「14歳からの自己啓発」トランスビュー 2024
「アメリカは自己啓発本でできている」平凡社 2024

抜群に面白かった。
これらはいわゆる自己啓発本ではない。帯に書かれてゐるとおり、自己啓発本を文学として読んだらなにが言えるかという趣向の本だ。
つまり、個人がヤル気を出したりポジティブになったりするための本ではなく、そのような個人がゐて、彼らがさまざまな自己啓発書を読んできた、その営みを思想史として語ろうというのだ。
世の中には二種類の人間がゐる。自己啓発本を読む者と読まない者。
尾崎氏のユニークな両著書は、そのどちらの人間にとっても新鮮で楽しい読書体験を与えてくれるだろう。前者にとっては自分が自己啓発本を読むという行為を歴史的に位置づけるメタな視点を提供してくれるものとして、後者にはこれまで軽んじてきた自己啓発書に対する印象を覆すものとして。
わたしは、「宗教が苦手なふつうの日本人」がどのような信仰を持ちうるかに関心をもってゐる。そして書店の棚の重要な位置を占め、毎年何かの類書がベストセラーになる、あるいは売れ続けてゐる自己啓発本が、宗教の一部の機能を代替してゐるのではないかと感じてゐた。
両書を読み、我が意を得たりと思わせる部分が多く、さまざまな思考を走らせることがとても楽しく、また嬉しかった。
第一の魅力は、特に『アメリカは自己啓発本で出来ている』の方にこの性格が強いが、アメリカの思想史としての面白さ。
アメリカの個性とは新しい国であること。近代の、産業革命の時代に出来た人工的な国であること。そのように歴史のない国のひとびとがどのような思想を求めたかというおはなし。
むろん移民したピューリタンが始まりだからキリスト教が根底にある。特にカルヴァン主義の予定説が桎梏としてあったことが強調される。その前提で、科学と資本主義の時代に、成功と自己実現の思想をつくっていく。その思想史だ。
ベンジャミン・フランクリン自伝に代表される「自助努力系」と、引き寄せに代表される「スピリチュアル系」にわかれ、東洋趣味のマインドフルネスや、「セールス」の思想、さらにはスポーツマンの成功譚、ダイエット本の量産に至るまで、自己啓発本の系譜が語られる。
わたしは全体が一種の新宗教なのだと思った。そもそもがピューリタンの信仰を、いわば改造していく。嗚呼、新しい国をつくるとはこういうことなのかと。歴史がない、バックボーンがないということは、あれこれ「生き方」本を生みださないといけないのだ。「伝統がない」ことの不都合と面白さの両面を感じた。
第二の魅力は、アメリカ&日本論として斬新であること。
尾崎氏によれば、自己啓発本が大きな市場として形成されてゐるのはアメリカと日本だけだという。地理も歴史もまるで違う両国でだけ、自己啓発本に需要がある。それはなぜか。どういう共通点があるのか。この視点は新しいと思う。
ここは非常に面白いところなのでぜひ読んでほしいわけですが、ネタばらしせずにわたしの関心に即して考えたことを書くと、これは日本人のリセット癖・願望、新しいもの好きと、アメリカの歴史のなさが期せずして同期してしまったのだと思う。
日本はアメリカと違って歴史が長いし、江戸時代にキリスト教を事実上根絶してしまった。神仏習合と儒教の伝統が、極めて世俗的なかたちで生活倫理をつくってゐた。それが明治維新でいったん終わる。植民地にされずに近代化を成功させたのは日本だけだった。それは日本だけが歴史をリセットできた。過去を捨てることができた。ということでしょう。
つまり、アメリカとはまるで異なる事情でありながら、「新しい国をつくる」という意味では同様の精神的空白が生じたんだろうと。福沢諭吉の『学問のすすめ』が日本発の自己啓発本であると紹介されてゐるが、ちょうど同じような時期に、自己啓発思想の必要性と必然性が、太平洋の両岸に出現してしまったと。そういう次第なんぢゃないかしら。
以下、さらに宗教との関係について書くと、
実際、日本において、既存宗教への忌避と対照的に、スピリチュアル言説への欲望というのが常にありますね。アメリカ発のマインドフルネスとかすごく日本で受けてゐる。これだけ仏教の歴史がある国で、なんでマインドフルネスなんだよと思うけれども、日本人のリセット癖と新しいもの好きが、新しい国アメリカの精神文化と相性がいいということなんでしょう。
日本には歴史があるが、論語も仏典も読みはしない。日本スゴイと叫ぶひとだって『武士道』なんて読んでない。教育勅語があるって? それにしたって要するに天皇を頂点に据えた儒教道徳に過ぎないぢゃないか。で、儒教は嫌だという。われわれに精神的よりどころなどありはしない。この空白が埋め合わせを求めるのは自然の道理だろう。
そこで、わたしは自己啓発本が宗教の一部の機能を代替してゐると考えるのだけども、「一部」という限定が決定的に重要で、そのためにどうしても自己啓発思想では限界があり、宗教が必要になるはずなのだ。
すなわち自己啓発思想は現世利益のことしか考えてゐない。少なくともそれがメインでしょう。資本主義世界の中で、元気に、ポジティブに、自分を好きになり、人に好かれ、なんなら成功して金持ちになる。それは実際に結構なことで、両書で紹介されてゐる珠玉の言葉に触れると、確かに力が湧いてくる。
でも、その性質は、裏から言えば超越性が稀薄ということで、世界の外に出る契機が弱いんですね。もちろん自分が宇宙そのものなんだというスピリチュアル系の発想とか、それこそマインドフルネスとか禅(ZEN)とかですね。たしかに現世超越的な性質はある。けれども、その求め方、受容のされ方は、現世の人生を好転させるということでしょう。
わたしはそこが違うと思うんです。なにもうまくいかない、いいことがひとつもない、つらい、不幸である、どうしようもない、ポジティブになどなれようはずがない。そういう人間を救ってくれるのが、宗教であり、そのいちばん核にあるところの、超越性だと思う。
もちろんこんなことを考えるのは、たいして苦労も不幸もないのに超越性を欲してしまう自分の資質のせいであること、理解はしてゐる。
そんな自分であっても早速自己啓発本の古典、カーネギーの『人を動かす』を借りてしまうほど、尾崎氏の両書は面白いものでした。