手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「呪の思想 神と人間との間」白川静 梅原猛

呪の思想 神と人間との間白川静 梅原猛 平凡社2002

白川静によれば、日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからだ。梅原猛は同意して言う。異民族を支配するような巨大な国家が出来ないと、文字は生れない。

白川 神聖王朝というと、そういう異民族の支配をも含めて、絶対的な権威を持たなければならんから、自分が神でなければならない。神さまと交通出来る者でなければならない。神と交通する手段が文字であった訳です。

 これは統治のために使うというような実務的なものではない。神との交通の手段としてある。甲骨文の場合、それは神に対して、「この問題についてどうか」という風に聞きますが、神は本当に返事をする訳じゃありませんから、自分が期待出来る答が出るまでやって、「神も承諾した」ということにして、やる訳です。 28頁

はじめて訓読をやったのは誰か。白川・梅原ともに、それは朝鮮の百済の人達ではないかと推測する。百済では「郷札(きょうさつ)」とか「吏読(りと)」といった漢字を用いた表記法が存在した。しかしこれは漢字の音を借りたもの、すなわち音読であった。この用法に熟達した百済人が日本にやってきた。

白川  日本へ来た人たちが、まだ日本の人では文字はもちろん使えませんから、彼らが皆、「史(ふみと)」としてね、かなり後まで、文書のことは全部彼らがやっておった。日本人は参加していませんからね。だから、彼らが漢語にも通じ、日本語にも通じ、それを折衷してね、日本語に適合する方法として、読むとすれば日本語読み、訓読ですね、これを入れる他にない訳です。だから、本当の訓読を発明したのは、僕は百済人だと思う。 67頁

人間としていちばん良い在り方はどういう生き方か。孔子曰く、理念的には中庸の人間がいちばんいい。しかしどんなときでも中庸を失わない人間などゐない。では次にどんなのがいいか。「狂狷の徒」がよい。「智恵者」ではなく。

梅原 しかし、詩人なんてのはやっぱり狂狷の徒ですよ。

白川 そうですね。

梅原 狂狷の徒じゃなくてはね、詩人、文学者にはなれませんよ。

白川 大体ね、左右に振子運動しなければ進めんのです、ものは。(身振りしながら)こうやらんとねえ、進めない。ロケットでない限りはな(笑)。

梅原 そういう人が面白い人間じゃないですかね。孔子自身も、自分を狂狷の徒と思ったでしょうか。

白川 自分でそう思うとるに違いない。そりゃあ彼はね、何遍もクーデターをやっとるんだ。それに失敗して、斉の国に逃げたり、或いは衛や宋、陳・蔡から楚にまで逃げたりしとるんです。 80頁

中国には官を追われた不遇の詩人が、社会批判、政治批判を含めて詩を作るという伝統がある。改革的な意図をもって、正面から立ち向かうような格好で批判する。日本にはほとんどそれがない。恨みはある、哀しみはある。しかし、相手に「もの申す」という形をとらない。

白川 個人の中に籠もり過ぎておるという感じがしますね。

梅原 日本で唯一の社会的な文学というとプロレタリア文学ですが、一時期だけのものです。マルクス主義が崩壊すると、社会的な文学は日本ではすっかり失われてしまいます。今はもう完全に私小説の時代。これは何か根が深いですね。

白川 日本からみると中国人は政治的人間であるというけれども、しかし日本人の方が政治的なものの欠如状態であってね、むしろ、そういうものを充足しなければならない。政治がなければ社会は有り得ないんだから。みんなが個人の中へ籠もってしまったら、社会形成そのものが出来ない。社会生活がある以上、政治的なものは必ずある訳ですから、文学もそういうものに分野を広げていかなければね、これが日本文学の宿命だということでは済まされないと思う。 285-286頁

この白川の言葉は痛烈だ。いまの日本の状況はまさに、「個人の中に籠ってゐたい」という幼児性と、「それでは社会が壊れるから政治的なものを充足していこう」という危機意識とのせめぎあいだ。言論の世界で、また一人の人間の中で、幼児性と危機意識とが戦ってゐる。

政治が劣化して完全に機能不全に陥り、社会が崩壊していく。これはさすがにまづいと気づいて政治に関心を持つ人が増えてゐる。他方、「政治のことはむづかしいから自分の仕事をがんばります」とか「イデオロギーにとらわれずに何事もフラットに是々非々で判断したいですね」とか「批判だけなら誰でも出来る」とかいった、結果的に現状追認にしかならないような抑圧的言説もまた、大量に供給されてゐる。

自分のことで精一杯、と言いたいし、実際そのとおりなんだけれども(ホントに)、そこで個人の中に籠ってしまったら(保守化)、政治はもっと劣化して、社会はもっと殺伐としたものになると思うんだよな。今年の衆院選はどうなりますかね。