手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「新海誠論」藤田直哉

新海誠論藤田直哉 作品社 2022

新海誠監督が柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読んで風景を描く手法に影響を受けたと書いてあって驚いた。なるほどそう言われるとたしかにそんな感じだ! というかまさにそれだよ!

最近柄谷さんの「力と交換様式」を読んだこともあり、また柄谷さんが「バーグルエン哲学・文化賞」というよく知らないがたいへん名誉なことらしい賞に選ばれたという報道にふれたところだったので、俄然、オー!っという気持ちになった。

本書からその箇所を引用する。

(・・・)『日本近代文学の起源』を新海自身の理解に即して簡単に要約すると、人間は「風景」をいきなり見られるようになったのではなくて、それは人間が言文一致の小説を読むようになり、「内面」が形成された後に、自分自身の心情を投影したものとして「風景」を発見したのだと述べている本である。少し、直感的には分かりにくいかもしれない。

 普通我々は、風景が客観的にあって、人間がそれを単に見ている、と感じやすい。しかし、風景が、ある美しさや情緒を称えた対象と見なされるのは、それが「発見」されてからである、と柄谷は考えている。風景があるからその美しさを見出すのではなく、風景画などでモノの見方を学習した後に、風景の美しさを見出せるようになるのである。何かを観る認識や感覚自体が、訓練の結果身につくものなのだ。

 日本近代文学には、風景を描写しながら、それが同時に内面の表出になっているという表現がよくある。それは、近代文学などを読んで「内面」が構築され、その「内面」があって初めて風景の美しさが発見されるという関係になっていると、柄谷は言う。 76-77頁

たしかに新海監督の映画では新宿とか四谷がとても美しく描かれてゐて、ああ東京はこんなに美しかったのかと「風景」を新しく「発見」した気持ちになる。

先日「言の葉の庭」を見て雨の美しさに感激したところだったので、この指摘に深く得心するとともに、新海監督すごいなあ、近代文学が散文でやったことをアニメーションで実現したのだなあと感嘆した。

そして自分が数年前に書いた「北朝鮮の空」という記事を思い出した。これは北朝鮮の大学に留学中の中国人学生のエッセイを翻訳して紹介したものである。彼女は次のように書く。

我自己平时很喜欢散步,我记得有一次从大学旁边的商店走出来,天特别特别蓝,街道很干净,两旁的树高大笔直,非常绿,好像走在新海诚的动漫里。

わたしは散歩をするのが好きだ。大学近くの店から外に出たことがあった。空はとびきり青く、道はとてもきれいで、両脇の街路樹は高くまっすぐに伸び、緑は濃い。まるで、新海誠のアニメの中にいるようだった。

風景を描写した文章が同時に内面の表出になってゐる。そして彼女はその風景の見方を新海誠のアニメから「学習」したのだ。

中国人学生の北朝鮮留学記に「新海誠」という単語が出てくるなんて想像してゐなかったので、ぼくははじめそれが監督の名前ではなくなにか知らない単語なのかと思ってつっかえてしまった。ちょっと考えてあの新海誠だと理解した刹那、ぼくの心もまた晴れたのだった。

バーグルエン賞審査委員長のアントニオ・ダマシオ氏によれば、柄谷の著作は英米より先にアジアで多くの読者を獲得したそうだ。

驚くべきことではありませんが、柄谷氏の著作は欧米で広く知られるのに先立ってアジア全域で影響力を持ち、アジアの学者たちが、資本主義や国民国家、国際関係への対応を発展させつつ、自国の文化を批判的に分析するという難題に取り組む方法を形づくりました。地域のレベル、もしくは国のレベルでの反響が、広く普遍的に当てはまることが、やがて証明されることでしょう。

新海作品もまたアジア各国で高い人気を誇る。韓国での人気は有名だし、北朝鮮の文化状況はさっぱり分からないが、こっそり(あるいは公然と?)見られてゐるかもしれない。柄谷の影響を受けた新海誠の描く風景の美によって、日本人と中国人と朝鮮人が同じ空を見るようになってゐる。

こういう文化的交流が行われてゐることについて日本の支配層はどう考えてゐるのか。ほとんど邪魔ばかりしてゐるように見えるのだがぼくの見当違いだろうか。

政府主導のクールジャパンは失敗し、2023年10月に導入されるインボイス制度によってアニメ業界は大きな打撃を受けると言われてゐる。

世界の安全保障環境が一層厳しさを増してゐることに応じて、防衛力を増大させ敵基地攻撃能力をもてるようにするつもりらしい。防衛費は2023年度から5年かけて43兆円増額する計画で、総額はGDPの2%に達するとのこと。そのための財源に復興特別所得税を流用することを検討中というからまったく非道である。

平和構築へのビジョンと外交への意志がなさすぎる。これでは「平和国家」というブランドも壊れ、安全保障環境が一層厳しさを増すだけではないのか。抑止力が高まるのは結構なことだが、そのぶん緊張も高まり、国民がどんどん貧しくなるのなら「総合的な国力」とやらは低下する。

とすると抑止力によって国が亡ぶという妙なことになる。思うに、抑止力という概念そのものに問題があるのだ。これをもっと練り上げていく必要があるのではないか。抑止力=軍事力という現在の図式は素人考えでもおかしい。

戦国大名は自分の娘を隣国へ嫁に出したりまたもらったりすることで、互いに攻めづらい状況をつくってゐた。現代のそれに相当するのが文化交流であり、外交であるはずだ。すなわち心理的抑止力ということである。

あの国とは戦争したくないという気分。抑止力について議論する際、軍事的抑止力だけでなく心理的抑止力を、必ず、あわせて議論すべきである。そうでなければ不安が膨張し、膨張した不安に応じて軍事費/防衛費が膨れ上がるだけだ。不安には際限というものがない。

しかし現在の与党にこんなことをいってもムダであろう。自民党は日本をソ連北朝鮮のような国にするつもりらしい。自分達の地位さへ守れれば国民がどれほど窮乏してもかまわないというわけだ。劣化も極まれりである。

生活が苦しくなるとひとは信仰を求める。自分を超えたおおきな存在や世俗とは別次元の超越的な価値とつながりたいと考える。多くの日本人は「無宗教」であり、その宗教心の根幹はいたるところに神がゐるというアニミズム的感覚。

新海監督は古事記神道民俗学的モチーフを導入することでこのアニミズム感覚を描いてきた。問題は、アニミズム的感覚は文字通り「感覚」であって、理智や思惟に乏しいことである。対象との一体感・没入感を容易に得ることができるが、対象と自己を分離/分析する用意はない。

日本的な宗教心、スピリチュアルな感覚がまた国家主義に結びつき愚かな戦争に突き進むことになるのだろうか(ジーンときた→日本に生まれてよかった→日本スゴイ反日国家をやっつけろ)。

藤田直哉さんは新海監督の描く「宗教」に「叛逆的で、多元的な側面」「社会改良の行動に向かわせる側面」を見出してゐる。

(・・・)新海誠の描く「宗教」は、国家神道天皇と直接結びついてはいないということを、本論では重視したい。詳述したように、新海誠が描くそれは、周縁の、縄文や蝦夷的な、原初的なアニミズムを志向するものであった。であるから、叛逆的で、多元的な側面があるし、社会改良の行動に向かわせる側面も持っていた。であるから、新海誠作品が、単純に「ネオ国家神道」や「ニュータイプの日本浪漫派」に堕するわけではない、それとは違う可能性・志向性に開かれているのだ、ということを強調しておきたい。 171頁

いよいよ日本は正念場という感じがする。

ぼくたちの霊性国家神道天皇に結びつき排外主義とファシズムに回収されてしまうのか。あるいは藤田さんが希望的に見出したような「叛逆的で、多元的な側面」を開花させ、「社会改良の行動」に向かうことができるか。

ま、とにかく、「すずめの戸締まり」を見に行かねば。(早く行けよ)

 

追記:

藤田直哉さんの「すずめの戸締まり」評がアップされてゐた。ふむふむ。

www.cinra.net