手探り、手作り🐘

明日できることは今日しない🐌

ブログの全体像&自己紹介

こんにちは。

林広貴といいます。ご訪問いただきありがとうございます。

ここではブログの全体像の説明と、簡単な自己紹介をいたします。

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評判のいい記事

ワナジャ      とても評判がいい記事です。

結婚披露宴 祝辞     パンデミックの前年でよかった🎉

お客さん      むかし生理をそういったとか、含蓄あるよびかたですね。

「マスコミが報道しない真実」について 遠い昔のことのようだ、、、

本ブログの表記法について

ぼくは戦後行われた「国語改革」は誤りであったと考えてゐます。これは日本語表記に対する外科手術でしたが、漢字全廃という不可能な目標を掲げたものであったため、切る必要のない組織を切り、繋げてはいけない血管を繋げてしまった。軽率で乱暴な改革でした。

日本は明治に脱亜入欧と言い、戦後は米国の子分となり、長いあいだ欧米の背中を追ってきたわけですが、それももう限界で、文明観の見直しを迫られてゐる。アジア/東洋の文化に回帰するときが来たのではないでしょうか。

またテクノロジーの進歩によって書記環境は大きく変化しました。ぼくたちにとって文字はいまや「書く」ものではなく「打ち、変換し、選択する」ものとなりました。難しい漢字を簡単に呼び出すことが出来ますし、現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの変換も容易です。

このような観点から、ぼくはいま通用してゐる「国語改革」以後の日本語表記法に必ずしも従う必要はなく、みんなが自由気ままに模索したらよいと考えてゐます。

ぼく個人としては、仮名遣いについても漢字についても、国語改革以前の正統表記に戻せるところがけっこうあると思うので、このブログでいろいろ試しながら落としどころを探ってゐるところです。

「仮名遣い」については、

・助詞の「さへ」「づつ」

・存在を意味する「ゐる」「をる」

・「ぢ」「づ」「じ」「ず」、いわゆる「四つ仮名」を使用した語

を「歴史的仮名遣い」で書くという原則で表記してゐます。いい具合に落ち着いてきたという感触があるので、これで固定してゐます。詳細は、

をお読みください。「漢字の用法」についてはずっと悩んでゐます。自分なりの用字法をつくりたいのですが、考えがまとまりません。

自己紹介

1986年生。生まれも育ちも奈良県奈良市です。いまは東京都江戸川区小岩にイヌのチャコと暮してゐます🐶 昨年末で仕事を辞め、職業訓練受講のための準備中です。

趣味は舞踊と文学です。

2012年3月から2021年7月まで、大槻一博先生に師事してフォンジュン(fonjerng、北タイの武術・舞踊)を習ってゐました。

2016年からカタック(kathak、北インドの伝統舞踊)を学んでゐます。インドの先生のオンラインレッスンを受けてゐます。Disciple of the Nutan Patwardhan.

いろいろ書いてゐますけれど、優先順位はカタック探求がいちばんうえです。踊るのと勉強と二つの車輪でゆっくりすすんでゐます🐌

☝は勉強ノートです。

伝統舞踊に限らず舞踊芸術全般が好きです。好きな舞踊家・ダンサーは、

Nutan Patwardhan、Komal KhushwaniMadhuri Dixit、キム・ヨナマイケル・ジャクソン、アクラム・カーン、Shantala Shivalingappa など。
 
好きな作家は福田恆存夏目漱石井上ひさし斉藤茂吉中島敦 など。 
 
連絡先:duoxie.hengcun@gmail.com

「NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』」若松英輔

NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』若松英輔 NHK出版 2019

善の研究」は図書館や古本屋でパラパラめくったことがあるだけで、まだ挑戦したことはない。本書を読んで、きっといつか読もうと思った。「絶対矛盾的自己同一」なんていう鍵語だけ頭にあって、こういうことが書いてある本だとはまったく知らなかった。若松さんの著書はたぶん4,5冊読んでゐる。いつも感動する。

以下は、西田がモーツァルトを論じたくだりを引用した直後の文章。大切。

 美しいものにふれることと、大いなるものを信じることとは同質の経験である。美の経験とは、美を通じて人間を超えるものにふれようとすることであるというのです。また西田は、「かかる直感は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である」(同前)とも述べています。

(・・・)

 西田の言葉が本当であれば、たとえば日々、料理を作るとき、掃除をするときなどにも「知的直観」は開かれていることになります。そこに音楽や絵画のように表現されたものがなくても、人間は日々の生活で「知的直観」を深く経験し、体現している、というのです。しかし、そのことに私たちはあまり自覚的ではありません。問題は「知的直観」が働いていないことではなく、それを自覚できていないことなのです。

善の研究』で一貫して述べられているのは、日常の再発見です。

 何気ない姿で日常に存在するものを、日常の外に見出そうとしても、永遠に見つけることはできません。西田の言葉を信じるなら、私たちは「実在」を外の世界ではなく内なる自分に見なければならない。日常で「純粋経験」を生きてみなくてはならないことになります。

 まだ見ぬ未来や外の世界を凝視するより、己れのなかにすでに在るものを見つめる。それが西田の哲学の基点であり、究極点でもあるのです。 89ー90頁