手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「民主主義を問いなおす」内山節

民主主義を問いなおす」内山節 農山漁村文化協会 2021

近代世界の限界

近代社会は三つのシステムが三位一体となるかたちでつくられてゐる。国民国家市民社会、資本主義である。その前提となるのが「自由な個人」という概念だ。「自由な個人」が王制や領主権力を打倒し、すべての人間が自由で平等な主権者として存在し、その個人を等しく国民として管理する基盤が生れた。個人は酋長や領主が治める「むら」や「くに」ではなく、市民社会という公共空間で生活する。

国民国家市民社会の一体化された世界が登場すると、経済システムも個人を基準としたものに変えたほうが相性がいい。ひとりの人間は労働力として存在し、みづからを労働商品として売り、経営者も資本家も個人として活動する。逆に個人としてモノやサービスを買い、消費者としてのアイデンティティを確立する。

国民、市民、労働力などとして成立する個人が、国家、市民社会、資本主義を三位一体として成立する近代世界をつくってきた。

 だが現在では、そのすべてが限界を迎えている。三位一体の体制である以上、ひとつが限界に達すれば、他のふたつも限界にならざるをえない。どこの国でも退廃した国民国家が姿を現わし、市民社会ではバラバラになった個人の社会の問題点が目立ってきた。資本主義もまた格差ばかりがすすむ荒廃した資本主義の様相をみせている。 9頁

大きすぎる国家権力

国家の有益性よりもその不利益性のほうが大きいと感じる人が増えてゐる。最大の問題は国家の権力が大きすぎることだ。民主制国家というよりも「民主王朝制」とでも呼んだほうが実態に近いかもしれない。投票で王朝を選んでゐるようなものだ。

あまりに権力が巨大であるために、どこに国でも権力をとってしまえばけっこう好き勝手にできる。その結果、どんな手法でも勝てればいいんだということになって、人々を煽動しながら政治をすすめていく「デマゴーグ」の政治が行われてゐる。これは大衆迎合ポピュリズム)とは違う。迎合ではなく、煽動だから、やはり「デマゴーグ」の政治といわねばならない。

なぜそうなったかというと、民主主義政治という制度が中世の王朝制を民主化するかたちで形成されたものだからだ。絶対王政の権力を、民主的に政権を選ぶ制度に切り替えた。国家に権力が集中する仕組そのものは民主政治にも継承されたのだ。国民国家の元型は伝統的な王政にある。

近代社会が奉じてきた「自由・平等・友愛」という普遍的理念が建前としてでも機能してゐたのは、先進国が富を独占できて社会が良くなっていく気分を共有できてゐた1970年代くらいまでのことだ。その構図が崩れてしまうと、先進国の住人もその果実にありつけなくなり、いよいよその理念を信じられなくなってきた。結局のところ、普遍的理念といっても、支配の道具にすぎなかったのだ。

建前が維持できなくなると政治はむき出しの利害衝突へと突き進み、アメリカでは「不法移民が我々の職を奪ってゐる」と煽動するトランプが登場し、ヨーロッパでもイスラム教徒への迫害が深刻化してゐる。日本もまた。

(・・・)日本の場合は、中国とか北朝鮮というよくわからない国が近くにあります。いまの日本の政治家からするとこの2国の存在は本当に助かる。中国脅威論と「北朝鮮がいつミサイルをぶっ放すかわからない」という雰囲気を煽動しておけば、「強い国家をつくる」ということに簡単に支持を得られる。北朝鮮と中国の2国が安倍政権を支えていると言ってもいい状況になっています。 40-41頁

伝統回帰

「自由・平等・友愛」のような普遍的価値にしろ、象徴天皇制という日本の制度にしろ、国民統合のアイデンティティとして機能しなくなりつつある。世界はこれまでの秩序を維持できなくなり、分解と混乱を深めてゐるのがいまの状況だ。そういうなかで、未来への指針を伝統のなかにさがしもとめる動きがいろいろなところで生れてゐる。

例えば「宗教」や「信仰」。いづれも日本語としては明治の翻訳言語として成立したもので、江戸時代までの日本にはなかった。仏教もあったし、神様はゐたけれども、それは明治以降のぼくたちが呼んでゐる「宗教」とは違うものだった。生活のなかに自然に入り込んだものだ。

例えば、ごはんを食べるときに「いただきます」といい、自分に生命を与えたくれたものへの感謝の意をあらわすこと。また山のほうに住んでゐる人が、日々の生活や労働のなかで山の神に祈ること。これは宗教的な営みだけれども、何かの信仰に入るのとは違ってゐる。独立した特定の宗教として名指すことができない、生活のなかにある祈りのようなものだ。こういう感覚への回帰がはじまってゐる。

また、コミュニティ=共同体づくりも伝統回帰だといえる。ソーシャル・ビジネス的な動きがいたるとことで拡がってゐるのはそのしるしだ。これは「よりよい社会をつくるための経済活動」とでもいうべきもので、ただ儲けるだけのための経済活動に対抗するかたちで出て来たものだ。けれども、人間の経済活動とはもともとそういうものだったのだから、「もう一度原点に回帰しよう」という動きだといえる。

経済発展したのはいいけれど、その結果として地域社会や共同体が衰退し、人々が分離して孤独に生きるようになった。それに対する反省だ。

 東京はある意味では最も経済発展した場所であると言えますけれど、地域としてはむちゃくちゃに衰退している。お金が回らなくなるとたちまちみんな破綻するような社会をつくってしまっているのですから。予定どおりいかなくなったときにその危機の深さがみえてきます。たとえば東京で直下型大地震が起きると、危機になり予定どおりにはいかない。そうすると東京のもっている地域社会の危機の深さがたちまち露呈してきます。お金が回っている間はみえにくくなっているのですけど、お金が回らなくなったりあるいは大災害が起きたりすると、ピンチ極まりない社会が東京だと言えます。 66-67頁

関係の哲学

コミュニティ=共同体において、人は「個人」として「場」において出会い「関係」をつくる。ではいったい「個人」とは、「場」とは、「関係」とはなんなのか。

欧米系の思想では実体が本質だという立場をとってきた。神という実体が存在する。死者という実体が存在する。魂という実体が存在する。個人という実体が存在する。実体としての個人が集合して社会をつくる。そのように考える。

日本の伝統的な発想はそこにはなく、本質的なものは実体ではなくて関係であるととらえてきた。関係を通して実体がでてくるというのが日本の発想では大事なことだ。神/死者/魂は存在するか?と聞かれて、「存在する」とはっきりは答えられないけれど、ないともいえない。存在するようにふるまってゐる。

日本的感覚では、関係を結んだところに、実体が出現する。死者との関係をつくってゐる人にとってやはり死者の霊は存在するのだし、神との関係をつくってゐる人には神は存在する。あらかじめ実体があるから関係が結ばれるのではなく、関係があるから実体がつくられる。そして「関係」を成立させるのが「場」である。

 場があってこそ関係が生まれる。あるいは関係があるから場が生まれる。循環論法(トートロジー)になりますけれど、人間がつくってきたものには循環論法でしか説明できないものが多いのです。つまり、別に科学的な研究の末にできたものではない。夫婦関係みたいなもので、夫婦という関係でいるから夫婦があるし、夫婦でいようとするから関係がある。 123頁

 場と関係のあり方をこれからもう一度ちゃんとみなくてはいけないと思います。実際、東京などで関係をつくろうとしている人たちがやっていることは、場をつくることです。ただ関係をつくろうとしてもなかなかできない。皆が集まれる場をつくるとか、何かあったら相談に行ける場をつくろうとか、そういう活動をしている人がたくさんいます。コミュニティカフェをつくろうというのもそのひとつです。やはり「場があってこその関係」という方向性にあるという気がします。 124-125頁