手探り、手作り🐲

樂しみ亦た其の中に在り🌴

ブログの全体像&自己紹介

こんにちは。

林広貴です。ご訪問ありがとうございます。

このページではブログの全体像の説明と、簡単な自己紹介をいたします。

本ブログの表記法について

このブログでは少し変わった表記法で日本語を書いてゐます。具体的には前文にあるように「ゐる」と書いたり、また「づつ」「むづかしい」「ぢゃあ」などと書きます。もちろん伊達や酔狂でやってゐるのではない。話せば長いわけがある。

その長いわけにご関心がありましたら、「本ブログの表記法について」及びその中にもリンクを貼ってあります「日本語表記と歴史意識」「手作り漢字表」をお読みください。国語改革についてはあんまり昔のことでもう誰も何も言わなくなりましたが、わたしには非常に重要な問題のように思えます。

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自己紹介

1986年生。生まれも育ちも奈良県奈良市いまはイヌのチャコと東京江戸川の近くに暮らしてゐます。仕事は派遣で経理。趣味は文学と舞踊。

好きな作家は福田恆存夏目漱石芥川龍之介中島敦井上ひさし など。

2016年からカタック(kathak、北インドの伝統舞踊)を学ぶ。インドの先生のオンラインクラスに参加中。踊るのと勉強と二つの車輪でゆっくり進んでゐます。Disciple of Guru Nutan Patwardhan ji.

連絡先:duoxie.hengcun@gmail.com

「インド宗教興亡史」保坂俊司

インド宗教興亡史保坂俊司 ちくま新書 2022

アーリア人によるヴェーダの宗教以前から存在した土着の宗教

 従来の研究では、ダーサなどの土着宗教について明確な言及はされてこなかった。というのも、これらの宗教には、ヴェーダ聖典のようなまとまった文献が存在しないためである。土着宗教は、インダス文明を支え、また独自の呪術的な宗教形態でインド全土に広まっていただろうが、それらの宗教の評価はなされてこなかった。文献などの客観的史料がなく、評価しようがなかったということである。

 しかし、バラモン教や仏教やジャイナ教など、インド発祥の宗教に通底する出家と修行という宗教形態の主流は、ヴェーダの宗教ではなく、むしろ被征服民が長い間培ってきた土着のダーサの宗教などに、その起源を求めることが自然であると筆者は考える。(・・・)

 バラモン教(特にとその中期以降)や、オール・インドとして拡大したヒンドゥー教の特徴の一つである禁欲、あるいは節欲主義的な宗教思想と実践の淵源も、インドの大地に根ざした非アーリア系土着民族の宗教伝統である。

 というのもアーリア人の宗教は、遊牧的な伝統に即し、世俗生活の安楽の追求や子孫繁栄を、祭儀などを通じて実現することに関心があり、その世俗生活をすて、自ら難行苦行し、超越的な宗教世界の安楽を求めるというような現世否定の思想も実践も、その主流は見出せないからである。そして、この非アーリアの伝統である修行という形態こそが、インドの宗教の独自性である。 38-40頁

 

遊牧から定住に移行したことによる宗教形態の変化、プルシャ(原人)思想の誕生

 遊牧民の宗教の特色を色濃く残していたヴェーダの時代、アーリア人は、決して不殺生主義ではなかった。家庭では火を崇め、共同体では大規模な動物の供儀を行うなど、遊牧民特有の儀礼を発達させた。供儀の目的は招福除災を祈る現実的かつ実利優先の御利益信仰であった。

(・・・)インド亜大陸への定住を通じてアーリア人の信仰は大きく変化する。インド西北部にあった河を神格化したサラスバティー女神が芸術と学問をつかさどる神となり、天空と水を支配する神であったヴァルナ神が変化して法律の護持者として崇拝されるようになった。仏教を通じて日本にもたらされ、信仰されている神を紹介すれば、インドラ神は帝釈天、サラスバティー女神は弁財天(弁才天)、ヴァルナ神は水天宮で祀られている。ただし明治政府による廃仏毀釈以降、これらは伏せられる傾向にある。

 アーリア人のインド土着化の進行とともに、宗教に変化が生じたのは、遊牧から農耕へ、つまり移動生活から定住生活への変化による、秩序の維持を目指す発想である。その典型が、世界の生成をプルシャ(原人)に託す思想であった。

 プルシャの口からバラモン(司祭、僧侶)が生まれ、両腕から王族(後にクシャトリヤ、武人)、両腿から庶民、そして両のかかとからシュードラが生じたとする起源神話である。プルシャから諸々が生まれたとする発想には、定住社会の秩序を宗教的に説明しようとする意図がある。事実、このプルシャ説は、後にカースト制度の正当化に用いられ、現代にいたるまでインド社会秩序形成に強い影響を保持している。 44-46頁

 

梵天勧請。バラモン教と仏教を習合させる論理。ブラフマンゴータマ・シッダールタの前にあらわれて衆生に真理を説くよう請うた。

 バラモン教徒の修行者としてのシッダールタから、新たな仏教の開祖としての修行完成者になるストーリーの主役は、バラモン教の主神であるブラフマン梵天)だった。

 ブラフマンは「尊い方よ。尊師は教え(dhamma)をお説きください。幸ある方よ、教えをお説きください。この世には生まれの良く、汚れの少ない人々がおります。彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、法を聞けば真理を理解するものとなるでしょう」と述べ、シッダールタの意識改革を促したのであった。

 ここには、仏教と他宗教の関係性構築に関する基本精神が表れている。ブラフマンは自らの意志で、悟りを開いたシッダールタの前に現れた、ということである。この点がまず注目される。ブラフマンの出現は、あくまでシッダールタ側からの要請ではない。これは、仏教の富強が、仏教の側からの発意、つまり他者への善意の押し売り的な布教ではない、ということである。(・・・)

 世俗世界の主宰者ブラフマンという神自らが、シッダールタの教えを民衆に説くように要請したのである。梵天勧請の設定を経て、ついにゴータマ・シッダールタが動き出す。仏教の開祖が、ヒンドゥーの神からの懇願、働きかけに応じて、悟りの形態を変化させたのである。

 「その時世尊師は、梵天の要請を知り、衆生への憐れみの心により、目覚めた人となって世界(loka)を見た」という文章は、完全に世俗への接近を決意した思想的な立場の転換、つまり世俗世界へのかかわりの積極的な心の動きを表している。それもブラフマンというインド固有の宗教への主宰者の勧請によって、シッダールタの心に民衆の哀れみ、思いやりのベクトルが生じた、というのある。サンスクリット語の「カルナーナ(karuṇā)」は、仏教の慈悲の思想の原点的存在であろう。

 梵天勧請は、仏教の存在に、他者の助けや強力が不可欠であるということであり、これは後に、仏教と他宗教との関係において、大いにその有効性を発揮することになる。 73-75頁

 

イスラム原理主義を推し進めたアウラングゼーブ帝とシク教第九代グル、テグ・バハードゥルとの対話。

 処刑の直前、アウラングゼーブ帝と第九代テグ・バハードゥルの問答が残っている。皇帝が「私に反抗することは、君の利益にはなるまい。恭順すれば命を救うかどうか」と問うと第九代グルは「いかなる権力者といえでも、死によって滅亡を迎えます。しかし、神とそれに仕える者には、死という滅亡はありません」と応えた。そこで、皇帝が「では、神に仕える者として、その証しである奇跡を起こしてみよ」と問い詰めると、第九代グルは「奇跡などというものは、手品師やペテン師のやることです。私に許されていることは、神の意志に沿って生きることです」。皇帝はすかさず「イスラムこそ真の宗教であり、唯一の宗教である」と述べると第九代グルは「私にとっては、その人が信じ、従っている宗教が、即ち真の宗教であり、その人にとっての唯一の宗教なのです。たとえばそれがヒンドゥー教であろうと、イスラム教であろうと私はそれを否定しません。すべては唯一の神の教えなのですから。しかし、その信仰を暴力や武力をもって変えさせようとすることには、私は断固反対します」。こうして第九代グルはすすんで死を選んだとされる。 153頁

 

ムガル期、インド・イスラム融合思想の代表、ダーラー・シコー(1615-1659)。

 インド・イスラム思想の独自性は、ムガル帝国第五代のシャー・ジャハーン帝の皇太子ダーラー・シコーによって、さらに高度に展開された。彼は、ムガル宮廷を代表するスーフィーでもあった。

 ダーラー・シコーは、ムガル皇帝として、政治の中に寛容の精神を反映させた。彼は文化事業にも熱心であり、サンスクリット語からペルシア語に翻訳させたウパニシャッド文献『ウプネカット』が、後にラテン語訳されてヨーロッパ知識人に大きな影響を与えたことは既述のとおりである。ダーラー・シコーは、特にヒンドゥー教の諸聖典の翻訳事業を通じて、神秘主義思想を極めた。(・・・)

 インドの学者たちと交流したダーラー・シコーは、インドの宗教における神の聖性について議論を繰り返した。学者たちは、宗教的な訓練と知性と洞察において最高に完成された境地に到達した者たちである。ダーラー・シコーは、インドの宗教者が捜し求め獲得した真実について、「言葉」以外にその違いを見出すことができなかった。その結果、二つの宗教(集団)の考えと諸テーマを集め、真実を求める人に有益な基本的知識を供給する冊子とし、これを名づけて『二つの海の交わるところ』としたのだという。

 ダーラー・シコーは、この世界が神の顕現であり、人間は神の本質のミクロコスモスであるという、ウパニシャッド的な世界観に強い共感を示したのである。彼は、調息やヨーガ的念想を説き、生前解脱さえ認めた。そのうえで彼は、イスラム教とヒンドゥー教のとの共存が社会的、文化的はおろか宗教的にも可能であるという考えにいたるのである。このことは、イスラム教の寛容性を最大限引き出したインド・スーフィーの知的営みの極致ということができよう。 222-224頁