手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「インド哲学10講」赤松明彦

インド哲学10講」赤松明彦 2018 岩波新書

急に秋が深まったようだ。寒い、暗い、おまけに雨が降ってゐる。優れた書物を読んでも、寒い、暗い、おまけに雨が降ってゐるとなれば、ぼくは気鬱だ。アパートの壁が薄く華奢な構造だからこんなに冷えるのである。分厚いコンクリートでつくられたマンションに引っ越したいものだ。分厚いコンクリートでつくられたマンションの部屋は、きっともっと暖かいさ。

寒さを忍んで、いくつかメモをしておこう。

最近苦労して読んでゐるカタックの専門書に、インド舞踊全体の基底にある神話体系についての記述があった。それによれば世界はシヴァ神とその妃であるパールヴァティが踊ることによってつくられた。シヴァとパールヴァティの舞踊神としての形態をそれぞれ、ナタラージャおよびラースヤという。

シヴァは男性原理を象徴し、パールバティは女性原理を象徴する。また、シヴァ神は宇宙をつくる根源的な力であるプルシャを象徴し、パールヴァティはプルシャが物質的なものとして顕現されたプラクリティを象徴する。

すなわち、

シヴァ      パールヴァティ

ナタラージャ   ラースヤ

男性原理     女性原理

プルシャ     プラクリティ

という二項図式が成り立つ。

この二項の融合が世界を存在させてゐる力なのであると。

インド哲学10講」は哲学の本であるからこうした神話的・宗教的な世界認識について語るものではないが、「プルシャ」と「プラクリティ」について分かりやすい解説があったので嬉しかった。

この二元論はサーキヤ派の思想に代表されるものらしい。なんでも「プラクリティ」は物質的な根本原因であり、「プルシャ」は純粋に精神的なもので「プラクリティ」を「見る」ものだという。

 プルシャが精神的なものである限り、それが物質的な原因として物を生み出すという活動はできないはずであると、サーンキヤの思想家は考えたのである。そこでプルシャに代わって根本原因の位置を占めることになったのが、物質的根本原因としてのプラクリティであった。 88頁

  しかし、では物質的な根本原因だけから世界創造は起こるのであろうか。そうではない。『サーンキヤ頌』には、「プルシャは〔世界創造を〕見るために、プラクリティは、プルシャの独存(解脱)のために、両者はひと組となる。それによって創造がある」(二一)と言われている。プルシャは「見る者」であり、プラクリティは「見られる者」である。そして、両者が一対になることで、世界の創造が行われるのである。 89頁

なるほどインド舞踊の背後にある宇宙観はこの二元論を採用してそれを人格神にあてはめたものなのだな(ぼくが読んでゐる本によれば)。

もう一点、カタック理解に重要なバクティ信仰に関連した記述があった。バクティとは信愛、献信、献愛、誠信などと訳される言葉で、全身全霊を神にゆだねる信仰のありかたをいう。これはヴィシュヌ教に基づくものであり、カタックではヴィシュヌの化身クリシュナへの愛として表現される。

ヒンドゥー教聖典「バガヴァッド・ギーター」は一世紀頃に成立したヴィシュヌ教の聖典である。本書ではバクティ信仰のありかたを示す「バガヴァッド・ギーター」の一節が紹介されてゐた。

一枚の葉、一房の花、一個の実、あるいは一杯の水であっても、私に〔それを〕信愛(バクティ) をもって供えるならば、信固く心定めたその者から、信愛をもってささげられたそれを、私は喜んで受けとる。 (九・二六)

その者がたとえ極悪人であるとしても、私以外に心を向けることなく私を信愛する(「バクティ」の動詞形)ならば、その者は善人に他ならないとみなされるべきである。なぜなら、その者はひと筋に心定めた者であるから。 (九・三〇) 171頁

 これは実にいい詩節ですね。ぐっときました。