてゐるものだから身動きがとれない。
 だから豹変せなばならない状況になったとき、つまり、現実が自己の改変を求めてくるときにどうするのかというと、屁理屈を言ったり模糊とした新しい言葉をもってきて、現実との整合性を取ってるっぽく見せるのである。この「〇〇っぽく見せる」という営みに安倍晋三は全力を注いでゐるように見える。あるいは彼の中で「〇〇ぽい」ことと「〇〇」であることはイコールなのかもしれない。
 
 彼が都合のわるい事を誤魔化す際の答弁はなかなかの芸であって、ほとんど全ての文節の頭に「いわば」か「まさに」を投入し、動詞のあとには「中において」や「ところでございまして」を付け加え、ところどころに野党の悪口を織り交ぜながら際限なく引き伸ばしていく。最終的な述語は何なのかと聞き手が待ってゐるうちに、いつのまにか最初に出たはずの主語が何だったかわからなくなってしまい、こちらが眉間に皺を寄せて辛抱強く聞いてゐると、お決まりの「いづれにしてもですね~」をいかにもウンザリしたような顔つきで出してくるものだから、こちらは「いづれってどの場合とどの場合だよ」と混乱するのだが、そんなことはおかまいなしに、不意に「と、このように考える次第でございます。」と、何かを答えたっぽい顔と余韻だけを残して席に着くのである。
 
 実際は「答えたっぽい」だけで、ただ屁理屈をこねくりまわしてゐるだけなのだが、議長はこれを咎めず、ジャーナリズムは「野党の批判をのらりくらしとかわした」みたいに書くものだから始末におえない。
 
 上に多少戯画的に書いた安倍の特異な用語法だけではない。この数年、安倍政権の面々は問題が起るたびに、筋の通った説明をせず、一貫して言語的詐術によって切り抜けてきた。そしてそれをジャーナリズムは放置してきた。結果、現実と言葉との結びつきが切れてしまった。これによって、日本人の現実認識力と思考力は著しく傷つけられたのではないかとぼくは考えてゐる。しまりなく呆然と流されてゐる感じがする。
 
 小さなウソ、ちょっとした欺瞞を「ま、これくらいは。野党もだらしないし」と肯定する。すると次に出てくる、前よりも僅かに大きなウソと欺瞞も同じように肯定してしまう。現実とは別の位相に絶対的な基準を持たないのが日本人の特徴だ。「起ったことを肯定する」を続けてきた結果、現実を客観的に把握するという姿勢そのものが失われ、「何でもどうでもいい」みたいな自暴自棄に突き進んでゐるように思える。
 
 一国の首相であり「美しい国、日本」の代表である人間を空洞と言ったり、クルクルパーと言ったりするのはよくないことだろうか。失礼な人格攻撃だろうか。実際、そんな風に考えて彼に対する批判者を疎ましく思ってゐる人がけっこう多い。彼らは別に安倍首相を積極的に支持してゐるわけではなく、非常に好意的にあるいは善意から、例えば以下のように考えてゐるのだろう。
 
 「逆風のなか二度目の総理に就任して以来、大きな反対を受けながらもたくさんの法案を通してきた。看過できない発言や失策も多いにしろ、これだけ長い間総理の座についてゐる。これは凄いことだ。バカっぽいところもあるけれど、本当のバカにこんなことが出来るか、きっと特別な能力と優れた資質があるんだ。だからこそ選挙に勝ってゐるんだ。あんまり貶してばかりゐるのはよくないよ」
 
 これはたいへん知的負荷の少ない考え方であって、現実を批判することに抵抗があり、「適応すること」を人生の第一則としてゐる人達(ということはぼくを含めてほとんどの日本人ということになるが)にかなり一般的なものである。実際、ぼくもそういう風に考えようとしたことがある。総理になる人だ、きっと何かあるんだろう、腐っても日本の首相だぞ、と。
 
 しかし、そこでぐっと踏みとどまって懐疑を働かせてみることが必要だ。
 
 ちょっと待てよ。確かに地位の高い人がそこにのぼりつめるためにはいろんな資質や能力が必要なんだろうけど、やっぱり「訂正云々」を「テイセイデンデン」と読んで気づかなかったり、ポツダム宣言をつまびらかに読んでゐなかったり、人の生死や戦争の話をしてゐるときに「大げさなんだよ!」と野次を飛ばしたりするのは相当ダメなのではないか、と。
 
 安倍晋三は知的にも倫理的にもかなり低い位置にゐる人で、最高権力者になるべき人格を備えてゐない。これははっきりと認めておきたいと思う。ひどいことを言うようだが、それは彼が総理大臣だからであって、彼が神戸製鋼所の課長なり部長であれば、問題にはならないことだ。
 考えるべきは、ボンクラでカラッポであることと、彼がこれまで為してきたその大きな実績との乖離だ。いくらなんでも、ちょっと差がありすぎませんか。この乖離の由縁と意味を考えることはとても重要なことのようにぼくは思う。たとえ気の利いた答えが出ないにしても。
 
 彼の支持率の高さやこれまでに為し遂げたことは、彼の能力・才覚、及び人格を大きく越えてゐる。あの凡庸さとあの人品骨柄でこれだけの実績を残すというのは普通は考えられないことだ。しかしその普通では考えられないことが実際に起こってゐる。とすると、その普通というやつを修正する必要があるのではないか。つまり彼の人気と実績は、彼がカラッポでクルクルパーであるところから来てゐるのだ、と理解するほかない。どういうわけか日本の政治システムと国民の意識はそういう風に機能してゐる。
 
 漱石の「三四郎」に登場する魅力的な先生「偉大なる暗闇」をもぢって言うならば、安倍晋三は「のっぺりとした空洞」だ。ぼくの考えでは、この空洞に流れ込んだいろんな「アンチ〇〇」の思想や情念が、そのまま最高権力者の地位につき、この国を押し流してゐる。重要なことは安倍は徹底的に空洞であって、そこに入り込んだ思想や情念を決して消化してゐないということだ。「アンチ〇〇」の「〇〇」にはリベラル・左翼・中国・朝鮮・敗者・弱者・少数者等いろいろなものが入るが、これら情念は安倍晋三というのっぺりとした空洞に入り込んだだけで全く血肉化されず、そのまま空気としてゐすわることになる。
 彼がゴリゴリの差別主義者や排他的国粋主義者から熱烈な支持を集めながら、ノンポリ層にはイデオロジックな相貌を見せず、ともすれば政界のプリンスであったり気のいい好々爺に見えてしまうのはおそらくそのためだ。
 
 ここで安倍の著書「新しい国へ-美しい国へ 完全版-」を参照して、彼の「アンチ〇〇」の思想の由来を見てみよう。
 
 「新しい国へ-美しい国へ 完全版-」は、彼が一度目に総理になる直前の2006年7月「美しい国へ」として上梓したものに、再び総理になった直後の2013年1月、終章として「新しい国へ」を追加して出版されたものである。まえがきによれば「『美しい国へ』で述べたことは、私の政治家としての根本姿勢です。それは、今も変ることがありません。その内容には一切手を加えておりません。」とのことだ。この書物を読むと、彼の「保守主義」というものが「アンチ〇〇」の別称であることがよくわかる。
 その第一章「わたしの原点」から引用する。
 
 小さなころから、祖父が「保守反動の権化」だとか「政界の黒幕」とか呼ばれていたのは知っていたし、「お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか」と言われることもあったので、その反発から、「保守」という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない。 
                             新しい国へ 22項
 
 安倍晋三が母方の祖父・岸信介を敬愛してゐることはよく知られてゐる。両親が不在がちだった晋三少年は祖父に可愛がられて、その寂しさを埋め合わせてゐたのだろう。その祖父が悪く言われることに対する「反発から」、「保守」という言葉に、「逆に」親近感をおぼえた。安倍は資質として、生まれながらに負けん気の強さを持ってゐたのだろう。その資質は、自分を可愛がってくれる祖父を批判する勢力に対する反発によりエネルギーを与えられ大きく成長することになる。
 
 安倍の祖父・岸信介は戦前、日本がまだ大日本帝国であった頃に「大東亜秩序建設」のために働いた男だった。満州国総務庁次長を経て東条英機内閣の商工大臣を努め、敗戦後はA級戦犯容疑者として投獄された。が、起訴を免れて政界復帰に復帰し、米国の支援を受けて首相となり、1960年に新安保条約を成立させ「日米同盟」を戦後日本に定着させた人物だ。
 
 この経歴から明らかなように、岸信介は戦後日本の二つの性質を象徴してゐる。
 
 第一に「戦後処理の曖昧さ=戦前的価値観の継承」である。朝鮮併合から満州国の建設、さらに日米開戦へと突き進み、南はガダルカナルから西はインドまで、戦前の日本は際限なく戦線を拡大し、最終的には二つの原子爆弾を落とされるまで戦争を終わらせることができなかった。
 
 兵士は人を殺さねばならない、こっちが殺す以上相手も抵抗してくるのだから、自分が殺されるかもしれない。「人を殺してはいけない」という倫理を無効化し「自分が殺されるかもしれない」という恐怖に打ち勝つためには強力な大義が必要だ。大日本帝国が打ち出した大義が「アジアの解放=大東亜共栄圏の建設」というものだった。欧米帝国主義の圧制に苦しむアジア諸国を解放するための戦争であって、侵略でも植民地化でもない、みんなで天皇を戴く家族になるのだ。
 
 なるほど日本の驚くべき戦勝に勇気付けられた人達はゐたし、日本の支配下に入ることでインフラが整備されたり、教育が普及した地域は確かにあった。そういう面もある。しかしそういう面があるからといって、そういう面だけを全面に押し広げて「あの戦争は正しかった」と言うことはできない。対欧米列強という観点からは「解放」の意味があったかもしれないが、攻め込まれたアジアの側から見れば、総体として、やはりあれは侵略だったわけで、日本軍が現地で相当ひどいことをやったというのは否定しようのない事実だ。
 
 岸信介満州国の経営に携わり、日米開戦時の閣僚だった人間で、大東亜共栄圏構想は間違ってゐないと考えてゐた。日本を歴史上唯一の被占領に導いた戦前の国体に深くコミットしてゐた男だ。その彼が敗戦から12年後の1957年に首相になる。この事実は日本社会の「戦前との連続性」を象徴してゐると言っていい。
 
 次に第二の点。これは第一の「戦後処理の曖昧さ」の原因でもあるのだが、それは「冷戦構造下における日米安保体制」である。
 
 敗戦後、日本は自分たちの手で自国を破滅に導いた戦前の国体を解体し、指導者達を裁き、新しい国のありかたを構想・設計することができなかった。無念だが、戦争に負けるとはそういうことなのだろう。では何が起ったか。アメリカ(GHQが、マッカサーが)が戦後日本のかたちデザインした。日本の敗戦後まもなく米ソの対立が深刻化し、1950年には朝鮮戦争が始まる。その中でアメリカは日本を「反共の砦・後方基地」として利用することにした。そうして翌1951年にサンフラシスコ平和条約が結ばれる。
 
 この条約の性質を「単独講和」とか「片面講和」と言ったりする。全面ではなく片面。これは講和が冷戦構造の論理の中で行われてしまったために、その条件がアメリカの世界戦略に都合のいいものとなってしまい(沖縄は占領統治が続くことになった。故に条約が発効した4月28日は沖縄では「屈辱の日」と呼ばれる)、講和会議に呼ばれなかったり欠席したりする国々が多数でてしまったことを指す。
 
 例えば、朝鮮戦争中であった北朝鮮と韓国、そして中国は会議に招待されず、またソ連は調印を拒否したために、これらの国々とは別個に平和条約を結ばなくてはならなくなった。そして2018年現在、ソ連の後継国であるロシア及び北朝鮮とは未だに平和条約を締結できてゐない。その意味で、残された「片面」はまだケリがついておらず、あの戦争はまだ終わってゐない。
 
 講和条約と同時に結んだのが日米安全保障条約(旧安保)だ。これによりアメリカ占領軍は「駐留米軍」「在日米軍」などと名前を変え、米軍基地とともに日本に居残ることになった。この条約ではアメリカは日本防衛の義務を負わず、占領の継続という意味あいが強かったのだが、1960年に岸信介はこれを改定し(新安保)、日本を守る義務を明記した。「基地を貸す」条約から「基地を貸す代りに守ってくれる」条約に変更したのだった。
 たしかに条約の占領的性格は薄まったが、アメリカが世界戦略において日本を基地として利用するという基本的な性格は変わってゐない。また、米軍の扱いを定めた「世界一不平等な」日米地位協定は1960年から一度も改正されてゐない。
 
 安倍晋三が守ろうとしてゐるものは、祖父・岸信介が象徴してゐる上記二つのもの、「戦前的価値観」と「日米安保体制」である。この二つが彼の世界認識の前提であり、基準であり、教条である。この二つを守ることが「保守」であり、それに反対したり疑義を呈したりする人間に対して「反発」することが愛国心の発露である。安倍の言う「日本を取り戻す」とは「戦前的価値観を取り戻す」という意味であり、「日本を守りぬく」とは「日米安保体制を守り抜く」という意味だ。
 
 岸が新安保を成立させた10年後の1970年、条約の延長に反対する運動が各地で盛り上がった。高校生だった安倍が安保条約に反対する社会科の教師をやりこめたエピソードは有名だ。それを書く彼の筆致がなかなか奮ってゐる。同じく第一章「わたしの原点」から引用する。
 
 日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。マスコミも意図的に、そう演出していた。打倒する相手は、自民党の政治家だったわたしの父や祖父である。とりわけ祖父は、国論を二分した一九六〇年の安保騒動のときの首相であり安保を改定した張本人だったから、かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である。
 高校の授業のときだった。担当の先生は、七〇年を機に安保条約を穿きすべきであるという立場にたって話をした。クラスの雰囲気も似たようなものだった。名指しこそしないが、批判の矛先はどうもこちらに向いているようだった。
 わたしは、安保について詳しく知らなかったが、この場で反論できるのは、わたししかいない。いや、むしろ反論すべきではないか、と思って、こう質問した。
「新安保条約には経済条項もあります。そこには日米間の経済協力がうたわれていますが、どう思いますか」
 すると、先生の顔色がサッと変わった。《岸信介の孫だから、安保の条文をきっと読んでいるに違いない。へたのことはいえないな》-そう思ったのか、不愉快な顔をして、話題をほかに変えてしまった。
 本当をいうと、そのときわたしは、条文がどんなことになっているのか、ほとんど知らなかった。でも、祖父からは、安保条約には、日本とアメリカの間で経済協力を促進させるという条項があって、これは日本の発展にとって大きな意味がある、と聞かされていたので、そっちのほうはどうなんだ、と突っかかってみたまでだった。
 中身も吟味もせずに、何かというと、革新とか反権力を叫ぶ人たちを、どこかうさんくさいなあ、と感じていたから、この先生のうろたえぶりは、わたしにとっては決定的だった。
                            新しい国へ 24項  
 
「決定的だった」と言うだけあって、彼の人性が実によく出てゐる文章だ。
「うさんくさいなあ」と感じてゐた先生に、自分も「条文がどんなことになっているのか、ほとんど知らなかった」けれど「そっちのほうはどうなんだ、と突っかかってみた」ところ、先生が不愉快な顔をして話題を変えた。その「うろたえぶり」が「決定的だった」という。
 
 語彙の選択も、行間に漂うドヤ顔も、抜かりなく下品だ。品格とか良識というものに対する「むかつき」が、おそらく彼の深いところにある。もちろん、高校生が先生を黙らせて悦に入るというのは、それ自体なんでもないありふれた話である。しかし問題は、そのつまらないエピソードを総理になる直前の彼がとても気持ちよさそうに、なんなら英雄的に書いてゐることだ(普通、「あのころは幼かったなあ」ぐらいのこと書かないかしら)。彼はそのことの幼児性にはおよそ無自覚であり、「(自分はよく知らないのに)突っかかって、黙らして、勝ち誇る」という態度のまま総理になった。そして権力の座について以降その性向がむしろ強まってゐる。
 
 はじめに安倍は「保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉」というマスコミが提供する善悪二元論を紹介し、この図式に反発するようなそぶりを見せる。ところが彼はこの単純な二元論を解除するためにより緻密な枠組みを提供するのではなく「(祖父は)かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である」とむしろ強調してみせる。この書きぶりはどこか嬉しそうだ。
 
 「かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である」と書くとき、彼は明らかに高揚してゐる。この高揚はヒロイズムへの予感からくるものだ。相手が酷ければ酷いほど、安心して「反発」することができる。「こんなに酷いことを言ってゐるマスコミ」に対して勇敢な憤怒を起動させ気持ちよくなれる。だから彼はすすんで二元論を強調する。
 
 繰り返すが、高校生ならそれでかまわない。しかし彼は代議士になってからも、総理になってからも、この手法ばかりを使ってゐる。まづ敵と味方をわける。そうして敵が「こーんなに酷いんです」という宣伝をして自分がいかにも少数派であったり被害者であるような印象工作を行う。そして「あえて」「逆に」といった強調の副詞と共に敢然と立ち向かう。相手が黙ると「勝った」ということにして、黙った側はほっぽらかしだ。およそ公共心というものがない。「勝つ」ことだけを優先するならばこうした戦法は有効かも知れないが、結果として国民の分断が深まるばかりで非常に有害なやり方だ。
 
 上記二つの引用から明らかなように、彼の思考様式は「反発」にある。祖父を批判してゐる「進歩派」「革新」と呼ばれる人達にたいする「うさんくさいなあ」という生理的嫌悪があり、彼らへの反発から岸の象徴する「戦前的価値観」と「日米同盟」を保守するという立場にすりよった。彼の感じてゐた生理的嫌悪の由来が「祖父が自分を愛してくれた」という温かな記憶によるものだとすれば、ちょっと胸の熱くなる話ではあるのだが、生理的嫌悪から来る反発だけで思考してもらっては困る。
 始まりは嫌悪感から来る反発であっても構わないが、人間の芯をつくり思想を形成するためには、そこから距離をとり、岸の側と反対者の側と、両方の思想とその由来について知的に把握しなくてはいけないだろう。
 
 国民の代表となるためには反対派としっかりと議論が出来なくてはいけないし、彼らの意見をも代表しなくてはいけない。そのためには自己の立場を客観視する抽象力がどうしても必要だ。しかし残念ながら、安倍がそうした知的努力に励むことはなかったようだ。内側で何かが深まったり熟成されたりして、人格と思想とがともに練り上げられるというような経験、すなわち成熟というものを、彼の文章や言動から感じ取ることは出来ない。
 
 参考に掲げた二つの評伝「安倍三代」「安倍晋三 沈黙の仮面」を読んで驚くのは、青年期の安倍の人畜無害ぶりである。彼自身の回顧では政治論をふっかけて先生を黙らせたりしたこともあったようだが、評伝の著者・ジャーナリストの取材によれば、安倍は学生時代・サラリーマン時代を通じて「普通のいい子」という印象しか周囲に与えてゐない。
 大学のゼミ生や教官は安倍のことを「覚えてゐない」とか「印象に残ってゐない」と言い、神戸製鋼所時代の上司は「政治的な話や議論はしたことがない」「普通のいい子、右派的な雰囲気はまったくない、後天的なものだ」「(政界入り後に)周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんなふうになってしまった」と述べてゐる。
 「安倍三代」の著者・青木理の筆致は辛辣だ。
 
 しかし、晋三は(祖父・寛、父・晋太郎、岸信介とは)違った。成育過程や青年期を知る人々にいくら取材を積み重ねても、特筆すべきエピソードらしいエピソードが出てこない。悲しいまでに凡庸で、なんの変哲もない。善でもなければ、強烈な悪でもない。取材をしていて魅力も感じなければ、ワクワクもしない。取材するほどに募るのは逆に落胆ばかり。正直言って、「ノンフィクションの華」とされる人物評伝にふさわしい取材対象、題材ではまったくなかった。 安倍三代 253項
 
 ぼくは青木氏の見解に同意する。「なんの変哲もない。善でもなければ、強烈な悪でもない」というのが安倍晋三という人なのだと思う。ぼくはそれを「のっぺりとした空洞」と呼ぶ。上記した当時の安倍を知る人の証言を信じる限り、学生時代にも会社員時代にも、その空洞に極右イデオロギーはまだ流れ込んでゐなかった。祖父を批判されたときに「こんにゃろ」と思う程度の「子犬」だった。ただアンチ〇〇というポンプがあるだけで、そのポンプは本格的に稼動してゐなかった。だからまだ右派的な雰囲気のない「普通のいい子」だった。
 彼がそのまま会社員を続けてゐれば、日本にとっても彼にとってもどれだけよかったろうと思うが、日本政治の世襲システムはそれを許さなかった。1982年、父・晋太郎が中曽根内閣の外務大臣に就任したのを契機に、晋三は秘書官になる。晋太郎に近かった元農水相鹿野道彦は晋三についてこんなふうに語ってゐる。
 
「(晋太郎は)バランスの極めていい政治家でしたが、安倍首相はあまりにも偏りすぎている。(晋太郎の)秘書官だった時はごく普通の好青年だったんです。強引なこととか、無理をするとか、自分の主張を強調することもなかった。お祖父さん(岸信介)の影響が強いのか、右の人の影響を受けすぎている気がしますよ。」 安倍三代 176項 
 
 秘書官時代にはごく普通の好青年だった晋三は右の人の影響を受けて、やがて極右イデオロギーの権化となりタカ派のプリンスへと成長する。1993年、父・晋太郎の死去にともない晋三は衆院選に出馬して初当選を果たした。ところがこの選挙で自民党は敗北し、結党以来初の野党となり、55年体制の崩壊を迎えた。安倍が代議士になったとたんに自民党は政権の座を失ったわけだ。
 
 80年代から90年前半はまさに「激動」という言葉に相応しい、大変革の時代だった。昭和が終わり、冷戦が終結し、バブルが崩壊した。同じころ、日本社会から「戦前を知ってゐる人々」が退場をはじめた。「押し付けられた憲法」に魂を吹き込み「平和国家」としての日本をつくりあげてきたのは「戦前を知ってゐる人々」だった。彼らが去り、冷戦構造が崩壊し、経済成長神話が崩れたとき、当然のごとく日本人はアイデンティティ・クライシスに直面することになった。「これまで通りのやりかたではうまくいかない、けれどどうしたらいいかわからない」なかで、模索を繰り返しながら失敗を重ねてきたのが平成という時代だった。
 
 模索とはまさに、安倍が議員になる頃に始まった新党ブームであり、政界再編であり、自民党の二度の下野だ。これまでに二度、非自民党政権が誕生したわけだが、いづれも短命に終わり、新しい国のかたちをデザインすることは出来なかった。とりわけ2009年、鳩山由紀夫率いる民主党による政権後退は「混迷を深めただけ」とか「単なる失敗」みたいな乱暴なくくりかたをされ、実際そうなふうな理解が国民のうちでかなりの程度共有されてゐる。
 
 では、「次のかたち」を生み出すことができたのかと言えばまったく逆だ。「どうしたらいいかわからない」がどんどん深まるのに対応して、それを覆い隠すようにして右傾化が進行し、復古主義が巨大化した。その過程で安倍は極右の思想(愛国的歴史修正主義)を吸収していったに違いない。そしてそれを待望する空気が日本社会にはあった。歴史認識拉致問題に関する彼のタカ派的な姿勢が国民に受けた結果、その人気が彼を総理にまで押し上げたのだ。日本が右傾化するプロセスと安倍晋三のキャリアアップとは見事な重なりを見せてゐる。
 
 安倍という空洞に流れ込んだ空気とは畢竟ずるに、「どうしたらいいかわからない」という不安をぶっとばせるようなヤケクソでナゲヤリな夢の集合のようなものだ。
 
 ヤケクソでナゲヤリな夢とは第一に「日米同盟を深化させることで、これからもアジア諸国に対して毅然とした態度をとることができる」というものであり、第二に「経済成長はまだまだ可能であり、経済成長が出来る限りは豊かな生活を享受できる」というものであり、第三に「日本人をこんな体たらくにしたのはアメリカが押し付けた憲法のせいであるから、日本国憲法を改正すれば日本人は自信と誇りを取り戻すことができる」というものである。
 
 野党が壊滅状態にあり、ジャーナリズムが腰砕けの状況で、「この道しかない」と言ってつきすすむ安倍政権の歯止めとなるような機制がどこにも存在しない。そういう状況が長く続いて、多くの国民は「この道」以外の方向性を考えることを放棄してしまったかのようだ。事実、「他にふさわしい人がゐないから」という理由で内閣支持率は高止まりを続けてゐる。
 
 しかしながら、安倍の導く「この道」をすすんでいっても、ぼくらは誇りを取り戻すことは出来ないし、美しい国が出来上がることもない。ぼくは冒頭に「安倍政権の5年9ヶ月は社会全体がこの嗜虐性に淫していく過程だった」と書いた。安倍とその支持者達は、自身のとり憑かれたヤケクソでナゲヤリな夢に同意しないものを攻撃する。「この道」以外の選択枝を探りたいという人達を「反日」「パヨク」と侮蔑する。彼らは多様性というものに耐えられないほどに弱い人達だ。
 
 自分が勝ったつもりになる、優位に立った気分になる。その際の、ざまあみろ的な嗜虐性が安倍政権の一番の引力だ。吸引力さえ保てればいいという発想だから、「弱いもの」を次々に攻撃する。例えば生活保護受給者であり、朝鮮人であり、障害者であり、LGBTの人達であり・・・。「誰かに迷惑をかけてゐる」とみなされた者は次々と攻撃の対象になる。こうした営みがどれほど国民の自由闊達な気風を殺し、国民精神を萎縮させてゐるかということについて彼らはまったく想像力が及ばないのだろうか。きっとそうなのだろう。「もの言う弱者」をいぢめる快楽をエネルギーにして彼らは志士にでもなったつもりで「この道」を進んでいくのだ。
 
 嗜虐性が最も悲惨なかたちで現実化した事件を取り上げて終わりにしたい。
 
 2016年7月26日、相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」に元職員の植松聖被告(事件時26歳)が侵入し、19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた。犯行前の2月、彼は大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けてゐた。書簡の冒頭に「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」との宣言がある。彼によれば「障害者は不幸をつくることしかできない」人達であり「人類の為にできることを考えた答え」として犯行を決意したとのことだ。
 
 また書簡には「世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います」との言葉がある。彼は逮捕後 「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」と語っており、議長に届ける前には安倍に直接届けるために自民党本部を訪れたことがあった(警備を見て断念)。この経緯から、彼がそのメッセージを一番届けたい相手は安倍首相だったと考えるのが自然だろう。彼は権力者である安倍晋三が自身の思想に共感してくれる、だから守ってくれる。そう感じてゐた。
 
 植松被告が抱いてゐたような恐ろしい優生思想を、安倍が示したことはない。おそらく安倍はそこまで極端な差別思想を持ってはゐないし、それを積極的に煽動したことも、ぼくの知る限りない。しかし植松被告は、安倍が自分を守ってくれると思ってゐた。ぼくはこの事実は大変重いと思う。安倍は「障害者を抹殺することはよいことである」などとは考えてゐないし、その種の思想をほのめかしたこともない。ところが被告は安倍から「YES」というメッセージを受けてとってゐた。
 
 安倍にはそういうところがある。のっぺりとした空洞には嗜虐性を誘発するアンチ〇〇の思想がたくさん流れこんでゐる。前述のとおり、流れこんではゐるものの空洞はそれを吸い込んでゐるだけであって、安倍が消化して血肉化し、体系付けたり理論構築することはない。しかし彼が血肉化しようがしまいが、煽動しようがしまいが、嗜虐性の虜になった人達は安倍から、空洞に流れこんだ思想から、「YES」というメッセージを受けとってゐるのだ。恐ろしいことだ。
 
 障害者差別だけではない。あらゆる差別・いぢめ・ヘイトに関して「絶対にいけない」というメッセージを送ることに、安倍はもの凄く不熱心だ。人間の尊厳、基本的人権、男女平等といった「普遍的価値」を守るべきだという強いメッセージを安倍の言動や政治手法から感じとることはほとんど不可能と言っていい。
 
 どうしてあれほど不熱心なのだろう。本当に不思議に思うが、詰まるところ「ピンときてない」ということなのだと思う。空洞である彼には基準というものがなく、内的倫理の作用が恐ろしく鈍いか或いは存在しないのかと思われる。
 
 憲法違反の戦争法案を成立させたことや、臨時国会開催要求を無視したこと、公文書の隠蔽・改竄・破棄などなど「これは絶対にダメだろう」ということを、安倍政権はたくさん行ってきた。ぼくはもう、安倍政権は犯罪集団であると思ってゐる。
 彼らが実行しつつある最大の犯罪行為とは、彼らが権力を獲得し政策を実行するプロセスにおいて国民に見せ付けてきた「勝てば官軍」精神であり、負けたものは黙ってゐろという恫喝だ。その手法が差別やいぢめに「YES」と言ってゐるのだ。司法で裁くことはできないが、ここまで国民精神を萎縮させ荒廃させた彼らの政治手法は厳しく断罪されねばならないと思う。
 
 隣国韓国では今年、パク・クネ前大統領が懲役30年を求刑された。検察は重刑の理由を「被告人が憲政秩序を破壊し、国家権力に対する国民の信頼を損ねると共に、国家混乱と分裂を招いたにもかかわらず、真剣な反省や謝罪の意志がない」「峻厳な司法部の審判を通じて、悲劇的な歴史が繰り返されてはならないというメッセージを、大韓民国の為政者たちに伝える必要がある」などと説明してゐる。
 
 ぼくはこの言葉を日本の司法から聞く日を切に願ってゐる。安倍晋三が刑務所に入ったら、後世のために是非とも自伝を書いていただきたいと思う。ページ毎に朝日新聞の悪口が出てきたってかまわないから。

第46回衆議院議員総選挙(2012年11月16日)

第46回衆議院議員総選挙 2012年11月16日 
 
投票率:59.32%(戦後最低を更新)
民主党のキャッチコピーは「動かすのは、決断。」
自民党のキャッチコピーは「日本を、取り戻す。」 
 
 Japanese General election, 2012 ja.svg出典:Wikipedia
 
 定数480のうち自民党294議席公明党31議席、与党合計で325議席獲得。自民党の絶対得票率は小選挙区で24.67%、小選挙区で15.99%。民主党は公示前の230議席から57議席に、約4分の1へと大惨敗。
 自民党政権公約において、安倍総裁はこう述べてゐる。
 
 この3年余、民主党は、国民との約束を実行できないだけでなく、数々の内政・外交での迷走により、現在の危機的状況を招きました。遅れる復興、長引くデフレ、わが国固有の領土・主権に対する外交の挑発。これ以上、政権担当能力無き政党に日本を任せられません。ましてや唐突な離合集散で出来上がった急ごしらえの政党では、何も決められない政治を繰り返すだけです。
 
 ここで書かれてゐる民主党政権への、そして政治そのものへの「幻滅」が自民党を大勝利へと導き、2006年以来二度目となる安倍政権が誕生することとなった(危機突破内閣)。
 小泉長期政権の後に、安倍・福田・麻生と約1年毎に短命政権が続いた。そうして2009年、鳩山由紀夫率いる民主党への政権交代がおこったのだったが、思えばこれも自民党政治に対する「幻滅」から生まれたものだった。鳩山が実現しようとしたアジア諸国との友好関係樹立と対米自立は、方向性は正しかったが、そのための国民的合意は出来てゐなかった。結果、官僚・メディアそして国民からの助力を得ることが出来ず、いともあっさりと頓挫してしまった。
 
 鳩山の志もむなしく、民主党政権下の日本では「中国への恐怖」が増大し、その裏返しとしての憎悪が巨大化する。2010年に尖閣諸島での漁船衝突事件が起り、さらに同年、ついに中国のGDPが日本を抜き2位になった。この二つの事件が日本人の世界認識に与えた影響は極めて大きい。尖閣での軍事衝突の恐怖から日米同盟の神聖化が進み、「中国と友好関係を築き冷戦構造の緩和に努め、米国への依存を減らす」という選択肢が消滅した。
 また、GDP世界三位への転落は、失われた10年が20年になったことを決定づけるとともに、「金ならあるゾ」「アメリカの次に豊かな国」「アジアで一番の先進国」といった自意識を修正する必要があることを日本人につきつけたろう。
 
 鳩山が倒れ、管になる。東日本大震災が起り、原発が爆発する。災害対応の不手際を問われて管は自任。野田が登場して原発の再稼動を決定。天災と人災で日本はぼろぼろだ。どこにどう手をつけたら日本というシステムを健全化できるのか。厚い雲のような鬱屈が日本を覆った。
 
 もはや「愛国」しかない。
 
 そこで安倍晋三の登場となる。日本は中国や北朝鮮になめられてゐる。それは軍事力が足りないからである、戦争ができない国だからである。米軍にはなんとしても沖縄に駐留を続けていただき、自衛隊の米軍への「一体化」を進めよう。そうして軍事的抑止力に担保された「なめられない国」をつくろう。これが愛国精神の実行である。そのためには民主党政権が毀損した「日米関係の信頼」を取り戻さなくてはいけない。
 
 2012年夏に発表されたアーミテイジ・ナイ報告書は「日本は一流国家であり続けたいのか、 それとも二流国家に成り下がって構わないのか? 日本の国民と政府が二流のステータスに甘んじるなら、この報告書は不要であろう」という恫喝から始まる。安倍政権は「一流であり続ける」ために、ここで提案されてゐた原発再稼働、TPP交渉参加、特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権の行使容認を次々と実行していく。日米同盟の絆がどんどん深まり、国際社会=日米同盟、「日本を守る」=「日米同盟を守る」といった図式がメディアを通じて国民意識に定着していくことになる。
 
 3年余、野党として政権奪還を期してゐた自民党は、いつのまにか「保守」政党ではなくなってゐた。文藝春秋一月号に安倍が寄稿した論文「新しい国へ」の最後はこんな言葉で締めくくられてゐる。
 
 今回の総選挙で自民党は「日本を、取り戻す。」というスローガンを掲げています。
 これは単に民主党政権から日本を取り戻すという意味ではありません。敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります。
 
 戦後の歴史から日本を取り戻すと言う以上、戦後の歴史は失わたものだという認識なのだろう。安倍とその支持者達は「戦後をなかったことにしたい」のである。こんな言葉は「保守」の精神からは絶対に出てこないはずだ。なんなら「革命的」と言っていい。この言葉は端的に日本国憲法に照準されて出たものだ。日本国憲法の「押し付けられた」という経緯や、国際社会への「謝罪」という戦争放棄の性格、さらには「権利ばかりで義務がない」条文が日本人を自虐的にし、公共心をなくさせ、誇りを失わせたというのが彼らの考えだ。
 
 衆院選の公約で自民党憲法改正を掲げてゐた。2012年に同党が発表した「憲法改正草案」は保守であることをやめた彼らの革命的な性格がとてもよく出てゐる。片山さつき参議院議員の解説を聞いてみよう。
 
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました! (2012年12月のツイート)
 
 国に求めてばかりで国のために何するでもない、権利は主張するが義務は果たさない、そういう「いきすぎた個人主義」が蔓延して国を維持することが難しくなってゐる。これが自民党の基本的な考え方である。あけすけに言うならば「国家としてはさ、権利を主張する国民ってうっとうしいのよね」ぐらいの感じになるだろうか。こういう考えに基づく自民党草案は、現行憲法の原理である「人権を保障するために憲法によって権力を制限する」という立憲主義の理念に背を向け、逆方向に足を踏み出したものとなってゐる。草案は「国民の権利を制限し、義務を増やす」ことを念頭に書かれたものだと言っていいだろう。
 
 自民党草案によれば、国民は国旗・国家を尊重せねばならず(第三条)、家族が互いに助け合わねばならず(第二十四条)、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公共及び公の秩序に反してはならない」(第十二条)。驚くべきことに、現行憲法最高法規である第九十七条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」は丸々削除されてゐる。
 
 自民党草案は法理を示す文書というよりは、憲法の体をした彼らのイデオロギーの宣言文のように見える。自民党は野党時代に「国民政党」「包括政党」であることを完全にやめたのだ。
 
 自民党の圧勝が確定した時、安倍総裁は以下のように述べた。 
 
 自由民主党に信任が完全に戻ってきたということではなく、民主党の間違った政治主導による政治の混乱と停滞に終止符を打つべきという国民の判断だったんだろうと思います。
 
 「謙虚」な認識だ。安倍の言うとおり、国民は自民党に信任を与えたのではなかったし、ましてや憲法改正を負託したのではなかった。国民はただ「首相が毎年のようにコロコロ変わる」ことにウンザリしてゐたのだ。冒頭に示したとおり、投票率は戦後最低の59.32%、自民党の絶対得票率は小選挙区で24.67%、小選挙区で15.99%。自民党を積極的に支持してゐる国民は多くなかった。政権与党は内閣を組織し行政府を運営する。彼らは自分達に投票しなかった人たち、そして投票に行かなかった人たちの声を聞かねばならない。
 
 勝利会見で「謙虚」な認識を示した安倍にはしかし、そんなあたりまえの公人としての倫理など露ほどもないのだった。口では殊勝なことを言いながら、勝てば官軍、国民の過半を無視した政治運営を強行していく、長い長い第二次安倍政権がここに誕生したのである。

首相動静 2018年8月

8月28日

午前8時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
 午前9時10分、私邸発。
 午前9時23分、自民党本部着。
 午前9時34分から同48分まで、同党役員会。同58分、同所発。同10時、官邸着。
 午前10時3分から同16分まで、閣議
 午前10時17分から同22分まで、小此木八郎防災担当相。同27分から同11時2分まで、河野太郎外相。
 午前11時3分から同33分まで、北村滋内閣情報官。
 午前11時57分、官邸発。同58分、公邸着。東京都議会自民党の都議らと会食。萩生田光一自民党幹事長代行同席。午後1時10分、公邸発。同11分、官邸着。
 午後1時16分から同58分まで、石田真敏自民党衆院議員。
 午後2時16分から同31分まで、谷内正太郎国家安全保障局長、北村内閣情報官、鈴木哲外務省総合外交政策局長、防衛省の槌道明宏防衛政策局長、河野克俊統合幕僚長
 午後2時57分、官邸発。同59分、公邸着。自民党の栃木県議らと懇談。西村康稔官房副長官同席。
 午後3時51分、公邸発。同52分、官邸着。
 午後4時2分から同16分まで、自民党国土強靱化推進本部の二階俊博本部長、林幹雄本部長代行らから提言書受け取り。
 午後4時46分から同5時4分まで、日米知事フォーラムに参加した埼玉県の上田清司知事、ネバダ州のサンドバル知事らによる表敬。西村、野上浩太郎官房副長官、長谷川栄一首相補佐官同席。
 午後5時5分から同29分まで、日本歯科医師連盟の高橋英登会長ら。林幹雄自民党幹事長代理同席。
 午後5時56分から同6時42分まで、外務省の秋葉剛男事務次官、金杉憲治アジア大洋州局長、鈴木量博北米局長。同43分、官邸発。同45分、東京・永田町の日本料理店「つきじ植むら 山王茶寮」着。自民党北海道連の吉川貴盛会長ら衆参両院議員、道議と懇談。
 午後7時23分、同所発。同30分、東京・紀尾井町ホテルニューオータニ着。同ホテル内の日本料理店「千羽鶴」で中西宏明経団連会長、三村明夫日本商工会議所会頭、小林喜光経済同友会代表幹事ら財界人と会食。同9時6分、同ホテル発。同23分、私邸着。
 29日午前0時現在、私邸。来客なし。

8月29日

午前8時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
 午前9時6分、私邸発。
 午前9時26分、東京・富士見の日本歯科大付属病院着。歯の治療。
 午前10時、同所発。
 午前10時14分、官邸着。
 午前10時31分から同51分まで、自民党岸田派の金子原二郎参院議員らから政策提言書受け取り。
 午前10時52分から同11時6分まで、青柳剛全国建設業協同組合連合会政治連盟会長ら。林幹雄自民党幹事長代理、西村康稔官房副長官同席。同12分から同25分まで、大家敏志自民党参院副幹事長ら同党参院議員有志から総裁選の推薦書受け取り。野上浩太郎官房副長官同席。同33分、谷内正太郎国家安全保障局長、北村滋内閣情報官、防衛省の槌道明宏防衛政策局長、大塚海夫情報本部長が入った。同39分、谷内、槌道、大塚各氏が出た。同51分、北村氏が出た。同59分、官邸発。正午、公邸着。自民党奈良県議らと会食。高市早苗同党衆院議員、西村官房副長官同席。午後0時58分、公邸発。同59分、官邸着。
 午後1時20分、官邸発。同21分、衆院第1議員会館着。自民党神奈川県連女性局の研修会に出席し、あいさつ。同32分、同所発。同34分、官邸着。同36分から同47分まで、鈴木馨祐自民党青年局長ら。同51分から同59分まで、佐々木康男福井県あわら市長による表敬。稲田朋美自民党衆院議員同席。午後2時30分から同49分まで、新日本スーパーマーケット協会の創立60周年を祝う『第6回全国大会・東京大会』向けのビデオメッセージ収録。
 午後3時1分、官邸発。同2分、公邸着。自民党仙台市議らと懇談。西村官房副長官衛藤晟一首相補佐官同席。同4時4分、公邸発。同5分、官邸着。同6分から同16分まで、田中和徳自民党衆院議員。同21分から同40分まで、アジア各国の海上安政策課程修了生らによる表敬。同44分から同57分まで、月例経済報告関係閣僚会議。
 午後5時8分から同55分まで、安全保障と防衛力に関する懇談会。
 午後6時27分、官邸発。
 午後6時53分、東京都渋谷区のイタリア料理店「リストランテASO」着。俳優の中井貴一氏らと会食。
 午後9時28分、同所発。
 午後9時38分、私邸着。
 30日午前0時現在、私邸。来客なし。
午前8時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
 午前9時10分、私邸発。
 午前9時23分、自民党本部着。
 午前9時34分から同48分まで、同党役員会。同58分、同所発。同10時、官邸着。
 午前10時3分から同16分まで、閣議
 午前10時17分から同22分まで、小此木八郎防災担当相。同27分から同11時2分まで、河野太郎外相。
 午前11時3分から同33分まで、北村滋内閣情報官。
 午前11時57分、官邸発。同58分、公邸着。東京都議会自民党の都議らと会食。萩生田光一自民党幹事長代行同席。午後1時10分、公邸発。同11分、官邸着。
 午後1時16分から同58分まで、石田真敏自民党衆院議員。
 午後2時16分から同31分まで、谷内正太郎国家安全保障局長、北村内閣情報官、鈴木哲外務省総合外交政策局長、防衛省の槌道明宏防衛政策局長、河野克俊統合幕僚長
 午後2時57分、官邸発。同59分、公邸着。自民党の栃木県議らと懇談。西村康稔官房副長官同席。
 午後3時51分、公邸発。同52分、官邸着。
 午後4時2分から同16分まで、自民党国土強靱化推進本部の二階俊博本部長、林幹雄本部長代行らから提言書受け取り。
 午後4時46分から同5時4分まで、日米知事フォーラムに参加した埼玉県の上田清司知事、ネバダ州のサンドバル知事らによる表敬。西村、野上浩太郎官房副長官、長谷川栄一首相補佐官同席。
 午後5時5分から同29分まで、日本歯科医師連盟の高橋英登会長ら。林幹雄自民党幹事長代理同席。
 午後5時56分から同6時42分まで、外務省の秋葉剛男事務次官、金杉憲治アジア大洋州局長、鈴木量博北米局長。同43分、官邸発。同45分、東京・永田町の日本料理店「つきじ植むら 山王茶寮」着。自民党北海道連の吉川貴盛会長ら衆参両院議員、道議と懇談。
 午後7時23分、同所発。同30分、東京・紀尾井町ホテルニューオータニ着。同ホテル内の日本料理店「千羽鶴」で中西宏明経団連会長、三村明夫日本商工会議所会頭、小林喜光経済同友会代表幹事ら財界人と会食。同9時6分、同ホテル発。同23分、私邸着。
 29日午前0時現在、私邸。来客なし。

8月30日

午前8時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
 午前8時7分、私邸発。
 午前8時30分、JR東京駅着。同40分、のぞみ159号で同駅発。西村康稔官房副長官同行。
 午前10時19分、JR名古屋駅着。同24分、同駅発。
 午前11時8分、愛知県瀬戸市の食品パッケージメーカー「富士特殊紙業」着。鈴木淳司衆院議員ら出迎え。写真撮影。工場を視察。企業内保育所で子どもと交流。同37分、同所発。
 午後0時23分、名古屋市中村区の名古屋マリオットアソシアホテル着。同ホテル内の宴会場「オーク」で、自民党愛知県連の国会議員らと昼食。同50分から同1時31分まで、同ホテル内の宴会場「タワーズボールルーム」で、藤川政人同県連会長の講演会に出席し、あいさつ。写真撮影。同45分、同ホテル発。同54分、近鉄名古屋駅着。同2時、近鉄特急で同駅発。
 午後2時44分、近鉄津駅着。同49分、同駅発。
 午後3時3分、津市の農業法人「浅井農園」着。託児室、自動収穫ロボットを視察。鈴木英敬三重県知事同行。同34分、同所発。
 午後3時41分、同市の三重県児童相談センター着。職員と意見交換。同4時16分、同所発。
 午後4時32分、同市の津都ホテル着。同34分から同59分まで、同ホテル内の宴会場「鈴鹿の間」で、三重県内の首長、県議ら。同5時から同6時24分まで、同ホテル内の宴会場「伊勢の間」で、同党三重県連の県議らとの会合であいさつ、懇談。
 午後6時26分、同ホテル発。
 午後6時34分、近鉄津駅着。利用客と握手、写真撮影。同7時1分、近鉄特急で同駅発。鈴木知事見送り。
 午後7時51分、近鉄名古屋駅着。同52分、同駅発。同53分、JR名古屋駅着。同54分から同8時まで、同駅貴賓室で、柘植康英JR東海会長。同3分、のぞみ408号で同駅発。
 午後9時43分、JR東京駅着。同47分、同駅発。
 午後10時13分、私邸着。
 31日午前0時現在、私邸。来客なし。

8月31日

午前8時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
 午前8時53分、私邸発。
 午前9時6分、官邸着。
 午前9時7分から同34分まで、公明党太田昭宏前代表。
 午前9時56分から同10時まで、観光戦略実行推進会議。
 午前10時4分から同12分まで、閣議
 午前10時17分から同29分まで、大塚幸寛内閣府賞勲局長。
 午前10時37分から同11時まで、エスピノサ次期国連総会議長の表敬。
 午前11時34分から正午まで、読売新聞のインタビュー。
 午後0時40分から同52分まで、小里泰弘自民党衆院議員。
 午後1時48分、官邸発。
 午後1時54分、東京・紀尾井町ホテルニューオータニ着。同ホテル内の宴会場「AZALEA」で、アフリカ賢人会議コアグループ会合に出席。
 午後2時39分、同ホテル発。
 午後2時45分、官邸着。
 午後2時48分から同3時10分まで、北村滋内閣情報官。同17分、官邸発。
 午後4時、横浜市中区の結婚式場「ロイヤルホールヨコハマ」着。同所内の宴会場「セレナーデ」で、「安倍晋三自民党総裁との懇談会」に出席し、講演。写真撮影。同5時6分、同所発。
 午後5時58分、官邸着。午後6時3分から同42分まで、杉山晋輔駐米大使。
 午後6時46分、官邸発。
 午後6時53分、東京・元赤坂の迎賓館着。同55分、コイに餌やり。同59分、アフリカ賢人会議参加者との首相主催の夕食会開始。
 午後8時21分、夕食会終了。同30分、同所発。
 午後8時37分、公邸着。
 1日午前0時現在、公邸。来客なし。

「拉致問題の解決」ということ

 6月12日にシンガポールで史上初の米朝首脳会談が開催される。韓国のムン・ジェイン大統領がシンガポールに入り、三者で「終戦宣言」を行うと見られてゐる。この宣言には米朝間の「不可侵の確約」が盛り込まれるとの報道もある。

 朝鮮戦争終結するということは理屈の上では冷戦構造の終結を意味する。即ち朝鮮半島を含む東アジアの政治、外交、安全保障、経済のあり方にまで大きな、いや根本的な変革が起る。

 2000万の人口を抱え、資源の豊富な北朝鮮が中国のような改革解放を行い、そこへ諸外国からの援助・賠償・投資が舞い込むとなれば、それこそ奇跡的な経済発展を遂げるに違いない。

 南北の融和が進めば、そして米朝対立・米中対立が無くなれば、当然、在韓米軍及び在日米軍の存在理由もなくなる。こんな嬉しいことはない。

 日本は対米従属があまりにも深く浸透したせゐで具体的な目標として掲げる政治家は皆無だが、これを機に日米同盟を見直し、在日米軍を撤退させることは可能ななずだ。法的にも精神的にも米国から独立することが出来るはずだし、それ以外にぼくらのアイデンティティ・クライシスを克服する道はないように思える。

 そのために必要なのは南北朝鮮と、そして中国と友好関係を築くことだ。これが絶対条件だ。

 その意味で、半島の平和にどれだけ貢献できるかがとても重要だ。非核化はいかに可能か、冷戦構造終結後の新秩序はどうあるべきか。関係するすべての国のメンツを保ち、且つそれが恒久平和に繋がるような大きなビジョンを提示する必要がある。

 が、安倍政権にそんなビジョンはない。新秩序が形成されては困ると思ってゐる。ずっとこのまま米国の庇護の下、米国との一体化を深化させ、軍事力を背景にアジア諸国に偉そうにしてゐたいということなんだらう。

 だから蚊帳の外だ。それは当然なんだ。「米国と完全に一致」してゐることしかアピールしない国に一体誰が意見を求めるだろう。

 

 ピョンチャン五輪を契機として融和ムードが高まり南北首脳会談が開催され、米朝首脳会談の開催が決まった。すると安倍首相は思い出したように拉致問題に言及するようになった。「拉致問題の指令塔」を自認する安倍にはしかし、どうやら北朝鮮とのパイプがまったく無いらしい。

 だから彼が今年やったことはと言えば「ムン大統領に拉致問題の提起をお願いすること」と「トランプ大統領拉致問題の提起をお願いすること」だけだ。なんとも情けない。

 

 4月の南北会談の際に、ムン大統領は約束通りに拉致問題を提起した。そこでキム・ジョンウンはこう言ったという。「日本はなぜ直接言ってこないか」と。ずいぶんなめられたものだ。こんなになめられてゐるのはなぜなのだろう。憲法9条が邪魔をして戦争できないからだろうか。或いは核兵器を持ってゐないからだろうか。おそらくどちらでもない。

 たぶんそれは、日本が過去の歴史と向き合ってゐないからだ。日本が認定してゐる拉致被害者は17名。日本人はこの北朝鮮による拉致を世紀の大犯罪のように考えてゐるが、前世紀に日本が朝鮮人に行った犯罪行為はその比ではない。日本は35年間も半島を植民地にし名前を奪い、言葉を奪い、強制的に「日本人」にして兵士にしたり慰安婦にしたのだ。そして日本人はその過去の過ちについてまったく反省してゐない。そのことは日本人以外はみんな知ってゐる。

 だから北朝鮮拉致問題を取り上げられると「拉致問題は解決済みだ。それより植民地支配に対する賠償だ。」とつっぱねてしまう。どう考えても日本の戦争犯罪のほうが巨大であって、そこを否認しながら被害者意識にかられていきりたつ日本の態度はいかにも非倫理的だという感じを与える。

 もちろん拉致は犯罪行為であり、家族の心情に寄り添えば到底許せるものではないが、それをそのまま国家の態度として全面に押し出すのもをかしいだろう。実際、その結果、交渉のためのパイプそのものがまったくなくなってしまったわけだから。

 

 安倍は呪文のように「拉致問題の解決なくして国交正常化交渉はしない」と繰り返すが、現実的な態度とは思えない。「賠償を含めて国交正常化交渉を行い、平行して拉致問題についても協議する」が筋ぢゃないだらうか。

 歴史と向き合うことから逃げながら、拉致被害については大騒ぎする非倫理的な態度。また、「核・ミサイル問題」と「朝鮮戦争終結」について話し合う局面に際して、そのためのいかなる貢献もせずに拉致問題を放り込むナンセンス。これが日本の外交的影響力を大きく損ねてゐるのではないだろうか。また結果として「拉致問題の解決」を妨げることになってゐるのではないか。

 

 5月11日、安倍首相はテレビ番組に出演した。そこでキム・ジョンウンの「日本はなぜ直接言ってこないか」発言について問われこう答えた。曰く:

「『直接言ってこないのか』ということは恐らく、キム・ジョンウン委員長に直接という事であろうと思います。我々は、北京ルートを通じて、あらゆる努力を今まで行ってきておりますし、今も行っています。えーつまり、キム・ジョンウン、あの、ムン・ジェイン大統領が、直接会って話をしている、また或いは、ポンペオ長官が、直接会って話をする。ま、それぞれの時にですね、拉致問題について働きかけをしていただいていると思いますが、えー、つまり、なぜ、えー、日本が自分自身に直接言ってこないのかと、ということだと私は受け止めています。これはあの、あの、見方によってはですね、いわば、えー、それには、応じるかもしれない、という分析もできるんだろうなと思っています。」

 失敗を認められない人は、やがて現実そのものを拒否するようになる。結果彼の言葉と現実はその結びつきを失い、しどろもどろのうわごとを吐く。

 これほど支離滅裂な言葉しか吐けない人間が日本の最高権力者であるという現実にうそ寒い思いがする。この男のウソを糊塗するために官僚は虚偽答弁をして公文書を改竄し、自殺までしてゐるのだ。闇だ。

 

 安倍首相は5月14日、参院予算委員会で、北朝鮮に関して「最終的には日朝が交渉しないと解決しない問題」「日朝が会談しなければいけないことに、キム委員長に決断を迫りたい」と述べた。

 さらに6月8日の日米首脳会談後の会見で「早期に解決するため、私は北朝鮮と直接向き合い、話し合いたい。あらゆる手段を尽くしていく決意だ」と述べた。

 あらゆる手段を尽くして解決に全力を挙げて欲しい。生存者がゐたとして、もし家族と再会できる日が来るなら素晴らしいことだ。

 本当にそう思うが、今「決意」したのなら2012年に二度目に首相になってからこれまで何をしてきたのだらう。

 繰り返しになるが、安倍は昨年来「対話は無に帰した。最大限の圧力だ。」と言い続けてきた。外務大臣は国連で北朝鮮と国交を断絶するよう各国に呼びかけた。

 それがここえきて「直接話し合いたい」と言う。この変化、その動機はただ「バスに乗り遅れるな」という例のあれでしかない。いや、バスというより「米国と完全に一致してないと不安」という感情以外にないのではないか。いや酷い。

 

 2002年に日朝首脳会談が開催され北朝鮮は拉致を認め謝罪した。北朝鮮の報告では、当時日本政府が認定してゐた13人の拉致被害者のうち8名は死亡、生存者は5名ということだった。

 北朝鮮は生存してゐる拉致被害者5人の帰国を認めた。しかしこの時、5人は二週間程度したら北朝鮮に戻りその後に将来のことや家族のことを考える、「一時帰国」というのが政府間の約束だった。

 ここで日本政府はその約束を守らず5人を帰さないことに決めた。拉致したほうが悪いに決まってゐるが、ここで約束を反故にしたことが問題をこじらせたのも事実である。この決定を主導したのが当時の官房副長官安倍晋三

 安倍はこの「断固たる決意」と「毅然とした態度」即ち強硬姿勢によって人気を得て、2006年一度目の政権を獲得したのだった。

 安倍によれば拉致問題は「日本外交の最優先課題」であり、拉致被害者家族にも「この問題を解決する」と言ってゐる。

 しかしぼくは上の経緯を鑑みるに、端的に、安倍首相だから解決しないのではないか、と思ってしまうのである。

 

 本当に「そもそも」の話なのだが、日本政府が掲げてゐる「解決」の定義は全く現実的ではない。外務省のHPから公式見解を見てみよう。「北朝鮮による日本人拉致問題」という冊子がPDFで読めるようになってゐて、そこにQ&A形式で「解決の定義」が書かれてある。

北朝鮮による日本人拉致問題 | 外務省

 Q6 どうすれば、拉致問題が解決したと言えるのですか?

 A6 拉致問題の解決には、以下の三つを実現する必要があります。

    ①全ての拉致被害者の安全を確保し、すぐに帰国させること。

    ②北朝鮮が、拉致被害の真相を明らかにすること。

    ③北朝鮮が、拉致を実行した者を日本に引き渡すこと。

 これは無理だと思う。③などはまったく非現実的だ。

 ②の真相解明にしても果たしてどれだけのことが確認できるだらう。南京虐殺従軍慰安婦問題を見ればわかるように、「真実は何か」ということに固執すると結果として問題が複雑化して手がつけられなくなる。「真実」を究明する努力をしながら、どこかで妥協点を見出さないと「解決」はしないだろう。

 果たして安倍首相に「妥協」ができるだらうか。「強硬姿勢」が売りの安倍に。

 

 日本政府が認定してゐる17人の拉致被害者のうち、5名は帰国、8名は死亡、残りの4名に関しては北朝鮮は入境そのものを否定。日本政府は死亡したとされる8名も生きてゐるという前提で交渉するという立場だ。北朝鮮は生存者はもうゐない、だから解決済みだと言ってゐる。

 この二者が交渉を行うわけだが、現状、政府間交渉はどうなってゐるかというと、 まづ、2014年5月にストックホルム合意が行われた。

 ここで、北朝鮮拉致被害者を含む全ての日本人に関する包括的且つ全面的な調査の実施を約束し、そのための特別調査委員会を立ち上げた。

 同年10月、ピョンヤンで特別調査委員会と日本側の協議が行われた。ここで北朝鮮側から、証人や物証を重視した客観的・科学的な調査を行い、過去の調査結果にこだわることなく新しい角度から調査を進めていくという説明があった。日本側からは政府認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者を発見し、一刻も早く安全に帰国させることを求めてゐることを繰り返し伝達した。

 そして2016年2月、北朝鮮による弾道ミサイル発射を受けて、日本は独自に対北朝鮮措置を実施することを発表。北朝鮮はこれに反発して特別調査委員会の解体を宣言した。

 

 ここで日朝間の交渉は途絶へ現在に至ってゐる。安倍は「日本として拉致被害者の最後の1人までの救出をやりきる」と言うが、そのためにはまづ、調査結果を受け取る必要がある。そうでなければ生存者がゐるのかどうかさえ分からない。

 調査結果に関して、朝鮮半島が専門のジャーナリスト五味洋治氏が今年の4月、日刊ゲンダイのインタビューでこう述べてゐる。

米朝首脳会談と日本の行方は 東京新聞・五味洋治氏に聞く|日刊ゲンダイDIGITAL

最近、北朝鮮に行った友人が外務省幹部から聞いた話ですが、少しずるいところがあるともみられているようです。拉致被害者らの再調査などを含むストックホルム合意を受けて、北朝鮮は15年に報告書をまとめたんですが、それを受け取らない。内容を知っているのに、受け取らないと言うんです。まずは相手が出したものを見て、そこから交渉を始めて、乗り込むなり何なりして納得がいくまで調査すればいいと思うんです。日本側が止めてしまったままでは、日朝関係は動きません。

 日朝交渉が再開するとすれば、ストックホルム合意に基づく調査結果を受け取るところから始まると思うが、「内容を知ってゐるのに、受け取らない」ではどうにもならない。

 内容はどういったものなのだろう。受け取れないような内容ということは「やはり生存者はもうゐない」ということなのか。そうであった場合にそれを受け入れて「拉致問題の解決」とするのか。調査結果は信頼できない、としてはねつけるのか。いづれにしても調査結果を受け取らないと話にならない。

 生存者がゐるのか、ゐないのか、又、ゐるなら何人なのか。どういう内容であっても冷静に対応できるような世論を形成しておかないと拉致問題は「解決」しないと思う。しかし、現状、政府や与党やメディアから出てくる北朝鮮に関する言葉の基調は、とにかく「頭がをかしい」「キチガイ」みたいな国というイメージがある。それでどうやって交渉するつもりなのか、と思う。

 もう一つ大事なことだか、政府には「日朝関係=拉致問題」という姿勢を改めてもらいたいと思う。拉致問題は日朝関係の一部に過ぎない。

 まづ、今後の日朝関係はどうあるべきなのか、東アジアにおいて日本はどんな存在でありたいのかを明確にした上で、国交正常化交渉を進める。そうして拉致問題の占める相対的な位置が小さくなってはじめて、「解決」への道が開けてくるのではないだろうか。

 半島の平和にいかに貢献できるかが、今後の日本の国際的な立場、ひいては国家のアイデンティティそのものに大きく影響する。

 これは本当に大事なことだとぼくは思う。

キム・ヨナの芸術

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   目次 

  • はじめに
  • 様々なる舞踊
  • 傷だらけの雲雀
  • ヨナの覚醒
  • 珠玉
  • 哀しみの芸術
  • 結び
  • 4年ぶりの作品(加筆分)

 

                はじめに

 

 昨年来の朝鮮半島危機はおそらく、90年代初頭から繰り返されてきた北朝鮮核・ミサイル危機の中でも最大のものであらう。2017年、北朝鮮は6度目の核実験を行い、十数発のミサイルを発射し、着実にその技術を向上させ「国家核戦力完成の歴史的大業、ロケット強国偉業が実現された」と宣言した。

 その間、米国のトランプ大統領北朝鮮キム・ジョンウン最高指導者は互いに罵詈雑言を浴びせあった。その応酬の一つ一つはまさに戦争に近づく足取りのようにみえた。中国・ロシアは両者に自制を促し、韓国のムン・ジェイン大統領は「朝鮮半島で二度と戦争があってはならない」と言ったが、日本の安倍首相は憑かれたように「対話のための対話には意味がない、もっと圧力を」と繰り返した。憲法破壊を願う安倍首相にとっては東アジア情勢が緊迫してゐたほうがよい。だから危機を煽ってゐるのだ(積極的平和主義!)。

 危機収束の兆しが見えぬまま2018年になった。と、北朝鮮は突如として態度を軟化させた。南北対話を受け入れ、韓国で行われるピョンチャン五輪への参加を表明したのだ。米国もこれを歓迎し五輪期間中の合同軍事演習延期を決定した。韓国政府はこれを機に南北融和を深化させ、米朝対話に結びつけたいと考えてゐる。

 昨日、ピョンチャン冬季オリンピックが始まった。

 半島危機は今小康状態にある。

 聖火リレーの最終走者を務めたのは韓国の至宝、キム・ヨナ。彼女は4年前のソチ大会で銀メダルを獲得して引退。その年のアイスショーを最後にリンクから離れ、ピョンチャンオリンピック広報大使を務めてきた。

 ソチ五輪の競技終了後、「バンクーバー金メダリストとして記憶されることを願いますか?」との質問に対してヨナはこう答えた。

 「ただ何の大会で金メダルを取った選手としてでなく、キム・ヨナという選手として記憶して欲しい」

 素敵な言葉だ。

 フィギュアスケートはスポーツと芸術が一体となったものだ。スポーツを芸術化したものとも言え、芸術をスポーツ化したものとも言える。点取り競争のゲームに一喜一憂することもできるが、エキシビションアイスショーのように芸術及びエンタテインメントに特化した形式もある。

 「キム・ヨナという選手」はスポーツと芸術、その両面において突出したパフォーマンスを示した選手だった。主要四大会(グランプリファイナル・四大陸選手権・世界選手権・オリンピック)に全て優勝し、出場した全ての競技会で表彰台にのぼった。アスリートとしてこれ以上ないというくらいの成功だ。

 けれどこうした記録は彼女の偉大さを証明するものであっても、それは単に過去の記録であり事実に過ぎず、今生きているぼくらを感動させるものではない。

 が、彼女の芸術は違う。ぼくらはアーカイブの時代を生きてをり、幸いなことにヨナの滑ったほとんど全てのプログラムはネット上で繰返し見ることができる。ヨナのスケートは今生きてゐるぼくらの魂を揺さぶり、熱狂させ、癒しを与えてくれるものだ。

 それはアスリートの勝利が与える感動ではなく舞踊芸術が与える感動である。

 ぼくはこの「キム・ヨナの芸術」において、彼女のスケートから芸術的側面を抽出し、その驚くべき豊穣と、それを見ることの愉悦について語りたい。

 だから、どの大会で世界記録を出し、誰に勝ち或いは負け、メダルの色は何色だったかといった類の事柄は必要最小限の言及にとどめる。

 勝ち負けも記録も重要ではない。大切なことは彼女のスケートからいかに多くの芸術的滋養を引き出せるかだ。

 いったい舞踊芸術がもつ魅力、又はそれが与える本質的な感動とは何だろうか。踊る喜び、それを見る喜びの一番深いところには何があるのか。

 以下「様々なる舞踊」では、まづ、フィギュアスケートとは似てもにつかぬダンスを見ていく。似てはゐないが疑いようもなく全て舞踊芸術である。文字通り様々な舞踊を材にとり、舞踊芸術とはぜんたい何であるか、その本質に迫りたい。

 

               様々なる舞踊

 

 人類は言葉を獲得する以前から踊ってきた。

 それは「踊り」ではなかったかもしれない。あるいは「蠢き」や「ゆらぎ」であったかもしれず、無闇に踏ん張ったり跳ねたりするだけであったかもしれない。とにかく、そこに身体があった。

 おそらく声を発したろう。それはやがて「歌」と呼ばれることになる何かで、きっと「うー」とか「あー」といふ呻きに似た音の連続だった。

 言葉がないのだから、当然「喜び」「哀しみ」「怒り」「祈り」といったふうに情念は分化してゐなかった。「この哀しみを表現しよう」といふ記述可能な思考そのものがなかった。

 はっきりしてゐるのは人間がゐて世界があったということだけだ。

 森の中を歩いてゐたら清水が湧き出てゐた。飲んだらうまくて飛び上がった、とか。猟に行く前、恐怖を鎮めるために仲間みんなで大地を踏み鳴らした、とか。なんでもいい、そんなとき、言葉を持たない古代人はその肉体を緊張させたり解放したりして内なる衝動を昇華させたのだろう。

 人が生きてゐて自然に生じる情念が、肉体を通して表出されること。人間が世界と衝突することによって生まれる化学反応。それが踊りの「原型」だ。

 つまり踊りとは人間と世界が出会い交わることで生まれる子供のことなのだ。

 舞踊に必要なのは「人間」と「世界」であり、それはつまりどんなものでも舞踊になりうるということであって、そうした性質が舞踊の定義付けを困難なものにしてゐる。というよりも「純舞踊」なるものを取り出すことはほとんど無理だと言っていい。

 だから舞踊芸術は、その表現の力点をどこに置くかによって、容易に他ジャンルに接近し、また、越境したり融合したりする。あるいは融合して出来上がった形式それ自体を何とか舞踊とか、何とかダンスと呼ぶ。

 舞踊と最も相性がいいのが「音楽」と「物語」だ。誰でも知ってゐるようにオペラにもバレエにも歌舞伎にも、音楽と物語がある。

 言うまでもなくフィギュアスケートは舞踊とスポーツの融合体であるが、振り子の振れ方次第で、又鑑賞の立場によってその性格を大きく変える。

 選手みながバレエレッスンにうんと精を出せば、フィギュア全体がより芸術的なものになるだろうし、ジャンプ重視の結果誰もが4回転を飛ぶようになり、しまいに5回転に挑戦ということになればフィギュアはサーカスに近づくだらう。

 「人間が生きてゐて生まれる情念が、肉体を通して表出されること。人間が世界と衝突することによって生まれる化学反応。それが舞踊の原型だ」とぼくは書いた。

 その観点から見ると、全ての赤ん坊はダンサーだということができる。

 赤ん坊は一瞬一瞬、新しい現実に直面するわけだが、彼等はそれを「解釈」したり「分析」したりしない。手足をばたつかせたり、声をあげたり、不器用に肉体的な反応を示すだけだ。そこに原初的な人間と世界との衝突を見ることができる。

 赤ん坊はやがて言語を習得し、それにより世界を文節化し認識し始める。それに伴い世界は完全に外部となり、自意識が生まれ、かつては意識することもなかった自分の身体さえもが認識の対象となる。

 知らぬまに、彼の生きる文化特有の歩き方や走り方を覚える。そうした身体作法は生活の全領域、即ちくしゃみや咳、性愛時の喘ぎ声に至るまである民族・文化特有の型があり、一度身についてしまうとそれ抜きにはいかなる表出も不可能なものだ。

 赤ん坊を見てゐると、こちらの体も緩んできて不思議な多幸感に包まれる。その時ぼくらは見るという行為を通じて自己を拡張し、その輪郭を打ち解き、赤ん坊と一体となってゐる。

 そして赤ん坊の感覚、言語も身体作法も獲得する以前の、世界と未分化であったときの感覚を思いだす。だからあんなに気持ちがいいのだ。

 舞踊を「見る」際にはそんな風に見なくてはならない。ダンサーの動きを「見る」ということは、それを通じてぼくらがそのダンサーに「なる」ということなのだ。

 

 選ばれたダンサーは、赤ん坊のように生命力に溢れた肉体を持ち、生命そのものの輝きを放つ。

 例へばインド最高の女優マードゥリー・ディクシット(Madhri Dixit)はそんなダンサーの一人だ。

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  マードゥリー・ディクシットはそのダンスの見事さからインドではダンシング・クイーンと呼ばれてゐる。このパフォーマンスは2012年のテレビショウのもので、彼女がこれまで出演した映画のダンスシーンから特に有名なものを繋ぎ合わせたものである。

 ここで彼女が踊ってゐるのは完全なボリウッドダンスであって「芸術的」な要素は皆無と言っていい。ボリウッドダンス特有のコミカルな動きが多く、それら一つ一つの振り付けは並外れた筋力や柔軟性が必要とされるものではない。形を真似するだけならばそう難しいようには見えない。

 ところがどうだろう。彼女の肉体が放つ生命力、神々しさ、しなやかさ、気品は圧倒的だ。それは彼女が絶世の美女であるからではなく、踊ることを通じてより高次の美の世界に繋がってゐるからだ。

 あまりに完璧に、そして楽しそうに踊ってゐるから技術的な巧さなどちっとも感じさせないが、つぶさに見れば、彼女がいかに全身を精密にコントロールし、精妙な動きを構築してゐるかがわかるはずだ。

 とりわけ表情のダンスの素晴らしさは特筆に値する。彼女はパフォーマンスの最初から最後まで、口角のあげ具合、目を伏せるタイミング、眉の角度、視線、そして空間のどの一点をどの程度の凝縮力で見つめるか、その全てを完璧にコントロールしてゐる。

 もちろん表情だけではない。バックダンサーと比べてみればよくわかるが、彼女はまったく異質の動きをしてゐる。

 後ろで踊ってゐる若く逞しいダンサーたちの動きからは「筋肉」や「骨格」の動きが見てとれ、いかにも「ダンサーが音楽に合わせて自分の体を動かしてゐる」という印象を受ける。つまりダンサーの意識と身体と音楽が別個のものとして存在してゐる感じがする。

 一方マードゥリーはどうだろう。彼女の肉体からは「筋肉」や「骨格」といったごつごつした物体感は一切感じられない。全身を構成する60兆の細胞がキラキラと輝いて生きることの喜びに震えてゐるかのようだ。

 彼女の肉体は赤ん坊のようにしなやかで豊かだ。

 肉体がそこにあることの快。「ぼくらが肉体を持って生きてゐることは、気持ちがいいことなんだ」ということを感じさせる。これは舞踊芸術が与えてくれる喜びの中でも最大のものの一つだ。

 また、彼女はどんな振り付けでもそれに最高の解釈を与え命を吹き込むことができる。「振り付けを自分のものにする」とは彼女が振りと、そして音楽と一つになるということである。

 マードゥリーを見てゐると「肉体」と「振り付け」と「音楽」が一体となって迫ってくる。つまり彼女が音楽を聴き、それに合わせて体を動かすといった具合に、ダンサーが客体としての音楽と振り付けを自らのうちで融合させてゐるのではなく、あたかも、初めからひとつのものとしてこの世界に生まれたかのような印象を受けるのだ。

 そこではマードゥリーという人間の個性は消えてゐる。

 彼女自身もちろん美しい。しかしそれだけはない。踊ってゐる彼女には個性を超越した人間の美が宿ってゐる。舞踊芸術は自己表現ではないということがよくわかる。

 人間は美しい。生きてゐることは素晴らしい。

 マードゥリー・ディクシットはその踊りによって人間と、そして世界を祝福してゐるのだ。

 ところで、彼女のダンサーとしての才能はいかにして開花したのか。あの見事な表情のダンス、しなやかな動き、素晴らしいリズム感はどのように養われたものなのか。

 実は彼女は三歳の頃からカタック(kathak)というインドの伝統舞踊を習ってゐた。彼女の動きの秘密はそこにある。

  一つ、彼女が踊ったカタックを見てみよう。2002年公開の映画「Devdas」より。

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  豪華絢爛とはこのことだ。

 まづ、これほど整った顔の人がゐるということにぼくは驚くが、それはどうでもいいとして、まことに荘厳たる美の世界だ。

 伝統舞踊とはある民族、ある人間集団の美意識の結晶であり、そこにはその民族や集団が何を美しいと感じ、何を崇拝したか、どのように座ったり立ったりしたか、又、どのように女が男を誘惑し、男が女に愛を告白したか、即ち文化=生き方全体が息づいてゐる。

 このシーンでは女が自身の美しさを示し、男を誘い、じらし、いなし、また、誘うということが繰り替えされてゐるが、それを表現するための振り付けは繊細を極める。

 カタックを見たことがある人は多くないだらう。けれど、その驚くほど洗練された表現に心が打たれるはずだ。

 ある民族、ある文化が洗練させた様式に触れることを通じて、その美意識を理解し、さらに普遍的な美にまでアクセスすることができる。

 

 この素晴らしい振り付けを行ったのはインドの生きる伝説、史上最高のカタックダンサー、ビルジュ・マハラジ(Birju Maharaj)。

 次に彼の「孔雀の舞」を紹介したい。

 短いものだから出来るなら二度三度見て欲しい。ビデオからでも舞踊芸術がもつ最も根源的な「あるもの」が感じとれると思う。

 その「あるもの」とは何か。

 ずばり、聖性。

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 これほど聖性に満ちた表現をぼくは他に知らない。信じられない。本当に。

 変な言い方になるが、およそ人間味を感じさせない表現であって、見てゐるあいだ、彼の性別、年齢、体型、技術はもちろんのこと、これがカタックという伝統舞踊であるということさえ意識させない。

 カタックの身体運用をもとに孔雀の形態模写を行い、それを舞踊に昇華させてゐるわけだが、それを通じて、彼自身が聖なる世界と俗なる世界を繋ぐ回路となり、彼の存在する時空を変質させてゐる。

 まさに具象化された聖性。聖性がたまたま人間の形になったという印象を与える。

 舞踊は動物を模倣することから始まったという説があるが、これを見ると、きっとそうなんだらうなあと思う。繰返し見てゐるうちに、自分の中の原初的な感覚が呼び醒まされてくるのがわかる。

 それは例えば、万葉集の名歌を繰返し読んでゐるうちに、あるとき、ぞっとするほど理解が深まって、古人に繋がり、彼等と同じ世界に触れた気がするのに近いだろうか。

「私自身は、踊ってゐるつもりはないんです。神が踊りを見たくて、私に宿ってゐるんです。私は、神のお気に入りだから」

 マハラジはかつてこんな風に語ったことがあるが、これは本心だろうと思う。

 彼の踊りを見ると、舞踊は本質的に神への捧げ物であり、舞踊家は聖職なのだと認識させられる。

 

 伝統舞踊でも、それがエンタテインメント化してくると、捧げ物としての意味あいが遠のき、聖性は薄らいでくるものだが、続いて、それとは正反対に、安易な「わかりやすさ」にまったく歩み寄らない、頑なに「儀式」としての形式を守ってゐるラーンナー王朝(現在の北タイ)の伝統舞踊&武術、フォンジューン(fonjerng)を見てみよう。 

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  フォンは「踊り」、ジューンは「武術」を意味してゐる。フォンジューンはその名の通り、祝福と鎮魂の業である舞踊と、殺傷の術である武術が融合したものだ。

 この逞しい青年の動きはまさに、踊りと武術のあわいにゆれながら、自由自在だ。武術の演舞と呼ぶにはあまりに舞踊的すぎ、舞踊と呼ぶには武術的過ぎる。この不可思議なキメラ性がフォンジューンの魅力だ。

 限りなく大地に近づく低い重心と、空中にゆったりと八の字を描く腕と手が、東洋的な一如の世界を作り出してゐる。

 さりげなく、手先の動きで花をつくり、糸を紡ぎ、布を晒す。子供達はこうした舞踊・演舞を見て、自分達の先祖がどんな生活を営んできたのかを知るだらう。

 それだけではない、彼の肉体はもっとスケールの大きいものを表現してゐる。具象的な表現とは関係なく、彼はまことに山のやうに力強く、水のようにしなやかで、花のように美しい。華麗で、優雅で、威厳に満ちてゐる。

 それはつまり、人間の可能性であり、理想であり、美徳だ。

 舞踊はある民族の美意識を示すとともに、その理想や美徳を示すものだ。これは舞踊の大切な仕事である。ここに舞踊の、共同体及び社会における存在意義がある。

 自分達の先祖が何を大切にしてきたのか、何を美しいと感じ、男或いは女がどうあるべきだと考えてきたのか。ぼくらはそれを知らねばならない。そしてそれを大切にせねばならない。

 なぜなら第一に、ぼくらのアイデンティティとは過去と繋がってゐるという意識によって支えられてをり、それを失えば自己を喪失してしまうからである。

 第二に、理想や美徳、そしてそれを大切にしなくてはいけないという規範が失われた途端、人間はいとも簡単に堕落し、社会が壊れてしまうからだ。

 舞踊は、不思議なことに「勇気」とか「威厳」といった抽象的な観念をもはっきりと目に見える形で示すことができる。

 

 

 伝統舞踊を通してぼくらは古人と繋がることができるが、結局のところ我々は現代人である。ほとんどの人が都市で暮らし、今様の服を着て、職場にでかけ、寝るために帰ってくるのだ。

 現代には現代の恋があり、男らしさや女らしさがあり、口説くマナーと口説かれる作法が必要になる。そこには当然新しい様式を持った舞踊が生まれなければならない。 

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 20世紀はアメリカの世紀だった。アメリカ文化の影響から完全に自由であった国や民族を探すことは難しい。

 自由・平等という理念のもとに建設されたアメリカは、大量の移民と資本を吸収し、史上類のない繁栄を達成した。彼等はその富を、20世紀最大の芸術たる映画につぎこんだ。

 古き良きアメリカとはおそらく、ハリウッド最大のスターであるフレッド・アステアジンジャー・ロジャースが体現してゐた気品と優雅さのことを意味するのだろう。

 アメリカ独立宣言には、人間には「幸福を追求する権利」が与えられてゐると書いてある。

 幸福とは例えば、たくさんお金を稼いで、大きな家に住み、カッコイイ車に乗って郊外のレストランにランチを食べにいく、とかそういうことである。

 けれどもっと大切なことがある。「誰と生きていくのか」という問題。

 人間の幸福は結局のところ、誰と出会い、誰と結びつき、誰と生きていくかにかかってゐる。

 そのためにぼくらは想いを寄せる相手に言い寄り、気持ちを伝え、自分が何者であるかを示し、また、相手を知り、相手にふさわしい人間にならなくてはいけない。

 つまり、これ、恋愛というやつ。

 アステアとロジャースは都市文明に生きる男女が、社交の場で出会い、互いが想いを寄せ合う様、「綺麗だ」と言い「ステキよ」とこたえる様をダンスによって示した。

 都会人の恋はかくも素敵で、優雅で、知的である。

 二人のダンスは、一応のところ男がエスコートするという形式はとってゐるものの、決して男が主で女が従といった、黙って俺についてこい式の古臭い関係性ではない。

 自立した二人が、互いに敬意を抱き、節度を保ちながら、関係を深めてゆく有り方が示されてゐる。

 アメリカに敵対する国においてもハリウッド映画は大いに受け入れられ、アステアとロジャースのダンスを見て「素敵だ」と思った。それはつまり、二人が示す男らしさや女らしさ、男女関係、恋愛の形式を受け入れたということだ。

 「素敵だ」と感じてまったらもう引き返せない、「憧れ」という感情はしばしば、ぼくたちを今とは全然違う場所につれていくものだ。

 もちろん、彼等の形式を受け入れたと言っても、そう簡単に消化できるものではない。少なくとも本邦においては、ぼくらは洋服を着こなすようには、うまく「恋愛」できてゐないやうに思える。

 それはおそらく、日本人がまだ「自立した個人」というものにピンときてゐないからだ。そして、人間は平等であるといふ観念が浸透してゐないからだ。

 話がとっちらかってきた。

 ダンスに戻る。

 

 アメリカ中西部インディアナ州ゲーリーという町に、アステアのミュージカル映画が大好きな少年がゐた。

 20世紀後半、彼は成長して「ポップ・ロック・ソウルの真の王(The true king of Pop,Rock and Soul)」と呼ばれることになる。

 ご存知、マイケル・ジャクソンだ。

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 ウィキペディアによれば、カッコイイという意味の「cool」はもともと、アフリカ系アメリカ人ブルーカラー層が使ってゐたスラングで、それが20世紀末になって非英語圏以外にも広がっていったものだそうだ。

 日本語でも普通に「クール」と言い、中国語でも「酷(クー)」と言ったらカッコイイという意味だ。かなり一般化してゐる。

 私見では、というかぼくの妄想では、「cool」といふ語感でしか表せない種類のカッコヨサを提示したのがマイケル・ジャクソンだった。つまり、こんなかっこいい奴を誰も見たことがなかったのだ。そして、彼のカッコヨサを表す語が必要になってしっくり来たのが「cool」だった。

 80年代、マイケルが「Off The Wall」「Thriller」「Bad」によって世界を制覇する過程はまさに、「クール」という語が非英語圏に浸透していく過程だった(根拠はない)。

 「ポップ・ロック・ソウルの真の王」である彼の音楽を聞くと、からだが勝手に動いてしまう。踵でリズムを刻み、腰を振り、頭をゆらし、ああ、いい気持ち。うん、つまり誰もが踊り出してしまうのだ。

 人をして否応なく踊らしめてしまう音楽の力。これを「グルーヴ」という。

 マイケルは、彼自身の音楽がもつグルーヴをその肉体で表現することができた。

 彼はグルーヴを視覚化してみせたのだ。

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  マイケル・ジャクソンは耳なじみのいいベースラインをひたすら繰り返すことでグルーヴを作った。

 「Billie Jean」において、ドラムスは最初から最後までシンプルな8ビートを繰返し、フィルらしいフィルも入らない。その上にベースがのり、これまたシンプルに「ドゥンドゥンドゥンドゥンドゥンドゥンドゥンドゥン」と決まったフレーズを繰り返す(二つ目の太字、裏拍のアクセントが効いてゐる)。ときどきギターが別のリズムを刻み、キーボードが和音を導入する。

 そして、さらにその上に、子音を強調したマイケルのボーカルと、「ダ!」「ウ!」「ア!」等のボイスパーカッションをのせることで、多層的なグルーヴを作り出し曲全体のテンションをあげてゆく。

 ベースラインに揺られながら、少しづつ、少しづつ、ちょうど、螺旋階段でも上がっていくように、聴衆のテンションもあがりはじめる。

 やがて、聴衆はエクスタシーに達し、何度も「イク」ことになるわけだが、彼等が一番感じてゐるのはどこだろうか、彼等は何をきっかけにイッてゐるのか。

 それはターンである。マイケルがクルっと回ってピタっととまる。そのあまりに完璧なターンに痺れてしまう。

 シンプルな曲だから、聞いてゐる者はすぐに曲の構造を把握し一体化する。だから、マイケルのターンがいつやってくるのか、こちらも予想をしてゐる。

 くるぞくるぞ、回るぞ、と思って見てゐる、そこへ、今だ、ここしかない、というタイミングでマイケルが完璧なターンを決める。そこでイっちゃう。これはたまらない。

 観客を自身の肉体に共鳴させ一体化させることにより、マイケルはターン一つで彼等を昇天させることができた。

 死の直前まで準備してゐたコンサート「This Is It」のリハーサル映像の中に、素晴らしい「Bellie Jean」を見ることができる。

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 1983年に初めて「ムーン・ウォーク」を披露して以来、「Bellie Jean」は、そして彼のダンスは進化し続けてきた。

 「This Is It」のとき、マイケルは50歳。当然のことだが、筋力は落ち、若い時分の瑞々しい肉体はない。が、それによりむしろ、彼のダンスの核のようなもの、そしてその凄みが露になってゐる。

 リハーサルだから、ここで彼は何よりも音楽を聞くことに集中してゐる。いつどこに移動して、どんなステップを刻むのか、まだ厳密には決めてゐない段階だろう。そこで彼は自分が創造した音楽に没入し、体を揺らし始める。そのシンプルなノリ方やステップの何というカッコヨサ。神々しさ。

 まさに、音楽と身体が出会う瞬間、グルーヴが具象化される瞬間だ。

 もしマイケルが生きてゐたら、本番でどんな「Bellie Jean」を見せてくれたのだろうか。ぼくらは繰返しこのリハーサル映像を見て、彼の目指したもの、彼が見せるはずだったものを想像するほかない。合掌。

 

 ところで、マイケルが世界中を熱狂させてゐた1980年代、「コンテンポラリーダンス」というものが生まれた。その定義付けは難しい。

 先に、舞踊とは「人間と世界が出会い交わることで生まれる子供のこと」、「人間が世界と衝突することによって生まれる化学反応」であると書いたが、コンテポラリーダンスはその原点回帰と言えるかもしれない。

 つまりこういうことだ。

 人類はこれまでに様々な舞踊を生み出し、それを「型」として誰もが学べるように形式化してきたわけだが、世の中がどんどん複雑になり、変化が早くなり、グローバル化とか言われる世界に一人放り出された時に、もうこれまで創造されてきたいかなる「型」によっても、今生きてゐる人間が感じてゐる、この、のっぴきならないリアリティを表現することができなくなってきた。

 そこで誠実なダンサーたちは、型をとっぱらって、生の肉体で世界と切り結ぶことにしたのである。

 例えばアクラム・カーン(Akram Khan)はたった一人でその絶望的なまでに孤独な戦いに挑み、「人間以前」とか「生命の根源」という言葉でしか言い表せないような、深い深い場所に下りていく。

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 アクラム・カーンはバングラディシュ人の両親のもとに生まれたイギリス人。7歳から先に取り上げたカタックを始め、大学時代にコンテンポランリーダンスに出会った。2000年に自身のダンスカンパニーを立ち上げ、2012年にはロンドンオリンピックの開会式でパフォーマンスを行ってゐる。現代を代表するダンサー・振付師だ。

 これは「Nameless(名前のない/名づけられない)」と題する彼の短いソロ作品。

 椅子から立ち上がった彼は、すっと音も無く舞台に伏す。と、そこから先、ぼくらはいかなる解釈も拒絶する、見たことのない動きの連続に驚くことになる。

 彼は肉体のあらゆる部位、普段人間が行ってゐるあらゆる動作、動きから、「意味」を丹念に剥ぎ取り、動きの「型」を見事に解体してゆく。

 ぼくらの意識にある「人はこんな風に立ちあがるものだ」とか「腕はこんな風に動かすものだ」と言った予断を全て砕いてしまうのだ。

 やがて彼の肉体が「人間ではないもの」に見えてくる。大きな一つの細胞でできた軟体の生物のようでもあり。蠢いてゐるわけのわからないエネルギーの塊のようでもある。

 ぼくはこれを見たとき「動的平衡」という言葉を思ひだした。動的平衡とは分子生物学者の福岡伸一博士が提唱する生命の原理である。即ち、生命は動的=流れのなかに平衡を作り出してゐる時間的存在だというのだ。

 「Nameless」におけるアクラム・カーンはまさにそれだ。彼の肉体は安定と崩壊とのあわいにゆれながら、そのゆれてゐる姿そのものが平衡をつくり出してゐる。

 彼はここで「人間」を解体して「生命」そのものになってゐる。

 続いて、彼の別の作品を紹介しよう。43分から48分過ぎまでを見てほしい。前段、スキンヘッドにペイントをすることで「父になる」そして「父に捧げる」と言っゐる。

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 第一印象でこれを「美しい」と思う人はゐないだらう。頭部に目と鼻らしきものをぞんざいに描き、前かがみになり、左手で自身の顔を隠す。と、人らしきものになった。ノートルダムのせむし男を思わせる、無様な造形だ。このひどく抽象的な「人」ははっきり言って、とても醜い。

 手をバタバタさせて舞台を左右に動きまわり、床に倒れ、身悶え、必死に何かを懇願してゐるように見える。なんだか惨めな奴隷のようだ。

 ところが、この不恰好な「人」の切迫した、必死な姿を凝視してゐると、なんだかとても崇高なもののように見えてくる。そして醜いと同時に崇高な姿に親しみを覚え始めた頃に、ふと、ぼくらはこう感じるのだ。「これは自分だ」と。

 人生は誰にとっても苦しいものだ。生きていくためには、意にそわないことをせなばならないし、自分を殺さねばならない。不当に虐げられることもあるだろう、それをただ甘受する他ないこともあるだろう。

 そんな惨めさに耐えながら、人は「明日はきっとよくなる」と思って生きてゐる。そして子が生まれ親になると「この子には幸せになって欲しい」と願い、さらに必死になって生きるのだ。

 ここでアクラム・カーンは不恰好で醜い造形と、惨めで哀れなマイム表現により、生きることそのものの哀しみを表現してゐる。この醜い生き物は必死で生きてるぼくたちの姿そのものなんだ。

 子ができ父となったアクラム・カーンは、人間の普遍的な哀しみを描いたこの小品を父に捧げた。なんと深い愛の表現だらうか。

 

 アクラム・カーンをもう一つ。

 これは上の二つのやうに「深刻」なものではない。彼のダンサーとしてのバックグランドであるカタックの動きを自由に拡張することで完成させた、清らかなパフォーマンスだ。15分から23分までを見てほしい。

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 ぼくの感覚では、「身体の使いかたの見事さ」に関してこれほどの人は他に思い浮かばない。ちょっと飛び抜けて凄い人だと思ってゐる。

 もの凄く速く動いてゐるのに、すべての動線が驚くほどクリアで、一つ一つの動きに宿ってゐるイメージもまた、極めて明確だ。

 そして何より素晴らしいのが、彼の肉体含めた作品全体に横溢する澄明の気。 陳腐な言い方になるが、心が洗われるようだ。

 彼が大地を蹴り鈴を鳴らすたびに、又、勢いよく腕を左右に広げるたびに、邪気が祓われ、善きものが召喚されてくるのがわかる。

 「伝統を現代に生かすとはこうやるんだ」というお手本のような作品だ。こうした表現が大事なのは、それがぼくらの生き方に極めてポジティブなビジョンを示してくれるからだ。

「伝統を現代に生かす」それは舞踊においてとても大切なことであり、文化にとって、即ちぼくらの生き方にとってもまた、重要な課題だ。

 現代において、文化のない人々が「伝統」を捏造し、それによりかかり他者を排斥し、安物の一体感を作り出すことのいかに多いことか。「伝統」を盛んに連呼する人たちの内に、実際「伝統」が生きてゐたためしはない。彼等にとって「伝統」とは他者を操るための道具でしかないのだ。

 移民の子であるアクラム・カーンはそのダンスによって「伝統を生きる」とはどういうことなのかを教えてくれる。

 彼が自身のダンスのルーツであるカタックを発展させて優れた表現を生み出したように、ぼくらは過去に学び、伝統を生き、一人一人が自分の人生を創造せねばならない。

 さて。

 「様々なる舞踊」は上掲の動画においてアクラム・カーンと共演してゐるシルヴィ・ギエムのソロ「Two(Rise and Fall)」を紹介して終わりにする。

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 踊ってゐるのも振り付けたのもバレエの人だが、ここではバレエを連想させる動きは排除されてゐる。バレエ的な動きを崩したり応用して新しい表現を生むということは指向してをらず、バレエの訓練でつくりあげた肉体によってそれとは関係のない、別種の肉体言語を創造しようとしてゐるように見える。

 例えるなら、日本語とか英語を使って何かを表現するのではなく、オリジナルの言語を創造しようという試みだ。

  作品半ばまで、動きの少ない状態が続くが、ここでダンサーは肉体が自律的に動きだすのを待ってゐる。新しい言語の萌芽を捉えるべく意識を研ぎ澄まし、内なるエネルギーが凝縮するのを待ってゐるのだ。

 ぼくの感覚では、タイトルのTwo(Rise and Fall)とはこの内なるエネルギーの源泉、二つ相反する指向性を示してゐる。要するに、陰と陽だ。

 低音が細かなリズムを刻みはじめるとともに、ダンサーはエネルギーの源泉に近づき肉体を同調させることに成功する。打ち込みのドラムスとスネアが入ってくると、一気に加速し、固有のスタイルのようなものが現れはじめる。

 まっすぐ伸びた手足が空間を切り裂く様が鮮烈だ。股関節・肩関節の可動域の広さに驚く。

 奇妙な動きに見えるかもしれないが、注意深く見ると「自律的な運動」が行われてゐるのが見てとれると思う。こういう動きをしたら、今度はこう動く他ない、という感じ。全ての動き、ポーズが必然性に貫かれてゐる。

 ビートが高まり、はっきりとしたモチーフが展開され、繰り返される。自信に満ちた、迷いのない決然たる動き。茫漠たる世界に一人立つ一個の人間。そこに孤独の影は露ほどもない。

 この時、この場所、この肉体に固有の言語が生み出されたのだ。

 先にコンテンポラリー・ダンスとは何かを説明する際に、ぼくはかう書いた。

 〔世の中がどんどん複雑になり、変化が速くなり、グローバル化とか言はれる世界に放り出された時に、もうこれまで創造されてきたいかなる「型」によっても、今生きてゐる人間が感じてゐる、こののっぴきならないリアリティを表現することができなくなってきた〕と。

 現代人は程度の差こそあれ、誰もがアイデンティティ・クライシスに苦しんでゐる。世の中の変化があまりにも速く、上の世代を見ても生き方のモデルがない。親が生きてきたようなスタイルで、今日を生きることはできない。

 アクラム・カーンの項でぼくは「伝統を生き、一人一人が自分の人生を創造せねばならない」と書いたが、それができる人、自身の内に帰るべき伝統が生きてゐる人はとても幸福だ。

 われわれの多くは過去から切り離された根無し草だ。どこかに答えがないかとキョロキョロと彷徨って、いろいろつまみ食いしてみても満足しない。

 どうしたらいいのか。

 シルヴィ・ギエムがこの表現で行ってゐることをする他ない。内なるエネルギーが凝集してくるのを辛抱強く待ち、ここぞという時に、それをしっかりと掴み取る。そのためには、自分の感受性を研ぎ澄ましておかなくてはいけない。

 この作品で彼女が固有の言語を創造したように、われわれは、手探りで自分のスタイルを見つけ、一人毅然として立たなくてはいけない。困難な仕事だが、ギエムの力強い姿を見てゐるとエネルギーが湧いてくる気がするぢゃないか(ぼくだけかな?)。

 

 ここまで、様々な舞踊、様々なダンサーを取り上げ、舞踊芸術とは何であるか、その見方、魅力、社会的意義について語ってきた。

 稚拙な筆ではあるが、ジャンルに囚はれず、時代にも国にも拘らず、普遍的な舞踊の魅力とその美について書いたつもりだ。

 以下では、たくさんの天才達を見てきたのと同じ視点から、キム・ヨナのスケートを見たいと思ってゐる。

 即ちフィギュアスケートという枠組みを取っ払って、舞踊芸術として見たときのヨナの表現について書きたいと思う。

 

 

             傷だらけの雲雀

 

 土曜日、家族でオリンピック公園に行ってアイスショー「アラジン」を見た。二つの部分に分かれてゐた。

 メガネをかけて行ってよかった。わたしは眼が悪いから、ぼやけてしまったらいけない。ショーが終わってわたしは心に決めた。がんばって練習して韓国代表選手になる。

               1997年、小学一年時の日記

   キム・ヨナキム・ヨナ 7分間のドラマ』、中央出版社2010 

       (本邦未訳、引用は中国語訳から林が訳したもの)

 キム・ヨナは1990年9月5日、韓国プチョン市に生まれた。初めてスケート靴を履いたのは5歳の時。バレエもバイオリンも退屈で続かなかった彼女だったが、スケートの楽しさには夢中になった。

 小学校にあがり、上級クラスを修了した時、コーチはヨナの母に言った。「ヨナには天賦の才がある。フィギュア選手になれるかもしれない。」

 フィギュアはとてもお金のかかるスポーツだ。恵まれた経済状況にはなかったが、スケートの虜になってゐるヨナの姿を見て、両親はコーチの提案に従うことに決めた。ヨナはフィギュアスケーターとなるべく特別指導を受け始める。

 1998年、長野オリンピックが開催された。ヨナはミシェル・クワンの演技に他の選手にはない特別なものを感じた。

 「わたしもあんな風に滑りたい!」

 ヨナはクワンの演技をビデオに撮り、繰返し見た。そうしてクワンの振りを覚え、表情を真似し「オリンピックごっこ」をして遊んだ。幼いながらの表現力は周囲を驚かせた。

 クワンはヨナよりちょうど10歳年長、伸びやかな滑りと豊かな表現力を持ち味とし、イリーナ・スルツカヤと共に一時代を築いた偉大なスケーターだ。

 幼いヨナが自らの資質に自覚的であったはずはない。しかし彼女に与えられた感受性は確かに、やがて開花する自身の才能を呼び起すのに最も相応しいスケーター、クワンを見いだしたのだ。

 ヨナはこの後も、出会うべき時に出会うべき人に出会い、その巨大な才能を存分に開花させていくことになる。

 が、その前段、幼少期・ジュニア時代のヨナにとって、厳しい練習はただただ辛いものだった。引退後、ヨナは「選手生活17~18年のうち辛かった記憶が80%~90%」「幸せだと感じた記憶は数パーセントもない」と語ってゐる。

 2010年のバンクーバー五輪直前に出版された彼女の自伝を読むと、当時がいかに辛かったがよくわかる。スケート後進国であった韓国には専用の練習場がなく、彼女は朝早くか夜遅く、寒いリンクで厳しい練習に励んだ。

 結果、睡眠が不足する。休養が不足する。

 肉体が成長するためには十分な休息が必要だ。技術はどんどん進歩する。けれど過度の練習は骨も筋肉も未熟である彼女の肉体が許容できる範囲を超えてゐた。足首が、膝が、腰が、悲鳴をあげる。

 こういう場合、われわれ東アジア人はたいがい根性で乗り切ろうと考える。痛みに耐えて精神を鍛えようというのである。ヨナの母はそういう教育方針だった。

 思春期には多くの人が自殺を考えるものだと思う。練習がうまくいかないとき、わたしも考えることがあった。けれど、それはとてもデリケートな言葉で、実際、死ぬのはとても怖かった。やはり生きたいと思った。はは!

 「もし、わたしが自殺しようとしたら母はとめるだろうか。きっととめない。死んだらすっきりする、くらいのもので、むしろ喜ぶかもしれない」あの頃のわたしは、愚かにも、こんな風に思ったりしたものだ。

                         ヨナ、前掲書

  国際競技会に出場するようになり、ジュニアグランプリにも参戦し、好成績をおさめるが、彼女のスケートに少女らしい天真爛漫のきらめき、みたいなものはない。痛みに耐え、孤独とともに生きることに慣れた女の子の姿がそこにある。

 映画「ムーラン・ルージュ」から「One Day I"ll Fly Away」。

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I follow the night

Can't stand the light

When will I begin

To live again?

わたしは夜に生きている

光に耐えられなくて

いつになったら始められるの

新しい人生を もう一度

One day I'll fly away

Leave all this to yesterday

What more could your Love do for me?

When will Love be through with me?

いつか飛び立つの

すべてを昨日に残して

これ以上 あなたの愛は望まない

いつかわたしは自由になる あなたの愛から

 丁寧なすべりだ。一つ一つの動作を、振りを、愛おしむようにすべってゐる。肩の力の抜け方が見事で、腕全体の動きが常にしなやかで優雅だ。どこかで断絶が起こることがない。ジャンプも大柄で着氷もやわらかい。

 One Day I"ll Fly Away

 自殺を考えるほどに、彼女が抱えてゐた痛みと孤独は巨大だった。しかしこの歌のとおりに、彼女はやがて飛び立つことになる。苦しみや寂しさを作品の内に昇華させる日が来る。

 そのためには、まづ、稀代の名振付師デイヴィッド・ウィルソンとの出会いが必要だった。シニアに上がった2006年~2007年シーズンから引退まで、ウィルソンはヨナのほとんど全てのプログラムを手がけることになる。

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 ウィルソンは愉快な男だ。写真のとおりの、表情豊かなこのご機嫌ナイスガイが、おそらくヨナに最も影響を与え、その芸術的才能を開花させた人物だ。

 2006年5月、15歳のヨナは新シーズンのプログラム作りのため、カナダのトロントにウィルソンを訪ねた。

 ウィルソンは前シーズンに振り付けを担当してゐたジェフリー・バトルから、ヨナについてこんな風に聞かされてゐた。

「彼女はとても才能があるけれど、幸福なスケーターとは言えないよ」

Choreographer Wilson regrets 'transformative' Kim's early retirement | The Japan Times

 当時のヨナは内気でおとなしく、笑わず、練習中も泣いてばかりゐた。ウィルソンは反対に、陽気で楽しいジェントルマンだ。

「はじめの三ヶ月、最も注力したのは彼女を笑顔にすることだったよ。毎日、どうしたら彼女を笑顔にできるか、いや、笑わせられるかって考えてゐたんだ」

 やがてウィルソンの努力は実を結び、ヨナは変はりはじめる。自伝にはかうある。

 ウィルソンのたゆまぬ努力のおかげで、わたしは少しずつ、心を開くことができるようになり、彼に会うと自然と笑顔がこぼれるようになった。彼と一緒にゐてわたしの内向的な性格がゆっくりと変わり始めたのだ。彼は一度としてわたしに大げさな表現を求めたり、あるいは内気な性格を克服するようせまったりしなかった。ただ、静かにわたしの練習を支えてくれた。

 いつのまにか、わたしはごまかさず、自信を持って表現ができるようになった。わたしの心の深いところにある、恥ずかしくて表現できないものを、動きと表情に変える仕方を教えてくれたのは、たしかにデイヴィッド・ウィルソンだ。

 練習がうまくいかなかったり、傷ついたりすると、きっとウィルソンが微笑みながら現れた。彼に会うとわたしは安心した。ウィルソンはこんなことを言ったことがある。「毎日完璧ってわけにはいかないよ。ヨナ、うまくできるって自分でわかってるはずだよ。そこに自信を持ってゐればそれでいいのさ」

                         ヨナ、前掲書

 自伝の中でウィルソンに言及してゐる部分が一番いきいきしてゐる。ヨナが彼のことをどれだけ好きかがよくわかる。

  ではウィルソンは彼女の才能をどう評価してゐたのか、上のインタビューから拾ってみよう。

 「ヨナは生まれながらの表現者なんだ。カメレオンみたいだよ。ぼくは素晴らしいスケーター達と長いこと仕事をしてきたけれど、その学ぶことの速さときたらまずトップだね。こちらが見せたものを即座に真似できてしまうんだ」

「彼女は普通の人とは別の次元で音楽を聞いてゐるようだよ。音楽から離れることがない、決してね。彼女の本能みたいなものなのかな。」

 ヨナとウィルソンが初めてタッグを組んだ記念碑的作品が、美しい、「揚げひばり(The Lark Ascending)」だ。

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 まだ身体ができあがってゐない。筋力も十分ではないし、脂肪が少なく女性的な肉体の美に乏しい。体力もまだまだで後半疲れてゐるのがよくわかる。明らかに腰を痛めてゐて、足が高くあがらず特に腰の反りが甘い。

 ヨナも自伝に「この曲を聞くと、当時の身体の痛みを思いだす」と書いてゐる。「一番辛かった頃のプログラムで、まっさきに思い浮かぶのが全身傷だらけだった記憶だ」と。

 彼女はまだ、この音楽が表現する雲雀の軽やかな飛翔を自分のものにできてゐない。しかし、確かに、きっと飛翔するであろう、大空を自由に飛ぶだろうという「予兆」を感じ取ることができる。

 ウィルソンの言うとおり、ヨナは一瞬たりとも音楽から離れない。加速のための一歩にも、毎度お決まりの冒頭のジャンプにもしっかりと音楽が宿ってゐる。

 腕を上から下に、或いは下から上に移動させる、その時の動線のやわらかさ、肩肘手首がいかに一体的に動き、いかに優しく空間に触れてゐるかに注意しよう。こういうのを「ギフト」というのだらう。とても美しい。

 5分22秒頃、また、5分40秒頃を見てほしい。ヨナが両手を胸の前で合わせて、ゆっくりと前方に押し広げる振りがある。ぼくの感覚では、ヨナが最も美しく見え、そして最も豊かな情感が宿るのがこの動作をするときだ。

 この振りに何を感じるかと言ったら、やはり「祈り」だと思う。祈りの姿は清らかで美しく、言うまでもなく聖性に道を通じた営みだ。

 このモチーフは後に紹介するプログラムに繰返し、何度もでてくるから、是非覚えておいてほしい。

 さて。

 ヨナはウィルソンに会いに行ったトロントで、もう一人重要な人物と出会う。やがて「金メダル請負人」と呼ばれことになるブライアン・オーサーだ。

 オーサーは84年(サラエボ)と88年(カルガリー)の2度オリンピックに出場しともに銀メダルを獲得、87年の世界選手権では金メダルに輝いた世界チャンピョンで、引退後はアイスショーを中心に活躍してゐた。

 2006年春、オーサーは友人トレイシー・ウィルソン(カルガリーオリンピック、アイスダンスの銅メダリスト)の誘いを受けてトロントクリケット・クラブでヘッドコーチになることに決めた。彼はスケーティング・スピン・振り付け等それぞれの分野のプロフェッショナルを呼び集め「チーム・ブライアン」の結成にとりかかった。

 しかし、コーチ業に専念というのではなく、プロスケーターとしてショウへの出演は続けてをり、彼自身、コーチとしてのスタイルを模索してゐる時期だった。

 そこへ、ヨナがやってきた。

 当時のオーサーにとっては、名前を聞いたことも、顔を見たこともない小さなアジア人の15歳の少女だった。

 ところが、ちょっと滑ってもらったとたん、私は腰を抜かしました。生まれ持っての才能、天賦の才というのはこれを言うんだなと思いました。しかし、彼女は不幸そうに見えました。笑顔がなく、とても辛そうにスケートをしていました。

   ブライアン・オーサー『チーム・ブライアン』講談社、2014年

  ヨナはオーサーの指導が気に入った。

 指導を受けてみて、彼と練習するのはとても心地がいいなと思った。彼は自分の優れた技術を相手に押し付けることはしなかった。ただ、わたしが失敗したときにそれを修正してくれた。また、彼は口数が多いばかりで生徒を混乱させ集中力を殺ぐタイプではない。

 わたしは彼の落ち着いた性格がとても好きだ。わたしの力を信頼してくれてゐて、次の進歩に必要な要素を見つけだしてくれる。

                        ヨナ、前掲書

 夏の間オーサーの指導を受けた彼女は、母にこう言った。

「オーサーと一緒にトレーニングできたらいいと思う。お母さんはどう?」

 母は同意した。そしてオーサーに、プロスケーターを引退しコーチとして専任で教えてくれるよう依頼した。最初は断ったオーサーだったが、ヨナ側のたっての願いに、とうとう承諾することに決めた。

 オーサーは2007年4月の公演を最後にショーから引退しコーチ業に専念することになる。

 「腰を抜かすほどの才能」が「未来の名コーチ」をその気にさせたのだ。ヨナはスケーターとして、オーサーはコーチとしてそれぞれがダイヤの原石だった。ここからバンクーバーで金メダルを獲得するまで、才能と才能が互いを触発しながら高めあってゆくという幸福な関係が続く。オーサーは自らのコーチングスタイルを確立し、ヨナはそれを吸収し、才能を開花させる。

 しかし私はいまだに不思議なのです。コーチとしての実績がまるでない私に人生を託すとヨナは決めたのですから。私たちは彼女たちに誠実に接し、彼女たちは私たちを信頼しました。そして彼女たちはチャンスをつかみ、私の人生を変えました。

                       オーサー、前掲書

 先に2006年~2007年シーズンのFSプログラム「揚げひばり」を見たが、ここで、SPを見てみよう。2001年の映画「ムーラン・ルージュ」から「ロクサーヌのタンゴ(El Tango de Roxanne)」。振り付けはトム・ディクソン。

 ちなみにヨナは前シーズンも同じ曲で滑ってゐる。「この曲をやることで、初めて表現力の重要性に気がついた」と自伝にある。

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 「揚げひばり」とは対照的な、情熱的な音楽だ。彼女のリズム感がいかに優れてゐるかが見てとれる。シニアデビューした初めてのシーズンだが、ここでもう彼女のトレードマークである冒頭の三回転×三回転ジャンプが完成されてゐるのがわかる。

 助走時のスピード感、無理のない踏み切り、空中時の安定した軸、着氷の美しさ、それらを総合して見たときの「大柄さ」。

 「大柄」とはのびのびとしてゐる様子であって、窮屈さがないこと、「セーノ、エイ!」的な必死さがないこと、余裕があること、要するに見てゐて気持ちよく、大らかなな気持ちになるということだ。

 余裕があるから、踏み切りも着氷も音楽から乖離することなく、「表現」になってゐる。

 二年続けてこの曲で滑ったことでヨナは「どうしたら観客、審判との一体感を作り出すことができるか」がわかったと書いてゐる。

 素晴らしいプログラムだが、16歳の少女にタンゴが要求する官能を表現することはできない。 しかし、幸いなことに、ヨナは2012年のアイスショーにおいて、更に洗練された技術と成熟した肉体をもってこの傑作プログラムを再演してゐる。それは後に紹介するので、是非、少女ヨナのタンゴを覚えておいてほしい。

  続いて2006年~2007年シーズンのエキシビション、1998年の映画「ムーラン」の主題歌、クリスティーナ・アギレラのボーカルが素晴らしい「Reflection」。

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 傑作だ。ヨナにはバラードがよく似合ふ。

 ぼくの感覚では、SP・FS・EXの全てが傑作であるシーズンはシニアにあがった2006年~2007年、バンクーバー五輪の2009~2010年、ソチ五輪の2013~2014年の3シーズンある。こうした節目の年に自分に相応しい傑作を揃えてくるあたりがヨナの凄いところであり「もってる」ところだ。 

Look at me

You may think you see

Who I really am

But you'll never know me

Every day

It's as if I play a part

わたしを見て

あなたはこれが本当のわたしだと

思うかもしれないけれど

それは違う

わたしは毎日

役割を演じているだけ

Now I see

If I wear a mask

I can fool the world

But I cannot fool my heart

気づいたの

仮面をつければ

世界を欺くことはできる

けれど 自分は欺けない

Who is that girl I see

Staring straight back at me?

When will my reflection show

Who I am inside?

わたしをまっすぐ見つめ返す

この少女は誰?

本当のわたしに

いつ出会えるの?

「揚げひばり」の項で紹介した「両手を胸の前で合わせて、ゆっくりと前方に押し広げる振り」またはそれに類する動きが何度も登場したがお気づきになられたであろうか。

 もう一つ、それに近い動きにも言及しておきたい。右手か左手、どちらか片手を頭の後ろ、或いは首の横あたりにもってゆき、体に触れるか触れないかという距離で輪郭にそって這わせながら胸の前におろし、優しく握りしめ、前方の空間に開放する、という動き。これがまた素晴らしい。本当に優雅だ。

 例へば1分4秒、2分18秒あたりに右手で、3分8秒秒あたりに左でこの動きをつくってゐる。これもまた以降のプログラムで何度も出てくるモチーフだ。

 ヨナはこんなシンプルな動作に舞踊の美を宿すことができる人だった。ウィルソンはヨナと組んだ初めてのシーズンで、早くも、彼女が最も美しく輝く所作を発見したのだ。

 ヨナが本格的にオーサーの指導を受けるようになったのは2007年に入ってからのことだ。オーサーによれば、ヨナの唯一の欠点は「練習をしすぎること」だった。

 私が引き受けたとき、ヨナは15歳でした。オリンピックを19歳で迎えるという、まさに成長期です。私から見るとヨナはスケートのしすぎでしたし、彼女がいつもケガを抱えているのは、まちがいなくこのためでした。

                         オーサー、前掲書

 オーサーは「苦しくて辛い練習が多いほうがよい」と考える東アジア的なガンバリズムからヨナを解放し、スケートを滑る喜びを伝えようとした。

 そのためにはとにかく「痛みに耐えることが常態」というこれまでの量を重視した練習から、短時間でも質のよい練習をするというやり方に方向を変える必要があった。

 しかしその際、オーサーは決して自分の考えを押し付けることはしなかった。オーサーはヨナとの間に主従関係を作らなかった。いつもヨナの気持ちを尊重し、話し合い、彼女にあったスタイルをつくっていった。

 小さかった頃の韓国での練習と、ブライアン・オーサーコーチとの練習にはたくさんの違いがある。一番の違いは、コーチが選手に教える、選手がコーチから習う、という関係ではないことだ。わたしたちはいつでも互いの考えをもちよって話しをする。表現したいこと、感じたこと、意見をあわせて、共に道を歩いてゆく。わたしの英語力は少しずつ、そうした話ができるくらいにまで上達してきた。子供のころのやり方はその時の自分には合ってゐたかもしれないけれど、今のわたしにはブライアンのスタイルがいい。彼はわたしの気持ちや状況を理解し、わたしの意見を聞き、わたしと一緒に今後の方針を決める。だから信頼も深くなって、楽しさも増す。こんなあたりがブライアンの素晴らしいところで、わたしの好きなところだ。

                         ヨナ、前掲書

 練習量を減らすというオーサーの方針が、すぐにヨナに理解されたわけではない。

 ヨナは長時間の激しい練習をやめなかった。疲労が蓄積されて筋肉はパンパンになる。十分な休息をとらぬままに、また、滑って転ぶを繰り返す。当然、痛みは消えない。

 そうして向かえた2007年~2008年シーズンはオーサーによれば「ヨナが一年間泣き続けていたことしか印象にないシーズン」だった。腰痛が悪化し、2008年の2月には世界選手権の直前に三週間の休養をとらなくてはならなかった。

 このシーズンのプログラムは、前シーズンが傑作揃いだったのに比べるとずいぶん見劣りする。

 SPの「こうもり(Die Fledermaus)」,FSの「ミス・サイゴン(Miss Saigon)」ともに、正直に言って退屈な作品となってゐる。続けて見てみよう。

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 ヨナはとてもキュートだし、丁寧に振り付け通りに滑ってゐるけれど、作品としてはつまらない。

 一番はやはり音楽だ。SP、FS両方とも、ヨナに合ってゐない以前にスケートに合ってゐないのかも知れない。そう思いたくなるほどに、曲想に統一感がなく、ひどくまとまりを欠き、散漫な印象を受ける。デイヴィッド・ウィルソンの振り付けも精彩を欠いてゐる。それは音楽がいまいちなのだから当然のことではあるけれど。

 以下の言葉から明らかなように、コーチのオーサーもこの二つのプログラムにはさしたる評価を与えてゐない。

 いつも課題になるのは、毎シーズン違うタイプの曲をやってみることでした。オリンピックシーズンに最高のプログラムにたどり着くためには、さまざまな方向をすべて経験する必要があったからです。第一印象で気に入らないと思ったものでも、こんな曲は難しすぎると思ったものでも挑戦の時期が必要です。振り返ってみれば、2007-2008年シーズンのショート「こうもり」のワルツやフリーの「ミス・サイゴン」、2008-2009年シーズンの「シヘェラザード」を経験していたからこそ、何がやりたいのか、何が最適なのかが見えていったのです。

                         オーサー、前掲書

 怪我が完治してゐない状態で、ヨナは世界選手権に出場した。銅メダルを獲得したものの、世界チャンピョンのタイトルが欲しかったヨナにとっては満足のいく結果ではなかった。この時の悔しさがヨナを変へ、次の2008~2009年シーズンにヨナは覚醒する。

 その前に、2007~2008年シーズンのEXプログラム、映画「ウォーク・トゥ・リメンバー」の挿入歌「Only Hope」をどうぞ。

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There's a song that's inside of my soul   

It's the one that I've tried to write over and over again

I'm awake in the infinite cold

But you sing to me over and over and over again

わたしの心の中に歌があるの

何度も繰返し 書きたいと思った歌

果てしない寒さの中に わたしは目を覚ます

でもあなたは 何度もわたしに歌いかけてくる

So I lay my head back down

And I lift my hands

And pray to be only yours

I pray to be only yours

I know now you're my only hope

だからわたしは横たわり

両手をのばして祈るの

あなただけのものになりたいと

あなたはわたしの唯一の希望だから

 前シーズンに続いてEXはバラード。ヨナは本当に内省的な祈りの表現が得意だ。腕の動きのしなやかさは言うにおよばず、スピンや足下の技術に顕著な向上が見てとれる。技術が向上したことによって、自然とそこへ舞踊的な美が、情感が宿ってゐる。

 例えば、1分30秒頃のつま先を左右180度に開いて足下に円弧を描くモーション。これなどは氷上でなければ絶対につくることのできない動線であるが、体重を氷に落とし、すっとスピードをつけて弧を描き、氷から帰ってきたエネルギーを全身に行きわたらせて次の動きにつなげる。そこに緩急とリズムがうまれる。

 この振りもヨナが得意としたもので、後のプログラムで多用されることになる。もちろん、その精度を驚くほど向上させて。
 それから3分15秒あたりのレイバックスピンも素晴らしい 。このあたり、チームブライアンでスピン専門のコーチから受けた指導がはっきりとした成果として出てゐる。本当に、息を呑むほど美しい。

  が、ヨナはこんなものではない。

 ヨナの才能は彼女自身が「自分のスケート人生で最も大事なシーズン」と語る2008~2009年シーズンに爆発する。

 

                                       ヨナの覚醒

 

フィギュアスケートは誰かと戦いではなく、

国同士の戦いでもなければ、選手と選手の戦いでもない。

果てしなく孤独な自分との戦い、ではなおさらない。

わたしの考えるフィギュアスケートとは、

舞台上で、音楽と観客と一つになることで生まれる映画のようなものだ。

その短い時間に、わたしは自分の全てを表現する。

演技を通して、喜びや幸せを観客と共有する美しいスポーツだ。

                        ヨナ、前掲書

 2008~2009年シーズン。ヨナは怪我に悩まされ続けた前シーズンの反省から、ようやくオーサーの言を聞き入れる。練習量を減らし、質を重視した1日に2時間程度の集中した練習に切り替えた。

 結果、成長期である18歳のヨナの身体は大きくなり、体力がつき、痛みが和らいでいった。臀部から背中の筋肉が見違えるほど発達し、女性らしい脂肪がそれを覆った。力強く氷を踏むことができるようになり、スピードが格段にアップし、ジャンプはさらに大柄になった。

 もう一つ、或いはもっと重要なことはチーム・ブライアンの指導を受けはじめてから2年が経過し、コーチ陣達との関係が親密になったことだ。チームとヨナとの間に信頼感が生まれ、オーサーによれば2008年末頃には「何も言わないでも意思が通じる関係」になった。

 かつては泣いてばかりゐたヨナから自然に笑顔がこぼれるはじめた。

 チーム・ブライアンがヨナの心をほぐし、ストレスをやわらげ、自信をつけさせるために行った努力は実に感動的だ。

 才能は努力だけでは開花しない。おそらく何よりも「自信」をつけなくてはならない。自信は一人では獲得できない。周囲の人間の、長期間にわたる、丁寧なサポートが必要だ。

 チーム・ブライアンの全メンバーがヨナの孤独を埋めました。振付師のデイヴィッド・ウィルソンもジェフリー・バトルも、他のスタッフもみんな、ヨナは特別に可愛い生徒なんだと、つねに伝えていました。「あなたの帰る場所があるのよ」と言ってあげることが、厳しい戦いを続けている選手にとって必要なのです。それを私は現役時代に痛いほどわかっていました。どんなことがあっても、結局最後はそこに帰ってくる、という安心感が大事なのです。

 そのためには、みんながヨナのありとあらゆることに気を配りました。ジャンプだけでなく、ヨナの手の振り方、膝の使い方、目線の使い方など、あらゆる細部について、全員が意見を出しました。「私がこのリンクの主役なのだ」と感じることがヨナにとって必要だったのです。

 私たちは4年間かけてヨナの喜びを彼女の外に引き出そうとしましたが、それはタマネギをむくようなものです。真ん中にたどり着くまでに、すべての皮をむかなければならず、結局、3年近くかかったのでした。文化の変化やトレーニングの違いに適応し、ヨナが完全に変化するには、それだけの時間が必要だったのです、でもそれは興味深いプロセスでした。私はそのすべてを楽しみました。私たちは素晴らしい関係を築きました。シーズンを追うごとに彼女はうまくなり、私たちもコーチとしての腕を上げたのです。

                       オーサー、前掲書

 2008~2009年シーズンのSP「死の舞踏(Dance Macabre)」は歴史的傑作だ。

 この曲は振付師のウィルソンがもってきた。ヨナはすぐにこの曲を気に入り、一発でこれに決めたという。オーサーによれば、この曲に出会ったときに、自分達がオリンピックの金メダルに向かって大きな角を曲がったと確信したのだそうだ。

 この作品によって、そして体力、意気ともに最高度に充実した状態で迎えた2009年の世界選手権によって、ヨナは完全にこれまでとは別の次元に飛躍する。こんなことがあるのか、と絶句するほどの、とてつもない飛躍を。

 ヨナは真夜中の墓地、激しく、怪しく、踊り狂う、死神になる。 

 「死の舞踏」

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  古代におけるシャーマンとか、巫女とかいう人たちはひょっとしたらこんな感じだったのではないだろうか。彼女は完全に異界への扉を開く依り代となってゐる。ここでヨナが到達した音楽との一体感、そして憑依力は、まことに空前絶後だ。何度見てもあまりの完成度の高さに衝撃を受ける。

 表現力は感じる力と、イマジネーションと、技術により生まれる。

 第一に感じる力とは、まづ音楽をきちんと理解してゐるかといふこと、リズム・メロディ・ハーモニーを全身で感じとる力。そしてその音楽と自分の身体に合わせて作られた振り付けを内面化する力。

 第二にイマジネーションとは、音楽と振付と身体、衣装、メイク、そして観客、それら全てを一体のものとして具象化するための構想力。自分は今、この瞬間、このように動かねばならない。そこに美が宿り、それが舞踊になるのだ、という確信。

 第三に技術とは、イマジネーションと身体を結びつける触媒であり、才能を表現えと導く道のことである。

 ヨナはこれら全てを十全に兼ね備えた、疑いようのない天才だ。

 フィギュアスケートのプログラムは高い点数を取って勝つために、計算づくで作られる。だから毎度冒頭には三回転×三回転のジャンプを入れて、スパイラルはこれで、スピンはこれで、できたら後半にもジャンプを・・・ごにょごにょごにょ、といったシロウトにはよくわからないモロモロとイロイロがあるらしい。

 ヨナのスケートの凄いところは、そうした点取り競争的背景をまったく感じさせないところだ。

 冒頭のコンビジャンプも、最後のスピンも、いつも同じことをやってゐる。しかしヨナは同じムーブメントを様々な表現にすることができる。それぞれのプログラムに合わせて一つ一つの要素を全体の構想の中にはっきりと位置づけ、また、意味づける。バラバラのまま提出することがない。それはヨナのイマジネーションが強力だからだ。

 音楽が、振付が、身体が、衣装が、メイクが、すべてが強烈に主張しながらも、それらが渾然一体となって一つの世界を作ってゐる。

 「死の舞踏」はおそらく、作品の完成度ということに関しては、これがヨナの最高傑作だろうと思う。何もかも完璧で、どこか取り出してここがすぐれてゐる、などと言うことが野暮に感じる。まったく奇跡的パフォーマンスだ。

 続いてFSの「シェヘラザード」を見てみよう。

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  先に引用したオーサーの言葉にもあった通り、「シェヘラザード」は取り立てて言うところのないプログラムで、「こうもり」「ミス・サイゴン」と同じく、どういった曲がヨナを最も輝かせるのかを知るための試験的な作品としては見る価値があるかもしれないが、実際、その程度のものであり、たいした作品ではない。

 オリンピックシーズンに最高のプログラムを作り出すためには、どうしてもこれらパッとしない作品が必要だった、ということだらう。

 さて、ヨナは2009年の世界選手権で優勝し、悲願であった世界チャンピョンの座を手に入れた。

 オーサーは世界選手権後のヨナについて面白いことを言ってゐる。

 2009年3月の世界選手権で優勝したあと、突然、ヨナが少女から女性に成熟しました。いまでもそのときのことをはっきりと覚えています。世界選手権が終わって、韓国で行われたショーに行ったときのことです。デイヴィッドと私はホテルのロビーで彼女が来るのを待っていました。ヨナはスポンサーについている会社の講演会があったのです。彼女はビジネススーツを着て、髪をおろし、歯列矯正器を外していました。自信にあふれ、堂々と歩いてきた美女を見て、デイヴィッドと私は顔を見合わせて言いました。

「ああ、僕たちの小さな女の子はすっかり大人になってしまったね」

 彼女は完全な自信を手に入れ、世界女王の貫禄を身につけたのです。歯列矯正器を外したとたんに、突然といってもいいほど美しい女性になりました。しかも性格まで変わってしまったのです。とてもくつろいだ、柔らかい笑顔が見られるようになりました。

                       オーサー、前掲書

  世界女王となり完全な自信を手に入れたヨナに死角はなかった。チーム・ブライアンの布陣は磐石であり、相互の信頼も厚い。体の痛みは完全に消えた。

 そして、最高のプログラムを用意して2009~2010シーズンに突入した。

 ヨナが落ち着いて、普段通りのパフォーマンスをすれば必ず金メダルがとれる。オーサーはそのために綿密なスケジュールを組んだ。

 いつ、どの程度の力を入れてどの競技会に出るのか。どこで休息をとるのか、何日前に会場に入り、どのような準備をしたらいいのか。2月のオリピック本番に最高のコンディションに持っていくために、チーム・ブライアンとヨナは完璧な準備をした。

 バンクーバーにいる間中、彼女はとてもリラックスしていました。私はずっと彼女を見ていましたが、気になる部分はなく、問題が起こる気配はりませんでした。彼女は「そんなに緊張もしなかった」と後になって言いさえしました。彼女はとても落ち着いていた。

                       オーサー、前掲書

 最高のプログラム、最高のスケジュール、最高の人間関係に囲まれて、ヨナは、最高のコンディションで本番を迎えた。ヨナには自分が完璧な演技をする、その様がはっきりと見えてゐたに違いない。ありありと見える明確なビジョンを、自分は現実化できる。不安要素はない。失敗するわけがない。

 果たして、ヨナは本番でSP・FSともに完璧な演技をし、ともに世界最高得点を更新して金メダルを獲得する。

 SPは「007ジェームズ・ボンド・メドレー」。

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 ヨナが滑った全プログラムのなかで一番楽しく、痛快な作品だ。女性として成熟したヨナが持ち始めた色気、怪しさ、大胆さ、ずる賢さ、小憎らしい感じ、ひっくるめて小悪魔的な魅力が存分に発揮されてゐる。ウィルソンの振付が憎らしいほど素晴らしい。2分10秒頃の足下から銃を取り出す振りなど、本当に秀逸だ。

 いつものことだがヨナのリズム感、緩急のつけかたには唸らされる。例へば、2分24秒頃、曲調が変わってスパイラルに入る瞬間、それから3分8秒頃にステップシークエンスに入る瞬間。ここしかない、というタイミングで足をあげ、テンションを変えてゐる。こういうタイミングの取り方が出来るかどうかで観客との一体感が決まってくる。

 つまり世界感がどこかで中断することがないから、観客はずっとヨナの表現に没入してゐることができ、一瞬も「醒めた」状態にさせない。

 ちなみに、自伝によれば、ヨナはウィルソンから007の映画のDVDをプレゼントされて見たのだが、字幕がなくて筋がわからず、雰囲気を知ることはできたが、あまり面白くなかった、とのことである。

 続いて、FSはガーシュウィンの「ピアノ協奏曲(Concert in F)」。

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 「キム・ヨナと言えばこれ」というプログラムで、おそらく多くの人の記憶に一番強く残ってゐるのがこれだらう。テレビでヨナがとりあげられるときにちょっと流れるVTRなどもたいがいこのオリンピックパフォーマンスだ。それほど鮮烈で完璧で、あるスポーツライターは「わたし達の世代のコマネチ体験だった」などと書いてゐる。

The Sad, Perfect End of Kim Yuna's Figure-Skating Reign - The Atlantic

 ヨナも自伝のなかで「これまでで一番すぐれたプログラムだと思う」と書いてゐる。確かにこれは他の作品とは違ってゐる。たいへん不思議な異色のプログラムだ。

 何がこのプログラムを他とは違う傑出したものにしてゐるのか。その特殊さはどこからくるのか。

 それはおそらく、この作品が、他の全作品がもってゐるあるものをもたないないことによる。あるものとは「物語」「情念」「キャラクター」、即ち「テーマ」だ。

 SP・FSを問わず、他の作品は、はっきりとしたわかりやすいテーマを持ってゐる。オペラや映画の曲であれば当然その物語とキャラクターをなぞることになるし、物語がなくても、求愛であったり、祈りであったり、空翔るヒバリであったり、必ず何かを演じたり、情念を表現をするというテーマがある。

  そしてヨナは憑依の名人であるから、キャラクターになりきったり、情念に共鳴するのを得意とする。

 ところがこの「ピアノ協奏曲」にはそれがない。キラキラした感じ、豪快な感じ、しっとりした感じ、チャーミングな感じ。等々、あるのは、ピアノとオーケストラがポコポコポコと提出する断片的なモチーフの数々。ヨナは何も演じてゐない、いかなる情念も代弁してはゐない。

 だからこのプログラムを見ると一種不思議な感じに囚はれる。一瞬、どんな風に見たらいいのかな、と戸惑うのだ。ひょっとするとコンテンポラリー・ダンスを見る感覚に近いかもしれない。

 このプログラムほど「生のヨナ」が全面に出てゐるものはない。10代最後、とびっきりの女の子が放つ輝き、何にも奉仕しない完全に無意味なエネルギーの放出がこのプログラムの魅力だ。

 このオリピックでの演技において、ヨナの身体には自身の才能、チーム・ブライアンの情熱、そして韓国国民の夢が宿ってゐる。

 ヨナはそれらを完全に受け止めて、この4分間に一気に昇華させた。神々しく凄烈な光を放ち、しかも最高にエレガントだ。

 あまりに偉大な達成に、溜息をつくほかない。

 EXプログラムは「タイスの瞑想曲」。敬虔な祈りに満ちた傑作だ。

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 まさに息を吞む美しさだ。特に二番目に貼り付けたショーのパフォーナンスなど、その静謐さに言葉を失ふ。

 「007」、「ガーシュウィン」、「タイスの瞑想曲」。素晴らしい三作品を残したシーズンだった。

 

 そして2010年春。ヨナは悩んでゐた。

 四大大会(グランプリファイナル・四大陸選手権・世界選手権・オリンピック)で全て優勝し、SPの最高得点もFSの最高得点も自分が持ってゐる。

 ヨナは目標を失った。辛い練習に耐えられたのは明確な目標を持ってゐたからだった。

 彼女は今後の進路を考えながら、のんびりと練習してゐた。

 引退も考えた。けれどまだ19歳、引退するには早過ぎる。もう少し負担の少ないような形で選手を続けてみよう。

 5月末、ヨナは会見を開いて現役続行を宣言した。

 「これからは負担なく競技を楽しむのが目標になりそうだ。シェヘラザードから007まで多くの演技をしてきたが、まだ見せられなかったものが多い。今後もさまざまなキャラクターを演じたい」

 そして8月、トロントで次のシーズンのための準備を始めてゐたヨナは、謎めいた決断を下す。

 ブライアン・オーサーとの決別である。

 

              珠玉

 

 ヨナと一緒にいた3年半で、私は彼女に何を与えることができたのか。彼女がこう答えてくれたら嬉しいですね。「スケートを滑る喜びを、ブライアンが発見させてくれた」と。金メダルなどよりも、そのほうがずっと大切な宝物になります。もし彼女がそう感じられたなら、私もデイヴィッドもトレーシーも、彼女の人生を豊かにしたことになります。光栄なことです。彼女がどう答えるかわかりませんが、でも私はヨナにスケートを滑る喜びを贈ったのだと信じています。

                       オーサー、前掲書

 ヨナとオーサーとの決別は2010年の夏、さかんにメディアを賑わした。とても唐突で、不可解で、その経緯は素直に言って、見てゐて気分のいいものではなかった。

 オーサーによれば、8月2日、ヨナの母から「これ以上ヨナを教えないで欲しい」と言はれ、契約解雇通知を受けた。理由を聞いたが教えてくれなかったとのことだ。

 一方、ヨナのマネージメント会社によれば、「オーサーが浅田真央サイドからコーチの依頼を受け、思案中」という報道があった5月頃から関係が不穏になりはじめ、ヨナは一人で練習してきた。ウィルソンと新プログラムの準備を進めてゐたが、8月23日にオーサーから、これ以上ヨナのコーチはできないという通告を受けた。

 二人は同じトロントクリケット・クラブにゐながら直接話をすることなく、メディアを通じてそれぞれの主張を繰り返した。 

 ヨナは自身のホームページに「その経過を公開したくもないし、公開する必要もない。あくまでも我々だけの問題だ」と書いた。

 本当のことはわからない。

 憶測を述べることはできるが、それは「キム・ヨナの芸術」の趣旨から逸れることになるから何も書かない。

 とにかく、ヨナとオーサーは決別し、振付師ウィルソンとの関係は継続することになった。もし二人が決別することなく、ヨナ&オーサーのコンビがソチ五輪まで続いてゐたら彼女のスケートはどのようなものになっただらうか。ぼくにはまったく想像ができない。なぜなら決別後、引退までに発表する彼女のプログラム、彼女の成熟した表現があまりに素晴らしく、これ以上の達成がまったくイメージできないからだ。

 オーサーと決別した後のヨナの成熟を思うと、遅かれ早かれ、いづれ別れはきたのだろうと感じる。方向性を共有することが、どこかの時点でできなくなったのではないだろうか。

 冒頭に「バンクーバー金メダリストとして記憶されることを願いますか」という記者からの質問を紹介した。ヨナはそれに「否」と答えたが、やはり、そこはメディアの宿命、フレーズとしては「バンクーバーで金をとったキム・ヨナ」と紹介されることが多いし、その時の映像や写真が出るということになってゐる。

 それは仕方のないことだが、ぼくの考えでは、ヨナが本当に凄いのはバンクーバー以後である。少なくとも「キム・ヨナの芸術」の観点から言えば、断然バンクーバー以後である。

 ぼくはほとんどこの一事を言いたいがためにこの長い文章を書いてゐる。

 フィギュアスケートはスポーツと芸術が融合したものであり、二つの側面を持ってゐる。と先に述べた。

 融合してゐるから、なかなか截然と分かつことのできないものではあるが、ここで便宜的に「スポーツ的な発想」と「芸術的な発想」があると仮定しよう。

 スポーツ的な発想とは数値化可能な目標を重視する。大会を連覇すること、メダルを一つでも多くとること、一点でも高い点数をとること、ジャンプの回転数をあげ、回数を増やすこと・・・等である。

 芸術的な発想は動きの質、表現の豊かさを重視する。それはここまでに繰返し述べてきたことだ。肉体があることそのものの喜び、聖性、美、人間の理想や可能性、音楽との一体感。点数は重要ではない、ジャンプの回転数も重要ではない。三回転ジャンプより四回転ジャンプが偉い、とは考えない。スピンは速いほうがよい、とは考えない。

 ヨナはバンクーバー五輪で金をとるまでは両方をバランスよく持ってゐた。どうしても優勝したいと思ってゐた。金メダルが欲しいと思ってゐた。当然のことだ。競技会に出るのだから。

 もしヨナがスポーツ的発想の強い人、あるいはほとんどスポーツ的発想しかない人であれば、バンクーバー後の目標は「オリンピック連覇」であったろう(あるいはあっさり引退か)。しかしヨナにとってそれはモチベーションにならなかった。

 ヨナはスポーツ的発想の分かりやすさが誘発する人々の期待に辟易してゐた。大会に出るたびに世界記録を期待され、ライバルと同じ大会に出ると、メディアは勝った負けたを大騒ぎしてナショナリズムの捌け口にされる。

 ヨナはそれが嫌だった。

 ヨナは芸術的発想の大きい人だからだ。

 かと言って、引退してアイスショーに専念しようとは思わなかった。韓国国民がヨナの引退を望んでゐなかったのも一つの理由だらう。

 同時に、ヨナはスケート後進国である祖国にスケート文化を根付かせたいと思ってゐた。自分の子供のころのような劣悪な環境を次世代には経験させたくないと願ってゐた。そのために、象徴的存在であるヨナは現役を続ける必要があった。

 しかし先に紹介した「これからは負担なく競技を楽しむのが目標になりそうだ」という言葉から分かるようにメダル獲得のための「辛い練習」はもう嫌だった。

 ソチオリピックまで現役は続ける、しかし連覇が目標ではない。金メダルは目標ではない。

 競技会には出るがどうしても優勝したいというわけではない。これは矛盾だ。どうもしっくりこない。「負担なく競技を楽しむ」といふ微温的な目標を掲げたことによって、ヨナは最後までモチベーションの維持に苦しむことになった。

 結果、「絶対勝ちたい」という闘争心が失せたところに、これまで以上の芸術性が湧き出てくることになった。

 即ち、競技会という舞台、スポーツという枠組みにおいて芸術性を極限まで高めることに成功する。

 これは「図らずも」であったとぼくは思う。

 彼女はおそらく、ぼくがここに書いてゐるようにスポーツと芸術を分離させて考えてはゐなかった。「記録はもういいから、これからは芸術面に専念するぞ」などと割り切ってはゐなかった。

 高得点が出たら嬉しいし、金メダルがとれたらいいけれど、かつてのような闘志はない、バンクーバーの時は「死んでもいい」と思えるほどの狂気に近い情熱があった。けれどそんな状態には戻れない。ではどんな心の持ちようで競技に望んだらいいのか。

 ヨナは最後までそれを掴めなかったように思う。

 後にブライアン・オーサーが「ソチでのヨナは義務感で滑ってゐるのが明らかだった」と語ってゐるが、これはあながち間違いではないと思う。

 しかしだからこそ、ヨナは勝った負けたに囚われた「アスリート」には表現できないであろう作品群をフィギュアスケートに残すことができたのではないだらうか。

 これは素晴らしい貢献だとぼくは思う。

 闘志をなくしたヨナの表情はまったく別物になる。選ぶ曲も、表現の質もまったく別物になる。

 その珠玉の作品群を以下で見ていく。

 

 2010年10月、オーサーの後継コーチはミシェル・クワンの義兄、カルガリーオリンピックの銅メダリスト、ピーター・オペガードに決定した。

 FSはアリランをはじめとする韓国の伝統音楽を編曲した「オマージュ・トゥ・コリア(Homage To Korea)」。ファンと祖国に対する感謝の気持ちを込めた作品だ。

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  このシーズン、出場した競技会は世界フィギュア選手権のみであり、引退するまでグランプリシリーズには出なくなる。大会に出るのは最小限に抑えて、オフシーズンにアイスショーに出演するというスタイルを引退まで貫く。

 この「オマージュ・トゥ・コリア」はその挨拶状だ。どう考えても試合で勝つためのプログラムではない。

 この曲はスケートに合ってゐないし、振りを付けるのはかなり苦労しただらうと推測する。朝鮮の民族音楽にバレエ系統の動きを合わせるという試みは見事に失敗に終わってゐる。ヨナも作品をまとめるのに苦労してゐるように見える。優れたプログラムとは言えない。

 が、「勝つ」ことだけを基準にしてプログラムを選ぶのはやめましたという宣言として、そして、ここで分かりやすい形で祖国への感謝を示すことにより、ナショナリズムを呪鎮し、そこから距離をとる試みとして、たいへん意義深いプログラムだと思う。

 FSは「ジゼル(Giselle)」。

 病弱な村娘ジゼルは村人になりすましたアルブレヒト伯爵に恋をする。彼が婚約者のゐる貴族の息子だと知ったとき、ジゼルは正気を失いアルブレヒトの剣で自死する。

 アルブレヒトの前にウィリ(幽霊)となったジゼルが現れ、死に誘う踊りを踊る。ウィリたちは通りがかった男達を死ぬまで躍らせるのだ。

 しかしアルブレヒトを愛してゐたジゼルは彼を励まし守ろうとする・・・

 やがて夜明けを告げる鐘が鳴り、ウィリたちの魔力は消えアルブレヒトは助かるのだった。

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 ヨナのジゼルは心臓が弱そうにはまったく見えないが、気のふれた狂乱演技は凄い迫力だ。アルブレヒトは真っ青だらう。

 彼女の憑依力が遺憾なく発揮された傑作だ。

 EXプログラムはラ・ルー(La Roux)の「Bulletproof」。

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 民族音楽、バレエの古典、の次はエレクトロポップ。

 その表現の幅の広さは驚くばかりだ。この「Bulletproof」でヨナはアニメーションダンス、ロボットダンス系の振りに挑戦してゐる。器用なもので、こんなものちょちょいのちょいヨってな感じだらう。

 ヨナの感受性がいかにどんな音楽にも対応できるか、そしていかに体の使いかたがうまいかがよくわかるプログラムだ。

 次の2011~2012年シーズン、ヨナは競技会には出場せず完全な休息にあてた。この時点ではまだ選手生活を続けるかどうか悩んでゐた。

 その中で、とても素敵なEXプログラムを一つ発表してゐる。

 ビヨンセの「Fever」。

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 10代から色気のある人だったが、大人になり、競技のストレスから解放されたヨナはどんどん艶っぽさを増していく。臀部の肉付きが素晴らしく、匂いたつような女体の美を表現してゐる。

  ウィルソンの振付けが実にエロティックだ。

 2012年7月、ヨナは記者会見を開き「有終の美のために新たに挑戦をする」と述べ、2014年のソチオリンピックまでの現役続行を発表する。

 10月には新コーチとしてシン・ヘスクと、リュ・ジョンヒョンの二人が発表された。ともに小学生時代のヨナを指導してゐた人だ。

 2012~2013年シーズンは嬉しいことにEXプログラムを3曲も見せてくれた。

 まづ、シニアデビューした2006~2007年シーズンのSPで使用した「ロクサーヌのタンゴ(El Tango de Roxanne)」。少女ヨナのタンゴを思いだしてほしい。あの頃はまだ体もできてをらず、腰も悪く、まだ官能表現ができてゐなかった。

 あれから6年たち22歳になったヨナは円熟の表現を見せる。

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 眼福である。 

 続いてマイケル・ブーブレの「All of me」。粋なジャズナンバーに合わせて、ヨナは男装の麗人を演じる。ぼくはこの作品から感じられるヨナの「含羞」が大好きだ。素敵すぎる。

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  当たり前のことを今更言うが、スケートは氷の上を滑るわけだから、氷の上でしかできない表現が魅力なわけだ。つまり地上では出せないスピードを出せたり、くるくる回り続けたりできるという特性を生かして表現する。

 さて、そこでだ。滑るというのは、スーと流れていくわけだから、当然滑らかさであったりしなやかさの表現に向いてゐると言える。滑るから、突然加速したり突然止まることには向いてゐない。

 何が言いたいのかというと、スケートではリズム表現が難しいということだ。だって「滑る」のだから。

 したがってスケーティングの巧さはリズムがどれだけ表現されてゐるかに如実に現れる。

 「All of me」はジャズである。「ザンガ、ザンガ、ザンガ、ザンガ」と三連符の跳ねたリズムの曲だ。このザンガザンガでルーズな感じ、瀟洒な感じを出してゐる。お洒落で知的で、ちょっとドレスアップしてワインでも飲みますかという感じ。

 ヨナはこの感じを実に見事に表現してゐる。

 例へば1分20秒からのスピン、立ち上がって速度をあげて、今度は段階をふんで速度を落とすところ。この速度の落とし方など天下一品であって、その変化の付け方によってジャズの洒脱さをはっきりと形にしてゐる。

 それから1分47秒からのステップ。ステップと言っても氷から足をあげず、氷上に円を描きつつ、回転しながら進んでいく。その弧を描く際の緩急と重心の転換によりザンガザンガを表現してゐる。

 どちらももの凄く繊細な身体コントロールが必要なはずだが、ヨナはそれをいかにも軽やかにやってゐる。エレガントだ。

 もう一点指摘しておくと、このプログラムにはジャンプが一度も出てこない。ジャンプがフィギュアの華のように言われることが多いが、ジャンプがなくてもこれだけ素晴らしい作品ができあがる。ジャンプ偏重はフィギュアの発展を偏頗なものにする。

 「All of me」は大変な傑作だと思う。

 と、書いたところで、実は次に紹介する作品がぼくの考へるヨナのEX最高傑作だったりする。

 アデルの名曲「Someone Like You」。

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  ここまで繰返し「体の使い方がうまい」という表現をしてきたが、この作品はその極致とも言うべきもので、その超絶的なうまさによって現出する美の世界に恍惚となるばかりだ。

 ここでヨナは完全に氷と一体化することに成功してゐる。自身の手や足の延長のように「氷を感じてゐる」のがはっきりわかる。ここまで身体の拡張に成功してゐる作品は他にない。

 「身体の拡張」という言葉がわかりにくいかもしれないが、そんなに難しい話ではない。例えば、料理人にとっての包丁、野球選手にとってのバットはあきらかに身体の拡張である。

 水泳選手にとっては水が、武術家にとっては相手の身体が、ダンサーにとっては大地がそれにあたる。

 そして、言うまでもなくスケーターにとっては氷だ。

 「Someone Like You」は全篇にわたって、氷と身体が一つになることで生まれるエネルギーの受け渡し、ヨナと氷との交感が視覚化されてゐる。

 身体には重さがある。重さとはエネルギーである。ヨナはそれを氷に伝える。ここに一つ動きが生じる。今度は氷からエネルギーが返ってくる。ヨナはそれを足の裏から膝、股関節、背中、を通し頭、腕、指先にまで伝達する。その入力・出力の微細な変化によってヨナの動きが変化する。

 どこを取り出したらいいのか困るが、例えば35秒~45秒にかけてのシークエンス、それから1分31秒~1分50秒にかけてのシークエンスなどは特にわかりやすい。

 ある動きが次の動きを生み、その動きがまた次の動きを呼び込む。恐ろしく高度で精妙な動きが自律的に生成してゐる。

 もはやここではヨナが主体的に自分の体を動かしてゐるやうには見えない。そうではなくて、こういう動きをするエネルギー体がたまたまヨナの身体という形をとってゐるという感じを与える。まことに天衣無縫だ。

 さて。

 2012~2013年シーズンのSPとFSプログラムをまだ紹介してゐない。FSの「レ・ミゼラブル」は次の「哀しみの芸術」で取り上げるので、ここではSPの「吸血鬼の接吻(KIss Of The Vampire)」を。

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 これは明らかな駄作であり、10代の「こうもり」「ミス・サイゴン」「シェヘラザード」と同じく残念ながら退屈な作品だ。言うべきことは何もない。

 続いてこれは2014年、ソチオリンピック後の最後のアイスショーで発表した作品だが、これも「珠玉」の中で紹介しておきたい。

 プッチーニのオペラ、トゥーランドットから「誰も寝てはならぬ(Nessun Dorma)」。

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 もの凄い。圧倒的なオーラだ。

「女王ヨナ」という呼称がかなり一般的だが、本当にこの人は「女王」としか言いようのない存在感を持ってゐる(ケイト・ブランシェット的な)。

 バンクーバーで引退しないでくれて本当によかった。これほど見事な作品を残してくれて、これほど豊穣な世界を見せてくれて、ただただ感謝あるのみだ。

 女子フィギィアの全盛期が低年齢化してゐるのはよくない傾向だ。ジャンプが跳べるから軽い方が有利であるとか、選手としてのピークが10代後半であるとかいう状態は、スポーツとしてちょっといびつではないだらうか。

 バンクーバー以降のヨナが見せたように、大人にならなければ表現できない境地というものが当然ある。もう少し芸術性に重点を置いた採点方法に変わってくれればいいのだけれど。

 

 まだ紹介してゐない作品が4つ残ってゐる。

 2012~2013年シーズンのFS「レ・ミゼラブル」。

 2013~2014年シーズンのSP「哀しみのクラウン(Send in th Clowns)」、FS「アディオス・ノニーノ(Adios Nonino)」、EX「イマジン(Imagine)」だ。

 ぼくは次に最後の「Imagine」を除いた三作品をとりあげ、それらが「キム・ヨナの芸術」の粋であり最大の達成であることを述べたいと思う。

 

 

             哀しみの芸術

 

「点数や結果に関心が偏る雰囲気が続いていて、私の涙の理由もその方に解釈されているようですけど、100パーセント正直言って、私の涙に悔しさとか心の痛みとかいうことは全くありません。信じて下さってかまいません」

          ソチオリンピック競技終了後の涙の理由を問はれて

             http://japan.hani.co.kr/arti/politics/16803.html

 バンクーバー以後の珠玉の作品の中でも、ここから紹介する三作品は突出した傑作であり、また共通の主題を扱ったものであるため別枠を設けて見ていきたい。

 共通の主題とは見出しの通り「哀しみ」である。哀しみに打ちひしがれた人間の姿、人がいかに哀しみと付き合うのか、をヨナは引退直前の2シーズン・3作品かけて追求した。

 まづ、2012~2013年シーズンのFS「レ・ミゼラブル」。

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 「レ・ミゼラブル」は、ぼくにとっては「ああ無情」の題が馴染み深い。最近あまり使われなくなった気がするが、なかなかいい邦題だと思う。原題は「悲惨な人々」「哀れな人々」を意味するそうだ。この文豪ユーゴーの大長編は題名の通り、悲惨な運命に翻弄される哀れな人々の物語だ。

 けれどただ悲惨で哀れなだけではない。ユーゴーは、悲惨で哀れな生を生きる彼等が、高貴な精神を失うまいとする健気な姿を英雄的に描いた。

 そして、ヨナの「レ・ミゼラブル」は人間の英雄性と気高い精神を完璧に表現してゐる。荘厳である。

 われわれはフランス革命の時代を生きてはゐないが、人生の苦しさについては誰でも知ってゐる。

 われわれは弱く、脆く、貧しく、孤独であり、人生の大半は負け戦を強いられ、幸福は長続きせず、苦労はさかんに降ってくる。油断してゐるとすぐに卑屈になって、幸福に見える人間を妬んでは彼等をひきずり下ろすことに熱中しはじめる。

 平凡人はそんなものだ。

 しかしどんな平凡人の中にも「それぢゃ嫌だ」という気もちがあるだろう。「善く生きたい」「もっと自分を好きになりたい」という気持ちがあるだろう。

 苦しみの中にあってそういう気持ちを持ち続けることができるかどうかに人間の品位が現れる。気高い精神を守るための戦いに、勇気を出して挑まなくてはならない。それは美しく英雄的な営みだ。

 「気高い精神」「勇気」などと書くと、すぐにポエム化してしまうのが冷笑の時代である現代の哀しさだが、はっきり言って、そうした美徳が失われたら、あるいはそれらが美徳であるという認識、何としてでも守らなくてはいけない態度であるという認識が失われたら世界は闇だ。

 ホントに。

 続いて引退を決めて望んだ2013年~2014年シーズンのSP「Send in th Clowns」。

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 天上的な美しさだ。

 4年前「ボンド・ガール」で最高のエンタテインメントを披露し観客を熱狂させた彼女は、最後のオリンピックにこのしっとりと美しいバラードを選び、静謐で聖性に満ちた宗教的作品に仕上げてきた。

 「レ・ミゼラブル」では哀しみに打ち勝つ英雄的な人間を描いたが、ヨナはこの「Send in th Clowns 」では哀しみに対して全く別のアプローチをしてゐる。

 哀しみに寄り添い、哀しみと共に生き、そしてその生を愛おしむ。そんな人間のありかたを表現してゐる。

 「レ・ミゼラブル」とは反対に「英雄的な精神」や「勇気」を守りきれない人間の弱さ、気高い精神を売り飛ばしてしまう人間の弱さに、優しく寄り添ってゐる。

 それにしても、何という美しさ。この美しさは「優しさ」の美しさだ。哀しみに寄り添う心の美しさだ。

 

 FSはアストル・ピアソラのタンゴ「アディオス・ノニーノ」。ノニーノはピアソラの父の愛称で、この曲は亡くなった父に捧げられたものだ。さようなら、ノニーノ。

 競技生活の最後にヨナが選んだのは情熱的な鎮魂曲だった。

 ぼくはここまで「空前絶後の傑作」とか「天衣無縫」とか、法外な賛辞を連発してきたが、一番好きな作品は何かと聞かれたら、迷わず「アディオス・ノニーノ」と答える。

 愛する人を失った哀しみ、激情、愛が主題だ。

 ヨナ個人にとっては、これが自分のスケート人生との別れでもある。選手生活の間、辛い時間がほとんどだった。幸せな記憶は数%もなかった。けれど、やはりそれが自分の人生だった。自分にはそれしかなかったし、そういう人生を生きると自ら決めた。運命を受け入れ、それを主体的に選びとった。辛かった選手生活を確かに自分は愛してゐる。

 そして、必ず別れはやってくる。ヨナはこの4分間に、これまでのスケート人生を思いかえし、さよならを告げる。

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 「死の舞踏」、バンクーバー時代のヨナとはまったく違うヨナがここにゐる。10代後半のヨナはそれこそ神がかって、強烈な巫女性をまとってゐた。韓国国民の期待を一身に背負い、完璧な演技を行い、巨大なカタルシスとともに歓喜を生んだ。

 しかし今は違う。ヨナは普通の人だ。脆く、弱く、傷つきやすい肉体をもった普通の人になってゐる。普通の人として、彼女は「愛と別れ」という普遍的な主題をこれ以上ないほど優雅に表現してゐる。

 イナバウアー直後の表情、また、三連続ジャンプ直後の表情を見て欲しい。間違いなく、ヨナ史上最も美しく、柔和で優しさに満ちた表情をしてゐる。

 穏やかな「至福」の微笑みだ。

 演技終了後、ヨナは控え室で泣いたという。多くの人はそれが疑惑の採点のために銀メダルに終わってしまったことに対する悔し涙ではないかと想像した。

 しかしそれは全然違ふ。

 涙の理由をヨナは「これまであまりにも辛かったので、ずっと溜まってきたものが一度に噴出した涙だった」と説明してゐる。

 これまで書いてきたようにヨナがソチオリンピックに出場したのは五輪連覇という栄光のためではない。彼女は「終わらせるため」に来たのだ。

 競技後のヨナの言葉をいくつか拾ってみよう。

 「再び五輪に挑戦する時、最も難しかったのは、明確な目標がなかったことだ。バンクーバー五輪は金メダルのために自分の命をかけることができたが、金メダルを取った後は当時のような切実さはなかった。練習でモチベーションが十分でなかったのが難しかった」 

私は2連覇には全く関心がない。ただ私の最後の競技をうまく終えたかっただけであり、結果はどのように出てきても後悔しないようにしたい」

「私は本当にかまいません。自分が満足しているのでそれで十分です。より切実に望んでいた人に金メダルがいったと思います。すべての荷物を下ろしたということだけで幸せです」

http://japanese.joins.com/article/103/182103.html?servcode=600&sectcode=670%EF%BB%BF

http://japan.hani.co.kr/arti/culture/16766.html

http://japanese.joins.com/article/138/182138.html

 ヨナは繰返し「終わり」という言葉を使い、「終わらせかた」が問題であったと言ってゐる。

 ヨナがモチベーションに苦しみながら、悩み続ける中で問題にしたのは、結果ではなく「終わらせかた」だった。その過程で、ヨナは先に紹介した珠玉の作品群を生んだ。そして最後に見せたのが、「哀しみに寄り添う優しさ」と「辛かったスケート人生に対する愛と別れ」だった。

 ぼくはその人生に対する誠実な姿勢、自分との向き合い方に深い敬意を抱く。

 同時に、その芸術的な成熟に感動する。疑惑の判定も金メダルを逃したことも、正直言ってどうでもいい。オリンピック連覇が何だ。

 ヨナがソチで見せた二つの作品は、舞踊芸術としてのフィギュアスケートを完成させたパフォーマンスとして永遠に残るに違いない。

 キム・ヨナの芸術は哀しみの芸術。

 哀しみを表現すること、そしてそれに共感することはとても大切だ。人と人はいかにして結びつくのか、と問うてみればその理由がわかる。

 「哀しみの共有」によって、である。哀しみや痛みを共有できたときに人と人は結びつくことができる。

 ヨナは競技スポーツの枠の中で、人間生活の根底に横たわるこの哀しみという問題をとりあげ、芸術的に昇華させた。これ以上の「終わらせかた」はない。

 

 彼女はなぜ哀しみに辿り着いたのか。なぜ哀しみが彼女に宿ったのか。

 それはヨナが朝鮮人だからだ。ヨナの感受性が、朝鮮半島の人々が背負ってきた哀しみに反応しないわけがないではないか。ぼくのこじつけかもしれないが、どうしても書かずにはゐられない。

 1910年、日本は韓国を併合し植民地化した。半島の人々は名前を奪われ、言葉を奪われ、強制的に「日本人」にされた。そして「日本人」として「大日本帝国」のために働かされた。兵士となって戦場で死んだ男がゐた。従軍慰安婦として性奴隷にされた女がゐた。日本人は今でもその歴史と向きあわず、歴史を捏造し戦前を賛美する者達が最大の権力を握ってゐる。在日韓国・朝鮮人の人たちは今でも差別されてゐる。

 日本が戦争に敗れ半島から去ったあとも、半島の人たちは統一朝鮮をつくることができなかった。悲惨極まる朝鮮戦争が始まり、結果、南北に分断された。一時休戦から65年経過した今も半島では「冷戦」が終わってゐない。

 バンクーバーにおいて、ヨナは韓国人の期待を背負い、見事に金メダルを獲得した。四年後、彼女が体現してゐたのは半島の人々がかつて経験し、今も終わらない、この哀しみだったのだ。

 だから最後のEXプログラムは「イマジン」なのだ。

 

               結び

  

「風前のともし火を守るように、対話を守って発展させていくのに、力を添えてほしい」

        ピョンチャン五輪を控へたムン・ジェイン大統領の言葉

             http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29575.html

 冒頭に戻ろう。

 ピョンチャン冬季オリンピックが始まった。半島危機は今小康状態にある。

 開会式では約180人の南北共同選手団が統一旗を掲げて入場し、ムンジェイン大統領はこう述べた。

「この機会を使って、コリアの人々から歓迎と友好のメッセージをお伝えしたい。1988年のソウル夏季五輪は、冷戦の壁を壊し、東西和解の道筋を開いた。あの夏季五輪の開催から30年たって、平昌五輪は世界中の人の平和の希望と共に始まる」

「世界で唯一分断された民族、コリアの人間は、冬季五輪の主催を熱望していた。平和の追求はオリンピック精神を鏡のように映し出す」

http://www.bbc.com/japanese/43007498

 トーマス・バッハ国際オリンピック委員会委員長は演説で「共同入場は平和を知らせる強力なメッセージ」と延べ平和五輪の開催を祝福した。

 更に式典には、北朝鮮からキム・ヨンナム北朝鮮最高人民会議常任委員長とキム・ジョンウン労働党委員長の実妹であるキム・ヨジョン労働党第1副部長が参加し、ムン・ジェインと笑顔で握手を交わした。

 一方、北朝鮮の五輪への参加が決定してから、日本の政界から出てくる反応、大手メディアの論調は否定的なものがほとんどだった。南北対話の再開を歓迎するどころか、「北朝鮮の時間稼ぎだ」「五輪の政治利用だ」「日米韓の連携を破壊するものだ」といった台詞を冷笑的な口調・文体で伝えてゐた。

 小池百合子東京都知事は「平昌大会というより平壌大会になりつつあるのではないかというくらい、北朝鮮の攻勢が巧みという印象を受けてゐる」と揶揄した。

 開会式には安倍首相も参加し、式典の前にムン大統領と会談を行った。安倍首相はムン大統領に「対話のための対話には意味がない」「微笑み外交に惑はされてはいけない」「米韓合同演習は延期すべきではない」と言った。

http://japanese.joins.com/article/502/238502.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|top_news

 メディアの論調、小池都知事の言葉、安倍首相の発言を総合して見たとき、日本人が半島の人々に抱いてゐる嫌悪と侮蔑がはっきとわかる。

 今日本を風靡してゐるこの「朝鮮むかつく」の感情は劣等感の裏返しである。他者を貶めることで相対的に自らを優位に立たしめようという心理操作だ。しかし、誰かを憎んだり軽蔑したりしても日本人の自尊心は回復しないだろう。

 「日本システム」が機能しなくなり、あらゆる領域にほころびが生じ、先行きが不安でどうしたらいいのかわからなくなってゐるというのが、今の日本の実態だ。日本人はそれに対してイライラしてゐるのである。

 そのイライラの安易な捌け口が「朝鮮むかつく」であって、恐ろしいことにその捌け口がまた安倍政権の求心力となってゐる。まことに暗澹たる気持ちになる。

 ムン大統領はオリンピック開幕の前に「風前のともし火を守るように、対話を守って発展させていくのに、力を添えてほしい」と語った。

 南北融和の実現、米朝対話の実現がいかに困難であるかが腹の底から分かってゐる人の言葉だ。絶対に戦争を起させてはいけないと心に誓った人の言葉だ。「平和ボケ」してゐる人は絶対にこういう文句は吐けない。

 聖火台への点灯者を務めたキム・ヨナの引退前、最後のEXプログラムは「イマジン」だった。これを見て終わりにしよう。

 ぼくはヨナと共に平和への祈りを捧げたいと思う。

 風前のともし火を守るように、対話を守って発展させていくのに、力を添えたいと思う。

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            4年ぶりの作品

 

 2018年5月、ヨナが4年ぶりにアイスショーに出演し、新作を発表した。それについて加筆しておく。

 「キム・ヨナの芸術」を投稿したのが2月11日、ピョンチャン五輪が開幕した直後だった。そのとき半島危機はまだ「小康状態」に過ぎず、五輪閉幕後に戦争かという観察もあった。

 そこから半島情勢は大きく動いた。南北首脳会談が二度行われ、これを書いてゐる6月12日、シンガポールで史上初の米朝首脳会談が開催された。これが半島の恒久平和への第一歩となることを願ってゐる。

 

 アイスショーの話である。

 4月3日、ヨナのマネージメント会社オールザットスポーツが「4年ぶりにヨナがアイスショーに出演する」と発表した。たいへん驚いた。

 本文に書いたように、ヨナは2014年ソチ五輪後のアイスショーに出て以来、完全にリンクから離れてゐた。なぜ、今年突然出る気になったのか。まさか南北首脳会談が決定して半島が平和体制の確立に動き出したから、なんてことはないだらうが、本当に何故出る気になったのだろう。

 韓国語ができれば彼女のインタビューなどで答えてゐるものがあるのかも知れないが、日本語で検索した限りでは出演の理由についてはでてこなかった。

 どうであれ嬉しいことだ。わがままな願いだが、ファンとしては、出来れば毎年一つデヴィッド・ウィルソンと新作を発表して欲しいと思う。

 年齢を重ねてジャンプが飛べなくなったり柔軟性が衰えたりするだらうが、全然かまはない。そこから生まれる新しい表現があるはずだ。

 それを見せて欲しい。そうしてフィギュアをもっと豊かにしてほしい。

 ヨナが選んだ曲は昨年公開されたポール・トーマス・アンダーソン監督の映画「ファントム・スレッド」のテーマ曲「House of Woodcock」。

 「映画を見て音楽が好きだと思い、デヴィッド・ウィルソンに同曲を含めた数曲を推薦し、一緒に決定した」とのことだ。

  映画については町山さんの紹介を貼り付けておく。

 まづ、ネタバレなしの紹介。

 そして、↓は映画鑑賞後に思いだしながら聞く解説。

  見てきたが本当に素晴らしい映画だった。ヨナのセンスのよさにはいつも脱帽する。

 アイスショーは5月20日から3日間行われた。ヨナは日毎に衣装を変えて三度このプログラムを披露した。ぼくは3日目の衣装が一番好きだ。

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 これほど気品があって優雅な表現を見せてくれる人が他にゐるだろうか。ぼくはこれを見てとても温かく幸せな気分に包まれた。

 ヨナさんにありがとうと言いたい。素晴らしいです。本当に素晴らしいです。

 ひょっとしたらヨナは、このとびきり美しい映画を見て、音楽を聞き、これなら復帰してもいいな、と思ったのではないか。この曲はヨナにぴったりだ。

 引退後もヨナはけっこう忙しく過ごしてきたはずだ。美しいヨナはモデルとしての仕事をたくさん行う一方で、五輪の広報大使もこなしてきた。

 その中で、彼女はいつでもリンクに帰ってこられるように体作りを怠らずに過ごしてきたのだろう。この上なく美しいものを見せるために。

 彼女の滑りは静謐で、とても美しい。年齢を重ねて、もっと落ち着きが出て自然体の表現になった。昔より、ヨナの人間性が表面にでてきたように感じる。

 ヨナの美しさには誇示的なところがなく、健気で可憐だ。なにか儚いものを愛おしむような優しさを感じる。不意に漱石の句が頭に浮かんだ。

 「菫程な小さき人に生まれたし」

 この感じ。可憐だ。

 三つ目の動画。2分50秒ごろのスピンはおそらく、これまでヨナが見せたことのないものだ。スピンに限らない。こうしたちょっとした変化をつけることでまだまだ新しい表現を生むことは可能だと思う。

 是非、またショーに出てほしい。

 いつか生のヨナさんを見てみたいな。

 

 

翻訳 北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―

 北朝鮮核問題に関する論文を翻訳したのでアップします。

 一つ目は元中国外交部副部長の傅瑩史が今年5月3日、米ブルッキングス研究所に発表した論文「北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―」https://www.brookings.edu/wp-content/uploads/2017/04/north-korean-nuclear-issue-fu-ying.pdf

 原文は英語ですが、ぼくはどちらかと言えば中国語のほうが得意なので(そちらも怪しいが)以下の中国語訳を参考にしました。

朝鲜核问题:过去、现在和未来 - 四维金融-把握宏观经济大势 ,评析金融市场风云

 論文ではありますが、一般向けの啓蒙的な内容となってゐて、講演の書き起こしでも読んでゐるような感じがしたので「です・ます調」で訳しました。

 例によって誤訳・悪文はぼくの浅学菲才のせいです。誤りが見つかればその都度修正していくつもりですので、どうかご容赦ください。

 なお、仮名づかいは「現代仮名遣い」で書いてゐます。

 

 北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―

                 中国全国人民代表大会外事委員会主任委員 

                 中国社会科学院グローバル戦略研究員 傅瑩 

                  2017年5月3日 米ブルッキングス研究所

 朝鮮半島の核問題は東北アジアの安全保障において最も複雑で最も不安定な要素です。そして現在、アジア・太平洋ひいては国際社会において高い注目を集めています。この問題がヒートアップするに随って、多くの人がこんな質問を投げかけるようになりました。「中国は北朝鮮核問題においてより大きな責任を果たし、核開発をやめさせることはできないのですか?」

 中国は2003年以来、アメリカの要請に応じて朝鮮半島の核問題において仲介を行い、また会合を主催してきました。発展途上国として、中国は平和五原則をかかげています(訳注:平和五原則とは領土主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)。半島の核問題という地域の安全に密接に関わる問題に対して、中国は核の拡散に断固として反対という立場をとっています。仲介の任を担うようになって以来、中国は朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略)に対して核開発を中止するようはっきりと要求を行い、また関係諸国―とりわけ米国―に対し、北朝鮮が抱えている安全上の不安にしっかりと向きあうよう説得してきました。

 しかしながら米朝両国の間に横たわる深刻な相互不信は、長期の会合の末に到達した合意や協定の履行を困難にしています。中国は自らの責任を果たすため、懸命に仲介を続け、また国連安全保障理事会の決議に基づき、北朝鮮の核・ミサイル開発に対する制裁にも参加しています。しかし中国が米朝両国に対しそれぞれが責任を果たすべきだと説得してもそこに強制力はありません。

 中国は北朝鮮の安全上の不安を解く鍵をもっていませんし、彼らに核計画の停止を納得させるほどの強い影響力はないのです。そして北朝鮮から安全上の脅威と見なされているアメリカは、彼らが要求している安全の確保というこの核問題を解決するための前提を考慮する気がないように見えます。

 双方の主張が交わらないとき、半島の核問題は膠着し、北朝鮮は核開発プログラムを前進させます。彼らは2005年以来5度の核実験を行い、数えきれないほどの弾道弾発射実験を行ってきました。その間、国連安保理は制裁を強化し、北朝鮮を牽制するための米韓の大規模な軍事演習も耐えずスケールアップしてきました。結果、半島の緊張は高まり、平和的解決を目指す会合は再開されず、事態は危険水域に達しています。

 国際社会において主体となるのは国家であり、その国家は国際法により主権を賦与されています。強国は一般に強い影響力をもちますが、同時に自らの言動が引き起こした結果に対して責任を負はなければなりません。そして小さい、或いは弱い国が強国の圧力に対抗的なアクションをとる場合はそれなりの代価を払うことになります。

 国際情勢とは各国がある問題に対してとった行動とそれに対するリアクションが引き起こすうねりであるわけですが、そこに生まれた緊張はしばしば制御困難なものとなり我々を予期せぬ方向にひきずりこみます。ですから中国は対話による核開発問題の平和的解決こそが“パレート最適の選択”であると認識しているのです。関係者全員が望む最高の結果には到達できませんが、各方面が最小の代償を払うことで現実的な利益を最大化することができます。当然、アメリカ含む全関係者はそれぞれが担うべき責任を要求されますし、妥協も必要となります。目下、会談からは所期の成果が出てきていないわけですが、それはまさに合意事項がしっかりと履行されなかったからであり、その結果協議は停止してしまいました。

 地域の平和と安定を維持するため、過去においても未来においても、中国は朝鮮半島の非核化という立場を堅持します。そして半島の核問題は対話によって解決されるべきであると考えます。南北朝鮮は地理的に地続きであり共に中国の隣邦です。ことに北朝鮮とは1300キロの国境線を共有しています。半島で武力衝突が起これば地域全体の平和と安定を損ない、多くの無辜の犠牲者をだし、事態は収拾困難な方向に進むでしょう。過去数十年、この世界で行われた軽率な武力行使が与える教訓は極めて深刻です。

 本論考では北朝鮮の核問題を巡る近年の協議の経緯を整理してみたいと思います。それは三者会合から六者会合、協議の決裂を含み、そのうちのいくつかの出来事はわたし自身が当事者として関わったものです。

 読者諸兄が北朝鮮核問題の起源、そして関係諸国が行ってきた努力について理解するための一助となれば幸いです。なぜ状況はここまで悪化してしまったのか。なぜ、そしてどのように平和的解決への道が閉ざされてしまったのか。その経緯を回顧することが未来におけるより賢い選択につながって欲しいと願います。

 中国にこんな諺があります「鈴をはずせるのはその鈴をつけた人だけだ」。北朝鮮核問題という錆びた錠を開けるには、正しい鍵を探し出す必要があります。

 米朝枠組み合意”と第一次核危機

 北朝鮮核問題における中国の役割という観点からみれば、2003年は一つの分水嶺でした。それ以前、この問題はもっぱら米朝二ヶ国によって交渉が行われており、それは“米朝枠組み合意”に結実しました。2003年以降、中国が重要な斡旋の任を担い、多国間交渉の枠組みができあがりました。

 ではその2003年2月の米パウエル国務長官の訪中から物語を始めましょう。わたしは当時、中国外交部アジア局局長として応接にあたりました。パウエル氏の訪中には二つの重要な背景がありました。一つは2003年1月10日、北朝鮮が“核不拡散条約(NPT)”からの脱退を宣言し、第二次核危機が発生したこと。もう一つは、中東情勢の緊張が高まり、米国のイラクに対する軍事攻撃が目前に迫っていたことです(訳注:2003年3月20日、米英軍はイラクへの攻撃を開始した)。当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は中東と極東という二つの地域で同時に軍事的圧迫が高まることを避けるために、パウエル氏を派遣し中国に北朝鮮問題に関して協力を要請したのです。

 人民大会堂において、当時の胡錦濤国家副主席がパウエル国務長官一行と面会しました。パウエル氏は半島の核問題について中国による仲介を求め、又、北朝鮮を信用することはできないと言いました。そして多国間交渉での解決を探るために、中国が米朝両国を北京に招くというかたちでの協議を提案してきたのです。

 パウエル氏の訪中は第二次核危機を受けて行われたものですが、その危機がなぜ起こったかといえば、相当程度“米朝枠組み合意”が履行されなかったことが原因です。これが両国の関係を悪化させました。米国は、2003年を目標年として北朝鮮黒鉛減速炉及び関連施設を二基の1000メガワット軽水炉に置き換えるという合意を守りませんでした。北朝鮮も合意における全項目を履行したわけではありません。その背景には半世紀以上にわたる朝鮮半島の政治的動揺及びこじれもつれた関係国の利害があります。

 “米朝枠組み合意”という名称が示すとおり、米国と北朝鮮がこの問題の主役です。北朝鮮の核問題を根源から理解しようとするならば、法的にはまだ終結していない朝鮮戦争にまで遡って考えることが必要です。

 1953年7月27日板門店において、朝鮮人民軍最高司令官と中国人民支援軍司令官を一方に、国連軍総司令官を他方に、“朝鮮戦争休戦協定”と“休戦協定に関わる暫定補足協定”が署名されました。しかしこれはあくまで休戦協定であり、平和条約ではありません。つまり停戦はしているけれど戦争状態は続いているということです。これが、半島情勢が長期的に不安定である原因の一つです。

 休戦協定署名後、朝鮮半島北緯38度線軍事境界線として南北に分断されました。南の大韓民国(以下、韓国と略)は米国を主とする西側諸国の支援をうけ、北の朝鮮民主主義人民共和国のバックにはソ連を盟主とする社会主義陣営がつきました。朝鮮半島は冷戦、すなわち米ソ覇権争いの最前線となったわけです。米ソの力関係が拮抗していたときには、半島の情勢は比較的落ち着いていました。

 しかし半島の勢力関係は総じて南側が優勢を占めていました。韓国には米軍が駐留し、1957年からは戦術核兵器を含む攻撃用兵器が配備されました。前世紀90年代初頭の米ソ間核軍縮交渉の結果、米国はすべての核兵器朝鮮半島から撤去し太平洋軍の司令部が核による防衛を担うようになりました。

 冷戦初期において、外部からの巨大な危機にさらされていた北朝鮮は主にソ連に依拠し安全、経済、及びエネルギーの確保を図り、ソ連の支援のもとで限定的ではありますが核開発を進めていました。1959年、北朝鮮は核の平和利用を目的として寧辺(ニョンビョン)原子力研究センターを建設し、1965年には初めて2000キロワットの出力を有する小型の軽水炉を持つにいたりました。その後ソ連の専門家は帰国しています。

 ここでソ連には北朝鮮核兵器開発を支援する意図はなかったことを指摘しおいていいでしょう。彼らは核物理の知識を教授しましたが、ウラン濃縮技術やプルトニウムの生産方法などは提供しませんでした。

 80年代の初頭、北朝鮮は天然ウラン核燃料を使用する5メガワットの黒鉛減速ガス冷却炉の建設を開始しました。この反応炉が完成すれば1年に6キロの兵器級プルトニウムを生産することが可能です。

 米国が北朝鮮の核開発に注意するようになったのはこの頃からです。そして1985年、米国はソ連に圧力をかけ、北朝鮮に“核不拡散条約(NPT)”に加盟させました。それと引換えにソ連北朝鮮と経済、科学、及び技術協定を結び、新しい軽水炉を提供することを約束しました。ところがその後ソ連はその協定を履行せず、NPT加入後の北朝鮮も条約の規定には従わず、国際原子力機関IAEA)の核査察を拒否しました。

 90年初頭のソ連の凋落と解体そして冷戦の終結により、半島の勢力均衡は壊れます。後ろ盾を失った北朝鮮は極度の不安に陥り、“系統的な苦境”に面することになりました。ソ連からの経済援助を失った北朝鮮は工業生産も農業生産も大打撃をうけました。一方、韓国は70年代に発展軌道に乗り長期間にわたる高成長を維持していました。

 1991年9月17日、第46回の国連総会において北朝鮮と韓国の国連加盟が全会一致で承認されました。1991年はソ朝友好協力相互援助条約の期限でしたが、ソ連の継承国であるロシアは条約の自動更新を表明しませんでした(1994年に条約の廃棄が宣言されました)。1991年10月5日、北朝鮮金正日(キム・イルソン)国家主席が訪中し中国側の指導部とソ連崩壊以降の国際情勢及び対応策について議論しました。その時鄧小平はこのように述べました。中国は現下の情勢に対しては“観察に重点を置き、力を隠して、冷静に対応する”と。“目立たないようにする”ことが中国外交の基軸となりました。当時の中国はとうにソ連陣営から離脱しており、ソ連の崩壊を、かわって中国が社会主義陣営の代表となる機会だとは考えていなかったのです。

 続く1992年8月、中国と韓国は国交を樹立しました。当時中韓両国のあいだでは民間交流が急速に拡大していましたから国交樹立は自然の勢でした。しかし北朝鮮にとっては不満だったようで、失望と更なる孤立感を抱いたようでした。このときから中朝の高レベルの外交交流はほとんど途絶え、1999年8月最高人民会議常任委員会委員長の金永南(キム・ヨンナム)氏の訪中により回復しました。

 今日、当時の北朝鮮が感じていた深刻な危機感を十分に理解することはとても難しい。しかし90年代初頭の世界情勢の変化が、北朝鮮が“自分達の道を目指す”という方向へ導いたことは認識しておくべきです。その道の先に安全保障のための“核保有”という選択があるのです。ひとつ、軽視できない事実を指摘しておきます。ソ連/ロシアと中国が1988年のソウル五輪後、時勢に対応して韓国との関係を改善・発展させたということです。それと対称的に、停戦のもう一方の当時者であった米国は北朝鮮との関係を改善するためのはっきりした措置はとりませんでした。同盟国である日本も同じです。そうして相互承認と外交関係の樹立の好機を逸したわけです。

 1990年前後、米国は衛星写真を根拠として、北朝鮮が秘密裏に核開発を進めていることを発見しました。国際原子力機関IAEA)は核不拡散条約(NPT)に基づいて北朝鮮に対して核査察の受け入れを要請しました。1992年5月から1993年2月までの間に北朝鮮IAEA不定期査察を6度受け入れましたが、検査の目的にも結果にも同意しませんでした。1993年3月、米韓は1992年に中止した合同軍事演習(チーム・スピリット)を再開し、さらにIAEA北朝鮮に対して特別査察を要求しました。二重の圧力に逢着した北朝鮮はNPTからの脱退を宣言し、これが第一次核危機の契機となりました。同年4月1日、IAEA北朝鮮の査察受け入れ問題を国連安全保障理事会に付託しました。しかし北朝鮮側は、この核問題の本質は北朝鮮IAEAとの問題ではなく、北朝鮮と米国との問題と認識していますから、米国と交渉して解決するとの立場をとることになります。

 1992年米国では、民主党ビル・クリントン氏が大統領となりました。米ソ二大陣営が対抗する冷戦が終結した今、核兵器、及び大量破壊兵器の拡散こそが最も現実的かつ直接的な安全保障上の課題である。米国はそのように考えました。こうした文脈において、北朝鮮の核問題をいかに解決するかということがクリントン政権のアジア太平洋政策における最重要課題として浮かびあがってきたのです。米国は半島の情勢に対して再考を開始しました。

 米国では、圧力をかけて強硬姿勢をとるべきだとの考え方が支配的になったことがあります。1994年6月16日、米上院は議決を行い、クリントン大統領に行動を起すよう促しました。すなわち米軍は北朝鮮を抑止するための、又場合によっては撃退するための準備をすべきだというのです。しかし評価の結果米国は、北朝鮮に対して軍事行動をとれば韓国への報復攻撃を受け市民のうちに大量の犠牲者が出るとの認識にいたりました。まさに軍事オプションを検討しているその時、カーター元大統領がピョンヤンを訪問し、当時の最高指導者金日成と面会しました。カーターは北朝鮮側が核問題に関して米国との対話を望んでいるという意志を確認し持ち帰りました。この訪問はクリントン政権が態度を変え対話への道を選ぶきっかけとなりました。

 1993年6月から米朝両国はニューヨーク及びジュネーブにおいて、計3ラウンドの高官協議を開始し、協議は最終的に“米国と朝鮮民主主義共和国間の合意枠組み(米朝枠組み合意)”に結実しました。その主要な内容は以下のとおりです:北朝鮮は建設中の二基の黒鉛減速炉の建設を凍結する。引換えに米国は、国際事業団を組織又主導し、可能な限り早い時期に40億ドルに相当する2基の1000メガワット発電量の軽水炉を提供する。軽水炉が完成するまでのエネルギー補填のために、米国は北朝鮮に対して毎年50万トンの重油を供与する。

 上記のプロセスはほとんどが米朝二ヶ国の直接交渉であり、中国を含めその他の国は参加していません。

 “米朝枠組み合意”署名後、半島情勢は小康を得ました。しかし合意事項の履行は緩慢にしかすすみませんでした。米国はまず朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、国際社会から資金を募り、北朝鮮のエネルギー不足改善のために重油提供を始めました。そして寧辺原子炉の8000本の使用済み核燃料棒が除去され封印されました。

 しかし米、日、韓協同の黒鉛減速炉の廃炉軽水炉の建設は遅々として進まず、結局実現されませんでした。

 クリントン政権は一期目において第一次核危機をうまく収束させたと言っていいでしょう。二期目に入ると政権はより接触を密にすることで核問題の根本的な解決を目指すようになりました。1999年10月、米政府は“米国の北朝鮮政策に対する評価:成果と提案”と題するレポートを発表し、その中で“包括的、統一的な方法で北朝鮮の核及び弾道ミサイル開発に対応する。二者協議を主とし、日韓を含めた三カ国が協同する”と述べました。ところが具体的に事態を進展させる段になると、いずれの国も十分な意欲と行動力を示さず、合意事項のほとんどの項目は実現されていません。

 クリントン政権の終盤、米朝関係の正常化への扉がわずかに開きました。2000年10月9日、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会第一副委員長の趙明禄(チョ・ミョンロク)が金正日の特使として訪米し、つづく10月23日、当時のオルブライト国務長官北朝鮮への二日間の歴史的な訪問を行い、北朝鮮の最高指導者金正日(キム・ジョンイル)と面会しました。オルブライト国務長官は滞在期間中、北朝鮮の指導部に対してクリントン政権米朝関係改善への意向を伝え、核問題及び北朝鮮を“テロ支援国家(訳注:テロ支援国家に指定されることは経済制裁の対象となることを意味する)”リストから削除する可能性について話し合いました。また連絡事務所の設置及びそこから外交上の代表機関に格上げしてゆくプロセス、そしてクリントン大統領訪朝の可能性などについても協議を行いました。

 オルブライト国務長官の帰国後米国はクリントン大統領の訪朝、さらには金正日の訪米に関して調整を進めましたが、その時期の米国は大統領選挙に突入していたために、レームダック状態にあったクリントン政権にはその構想を実現する時間がありませんでした。オルブライト氏の回想録によれば、ホワイトハウスを離れる前日、クリントン大統領は彼女に、ホイワトハウスに残って中東和平のために最後の力を注ぐよりも北朝鮮を訪問すべきだったと語ったそうです。何年かして私は彼女と意見を交わしましたが、あの時が核問題解決のための大きなチャンスだったのかもしれないと意見の一致をみました。惜しくも機会を逸することになりましたが。(訳注:クリントン大統領は任期終了直前、中東和平交渉に尽力していた。が、奔走は稔らず交渉は決裂に終わった)

 第二次核危機から三者会合、六者会合へ

 クリントン政権は自分たちが切り開いた対北朝鮮交渉の新局面を次期政権が継承することを望んでいましたが、2000年の大統領選挙の勝者共和党ジョージ・W・ブッシュ新保守主義者に包囲されていました。彼は選挙期間中から繰り返し“米朝枠組み合意”を批判し、又その矛先を北朝鮮政府にも向けていました。北朝鮮に歩み寄ろうとする政策は、かの政権を崩壊から遠ざけることにつながるのだという考えです。

 明らかに、米国の対北朝鮮政策において“核放棄”と“政権の崩壊”の混合が見られます。結果、一体究極の目標は何なのかということがしばしばぼやけてしまうのです。この変化は平壌政府にとっては理解し難いものでした。したがって彼らは、米国は当初から合意の履行に不熱心であったと結論付けることになったのです。

 ブッシュ新政権は対北朝鮮政策を見直し、クリントン政権が模索してきた関係改善への道を閉ざします。そして8ヶ月後の2001年9月11日、米国で同時多発テロが発生し、米国政府は“対テロ戦争”を宣言しました。

 ここで特記しておきたいのは、“9.11”後に北朝鮮外交部のスポークスマンが以下のような声明を発表しているということです。即ち:今回の事件は悲しむべき悲劇であり、国連加盟国として北朝鮮はあらゆる形式のテロリズムに反対する。この立場は不変である。

 この北朝鮮の反応は以前の強硬姿勢とは正反対のものでしたが、ブッシュ政権はそうした変化には一顧もあたえず、2002年1月の一般教書演説において北朝鮮をイラン、イラクと共に“悪の枢軸”国として名指して批判しました。

 2002年10月、アメリカの情報機関は北朝鮮が秘密裏に進めている核計画を発見したと発表しました。北朝鮮が国際マーケットにおいて技術及び設備を購入したという証拠を掴んだとして、北朝鮮パキスタンとの秘密核貿易の証拠を暴露しました。ブッシュ政権はジェイムズ・ケリー東アジア・太平洋担当国務次官補を急遽北朝鮮に派遣します。彼は当時の姜錫柱(カン・ソクジュ)第一副外相との会談で、ウラン濃縮技術用設備を輸入した“証拠”をつきつけます。姜は隠そうともせずに一切が事実であることを認めました。

 この件はワシントン政府を驚かせました。北朝鮮プルトニウムを原料とする核開発の停止を宣言しながら、裏ではウランを原料とする核兵器を開発していたのですから。ブッシュ政権北朝鮮が“米朝枠組み合意”を違反したとして二者協議の停止を発表します。他方、北朝鮮は、米国側も合意事項のすべてを履行したわけではないとみていました。

 こうした両国の関係の悪化がそのまま第二次核危機へとつながっていきます。

 時を同じくして、米国は同盟国を率い東シナ海黄海、インド洋においてPSI(拡散に対する安全保障構想)海上阻止訓練を開始しています。2002年12月、イエメン近海でスペイン海軍の臨検を受けた北朝鮮籍の貨物船“小山号”からスカッドミサイルが発見されました。イエメン政府がミサイルの国内のみでの使用と、以降の不購入を保障したことで最終的に貨物船は開放されました。これが“小山号事件”です。

 同年11月14日、米国主導による朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)は北朝鮮向けの重油提供の停止を決定しています。北朝鮮は米国の重油供給停止を合意違反であると認識し、12月12日、“米朝枠組み合意”に基づいて凍結していた核開発を再開すると発表します。そして2003年1月10日、北朝鮮は核不拡散条約からの脱退を正式に宣言しました。

 核不拡散条約の締約国として、中国はいかなる形式の核兵器の拡散に対しても断固として反対し、一貫して核兵器の全面禁止と廃絶を主張してきました。同時に、隔たりや齟齬の平和的解決を訴えてきました。“米朝枠組み合意”が破綻し、その上で米国が中国の仲介を希望し、助力を求めてパウエル国務長官を訪中させたという経緯を鑑み、半島の非核化は中国の国益に資するとの判断に至り、中国政府は米国の要望を引き受けることを決定しました。

 われわれの案は米朝両国を中国に招き三者会合を行うというものでした。パウエル訪中後の2003年春、中国は北朝鮮に特使を派遣します。北朝鮮との交渉は決して簡単なものではありませんでしたが、三者会合への参加をとりつけました。しかし北朝鮮の態度は基本的には変化がなく、やはり米国との直接交渉を望んでいました。それはピョンヤン政府が、この核開発を米国の脅威に対するリアクションであると認識し、解決のためには直接交渉による合意に至る必要があると考えているからです。

 中国は北朝鮮の考えと要求を米国に伝えました。米国は二者のみでの会合はできないとの立場を譲らず、いかなる会合も中国立会いの場でなくては行わないと主張します。米朝双方の要求はまったく噛み合いません。中国は“対話”を根本原則としてかかげ、粘り強い交渉を続けました。そして米朝両国が中国へ代表を派遣し会合をもつという合意に至ることができました。両国は三者会合という枠組みの中で相見えることになったのです。

 2003年4月22日、中国外交部は以下のような声明を出しました:“中国は一貫して北朝鮮核問題の対話による平和的解決を主張してきた。これは関係諸国及び国際社会のコンセンサスとなっている。こうした認識に基づき北朝鮮と米国の代表団を中国に招き会合を行う運びとなった。”

 中国の積極的な働きかけにより関係諸国が交渉のテーブルに戻ってきました。2003年4月から2007年10月にかけて1ラウンドの中国、米国、北朝鮮による三者会合が、又そこに韓国、日本、ロシアを加えた6ラウンドの六者会合が開かれました。その過程は曲折に富んだものとなりましたが、概して北朝鮮の核開発状況をコントロールの範囲内においておくことができたと言えるでしょう。六者会合において成立した三つの文書―2005年の“9.19共同声明”、2007年の“2.13共同文書”及び“10.3共同文書”―は対話による平和的解決に向けた重要な政治的基礎となりました。しかし残念なことに、問題解決に対する希望を抱かせたこの合意は様々な事情から履行に到らなかったのです。ではなぜ、又どのように交渉は決裂し、時の経過とともに解決から遠のき、互いが緊張を高めあうような局面に陥ってしまったのでしょうか。その経緯を以下に述べたいと思います。

 三者会合

 2003年4月23日から25日にかけて、中米朝による三者会合が北京で開催されました。筆者は当時中国外交部アジア局局長の位にありましたので中国側の代表団を率いて会合に参加しました。北朝鮮は李根(リ・グン)外務省米州副局長氏が、米国はジェイムズ・ケリー東アジア・太平洋担当国務次官補がそれぞれ代表を務めました。

 しかし会合の正式な開始の前に早くも難局を迎えることになりました。ブッシュ大統領は米国の代表団がいかなる形式においても北朝鮮側と二者のみで会ってはならないとの命を下したのです。一方、北朝鮮側は米国との二者会談の機会をもちたいと願っています。三者会合の前夜は中国主催の夕食会があり、米朝の代表が共に出席しました。宴席上で北朝鮮代表の李根氏は献酬の機会をとらえてケリー氏に近づき、直接話を切り出しました。北朝鮮はすでに使用済み核燃料棒の処理を行ったと伝えたのです(訳注:使用済み核燃料の処理とはプルトニウムの抽出を意味する。プルトニウム核兵器の原料)。

 ケリー氏はその話をわたしに伝え、動揺した様子で、対応方法についてワシントンの指示を仰ぐ必要があると言いました。翌朝、米国代表団は北朝鮮側と単独での接触はもたない、中国臨席のもとでなければ協議を行わないと宣言しました。北朝鮮側はこれをうけて三者会合への出席を取りやめるとの意志を示しました。中国側の再三の説得により、北朝鮮側は翻意し会合は実現しましたが、その内実は中国が米国及び北朝鮮と別々に話をするというかっこうになったのでした。

 三者会合は稔り豊かなものとはなりませんでしたが、それでも米朝両国が協議の席に戻ってきたことで、国際社会に対話の可能性を示すことができ緊張が和らいだのは確かです。北朝鮮は核及びミサイル開発の放棄と引換えに経済援助と体制の保障を得るという“一括妥結方式”による解決案を提示しました。この案は北朝鮮の基本的な立場と思考法を体現しており、実際、以降の会合において持ち出される案の基礎となりました。

 韓国と日本も、そして国際社会も三者会談に高い関心をよせました。米国は多国間交渉を望み韓国と日本を協議に招きいれようとしました。中国はさしたる支障も感じませんでしたが、ロシアも参加したほうがよいと考えました。中国は注意深い外交を展開し、各国の要望を聞き、仲介活動に尽力しました。

 核問題に関して、北朝鮮の立場は一貫しています。即ち、北朝鮮はもはや米国は信用できないと考え敵視政策をとり、核兵器の開発によって自国の安全を保障しようとしているのです。中国は北朝鮮の核保有に断固として反対します。しかしながら彼らが感じている安全上の不安は理解できます。したがって多国間交渉によって平和的交渉を進めることを支持し、積極的に斡旋の任を引き受け多くの会合を提供できるよう責任を果たしたいと考えています。

 ソ連の解体以降、中国は北朝鮮の最も重要な同盟国且つ支援国となっています。北朝鮮は両国の友好関係を維持したいと考えており、中国からの提案を断ることは容易ではありません。しかし米国はとても頑なでありブッシュ政権の方針は、軍事オプションは保持しながら協議における北朝鮮の出方をみようというものでした。中国は米国に対して北朝鮮の希望を伝え、また我々自身の立場もはっきりと説明しました。即ち、中国は軍事的解決を目指すいかなる試みにも反対であり、平和的対話を通じて核問題の解決及び妥協案を模索すべきであるとの立場です。

 ここからわかるように、米朝ともに二つの方向性があるわけです。米国は、対話してもいいが、成果がなければ攻撃。北朝鮮は、対話して見返りが欲しい、それが不可能ならば自国防衛のために核開発。そして中国は全力で対話を支持促進し、両国がとりうる別の方策には断固として反対です。

 筆者がかつて米国を訪れた際、米国側がこんな表現をしていたのを覚えています。“対話は行う。しかし軍事オプションもテーブルの上にある(We agree to talk, but the military option is also on the table.)。”中国側は、米国が軍事オプションを手放さないならば、北朝鮮は核保有を決して諦めないだろうとの認識から同意できない旨を伝えました。その後、米国は文言に若干の修正を加え、“軍事オプションはテーブルから離れていない(The military option is not off the table.)”との表現に変えてきました。修正前の表現と大きな差はないように感じられましたが(英語を母語としない人にとっては特に)、米国側はこれが大統領の意志であると言って譲りませんでした。筆者はかつてアメリカ人の同僚に向かって冗談でこう言ったことがあります。「テーブルから離れておらず、それでいてテーブルの上にはないとすれば、いったいどこにあるのかしら?」同僚は「想像力を働かせよということでしょうかね」と答えました。この話を北朝鮮の交渉相手である李根氏に伝えたところ、彼は大きく眼を見開いてこう言いました。「で、どこにあるのですか?」

 2003年7月、長らく北朝鮮と外交交渉を行ってきた戴秉国(タイ・ヘイコク)外交部副部長が特使として北朝鮮と米国を続けて訪問しました。彼は米国の対話への意志、又それを六ヶ国に拡張したいという希望を北朝鮮側に伝えました。長時間に及んだ高官協議の末、彼は金正日に接見しました。そのとき金正日は以下のように語り同意を表明しました。「友人である中国が協議参加をすすめるなら、わたしたちももう一度挑戦してみようとおもう」

 この訪問の結果、米国はできるだけ早く対話のための代表団を北京に派遣することに同意しました。形式として米国は韓国と日本の参加を望み、又ロシアも参加させるべきだという中国の提案に対しても反対しませんでした。又、米国は北朝鮮が望むなら三者会合の機会を改めて設けてもいいとも言いました。ただし続けてすぐに六者会合を行うことが条件でした。この提案に対する北朝鮮の回答は速やかでした。北朝鮮は会合の拡張はまったく問題がない、直接六者協議に入ろうと提案してきたのです。

 しかしながら、核問題というデリケートな問題をあつかう場であること、また米朝の真っ向から対立した立場などから具体的な会合の設定は極めて難しく、会場のデザインや座席の按配にも慎重な注意を払う必要がありました。北京の釣魚台迎賓館が会場に選ばれました。六ヶ国の微妙な関係を考えると長机に対面に座ることはできませんから、六角形の机を用意しそこに席を並べることにしました。

 更に気を使ったのは、いかにして米朝の二者が協議を行える場を設定するかという問題でした。北朝鮮米朝間の直接対話を重視しており、独立した部屋で接触することを望んでいます。一方の米国は離れた場所で会うことは拒否し、他国の代表と同じ屋根の下にいる状況でなければ接触しないという立場です。最終的にわたしたちは、会場の角に喫茶用の休憩スペースをつくることにしました。屏風と観葉植物とソファーで空間を区切り、米朝代表団のための隔離スペースをつくりました。

 北朝鮮と米国の大使館員にこの隔離スペースをチェックしてもらい了承を得たことで最後の障碍がクリアできました。

 結果を申しますと、この試みは成功し、六者会合も後半に入ると米朝間の対話は深く且つ重要なものとなり、彼らはすすんで別室に入るようになりました。

 六者会合

 2003年8月27日から29日まで、第一回六者会合が北京で開催されました。当時の李肇星(リ・チョウセイ)外交部長が開会の宣言を行い、王毅(オウイ)副部長が代表団長を務めました。各国の代表者は以下の通りです:米国はジェイムズ・ケリー国務次官補。北朝鮮金永日外務次官。ロシアはアレクサンドル・ロシュコフ外務次官。韓国は李秀赫(イ・スヒョク)外交通商部次官補。日本は藪中三十二外務省アジア大洋州局長。

 北朝鮮は“一括妥結方式”による4段階の解決案を改めて提示しました。それぞれの段階はすべて米国の“同時行動”を求めるものでした。しかし米国はそれに同意せず北朝鮮がまず第一歩を踏み出すべきであり、体制の保障を議論するのは“完全かつ検証可能で逆戻りできない核廃棄(Complete,Verifiable and Irreversible Dismantlement=CVID)”が実現してからだと主張しました。

 ここでその年の暮れリビアが発表した声明に言及しておきたいと思います。これは後の六者会合に大きな影響を与えたと考えられるからです。2003年12月、リビアの最高指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーはすべての大量破壊兵器を放棄しIAEAによる査察を受けいれると発表しました。リビアは核開発の全研究成果を引き渡しました。米国はそれに応じて対リビア制裁及び“テロ支援国家”指定から解除し、外交関係を樹立しました。

 一時、リビアは西側諸国にとって核不拡散の模範生となりました。米国はこの経緯が北朝鮮に影響をあたえることを願っていたのかもしれませんが、8年後のリビア内戦及びその結末は、北朝鮮の核開発に対する態度に深い影響をあたえました。(訳注:2011年リビアにおいて、反政府デモから内戦が勃発。米英仏を中心とした多国籍軍が軍事介入を行い、40年以上続いたカダフィの長期独裁政権が崩壊した。核を放棄すると攻撃されるということを北朝鮮は学んだ。)

 2004年2月25日から28日まで、第二回六者会合が北京で開催されました。協議の焦点は核問題の解決と第一段階の措置でした。協議中、米国は北朝鮮リビアと同じく、まず核計画を放棄しIAEAの査察を受け入れるべきだとの主張を行いました。中国、ロシア、韓国は“ウクライナ方式”を提案し、北朝鮮が核放棄に動きだすならばその主権と安全を保障しなくてはいけないと主張しました。(訳注:ウクライナ方式。ソ連崩壊後、ウクライナには大量の核兵器が残され、一時は世界第三位の核保有国となった。ウクライナは米英露と協議を行いNPT加入と全廃を決め、代償として自国の安全保障体制の確立を求めた。各国は領土含め国家の安全を保障し、1996年までにウクライナ核兵器を全て廃棄した。が、2014年プーチンのロシアはクリミア半島を併合した)

 第二回会合では初の文書として議長総括が発表されました。総括では各国が半島の非核化を目標とし、対話を通じた平和的解決を目指すことが強調されました。又、すべての参加国が平和的共存を願い、核問題に対して協調して対処してゆくことに同意しました。

 同年6月23日から26日まで、第三回六者会合が開催されました。北朝鮮は“凍結及びそれと引換えの補償”という立場を崩しませんでしたが、初めて最終的な核廃棄を目的とした凍結であることを表明しました。米国も一定の柔軟性を見せ、五段階の核廃棄案を提案しました。第三回会合では実質的な合意には達しませんでしたが、最後には“漸進的に協議を進める”“約束対約束”“行動対行動”の原則で核問題に対処するという共通認識を確認することができました。これは中国が六者会合の開始以来主張し続けてきたことです。米朝両国は互いに、同時に、一歩を踏み出すべきであると。

 第四回六者会合の開催は第三回から十三ヶ月も間隔があいてしまいました。会合が中断してしまった主たる理由はブッシュ大統領の再任選挙でした。彼はより強硬な姿勢をアピールしたいがために北朝鮮の指導者を“暴君”と呼び、ピョンヤン政府を“圧制の拠点”であるとしました。ピョンヤン政府は米国の変化を懸念しました。もう一つの理由は2004年9月初め、韓国が秘密裏に兵器級プルトニウムの抽出とウラン濃縮を行っていたことを認めたことです。そしてIAEAはこの韓国の挙動に対して何のアクションもとりませんでした(訳注:2004年9月13日、IAEAエルバラダイ事務局長は“深刻な憂慮”を表明している)。北朝鮮はこれに対して強い反応を示しました。2005年2月10日、北朝鮮核兵器保有を宣言し、六者会合への参加を無期限に中断すると発表しました。これに対して米国は6月末、初めて経済制裁に踏み切りました。

 中国のシャトル外交等による外交努力が功を奏し、北朝鮮は六者会合への復帰に同意しました。第四回六者会合は二つのフェーズにわかれて北京で開催されました。第一フェーズは2005年7月26から8月7日、第二フェーズは同年9月13日から19日までです。長丁場の会合は大きな収穫をもたらしました。9月19日に発表した“第四回六者会合共同声明(以降、9.19共同声明)”がそれです。

 これは参加各国の認識を反映した極めて重要な文書であり、ここにおいて北朝鮮は初めて核兵器及び現行計画の放棄を約束し、韓国もまた核兵器開発を行わないことを表明しました。米国は適切な時期に軽水炉の提供に関して協議を行うことに同意し、又米国と日本は国交正常化のための措置をとることを約束しました。そして朝鮮半島及び北東アジア地域全体の平和と安定の構築について初めて言及がなされました。

  “9.19共同声明”は問題解決へのロードマップとして、一筋の光明であったかに思えたのですが、声明発表後まもなく米国によってなされた北朝鮮に対する経済制裁の強化によって、その光はあっけなく途絶えてしまいました。

 2005年9月23日(訳注:これは9月15日の誤りではないかと思われる)、ということは六者会合と同時期に、米国財務省は事前の警告なく、マカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)が北朝鮮の複数の口座を介して“マネーロンダリング”及び“偽札流通”に関与した疑いがあると批判しました。発表によればその資金は“テロ支援”のために使用されていたとのことです。少し前の9月9日、米国はBDAに対して2500万ドルの北朝鮮関連口座を凍結するよう要請しています。米国は10 月21日には北朝鮮の8企業をブラックリストに登録し在米資産を凍結しました。表面的には核問題とは直接関係があることではありませんが、これは核問題の協議に対して大きな影響を与えました。

 11月9日から11日まで第五回六者会合の第一フェーズが北京で開催され、北朝鮮も約束通り参加しました。しかし第一フェーズ終了後の12月、米国は更なる金融制裁を実施しました。米国による制裁の強化をうけて、北朝鮮は公式に、米国が経済制裁を解除しない限り、六者会合には復帰しないと宣言しました。しかし米国は手をゆるめず、2006年4月米国財務省は逆に更なる制裁を追加しました。

 事ここに至って、六者会合による合意が実現に至る可能性が潰えてしまいました。まさに、現在の我々がよく知るところの“制裁、核実験、追加制裁、再核実験”という悪循環がはじまったのです。米国がいくら制裁を加えても、北朝鮮の核開発を止めることもスローダウンさせることもできませんでした。2006年7月5日、北朝鮮日本海に向けて7発の弾道ミサイルを発射し、また、10月9日北朝鮮は地下核実験に成功したと発表しました。

 2006年10月14日、国連安全保障理事会は米国の提出した決議1718を全会一致で採択しました。決議は全国連加盟国に対して、北朝鮮への核兵器、核技術、大型兵器に関わる物品、奢侈品の禁輸を要請しました。そして北朝鮮に対しては、核実験の停止と、弾道ミサイル開発に関するあらゆる活動の停止を要求しました。

 2006年10月、中国は国連加盟国と協調しながら、平和的解決へ向けて調停の道を探り続けました。そして11月、北朝鮮は六者会合への復帰を宣言しました。同時に、米国では中間選挙が行われ上下両院において民主党過半数を獲得、これによりいわゆる新保守主義勢力は退潮をはじめ、ブッシュ政権北朝鮮への強硬姿勢を軟化させます。

 2006年12月18日から22日に第五回六者会合の第二フェーズが、そして2007年2月8日から13日に第二フェーズが開催されました。協議の最大の成果は“共同声明の実施のための初期段階の措置(以降、2.13共同文書)”を採択したことです。この文書では多くの措置が平行してとられることが表明されました。即ち、北朝鮮は核の廃棄を最終目標として寧辺の核関連施設の停止及び封印を行い、核開発プログラムの放棄を宣言すること。米国と北朝鮮は協議を行い、テロ支援国家指定からの解除を行う。ここにおいて、北朝鮮が全核開発プログラムの放棄という項目が入ったのはとても大きな前進でした。

 “2.13共同文書”の署名後、朝鮮半島情勢は少し落ち着きをみせ、北朝鮮と韓国のあいだで閣僚級協議が復活し、2007年3月1日には国際原子力機構のモハメド・エルバラダイ事務局長が訪朝し、寧辺の核関連施設の停止及び封印に関する詳細について協議を行いました。同日、北朝鮮の金桂冠(キム・ゲグァン)外務次官が“雪解け”の訪米を行い、米朝国交正常化のための協議に出席しました。このようなことはこれまでありませんでした。

 しかし、北朝鮮に対する制裁が“9.19共同声明”と“2.13共同声明”の履行の障碍となりました。北朝鮮寧辺各施設の閉鎖は制裁の解除が前提であると主張しましたが、米国は拒否しました。

 2007年3月19日から22日まで、北京で第六回六者会合の第一フェーズが開催されました。米国は凍結されているバンコ・デルタ・アジア銀行(BDA)の北朝鮮資金を中国銀行に移すことに合意し、北朝鮮はその資金を人道主義・教育のために使用すると表明しました。残念なことに、いくらかの“技術的問題”のために、その資金の中国銀行への移動は行われませんでした。北朝鮮は、自分たちは義務を完全に履行しているが、米国側は合意の一部を実施しなかったと認識し、BDAの資金問題が解決されない限り“さらなる合意の履行はない”と宣言しました。6月25日、この資金問題は解決され北朝鮮は再度“2.13共同文書”の履行を開始しました。7月14日には寧辺の核施設が閉鎖され、韓国の提供による6200トンの重油北朝鮮に到着しました。同時にIAEAの監査員が監督及び閉鎖の確認のために寧辺に入りました。ここにおいて、北朝鮮の核問題解決のためのとても意義深い一歩が踏み出されたのです。

 2007年9月1日、米国と北朝鮮の作業部会がジュネーブにおいて会談を行いました。そこで北朝鮮は全ての核計画の中止と原子炉の無能力化をする意志があることをはっきりと表明しました。米国は“テロ支援国家”リストからの削除を承諾しました。しかし9月25日の国連総会においてブッシュ大統領は演説を行い、北朝鮮含む数ヶ国を“残酷な体制(brutal regimes)”として批判し、米国の北朝鮮への敵視政策が続いていることを示しました。

 2007年9月27日から10月3日まで、第六回六者会合の第二フェーズが開催され、六ヶ国は“共同声明の実施のための第二段階の措置(以降、10.3共同文書)”に署名しました。この文書では“核施設の無能力化”と“全ての核計画の申告”に主眼がおかれ、北朝鮮に二点の要求がなされました。一、寧辺の5メガワット実験炉、寧辺の再処理工場(放射化学研究所)及び寧辺の核燃料棒製造施設の無能力化を行うこと。二、2007年12月31日までに、2月13日の成果文書に従って、すべての核計画の完全かつ正確な申告を行うこと。さらに文書には米朝、日朝関係に関して改善を目指すべきことが明記されました。11月5日、寧辺各施設の無能力化作業が開始されました。

 しかし2008年に入って、北朝鮮はまた躊躇しはじめました。核反応炉の無能力化は75%まで進展していましたが、それに応じた他国から見返り、すなわち重油、設備、援助物資が提供されなかったからです。2月に入り北朝鮮は無効化の速度を緩めました。

 ここへきて北朝鮮の行いがまた論争の焦点となりました。米朝の主張の違いは主に以下の点にありました。プルトニウム保有量、ウラン濃縮計画の有無、そして核開発に関するシリアとの協力。これらの点に関して紛糾した議論が障碍となって、北朝鮮は期限であった2008年1月1月までの核計画の完全な申告を履行しませんでした。

 各国は再び協議を始めました。又米朝二国は2008年の3月及び4月にジュネーブそしてシンガポールで会合をもちました。そこで北朝鮮は核開発計画の申告と停止に、米国は“テロ支援国家”指定の解除に同意しました。北朝鮮は合意の通り、寧辺原子炉の稼動記録を米国にわたしました。これに基づいて米国はプルトニウムの抽出量を算出することが可能です。米国はこれを“重要な一歩”だと評価しました。米国側の義務は、45日以内に北朝鮮を“テロ支援国家”から解除することでした。

 しかし北朝鮮が記録を提出したまさにその日、米国のライス国務長官ウォール・ストリート・ジャーナル紙上において、“核申告内容の検証”の問題を取り上げました。これに対して北朝鮮は“10.3共同文書”には“検証”に関するいかなる項目もないとして強く反発しました。期限である45日を過ぎても米国は北朝鮮を“テロ支援国家”指定の解除を行いませんでした。これを受けて北朝鮮は“原子炉無能力化の過程を暫時停止し、寧辺の核関連施設を現状に戻すことも視野に入れる”としてIAEAの監査官を追放しました。半島情勢の緊張は10月の初め、米国のクリストファー・ヒル国務次官補が北朝鮮を訪問するまで続きました。彼の訪朝によって両国は以下の合意に達しました。すなわち、米国は北朝鮮を“テロ支援国家”指定から解除すること。そして、北朝鮮は原子炉の無能力化を再開し、その検証についても受け入れる意志があることを表明しました。

 このように六者会合は数多くの難題を抱え様々な障碍に直面しながらも、少しずつ前進してきたのです。確かに朝鮮半島は安定に向かっていました。参加国は半島の非核化を目的とするという点において一致しており、問題は平和的に解決するという方向性を共有していました。

 しかし不幸なことに、このプロセスは頓挫してしまうのです。

 深刻化する北朝鮮核問題―2009年から現在まで―

 2017年の5月までに、北朝鮮は5度の核実験を行いました。1度目は2006年の10月、BDA問題と米国の制裁があり六者会合が中断したあとのことです。残りの4回はいずれも2009年以降に行われました。この期間は六者会合が停止し、事態がエスカレートをはじめ、完全に悪循環に陥ってしまった時期にあたります。

 2009年1月20日、米国でバラク・オバマ新政権が発足しました。その前年に韓国では、盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏に変わって、北朝鮮に対して強硬的な政策を掲げる李明博(イ・ミョンバク)氏が大統領に就任しています。これまでと同じように、指導者の交代は朝鮮半島に新たな不安定要素をもたらしました。

 米国の新政権は、ブッシュ政権二期目において北朝鮮は合意文書に規定された事項を履行してこなかったと考えていました。米国を欺き騙すというやり方を許してしまったと。米国と北朝鮮が関係を結ぶことに反対することがワシントンにおいて“ポリティカリ・コレクトネス”となったのです。ことに軍と議会ではそうでした。オバマ大統領はリベラル主義者であり、選挙中には繰り返し米国の国際社会におけるイメージを改善する必要性を訴え、“核無き世界”を宣揚していました。そして就任後、彼は世界の非核化と核安全保障の構築を優先課題にあげました。これが彼の政権をぎこちない立場においやりました。ブッシュ政権の後期のような妥協の道を歩むこともできず、かといって徒に武力の誇示を行うこともできないからでず。

 オバマ大統領は就任演説において“米国の敵”に対して“あなたが、握りしめた拳をすすんで解くなら、私たちは手を差し伸べよう”と述べました。これは印象的な言明です。また、国務長官就任前のヒラリー氏は上院聴聞会の席で、オバマ政権の北朝鮮政策は前ブッシュ政権よりも柔軟且つ開放的なものとなることを示唆しました。

 しかし北朝鮮はこの米国の態度に対して好意的な反応を示さず、後に起こるいくつかの出来事は緊張をエスカレートさせることになりました。3月、北朝鮮は取材のために中朝国境付近を訪れていた米国人女性記者2人を、不法入国したとして拘束しました(8月にクリントン元大統領が訪朝したことで2人は解放されました)。4月5日、北朝鮮は実験用通信衛星光明星テポドン)2号の発射を宣言、23日には六者会合からの離脱を表明しました。4月25日、北朝鮮外務省は実験用原子炉から取り出した使用済み核燃料の再処理プロセスを開始したと発表します。続く5月25日、北朝鮮は2度目の核実験を行いました。

 どうやらピョンヤン政府は分析の結果、強硬姿勢に出ることを決定し、核保有の道へ大きく舵を切りはじめたようです。北朝鮮がなぜ態度を硬化させたのか、難しい問題です。韓国の政権交代のせいかもしれませんし、単に六者会合への信頼を失ったからかもしれません。

 2009年6月12日、安全保障理事会において決議1874号が全会一致で採択されました。決議は北朝鮮によって行われた核実験を“最も強く非難”し、決議1718号の規定を完全に履行するよう要求しました。さらに武器輸出入の禁止、北朝鮮に関連する船舶及び北朝鮮を出入りする船舶に対する検査も要請されました。これは外貨が流入し核・ミサイル開発に使用されることを防ぐための規定です。

 2009年10月4日から6日、中国の温家宝首相が訪朝し金正日と協議を行いました。それから緊張が和らぎ2010年1月、北朝鮮は制裁の解除を前提として、六者会合の枠組み内で米国と平和条約を締結したい意志を表明しました。しかし米国は制裁を解除する前に六者会合を再開し、そこで平和条約に関して協議すると主張します。

 2010年3月26日、乗組員104人を乗せた韓国の軍艦“天安”が黄海に浮かぶ白翎島(ペンニョンド)と大青島(テチョンド)の間で沈没し46名が亡くなりました。船尾に原因不明の爆発が起こったのが原因ですが、米国と韓国はこれをいち早く北朝鮮による魚雷攻撃によるものと非難しました。ロシアはその後の国際調査に参加しましたが、中国は参加していません。北朝鮮は認めませんでしたが、韓国は南北間の交易を禁止する措置をとりました。疑いようもなく、この事件は北朝鮮と米韓の間の緊張を高め、不信と対立を深めました。

 5月12日、朝鮮労働党の機関紙“労働新聞”は北朝鮮核融合反応に成功したと報道しました。米国と韓国は外交部・国防部長官による“2+2”会談の後、北朝鮮の大量兵器製造を支援したとして、5つの団体と3個人に対して新しい制裁を課しました。

 この間中国は継続して六者会合再開のための斡旋を行っていました。そして2011年3月15日、北朝鮮の外交部長官は無条件で六者会合に復帰すること、そしてウラン濃縮に関して協議を行うことに同意しました。10月に入り、北朝鮮側は米国、韓国、ロシアとそれぞれ会合をもち、無条件で六者会合に復帰する意志があることを伝えました。

 そして12月17日、金正日が突然世を去りました。

 もう一つ、2011年の国際社会では注目すべき事件が起こりました。2月、“アラブの春”がリビアに波及し、カダフィ政権に対する民衆のデモ行進が開始され、それはすぐに内戦へと発展しました。3月17日、国連安全保障理事会は決議1973号を採択し、リビア上空に飛行禁止区域を設定しました。3月19日、仏・英・米を中心とした多国籍軍カダフィ政府軍への空爆を開始します(リビアは2003年に大量破壊兵器を放棄しています)。10月20日カダフィスルト市において反政府軍の手に落ち惨死しました。カダフィは公の場での最後のスピーチで金正日に言及してこう語りました。「彼はきっとわたしを見て、微笑んでいるだろう。」実際、北朝鮮リビア情勢を注意深く観察していました。4月18日の労働新聞は書いています。「近年アメリカの圧力によって核兵器を道半ばで放棄してきた国々の末路を見ると、我々の選択がいかに賢く正確なものであったかがわかる・・・これが民族国家の自主独立と安全を守る唯一の道なのだ」

 リビア内戦アラブの春がもたらした結末が北朝鮮の核保有の選択に影響を与えたことは否定できませんが、それでも対話を完全に放棄したわけではありませんでした。金正日はその死に至るまで“無条件で六者会合に復帰する”と言っていましたし、後継者である金正恩も当初は父が作った方向性にそって交渉にあたることを認めていました。

 六者会合再開の目処が立たないなか、2012年2月23日と24日、北朝鮮と米国は北京において三度目の高官会議を行いました。両国は再度“9.19共同声明”を履行することを確認し、平和協定に先立つ朝鮮戦争休戦協定が朝鮮半島の平和と安定の基礎である旨を表明しました。又両国は関係改善のため、相互信頼を構築するための措置を協調してとっていくことに同意しました。

 2月29日、米国と北朝鮮は別々に“2.29米朝合意”を公表しました。内容には相違がありましたが、項目は両者の基本的な共通認識を反映したものとなっていました。骨子は以下の通りです:北朝鮮は核実験と長距離ミサイル発射実験、ウラン濃縮活動を臨時中断し、IAEAの査察と監督を受入れる。米国は北朝鮮に対する敵視政策をやめ、関係改善に務め交易を拡大する。又、米国は北朝鮮に食糧24万トンを供与する。

 その後の数ヶ月、この合意に“衛星の発射”は含まれるのかという解釈を巡って多くの主張及び反論の応酬が行われました。北朝鮮は、長距離ミサイル発射実験の中断には衛星発射は含まれないと訴えました。他方の米国は含まれると主張しました。残念ながら、結局のところどのような合意であったのかははっきりしませんでした。(訳注:宇宙ロケットとミサイルは技術的には同じもの。搭載されるのが衛星であるのか爆弾であるかの違いがあるだけ。)

 2012年4月13日の朝、北朝鮮は初の実用衛星“光明星3号”の打ち上げを行い、これを受けて米国は合意事項である食料の援助を行わないことを決定しました。5月2日、国連安全保障理事会北朝鮮制裁委員会は制裁リストを更新し、新たに三つの北朝鮮の団体を制裁リストに追加しました。5月13日(訳注:これは4月13日の誤りだと思われる)、北朝鮮最高人民会議の第12期第5回会議において憲法改正を行い前文に以下の文言を追加しました。“金正日同志はわが祖国を不敗の政治・思想強国、核保有国、無敵の軍事強国にされ、社会主義強国建設の輝かしい大路を切り開かれた。”

 6月18日、オバマ大統領は北朝鮮が米国にとっての脅威であり続けているとして、制裁期間を1年延長することを宣言しました。12月12日、北朝鮮人工衛星光明星3号2号機”の打ち上げに成功したと発表しました。これは一般的にテポドン2号ミサイルだと信じられているものです。2013年2月12日、北朝鮮は三度目の核実験を行いました。3月7日、国連安全保障理事会は全会一致で決議2094を採択、北朝鮮による核実験を譴責し、新たな制裁を課すこととなりました。4月2日、北朝鮮原子力機関のスポークスマンが、2007年以来停止・封印していた寧辺の5メガワット黒鉛減速炉を再稼動させたと発表しました。

 2014年、2月24日に米韓が合同軍事演習“キーリゾルブ(Key Resolve)”を行って以降、北朝鮮は繰り返し様々なタイプのミサイル発射実験を行うようになりました。

 2015年5月20日北朝鮮は“核攻撃の手段の小型化及び多様化に成功した”と発表しました。

 2016年に入ると事態はさらにエスカレートしていきます。1月6日、北朝鮮は四度目の核実験を実施しました。1月13日、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は記者会見で弾道弾迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)の導入を検討すると発表しました

 2月7日、北朝鮮は長距離ミサイルを使用して人工衛星を打ち上げたと発表しました。

 3月3日、国連安全保障理事会は全会一致で決議2270号を採択し北朝鮮に対して新たに系統的な制裁を加えることを決めました。

 2016年の3月から4月にかけて、米韓両国は大規模な合同軍事演習“キーリゾルブ”及び“フォールイーグル”を実施しました。演習には30万の韓国軍兵士、1万7千の米国軍兵士が参加し、空母打撃軍・戦略爆撃機といった戦略兵器が投入されました。そして、演習には“斬首作戦”の訓練も含まれていました(訳注:斬首作戦とは米軍の作戦概念“Decapitation Strikes”のことで敵指導部を除去する作戦を意味する)。米韓両国は70年代からほとんど毎年のように“キーリゾルブ”、“ウルチフリーダムガーディアン”、“チームスピリット”等の軍事演習を行っていますが、近年その規模は拡大傾向にあり標的性も増しています。それに対する反応または準備として、北朝鮮は軍民を動員し戦時体制を敷き、軍隊の再編成を行い、場合によっては歩兵の増強のために予備兵を徴集したりします。こうした演習は半島に緊張を生み出すだけでなく、北朝鮮に人的、物的、経済的資源の損耗を強いることになり、北朝鮮経済ひいてはそこに住む人々の命に対し直接的な圧力をかけることになります。

 その後北朝鮮は更に5度“ムスダン”ミサイルを発射しました。6月1日、米国財務省北朝鮮を“マネーロンダリングの主要懸念先”に指定し、続く6月6日には指導者である金正恩氏を初めて制裁対象者のリストに明記しました。北朝鮮はこれに対して、7月8月、500キロ先の海上にミサイルを打ち込むことをもって応えました。

 8月22日、米韓両国は毎年行っている合同演習“ウルチフリーダムガーディアン”を実施しました。これに対して北朝鮮は、潜水艦発射弾道ミサイルSLBM)を8月24日に発射し、9月3日にはさらに3発の弾道ミサイルを発射し、9月9日には5度目の核実験を行いました。それから82日後の11月30日、国連安全保障理事会は決議2321を全会一致で採択します。注意すべきは、決議において北朝鮮最大の輸出品である石炭の輸出に制限を設けたことです。中国は関係諸国に対して、問題を平和的・外交的そして政治的なマナーで解決するためにできるだけ早く協議を再開するよう呼びかけました。

 オバマ政権の8年を振り返ってみると、米国は北朝鮮の核問題をその体制に対する不承認と関連付けて扱ってきたようにみえます。実際、広く伝えられる北朝鮮の“残虐な体制”は国際社会にとって頭痛の種であり続けています。オオバマ政権は“戦略的忍耐”を掲げてきましたが、その内実は北朝鮮がどのような態度を示そうとも、米国は彼らの安全上の不安に対して真剣な考慮をもって対応しないというものです。北朝鮮が交渉を望むならそれに応じはするが、進展させる気はない。威嚇してくるなら制裁を強化する。結局のところ、目的は継続的に圧力をかけて体制の崩壊を待つというものでした。

 米国はニューヨーク、ピョンヤン、クワラルンプールにおいて、水面下の或いは半公開の交渉を北朝鮮と続けてはいましたが、北朝鮮は核開発計画の放棄を呑みませんから、この接触の効果は限定的なものでしかありませんでした。つまり、オバマ政権の“忍耐”という名の強硬姿勢と北朝鮮の核保有に対する強い意志がぶつかったわけです。両国が互いに反発を醸成しあった結果、半島の情勢は悪循環の螺旋の中に入ってしまいました。

 北朝鮮の核・ミサイル開発が進展を続けるにつれて、米国の“忍耐”も限界に近づいてきます。ワシントンは北朝鮮の米国に対する潜在的危機を評価しなおすと表明しました。北朝鮮が本土攻撃能力を獲得するのは時間の問題というところまできているようです。そして、米国内の反北朝鮮感情が高まり、北朝鮮に関する真偽不明の雑多な情報が広がりました。議会ではオバマ政権の対北朝鮮政策を“弱腰”“無能”だと譴責する声も大きくなってきました。

 トランプ政権は発足後、北朝鮮の核問題をアジアにおいて優先的に対処しなければならない脅威と位置付けました。米国が同盟国と共に北朝鮮へのピンポイント攻撃に向けて動いているといったニュースも軍方面から伝わってきています。そうして朝鮮半島は不確定要素の雲に覆われているという状況です。

 新たに、中国が深く懸念する事柄もでてきました。2016年7月8日、米韓両国が韓国にTHAADシステムを配備することを宣言したことです。THAADシステムに使用されるXバンドレーダーAN/TPY-2は最大・最新の地上移動式レーダーであり、その探知距離は1200~2000キロと言われています。又、分離前の中・長距離弾道ミサイルに対する探知距離は2000キロ以上であり、580キロの距離から弾頭または偽弾頭の正確な着弾点を算出可能とされます。

 もしこれが韓国に配備されるとすれば、レーダーの放射は最も低く見積もっても渤海黄海そして北東及び北中国の一部にまで及ぶでしょう。それは中国の戦略的抑止力が弱まることを意味し、現状不均衡である地域のパワーバランスをさらに悪化させることになります。米国は既に十分なミサイル防衛システム西太平洋に展開しています。THAADを韓国に配備し、それに日本にある2機のXバンドレーダー、さらにグアムに配備済みのTHAADを合わせ情報の共有を行うならば、中国の安全保障にとっては大変な脅威となります。

 中国はまた、韓国へのTHAAD配備が、米国のアジア太平洋における安全保障のゼロサムゲームの追求の再出発にすぎないのではないかと懸念しています。米国が日本やその他東アジアの国へのTHAAD配備を検討しているといった報道も出ています。もしそれが現実になれば、中国と米国は深刻な戦略的均衡の問題に直面することになり、アジア太平洋地域は軍事力競争に押し出されることになるでしょう。

 結論

 さて、残るはこの北朝鮮核問題がどこへ向かうのかということです。三つの可能性が考えられます。

 第一の可能性は米国・国連による制裁、北朝鮮による核・ミサイル実験、そしてまた制裁、という悪循環が続きやがて“臨界点”に達するというものです。北朝鮮のように閉鎖的で孤立した国にとって制裁は大変な圧力となります。しかし彼らは持ちこたえるでしょう。そして核放棄は遠のくでしょう。事実を言えば、北朝鮮が核実験を開始したのは制裁が始まった後のことなのであり、5度の核実験は度重なる制裁の強化という背景のもとに行われたものです。したがって、こうした状況が長期化すると事態は泥沼に入りこみ、制裁と実験が繰り返された先に北朝鮮の技術力が“臨界点”に達するであろうことは、想像に難しくないでしょう。そこまでいけば、北朝鮮の核保有に反対する勢力は極めて困難な選択を迫られることになります。予測不可能な結果を招くであろう“極端な行動”に出るのか、核保有を容認するのか。

 この循環から抜け出すことは二つの理由によって困難なものとなっています。一に、北朝鮮は国家の安全確保のために核を保有することを固く決意しているらしいこと。それが彼らの国策でしたし、近年その方針はより強固なものとなっています。北朝鮮は長年安全上の脅威にさらされており、様々な会合に参加しましたが安全の保障は確保できていません。そしてリビア等の外国の末路もピョンヤン政府の思考に影響を与えました。二に、米国が妥協する意志をいささかも示さず、北朝鮮との交渉を拒否していること。それが政治的に正しい見解ということになっています(特に軍と戦略部門で)。同時に、この危機を利用して東北アジアにおける戦略的配備や軍事活動を強化したいという意図もあり、核問題の解決そのものには照準をあわせていないように見えます。こうした政策上の惰性を考慮すると、交渉への方向転換は大きな抵抗を受けることでしょう。トランプ大統領は果たしてこの旧習から抜け出し活路を開くことができるのでしょうか。いずれ分かる日が来るでしょう。

 米国ではしばしば軍事オプションが議論になります。深刻な考慮を踏まえた分析の結果、毎度次のような結論に至ります。朝鮮半島に展開されている巨大な軍事力を鑑みれば、軍事アクションは(その大小に関わらず)膨大な市民の犠牲を生み、半島はコントロール不能な状態に陥るであろう。

 軍事オプションがテーブルの上にあるということそれ自体が安定を脅かし、関係諸国間の不信の源泉なのです。情勢が“臨界点”に近づくほどに、次のステップに向けて協調していくには、米国がその言動を注意深く検討することが重要になってきます。もちろんこれは米国だけでなく、中国含めた関係諸国全てにあてはまることです。

 第二の可能性は北朝鮮の崩壊です。米国と韓国はこれを望んでいます。米国は北朝鮮に対して不承認・敵視の政策をとってきました。その最終目標は体制の転換です。これはまたオバマ政権がとっていた“戦略的忍耐” の基本原則の一つでもあります。誇張して言いますと、米国の“忍耐”とは制裁を強化し交渉のチャンスは与えず、北朝鮮内部から変化が起こるのを待つというものでした。米国内では、北朝鮮との対話に応じることは、しばしば彼の国の政体を助け変化を遠ざけるものだと見なされます。そうであるから北朝鮮は、米国は敵視政策をやめないだろうと固く信じ、より強く対抗せねばならぬと考えるのです。

 現実的に、北朝鮮の経済はすでに最悪の状況を脱しています。金正恩氏が最高指導者になって以降、国内は安定しているのです。確かに北朝鮮の内政やふるまいは国際社会の反感を招いてはいますが、少なくとも短期的には、核問題の解決として北朝鮮の崩壊を期待することは非現実的です。

 第三の可能性は真剣な対話と交渉を再開するというものです。これは緊張を緩和し、核問題の解決につながります。もちろん、すぐには難しいでしょう。米国と北朝鮮は互いに深い不信を抱いており、多国間協議も挫折してしまい協議に対する関係国の信頼は損なわれたままです。しかし過去の経験は対話のメリットをはっきりと教えてくれます。第一に、対話は情勢を安定化し、協調して問題にあたるための足場をつくります。第二に、対話は合意に至る道を切り開きます。“9.19共同声明”“2.13共同文書”“10.3共同文書”これらは六者会合の成果であり、参加国の共通認識を反映し、北朝鮮核問題の政治的解決に向けたロードマップでもあります。会合が挫折したのは合意の履行が不完全だったからあり、核問題は会合が中断している間にエスカレートしていったのです。

 ここで注意すべきことは、北朝鮮の核・ミサイル技術が進展したことによって状況は大きく変化し、対話の立脚点も六者会合が始まった2003年からは遠いところにあるということです。

 協議を再開する場合、私たちがこの変化した現実を受け入れられるのか、何の条件もつけずにオープンに対話に臨めるのかが重要となってきます。言いかえますと、もしどこかの代表団が変化を認めず過去に戻ろうなどと考えた場合には協議の成功は難しいものとなるでしょう。現状、一つの現実的な方策として“双方停止(double suspension)”があります。

 中国の王毅外交部長は2017年3月8日、記者会見で以下のように述べました。

 “緊張高まる半島情勢への対応策として、中国は次のように提案したいと思います。ファーストステップとして、北朝鮮が核・ミサイル実験を一時停止すること。そして米韓も合同演習を見合わせること。この“双方停止”は我々を安全保障のジレンマから開放し、交渉に席に戻ることを促すでしょう。次に私たちは一方で半島の非核化を目指し、他方で平和体制の構築を進めるという“並行推進(dual-track approach)”をとる必要があります。協調しながら各国が対等に問題に当たることによってのみ、永続的な平和と半島の安定に至る根本的な解決策を見出すことができるのです。”

 つまり、中国は各国が平行して核問題及び安全上の不安に対処すべきだと提案しているのです。

 2017年4月、フロリダで中米首脳会談及び初の外交・安全保障対話が開かれ、北朝鮮核問題を巡って両国は突っ込んだ意見の交換を行いました。中国は半島における非核化と平和と安定にコミットしてきたこと、そして対話と協調による問題解決を重ねて主張しました。また、安全保障理事会北朝鮮に対する決議を引き続きしっかりと履行することも表明しました。中国は更に、半島非核化のための“双方停止”及び“並行推進”について説明し、協議再開のための突破口となりうることを強調しました。又THAADシステム配備に反対することも再度伝えました。

 会談において両国は半島の非核化を最終目標とすることを確認し、緊密な連携をとっていくことに同意しました。会談は中米双方にとって、また関係諸国にとっても信頼醸成につながるものとなり、また東北アジアの包括的平和に向けての希望を示すことができました。

 結論です。中国の利益は半島の非核化を実現すること、そして北朝鮮及びアジア太平洋地域の平和と安全の崩壊を阻止することにあります。中国の責任は上記目的の平和的実現のために積極的な役割を果たしていくことであり、和平合意を促進し地域の永続的な平和と協調を目指すことです。同時に、中国は朝鮮半島に大規模な動乱が発生したり衝突が起ったりすることを断固として阻止します。対話だけが相互の安全を担保します。こうした方向性において、私たちは半島情勢が悪循環から抜け出せるよう努め、東北アジアが“黒暗森林(訳注:中国のSF小説)”とならないようにしたいと考えるのです。

 

 

朝鮮半島の統一を推進することが中国にとって最大の国益である

          英フィナンシャルタイムズ中国語版 2017年4月25日 鄧聿文

 わたしは4月14日に発表した「北朝鮮が平和的転換を失う可能性」の中でこのように述べた。北朝鮮がいずれ崩壊することは必然であって時間の問題にすぎない。北朝鮮に対してこうした認識をもつとき中国がすべきことは,歴史の流れに従い、韓国主導の半島統一を積極的に推進することを通して,北朝鮮崩壊にともなう国家利益と人民福祉の損失を減らすことである。

 朝鮮半島に対する中国の態度には間違いなく三つの選択枝がある。一に半島の統一を推進すること。二に現状維持。三に永久に分断させておくこと。表面的に考えればうしろの二者が中国に有利にみえる。ことにアメリカがアジアに回帰し“リバランス”を志向し,中国周辺での駐留を強化している状況を考えれば,北朝鮮外交カードとすることで最大の戦略的利益を得ることができる。実際、中国はずっとそうしてきた。しかしそれは北朝鮮がまっとうな発展の道を進んでいくこと、そしてすすんで中国の“手先”でいてくれることを前提としている。ところが明らかに,北朝鮮はもはや中国の“手先”でいるつもりはない上に,見境なく軍事オプションをちらつかせ核武装に突き進み,それによって政体の安定を確保しようとしている。ピョンヤン政権の崩壊が不可避のものであるとすれば,崩壊後核兵器は韓国の手にわたることになる。受身の統一を強いられた朝鮮半島は中国に対して敵対心をもつだろう。それは中国の安全にとって大きな危機となる。

 そのとき韓国は中国に対する“新旧の借り”を一挙に返そうとするだろう。“旧い借り”とは朝鮮戦争のことであって,南北朝鮮はともにもし中国が出兵しなければ朝鮮戦争は韓国の統一で終わっていた,そしてその後数十年にわたる民族分断はなかったと考えるだろう;“新しい借り”とは韓国が半島を統一できない責任を中国に見出し,中国が半島統一を妨害していると認識することである。そうなるよりは,中国は半島統一の促進へと政策転換し,国益の最大化を目指したほうがいいであろう。

 半島統一の問題に関して,朝鮮研究者含め多くの中国人はぼんやりとした認識をもっている。すなわち,北朝鮮を中国の戦略的な緩衝地帯とみなし,ピョンヤン政権が安定しており崩壊することはないと考えている。そして崩壊論が何十年もささやかれているにも関わらず現状崩壊がおきていないことを指摘する。

 こうした認識のもとで,中国が半島を統一することもできないし,もちろん韓国に半島を統一させることもできない。一旦統一すれば,中国にとっては巨大な脅威であり,あるいは領土的要求を行ってくるかもしれず,中国国内に住む朝鮮族に離反傾向が生まれてくるかもしれないなどと考える。

こうした観点からみれば,北朝鮮を支援し半島を永久に分断状態に置くことが中国の最大利益である。

 まったく反駁に値しない見方である。なぜなら歴史がすでに答えをだしているからだ。60年前の朝鮮戦争が中国の発展方向を変えたことはひとまず脇に置くとして,その後の数十年のあいだに中国がいわゆるイデオロギー的な又地政学的な利益のために北朝鮮に対して行ってきた援助は天文学的な数字である。

 経済的不振にあえいでいるときでさえ,中国は全力で北朝鮮を支援してきた。ある程度という限定付ではあるが,中国の援助があってはじめてピョンヤン政権は今日まで生き延びてこられたのである。

 しかし援助によって中国が得たものは何か?北朝鮮核兵器を開発し,北京政府に対してもころころ態度を変え,中国の外交環境は悪化し信頼は傷ついた。半島の分断を維持するために,これからも北朝鮮に対して耐えまなく援助を続けるとしよう。中国にそんな金はあるか?金はあったとしてもこの“恩知らず”な巨額の援助に対して民衆は大反対するだろうし,合法性を確保したい共産党にとってもよいことではないであろう。

 またピョンヤンの“ゆすり”のことも考えておかなくてはならない。なぜならピョンヤンは自分達を中国が米日に対抗するための“鉄砲玉”だと認識しているからで,中国が援助するのは義務であってお恵みを受けているなどとは思っていないからだ。もし中朝関係が悪化すれば,ピョンヤン核兵器を盾に北京政府に対して“脅し”をかけてくるだろう。専制的な政権にとっては信用など一番どうでもいいものである。ピョンヤン政府は核爆弾でアメリカに対応しながら,必要とあれば中国を脅すこともできる。

 もう一つ考慮に入れておくべきことがある。もし北京政府が留保なしに北朝鮮を支持し続け,半島を永久に分断させておくという戦略をとるならば,それは中国が半島において米日韓と対峙し,かつての“冷戦”状態に戻ることを意味するということだ。問題は,中国がアメリカと地球規模の“冷戦”を行う準備はできているかということである。一歩譲って仮にそのような実力があり,アメリカとの“冷戦”を望むとしよう。そのときピョンヤンは中国による無条件のコントロールを受け入れるだろうか。わたしは懐疑的だ。金正恩は自身の命を中国の掌に預けることはしないだろう。だから中国がアメリカと冷戦を行う過程において北朝鮮を効果的にコントロールすることは無理なのであって,少なくとも半島での対抗は無意味なものとなるだろう。

 そうなってくると,中朝関係の目指すべき道は自ずから決まってくるではないか。

 実際,もし中国がすすんで韓国主導の半島統一を推進するとすれば,それが韓国の国益を大いに増大させることであるが故に,韓国の中国に対する返礼も極めて大きなものとなるだろう。半島統一は韓国にとって最大の国益だ。それと比べればその他の事案は相談可能,場合によっては譲渡できるようなものなのだ。

 まず,在韓米軍はその法的正当性を失う。米軍が韓国に駐留しているのは半島がまだ戦争状態にあり南北の分断が続いていることが前提なのであり,もし南北が統一すればその前提は消滅し米軍もいられなくなる。韓国人のあの強烈な民族性を考えてみたまえ。米軍の継続的駐留を認めるはずがないではないか。在韓米軍が撤去されるなら当然“THAAD”問題も解決する。

 反対に,中国が半島統一を妨害していると韓国が認識するならば,統一後の抗中国のためという理由から米軍は継続して韓国に駐留することが可能となる。

 次に,南北統一後,東北アジアに中国主導の巨大市場が形成され,経済的な結びつきはさらに緊密なものとなり,中国は持続的な経済成長を確保できるだろう。反対に,中国が半島統一過程の蚊帳の外におかれてしまった場合は,中国は朝鮮再建に参加できず,東北アジアの経済構造ひいては中韓貿易そのものも影響を受ける。中国経済には利益にならない。

 そして,中国人が憂慮する領土問題も朝鮮族の離反問題も消えてしまうだろう。半島統一にあたって中国の助けが必要な状況であれば,ソウル政府は愚かしくも“長白山”(訳注:中朝国境にある山。〈参考〉Wikipediaの白頭山)を要求したりはしないだろう。要求されても断ればよろしい。統一されたとしても朝鮮には中国に領土を要求するような力はない。又,ソウル政府が中国国内の朝鮮族の分離運動を支持することもできない。

 中国と同じく,韓国は北の核保有と崩壊という危機に向き合っている。ピョンヤン政権がどのようなかたちで崩壊するにしても,半島情勢は深刻な混乱をきたし中韓に人道的困難をもたらすだろう。韓国はさらに北の核拡散と核攻撃にも向き合っている。だから中韓ピョンヤンの威嚇に対して協調して対応することが可能であり、協調しなくてはいけないのだ。もし中国が半島統一を主導できたとしたら(韓国には願ってもないことだろう),どうして反中勢力となりえようか。

 中国が大国を自任するならば,世界が信頼するにたる道義性を発揮しなくてはならない。中国は朝鮮問題を引き受けた以上,積極的な姿を見せなくてはならない。韓国・アメリカと協調し,解決のためのタイムテーブルとロードマップを示すべきだ。中韓が先んじて半島統一に関して協議を開始する。その過程でアメリカとロシアを招きいれ四カ国で統一へ向けた移行案を策定する。原則は:自主統一・韓国主導・四カ国協調・同時に中米露の半島での利益を損なわないこと。韓国主導が原則であるのはまず、半島の統一は結局のところ韓国の問題であるからで,またアメリカの牽制があっては,中国だけの力では半島統一へ導くことは無理だからだ。四カ国が力を合わせてピョンヤンに改革開放を迫り,もし応答がないようなら軍事的オプションを検討してもいいだろう。

 そこへ至るまでの過程において,ピョンヤンの核実験に対する制裁のために,北京政府は単独で「中朝友好協力相互援助条約」を破棄し,石油供給を停止してもいいだろう。これはピョンヤン政府には致命的な打撃だ。彼らに理性を回復させなくてはいけない。

 近代史を振り返れば,中国の衰退は半島を失うところから始まった。そして中国の大国としてしての地位は半島での影響力を新たに獲得することから始まるのだ。しかし近年は逆方向へ向かっているように見える。中国は国際世論から勃興を加速していると見られる一方で,半島での影響力は低下している。これは歴史の発展がみせる一段階に過ぎないのか,あるいは中国の勃興は頂上に達しこれからは坂道を降りていくのかは分からない。しかし,韓国主導の半島統一を推進し,半島での影響力を回復させることが,国際社会の道義にかなうことであり,また中国の国益にも合致するのである。