- エスカレーター風景が象徴するもの
- わたしたちはなぜルールを破れないのか
- 福田恆存 立体感、距離感、分離感の喪失
- 丸山眞男 抽象性と概念性に対する生理的な嫌悪
- 山本七平 残っているのは「空気」だけ
- 加藤周一 いかなる価値も状況に超越しない
- 「失敗の本質」 形而上学の脆弱さ
- 司馬遼太郎 普遍がわからないと日本は自滅する
- エスカレーターの右側に立つという提案
エスカレーター風景が象徴するもの
この写真は東京都内の某駅構内を撮影したものです。駅であれ商業施設であれ、ひとの出入りが多い場所ではよく見られる光景です。エスカレーターの左側に長い列が出来て、右側はあいている。東西で並ぶ側が異なるそうですが、ここでは左右の違いはどうでもよいので無視しましょう。
みなさんはこのような現場に直面したとき、エスカレーターの右側に立つことが出来るでしょうか。出来ないでしょう。出来ないからこうなっているわけです。しぶしぶ左側の列の最後方に立つか、右側を歩いてのぼるかする。
なかには右側に立てるひともいるかもしれない。けれどもそうするためには多少の意志と胆力が必要になります。こんなところで意志も胆力もつかいたくないというのが正直なところでしょう。
はじめに言っておきますと、わたしは左側に立つひとを責める気もなければ、二列並びというあたらしいマナーの定着を主張するつもりはありません。
そうではなくて、わたしたちはなぜ右側に立つという簡単なことが出来ないのか、多くのひとがくだらないと思いながらも、なぜ左側立ちのルールに従ってしまうのかを考えたいのです。
なぜならこの写真はわたしたち日本人の思惟形態と行動様式の戯画的な縮図であるからです。この写真を見ると実にいやな気持ちになるでしょう。息が詰まるようなしんどさがあります。日本的しんどさがここに凝縮されている。
左立ちをやめようとずいぶん昔から言われながらも、わたしたちはこんなルールさえ変えることが出来ずにいる。ああつまらないと思いながら後方にならび、スマホを見て無関心を決め込んでいる。
もちろんここで安易に日本人批判をするつもりはありません。そんなことをしても仕方がない。この行儀のよさが日本の治安やサービスの質を担保していることは誰もが知っている。問題はその程度です。過ぎたるは猶及ばざるが如し。ここにはなにか異様なものがあります。この過剰なまでのルール遵守がわたしたちを苦しめている。
この風景に象徴されるような息苦しさと鬱屈が、わたしたちの社会のいたるところにあります。学校、部活、会社にもあるでしょうし、地域の活動や習い事等のコミュニティにもあるでしょう。具体的な場所や組織でなくても、就職活動やキャリア形成や配偶者探しといった生き方のモデルとの関わりについても同じことが指摘出来そうです。
日本人の思惟形態と行動様式の戯画的な縮図であるというのはそういうことで、わたしたちは様々な状況で、ついエスカレーターの左側に立ってしまうのと同様な思考と行動をしている。ここに日本社会の閉塞感があり、わたしたちの生きづらさがあり、変われない日本があると言えます。
エスカレーターの左側立ち現象を少しく詳しく見てみましょう。まづごくシンプルに考えますと、エスカレーターに乗るのになにも理屈などいりません。乗って運ばれて終わりです。右に立とうが左に立とうが構わない。歩いてもいい。誰もいないなら走ってもよいではないですか。機械への負担が大きいといわれますが、機械の都合より人間の欲望が大事です。
立っても歩いても走ってもよいわけですが、ひとが多いと秩序を求める気持ちが出てきます。そこでどこかの施設がルールを設定する。あるいは利用者が自然に秩序を作り出し、そこからルールが抽出される。
やがて習慣化して左側立ちというルールが定着した。片側をあけておくと急いでいるひとが歩いて昇り降り出来てよいというのがいちおうの理屈です。
が、誰もが経験的に知っているとおり、エスカレーターに乗っているあいだ歩いたところでたいして変わりはしないのです。始めに二列立ちが定着してもよかった。どちらが優れているとも正しいとも言えません。理屈はつけられます。
秩序を求めルールを生み出しそれに従う、そこまではよい。問題は、ルールに従って行動するうちに「どう乗ってもよい」という当り前のことを忘れ、「左側に立つ」以外の選択肢を消してしまうことです。つまりは形式主義です。形式主義に陥ると、形式から外れたことが出来なくなる。
右側を歩くひとも階段をのぼるひとも、左側立ちというルールを前提に行動しているわけですから、形式主義に陥っている点では同じです。彼らもまた形式的にルールに従っており、ルールの内側で自分の行動を決めている。
立つのは左側と決まっているから右側になってしまった自分は歩く、あるいは階段を使うというのですから、左側立ちというルールに従っています。
わたしたちはなぜルールを破れないのか
不愉快を忍びながら、みんながルールを守っている。唯一、右側に立つひとだけがいません。なぜでしょうか。答えはみなさんご承知の通り、同調圧力が強いからです。逆から言えば同調圧力に弱いからです。
「同調圧力」はこの十年で最大の流行語のひとつでしょう。日本にはどこであれ「同調せよ」という無言の圧力がある、あるいは感じてしまう。
同じことをまた「空気の支配」と呼ぶ。これもまた誰でも知っている言葉です。後に取り上げる山本七平がその名も「「空気」の研究」という本を書き、人口に膾炙しました。
どちらもわたしたちの実感によく合っています。エスカレーターの近くに来てひとびとが整然たる列をつくるのを見ると、この空気に同調せねばならないと感じ、実際にそうしてしまう。
暗黙のルールを内心不合理に感じていても、ルールを破る怖さと空気に同調する不快を比べたとき、後者のほうがましだと感じてしまう。だから憮然たる面持ちで左側に並ぶか右側を歩くかする。歩きたくないのに。
なるほどわたしたちの生きづらさと社会の閉塞感はこの同調圧力と空気の支配のせいといえます。
しかしです。わたしはこのふたつの言葉によって日本人の弱点を説明し、また納得してしまうことに疑問を感じます。というより、それはちょっとズルイのではないか、また救いがなさすぎだと感じてしまうのです。
つまりこういうことです。まづ同調圧力という言葉には被害者意識がある。圧力をかけているのは周りであって、自分はそれに苦しんでいるという意識です。自分もまた圧力をかけているという視点がありません。
「空気」は卓抜な比喩だと思います。しかし空気といわれたら手も足も出ない、相手が空気なら闘っても仕方ない、負けて当然という気がします。これでは救いがありません。
そこでわたしは、問題を個人の認識と行動の次元に置き換えたい。つまり「あなた」の、そして「わたし」の問題だと考えたい。
もう一度写真を見てください。暗いですね。生きる力が損なわれますね。なぜこんなことになるのでしょう。あなたが右側に立たないからです。
同調圧力や空気がどうであろうと、あなたがエスカレーターの右側に立てばよいわけです。それが出来れば日常の風景が一変します。自分の行動で世界が変わるのですから素晴らしいことですよね。
なぜわたしたちはエスカレーターの右側に立てないのか。個人の心理を分析してみましょう。端的に言って、ルールを破るのが怖いからです。不安だからです。ルールを破ろうとすると、これでいいんだろうかとドキドキする。自分は大丈夫なんだろうかとソワソワする。安心したいからルールに従う。
ここでルールというのはある状況、現場、組織、集団で多数派が従っている行動原則のことです。それは明文化されているものもあれば不文律のこともある。法律に書かれている場合もあれば慣習である場合もあります。
ここではその差は問いません。なぜならいま考えたいのは、わたしたちがルールという言葉で観念するところの規範全体と心理的安定の関係性だからです。
わたしたちは心理的安定のためにルールを欲している。日本人はエスカレーターの乗り方のような些末なものごとにさえルールを欲してしまう。そしてルールと自分を一体化させることで心理的安定を得ている。だからいちど順応したルールから自分を切り離すことが凄く怖いのです。
それゆえ、自分が従っているルールに従わないひとを見ると自分を攻撃されたと感じてしまう。ルールを批判されると自分が批判されたと感じてしまう。
そこで同調圧力をかけたり、排除したりするのです。エスカレーターの右側に立つと、ジロジロ見られたり、押されたり、舌打ちされたりするのがそれです(あるいはあなたがそうしている)。こういうことをみな経験的に知っています。
これが日本人が少数派になりたがらない心理です。少数派はほとんどの場合弱者ですから、言い換えると、わたしたちが弱者に冷たい理由とも言えましょう。弱者に冷たい社会だから、勝ち馬に乗りたがる。
自分は弱者なのにそれを認めず強い側なのだと意地を張る。理非曲直や正邪善悪よりも、多数派の側のつくことが大事、すなわち大勢順応主義ということです。
なんだかずいぶんな書きようです。気が滅入ってきます。もちろん日本人の弱点をあげつらってみなさんの気を滅入らすつもりなど毛頭ないのです。わたしの目的はみなさんが朗らかな気持ちでエスカレーターの右側に立ってもらうことにあります。つまりは、なんの気負いもなく、平然と、少数派でいられるようになってほしい。
そこで必要なのは言葉です。概念です。同調圧力や空気という説明で納得してそこで終わりにせず、より精緻に言葉をつむぎ、問題をとらえ、考える必要があります。わたしたちは本当に不安です。エスカレーターの右側に立つことさえ出来ないほどに自信がない。これではあまりにつらい。
実はこの問題はすでに名前を上げた山本七平をはじめとして、戦後、様々な知識人がいろいろな言い方で議論をしてきました。わたしの理解では、彼らは別の言い方で同じことを言っています。それを以下に紹介していきたいと思います。たくさん引用します。
彼らの文章を読んでほしくてこの稿を起こしました。知識人の思考に触れて、ピンと来たものを原典にあたって読んでみてください。そして登場する概念を使ってものを考え、考えることを生きることにつなげてください。
長いですから少しづつ読んでいただければと思います。わたし自身の主張は終章に述べておりますのでそこを先に読んでいただいてもかまいません。
なお、現代の読者の便宜のために、引用にあたって表記を一部改め、改行を適宜追加しました。あらかじめ断わっておきます。
福田恆存 立体感、距離感、分離感の喪失
はじめは福田恆存です。福田は一九一二年に生まれ一九九四年に亡くなりました。戦後の保守論壇で大きな影響力をもちましたが、もうだいぶ昔のひとですから知らないひとが多いでしょう。
彼はもともと英文学者で翻訳もたくさん残しています。おそらく一般的にいちばん読まれている彼の文章は新潮文庫のヘミングウェイ「老人と海」、それからシェイクスピアの各作品だと思います。
彼はまた国語改革批判で有名で、わたしの関心でいえばその功績はたいへん偉大なものなのですが、ここでは割愛しましょう。
さて、福田は一九五五年に「日本および日本人」という論文を発表しました。そこで彼は日本人の性質を論じ、その弱点として「距離感の喪失」ということを言いました。順を追って見ていきましょう。
まづ福田は、日本人が世界でも類を見ないほどのきれい好きであること、調和を愛すること、神経がこまやかで美的感覚に優れることを述べます。そして日本人の道徳観の根底にあるのは「美感」であるというテーゼを提出します。
日本には宗教が「罪」として抽出する道徳的観念がなく、とがめられるのは「穢れ」であり「不潔」であると言う。
不潔を悪であるとする考え、というよりは不潔にしか悪を意識しない心理、これはかならずしも神道的観念に養われた古代日本人のばあいにのみいいうることではありません。現代の日本人についても、そのうちでももっとも西洋的教養を身につけているひとたちについても、そのままあてはまるのです。
日本人の道徳心の根底は美感であります。そして、その美感の最低限度を示す原理が「汚れていない」ということであり、それがまた同時に最高原理にもなりうるのです。つまり、「汚れていない」という「醜悪の欠如状態」が積極的な最高の美にもなりうるのです。 (福田恆存全集第三巻、文藝春秋、一七五頁)
日本人にとっては汚れていないことが最高の美である。抽象化された罪悪を問題とせず、感覚的な調和の美を愛する。日本人は道徳の問題を美感で処理してしまうのだと福田は言います。そして調和を無視して押しつけてくる抽象的観念をきらうと。
対人関係においては、相互あるいは周囲とのあいだに摩擦がないことが至上の価値となります。ですから日本人は「個人」が露出することを、福田の言葉で言えばエゴイズムを、醜いものだと考える。そしてこの性質から必然的に生まれる傾向として、日本人には社会的関心が欠けていると述べます。
日本人には、なぜいわゆる社会的関心も道徳感も存在しないのか。その理由は、前章に述べたように、私たちの美意識のなかにひそんでおります。私たちの祖先は、死や病いと同様に、我を、エゴイズムを、このうえない醜いものとして退けてきたのであります。
死や病いを醜いものとして退け、それを祓い清めることによって、その支配下から脱するという態度からは、いかなる科学も発達しなかったのですが、同様に、エゴイズムを醜しとして退け、それを祓い清めて和に達するという態度から、道徳の問題も、社会の問題も発生する余地はありませんでした。 (同、一八一頁)
人間はみんなエゴイズムを持っています。それが前提で、個人のエゴイズムをどう制御するかが道徳の問題であり、共同体の秩序をどう維持するかが社会の問題です。
ところが日本人はその前提であるエゴイズムを醜いものとして退け、祓い清めて和に達することを目指す。ここでは自我意識が抑制され、道徳や社会の問題への関心が発達しないと言うのです。
ここから有名な、しばしばわたしたちが自虐的に語るところの変節癖という性質が説明されます。つまり「一夜にして○○になる」という現象です。摩擦のないこと、すなわち和そのものが最高の価値であり、和の中身への関心が薄い。だから日和見主義、長い物には巻かれろで行動する。
一口にいうと、日本人は美的に潔癖であるかわりに、思想的には、あるいは論理的には潔癖でないのです。もっと厳密にいえば、形式的美感に潔癖でありすぎたため、思想的に潔癖でないことを、さほど気にしなかったのです。 (同、一八八頁)
これは日本人なら誰しも覚えがあるのではないでしょうか。昨日Aと言っていたのを今日Bと言っても、自分自身であまり気にしないし、そこを突かれても、まあカタイこと言うなよと笑って済ませます。
正当化の理屈を探してきてあっさり納得してしまう。日本近代史においてはこの変節が集団レベルで劇的に行われた。その変わり身の速さが外国人には脅威でもあれば不気味にも見える。
次いで福田は日本人と西洋人の比較に議論を進めます。ここからが本題となります。福田によれば、彼我の差は「超自然の絶対者」を持っているか否かにあります。日本にはそれがなく、西洋にはそれがある。
福田は日本における「神」概念と西欧における「ゴッド(God)」概念の違いからこの二項対立を導き出します。
あるときアメリカ人から天皇制について問われた。「日本人は天皇をゴッドとして崇めていたそうだが、本当か?」「生きた人間をどうしてゴッドと考えられるのか?」
これに対して福田は次のように答えます。「日本人は天皇を神と思っていた。が、ゴッドとは思っていなかった。ただあなたがたが神をゴットと訳しただけだ。」「あなたがたの宗教では、ゴッドとヒューマン・ビーイング(人間)とは、次元を異にする存在である。が、日本では、神と人間とは、次元を異にしない。」
神とゴッドは存在する次元が異なる。なるほどたしかに日本人の神は超越性が稀薄でそこらへんにもいるような気がします。山にも川にも神がいる。死んだら誰もが神になり、盆になると帰ってくる。それが日本人の原初的な、そしていまも保持する信仰のありかたです。
福田によれば、明治以前の天皇はこのような日本人の信仰を司る祭祀であり、神そのものではありませんでした。ところがゴッドという観念を背後にもつ西洋と衝突したために、天皇の地位が変質した。列強に対抗する必要から、維新の指導者たちが、国家意識の中心として天皇を神格化したからです。
そうして天皇は従来の神でもなければ、西洋流のゴッドでもない、変態的な絶対者となった。
天皇は神であるというとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ、そうかといってキリスト教的な神でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神に対抗し、それに牽制されて、なんとなく絶対者のような色彩をおびてきたのであります。(・・・)
結論的にいえば、日本人もまた絶対者を欲しているのだ。昔は知らない。が、明治になって、絶対者の思想を根底にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかってみると、対抗上、どうしても絶対者が必要になってくるのです。
しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。元来、絶対ではないものを絶対と見なそうとする。 (同、一九四頁)
(超越的)絶対者をもたない日本が(超越的)絶対者をもつ西洋の思想、文物、人間に出会ったために、その咬み合わせの悪さから、近代日本ではさまざまな歪みが生じた。対外的に独立した国家(大日本帝国)をつくるために神格化された天皇の存在がそれだと言います。
権利や義務という観念が二十一世紀の日本人にとってもいまいちしっくりこないのもそのためです。自己主張より他者との摩擦のない和合が大事だった。そこへ他者と分離した個人を前提とする権利義務の思想が入ってきた。
歪みはまだ解消されていません。わたしたちは権利を主張することにどこか後ろめたさを感じている。個人を支える絶対者をもたないからです。
絶対者とはなにか。福田はこれを幾何学の言葉で説明します。
さて、ここにひとつの平面を仮定してみます。それが相対的な現実の世界です。この平面を離れた、そしてこの平面とは直接につながらぬはるか上空に、ひとつの点を想像してみます。それが絶対者です。
幾何学的にいえば、前者の平面と後者の点と、両者を含むことによって三次元の立体的な世界ができあがります。この点と平面とを結びつける梯子があるかないかで、人間の生きかたは、ずいぶん変ってくるでしょう。
すでに十分でありましょうが、相対的な、あまりに相対的な私たち日本人の生きかたは、私たちがこの梯子をもっていないということに、あるいはそれが脆弱すぎるということに帰せられます。
その結果、どういうことになるか。一口にいえば、立体感、距離感、分離感の喪失です。そのことは私たちの文化のあらゆる領域についていえるし、容易に立証できましょう。 (同、一九九~二〇〇頁)
平面を生きているのは日本人であれ西洋人であれ同じことです。決定的な違いは「この平面とは直接につながらぬはるか上空」にあるひとつの点=絶対者をもつか否か。
日本人はこの点とつながる梯子をもっていないために、現実を立体的に把握することが苦手で、距離感を失い、対象に密着してしまう。だから個人主義が定着しない。福田は続けます。
さっきの点と平面との幾何学はこういうことを教えてくれます。上空の点を欠いた平面だけの世界では、あたかも、森に入って森を見ざるごとく、遠見がききません。私たちにとって、他人というのは、すぐそばにいる隣人ということにすぎない。他人とつながるといえば、その隣人とつながるということしか意味しません。
隣人との縁が切れれば、その向こうにいる多数者である赤の他人とは、どうにもつながりようがないのです。そうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。
それに反して、もし上空の一点とのつながりを得さえすれば、各個人は、それぞれの隣人を跳び越えて、遠く広く、他の多くの人間とつながることができるのです。もちろん、その一点が万人共有のもので、ひとりひとりがその点に結びつけられているという前提のもとにおいてであります。
そうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくても、上空の一点を経て、どこにでもつながる可能性が出てきます。個人は平面上では孤立しても、間接には孤立していないということになります。個人主義が発生しうるわけであり、また個人主義にたえうるわけでもあります。 (同、二〇〇~二〇一頁)
幾何学の比喩によって、例えば日本には「世間」があるが「社会」がないという性質についても説明がつけられるのではないでしょうか。隣近所の世間の目は気にするが、それを越えた視座をもたない。小さな世間がたくさんあるばかりで、それらを包括するような、公共性を備えた社会が成立しない。
福田の言うとおり、この種の例は日本文化のあらゆる領域に見い出すことが出来ます。外国と仲良くなりたいと思えば抱きつき、流行と聞けば飛びつき、やがて飽きると忘れてしまう。まさに距離感の欠如です。
個人にせよ国家にせよ、そこには一度確立された自我の孤立感というものが見られない。他の民族や他の階級にたいして、それと自分とを隔てる距離が見えぬままに、べたべたと吸いついていく。そういう感じがします。
時の流れにたいしても同様です。時流と自分との間の距離が見えない。ですから、じつに安易に時流にのります。
この時流とともに動く浮薄さは、ずるいとか無節操とかいって責められるのですが、私は、そういうことこそ日本人的だとおもいます。
かれらには、べつに悪いことをしている意識はないのです。他人や自分をいつわっているともおもっていないのです。もっとすなおな気もちではないでしょうか。かれらは人をだましているのではなく、むしろ時流にだまされているのです。つまり時流と自分との間の距離が見えないのです。 (同、二〇二頁)
対象との距離感の欠如という日本人の傾向は言語にも現れていると福田は言います。対象に密着してしまい分離がきかない。ということは「もの」や「こと」や「おこない」からその本質を引き出そうとする意志が乏しい、すなわち抽象力が弱い。ここから抽象語が少ないという日本語の一大特徴が説明されます。
日本語自体が分離のききにくいことばなのです。そこで、わたしたちの祖先は漢語を借りて、なんとか分離をきかそうと試みたのです。明治以後の作家も同様で、西欧的な分離のきいた思考法を身につけようとすると、漢語を借りねばならぬ必要性があったといえましょう。
なぜなら日本語は名詞を造りにくい。動詞を名詞化することがむづかしい。連用形か「・・・・・すること」とやるしか方法がない。それを避けるために、漢語を用いるのです。なぜそれを避けるかといえば、動詞の連用形は独立したことばとして強い枠をもちえないからです。「・・・・・すること」も冗漫で、独立性がありません。
そもそも、動作や作用、さらに人間の抽象的な営みを名詞化しようという働きそのものが、主体である自分を対象から分離し、距離をつくろうとする衝動なのです。日本語にそういう性格が乏しいことは、日本人にそういう心理が欠けていることの現れといえましょう。 (同、二〇三~二〇四頁)
福田の議論をまとめましょう。日本人は超越的絶対者という観念をもちません。それゆえ立体的な現実把握が苦手で、距離感や分離感を欠く。さまざまな対象に自己をべたべたと膠着させてゆく。
抽象化された善悪への関心は薄く、そのかわり美感に基づく道徳観を持ち、汚れや不潔を悪と感じる。人間関係においては摩擦を第一に怖れ、個人の自立よりも集団の調和を重視する。
近代に至り日本はさまざまな西洋の文物思想を受け入れた。ところが、その背後にある超越的絶対者という観念を身に着けることが出来なかった。和と美の日本と、超越神と個の西洋、この相性の悪さを自覚せよ。これが福田の主張です。
福田はむろん西洋を排除して純粋日本に戻ろうなどと言っているのではありません。そんなことが出来るはずがない。もう西洋は日本の一部になっている。近代日本はわたしたちの個性が短所として現れやすい悲しい運命を生きている。
もう後戻りはできないから、その根本要因である超越的絶対者をもたないという現実を直視して、自分の生きかたを考えるほかない。福田はそう言うのです。
(・・・)まづ自己の現実を見ること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。いや、ひとりひとりの道しかないということに気づくことが、なによりも大事だとおもうのです。私がいいたいのはそれだけです。
そのために、私たちは、ほんとうの意味の個人主義を身につけなければなりません。しかし、これは誤解をまねきやすいいいかたです。まわりくどくいえば、その個人主義を身につけるということも、あくまで個人主義的にしなければならない。
なぜなら、戦前においても西欧にまなぶということは、いやになるほど説かれましたし、戦後も「自我の確立」とか「主体性の確立」とか、さんざんいいつくされてきました。私は、それと同じことをいうつもりではありません。
西欧を先進国として、それに追いつこうという立場から、「アジアの前近代的な非人格性」を否定し、西欧の近代精神たる個人主義を身につけろというのではない。それこそ、私のいう距離感の喪失にほかなりません。私はあくまでも西欧の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといっているのです。
眼前にある西欧を、それに追いつかねばならぬもの、あるいは追いつけるものとして眺めることはまちがっています。まづ異質のものとしてとらえ、位置づけすること、そうすることによって、「日本および日本人」の独立が可能になるでしょう。それを私は日本人の個人主義の成立と見なすのです。 (同、二〇五頁)
丸山眞男 抽象性と概念性に対する生理的な嫌悪
二人目は丸山眞男です。一九一四年に生まれ一九九六年に亡くなりました。敗戦後、「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」等の論文を発表し、日本型ファシズムを分析した政治学者として知られています。
一九六一年刊行の岩波新書「日本の思想」はベストセラーとなり、所収の論文「「である」ことと「する」こと」は教科書にも載っていますのでご存知の方も多いと思います。
ここでは「日本の思想」の冒頭に収録された表題論文「日本の思想(一九五七)」を取り上げます。丸山は福田恆存と同世代に属します。福田は保守反動と呼ばれ、その福田は丸山を「進歩的文化人」として批判しました。
いまの言葉でいえば福田は保守派、丸山はリベラル派を代表する論客です。政治的立場のまったく異なるふたりですが、日本と日本人の本質に対する洞察には共通したものがあります。
丸山はまづ、日本には座標軸となる思想的伝統がないと言います。それゆえ思想が歴史的に構造化されず、立体的に把握することが出来ない。座標軸がないため、外から入って来た思想と原理的な対決が行われず、すべてが無時間的に併存すると。
(・・・)近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常感や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥感や儒教的倫理やによって規定されているかは、すでに多くの文学者や歴史家によって指摘されて来た。
むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。
一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。
小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはより性格には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくとも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。
新たなもの、本来異質なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、かたわらにおしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。 (日本の思想、岩波新書、一一~一二頁)
日本はあらゆる思想を呑み込んで雑居させてしまう。このような精神風土において排撃されるのは、まさにその雑居というあいまいさを原理的に否認する、統一的な原理をもつ思想である。丸山によれば、近代日本においてキリスト教とマルクス主義が、そのような位置に置かれた。
(・・・)このようにあらゆる哲学・宗教・学問を――相互に原理的に矛盾するものまで――「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった。
近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義にほかならない。つまりキリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてはある共通した精神史的役割をになう運命をもったのである。
したがって、両者ともひとしく、もし右のような要請をこの風土と妥協させるならば、すくなくとも精神革命の意味を喪失し、逆にそれを執拗に迫るならば、まさに右のような雑居的寛容の「伝統」のゆえのはげしい不寛容にとりまかれるというディレンマを免れないのである。 (同、一四~一五頁)
雑居的寛容を生み出す「無構造」を日本の固有信仰=神道として顕揚したのが本居宣長(一七三〇~一八〇一)でした。宣長は古事記や源氏物語の研究で不朽の業績を残し、国学の祖のひとりとされています。他方でその国粋主義的な神国思想が大日本帝国のファシズムに理論的根拠を与えたという面もあります。彼の考えた「純粋な日本」とはなんだったのか。
丸山によれば、それはあらゆる抽象化・規範化を排除し、原理的なものの一切を拒否した先にある「ありのまま」の現実肯定です。丸山は宣長の儒教(漢意、からごころ)批判の文章を引用したうえで次のように述べます。
ただこの場合いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露(引用者注、現実の隠蔽や美化、または隠された動機や意図を暴露すること)ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。
儒者が、その教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。
そのため、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。 (同、一九~二〇頁)
「ありのままなる」現実肯定は次の箇所で、「機会主義」という言葉で具体的に説明されます。よく言えば機会に応じて融通を利かすこと、悪く言えばなんでもどうでもよいという無節操さです。
純粋な日本を取り出そうとして儒教や仏教を排すると、直接対象に没入する感性だけが残り、秩序を形成するいかなる規範も残らない。「純粋である」は「なにもない」になってしまう。それは困るので現実的な政治においては儒でも仏でも使ってよいという居直りに転じてしまう。それが機会主義です。
「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう。
絶対者がなく独自な仕方で世界を論理的規範的に整序する「道」が形成されなかったからこそ、それは外来イデオロギーの感染にたいして無装備だったのであり、国学が試みた、「布筒」の中身を清掃する作業――漢意(からごころ)、仏意(ほとけごころ)の排除――はこの分かちがたい両契機のうちの前者(すなわち「道」のないこと)を賞揚して後者(すなわち思想的感染性)を慨嘆するという矛盾に必然当面せざるをえない。(これはまたその後あらゆる国粋主義者が直面したディレンマであった。)
直接的感覚にピッタリ寄りそい、いかなる抽象化をも拒否した宣長の方法は社会的=政治的な面では逆に「儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。仏にあらではかなはぬことあらば、仏を以て治むべし。是皆其時の神道なればなり」(『鈴屋問答録』)という機会主義をもたらし、これに対して「神道」の世界像の再構成をこころみた篤胤においては、「道」が規範化された代償としてふたたび儒仏はもとよりキリスト教までも「抱擁」した汎日本主義として現れた。 (同、二〇~二一頁)
大日本帝国の設計者達は日本に内面的基軸がないこと=「無構造」の伝統について強い自覚がありました。基軸なしには近代国家を建設することが出来ません。そこで皇室を基軸とした「國體」を創出した。丸山は伊藤博文の枢密院における帝国憲法草案審議での言葉を引きます。それを孫引きしたいところですが、いかんせん古い言葉で分かりづらいので、わたしが今風に翻訳しましょう。伊藤博文曰く、
ヨーロッパで今世紀に憲法政治が行われるようになったが、これは歴史的経緯の延長にあるものであって、その萌芽は遠く昔に遡ることが出来る。対して日本にとってはまったくの新局面である。したがって憲法の制定にあたってはまづ日本の基軸を求め、基軸はなんであるかを確定せねばならない。基軸のない政治を人民にゆだねた場合、秩序は失われ国家は滅びる。
ヨーロッパでは憲法政治の起源は千年の昔にあり、人民のほうもこれに習熟している。くわえて宗教が基軸にあり、これが人民の心の拠り所となっている。しかし日本は宗教の力が弱いため基軸にはなり得ない。仏教はかつて隆盛を誇り上下の人心を繋いだがこんにちは衰退している。神道は祖先の言葉を伝えるものであっても、人心の拠り所となる力は持たない。
我が国が基軸とすべきはただ皇室あるのみである。憲法制定にあたってはこのことにもっぱら意を注ぎ、君権が尊重され、その束縛がないように努めるべきである。 (同、二九~三〇頁)
皇室の伝統が、欧米式の国家をつくるために、極めてフィクショナルなかたちで人工的に創られた論理が明瞭に示されています。國體は国家秩序の中核でありかつ精神的基軸(=キリスト教の精神的代用品)となったのです。丸山によれば、そのような重役を担うことになった國體は、イデオロギー的には「固有信仰」以来の無限定な抱擁性を継承していました。
妙なことです。日本には基軸がないから皇室を基軸とするのだと伊藤は言っていました。ところがそうして創造した國體もまた、実体がないことによって成立しているのです。
(・・・)國體を特定の「学説」や「定義」で論理化することは、それは否定面においては――つまりひとたび反國體として断ぜられた内外の敵に対しては――きわめて明確峻烈な権力体として作用するが、積極面は茫洋とした厚い雲層に幾重にもつつまれ、容易にその核心を露わさない。 (同、三三頁)
「容易にその核心を露わさない」どころか、特定の「学説」や「定義」で論理化することを避けてきたために、結局のところ國體がなにを意味するのか、どうすれば解体してどうすれば継続するのか、指導者たちもよく分からないということになってしまった。他方でこの「包容性」と「無限定性」は、一夜にして民主主義へと「転向」することを可能にしました。
敗戦によるポツダム宣言の受諾は、ふたたび、しかも今度はきわめて絶望的な状況の下で、「國體」のギリギリの定義を日本の支配層に強いることとなった。(・・・)
ここで驚くべきことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味をもち、また事実あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用してきた実体が究極的になにを意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解がえられず、「聖断」によって収拾されたということである。しかもさらにその「聖断」が果して國體をまっとうするものであるかをめぐって、軍部は承詔必謹派と神州防衛派に分裂した!
(・・・)この窮地をきりぬけると、つい昨日まで「独伊も学んで未だ足らざる」真の全体国家と喧伝されたのに、いまやたちまち五カ条の御誓文から八百万神の神集いの「伝統」まで「思い出」されて、日本の國體は本来、民主主義であり、八紘為宇の皇道とは本来 universal brotherhood を意味する(極東軍事裁判における鵜沢博士の説明)ものと急転した。
外からは突然変異のようでもすべてが既知数として内部に揃っているために、「伝統」の空間的な配置転換によって主観的にはスムーズに行われる、と前にのべた個人の思想的転向形態は、敗戦による國體の「転向」において最大のスケールで現れたわけである。 (同、三四~三五頁)
丸山は「日本の思想」の締め括りとしてマルクス主義の思想史的意義を論じます。ここでなされた問題提起は現代においても重要と考えますので、ちょっと長くなりますがご辛抱いただければと思います。
と言うのは、日本人の左翼アレルギーはあまりにひどくないでしょうか。またあまりに幼稚すぎはしませんか。「左翼」「活動家」「イデオロギー」といった言葉をなんの理解もなくただの差別的な悪口として使っています。これはかなり異様なことだとわたしは思います。
本居宣長について述べた文章をもう一度引きましょう。
そのため、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。 (同、二〇頁)
これが日本の「固有信仰」です。丸山は総括にあたってこの「固有信仰」を「実感信仰」という言葉で言い換えます。西洋からさまざまな制度が流入して押しつけられたことへの反撥、近代化からこぼれおち、取り残されていくことへの憤懣が、「伝統的」な心条=「実感信仰」に結びつく。
そこでは「制度にたいする反撥(反官僚的気分)が抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分かちがたく」結ばれていると丸山は述べます。
そして「抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪」が伝統であるような風土において最も疎まれるのがまさに抽象性と概念性の綜合であるマルクス主義なのです。だからこそマルクス主義が日本に与えた影響は大きかったし、その受容と反撥には近代日本の認識論的特質が現れている。
(・・・)第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史的について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求するという課題を学んだ。(・・・)
第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めて行くものである事を明らかにした。
これまで哲学においてのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではなくて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。
直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって、世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまたおよそデカルト、ベーコン以来近代的知性に当然内在しているはずの理論は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模によび醒まされたといっても過言ではない。
さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが国では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということを教えたのはマルクス主義であった。 (同、五五~五七頁)
マルクス主義は日本の精神風土が反撥する要素を多分に持っていました。日本にはマルクス主義のような理念的構築物とそれをテコに現実を変革しようという発想を受け入れる、その前提がなかった。丸山によればその前提とは近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神の三つです。
ヨーロッバの前提がないところにその果実だけを日本にもちこんだらどうなるか。果実は日本の大地ではいささか変態的な花を咲かせることになる。丸山はこの変態的な花を、「実感信仰」に対立させて「理論信仰」と呼びます。
現実と理論との健全な往還がないために、理論がともすれば硬直化して教条主義的になったり、際限のない理論の適用により責任が無限に拡がり、それが逆転して現実的な無責任を生んだりすることです。
(・・・)日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性から受けとる抵抗と反撥とをマルクス主義は一手に引き受ける結果となった。
第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想化にも多かれ少なかれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体形的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有の観を呈するに至った。(・・・)
理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神――自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神――からではなく、既製品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。(・・・)
しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊穣な現実に比べて、みすぼらしく映ずることは当然である。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとってはほとんど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反撥も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果てしない悪循環をおこすのである。 (同、五七~五九頁)
注意せねばならないのは実感信仰と理論信仰という対立は「日本」対「ヨーロッパ」ではないということです。うっかりするとヨーロッパの既製品あるいは「メカニズム」を日本に適用することが間違いなんだという宣長的固有信仰に引っ張られそうになりますが、問題は、理論と現実との適切な緊張関係と往還が生まれない日本近代の「認識論的特質」にあります。
理論信仰と現実信仰はぜんぜん両立併存するものです。丸山が「おわりに」において述べる「主体」とはおそらくこの理論信仰と現実信仰をひとりのうちに併存させ得るような主体を指すでしょう。日本文化を本質的に雑種文化として規定した加藤周一の議論をふまえ、丸山は次のように結論付けます。
(・・・)雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靭な自己制御の力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である。 (同、六六頁)
外来思想を対決なしに呑み込んで無時間的に併存させるのが「雑居」でした。そうではなく、思想的な対決を経たうえで交わり個性を創るのが「雑種」です。
ここで加藤周一に行きたいところですが、その前に山本七平「「空気」の研究」を読みましょう。
加藤は日本人の性質について極めてクリアに整理していますので、福田・丸山・山本の議論の総まとめ的な位置に置きたいと思います。
山本七平 残っているのは「空気」だけ
山本七平は「「空気」の研究」が有名なのでご存知の方が多いでしょう。一九二一年に生まれ、陸軍従軍を経て戦後は出版社に勤務、のちに独立して山本書店を開業。一九七〇年にユダヤ人のふりをして書いた「日本人とユダヤ人」がベストセラーとなり、以降は作家として活動、一九九一年に亡くなりました。代表作はすでに何度も登場した一九七七年の「「空気」の研究」です。
日本人は「空気」に従う。この空気を変えるためには「水を差す」ことが必要である。しかしやがて「水」も蒸発して「空気」になる。「水」と「空気」の両者を生み、それらが循環するのが日本であるという議論です。
「空気」と「水」という文学的比喩があまりに日本人の感覚にフィットしているために誰もが知る言葉となり、実に便利に使われています。冒頭に述べたように、わたしは「空気」という言葉で日本的現象を説明することに批判的です。あまりに茫洋としていますし、どうにも手を出せないものという印象を与えるからです。
山本七平も福田や丸山と同じことを言っている。日本人は超越性、絶対者、概念的・抽象的なものを嫌う。だからその場の「空気」に支配されてしまうと。
わたしの考えでは、「空気」と「水」という感覚的説明で落ち着いてしまうところに、まさに概念的なものや抽象的なものへの反撥があらわれている。そして、これを乗り越えないといけない。
山本自身が「空気」と「水」という表現を気に入ってしまっているのでそれを押すのですが、彼は別の抽象度の高い言葉でも議論を展開しています。
それは「情況倫理」と「固定倫理」という対概念です。「「空気」の研究」から引き出すべきはむしろこちらにあると考えますので、本稿ではこの二項対立に収斂するように組み立てます。
「「空気」の研究」は実に読みづらい書物です。わたしには議論があちこちへ飛んで追いづらく、さまざまな鍵語が整理されぬままにしばしば恣意的に使われているように感じます。それゆえ以下の組み立てはわたしが本稿に趣意に合うように編集したものであることを断わっておきます。
では始めましょう。
日本人は「空気」に弱い。では「空気」とはなんでしょうか。山本によれば「空気」は日本人が物や事を「臨在感的に把握」することにより発生する。「臨在感的把握」とは、「物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受ける」ことです。物質のほうに支配され、身動き出来なくなってしまう。これが「空気の支配」です。
その説明として山本は冒頭に、人骨の背後に「なにか」を感じてしまう日本人の心理を挙げます。ユダヤ人と日本人が協働で遺跡を発掘していたときに人骨が出てきた。その投棄のために毎日人骨を運ぶことになった。そして、
(・・・)それが一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終わると二人ともケロリとなおってしまった。
この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。実をいうと二人ともクリスチャンであったのだが――またユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった(・・・)。
骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表れるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。おそらくこれが「空気の基本型」である。 (「空気」の研究、文春文庫、三二~三三頁)
おそらくみなさんのがふだん日本人論で使う「空気」とイメージが違うのでピンとこないと思いますが、実際に書いてあるのはこれなんです。「空気」は「臨在感的把握」から生まれる。そして「臨在感的把握」の前提となるのが「感情移入」です。対象に「感情移入」することより自他の区別がなくなり、その状態を絶対化してしまう。
臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。
従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化ないしは生活化であり、一言でいえば、それをしないと「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。(・・・)
(感情移入とは)他者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである。そしてそういう状態になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。 (同、三八~三九頁)
この議論は福田が「距離感の欠如」と呼び、丸山が「固有信仰」または「実感信仰」と呼んだものと同じです。ありのままの感性で対象に没入し、一体化した状態での調和を目指す。対象の善悪や正否よりも一体化そのものを重視する。奇しくもというべきか、あるいは当然にというべきか、山本もまた天皇制に言及します。天皇制は空気支配の体制である。
今まで、さまざまな空気支配の形態をのべてきた。それには、物質である人骨への感情移入による臨在感的把握によって起こる被支配という原始的物神論的なものから、たとえば「公害」のような、絶対的(とされる)命題ないしは名称への臨在感的把握による被支配すなわち「言語による空気支配」、また御真影や遺影デモ等の新しい偶像による空気支配という現代的なものまであった。
そして、教育勅語のように言語もしくは名称が写真とともに偶像となり、礼拝の対象となって、この偶像への絶対帰依の感情が移入されれば、その対象は自分たちを絶対的に支配する「神の像」となり、従って、天皇が現人神となって不思議でないわけである。(・・・)
(・・・)では以上のような「天皇制」とは何かを短く定義すれば、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう。天皇制とは空気の支配なのである。従って、空気の支配をそのままにした天皇制批判や空気に支配された天皇制批判は、その批判自体が天皇制の基板だという意味で、はじめからナンセンスである。 (同、七二~七三頁)
空気の支配とは偶像への絶対帰依による(被)支配である。その偶像は物や標語や特定の人物でありうる。絶対化の対象が無数にあり、そのときどきで偶像崇拝の対象が変わる。
超越的絶対者をもっていれば現実のあらゆる対象を相対化できるわけですが、日本にはそれがない。どうするかというと「水を差す」。絶対化された空気を相対化するために「世の中はそんなものじゃない」とか「世の中はそういうものです」という経験や常識で裏打ちされた「水を差す」。
ところがこの「水」は蒸発してやがて「空気」になってしまう。つまり水を差しても「空気の支配」であることに変わりはないわけです。水→空気→水→空気、というように崇拝の対象がころころ変わる。空気の中で秩序が保たれ、空気内部で理屈がつけば、ころころ変わることについては気にしない。これを山本は「情況論理」及び「情況倫理」という概念で説明します。
以上で記して来たように、「空気」も「水」も、情況論理と情況倫理の日本的世界で生れてきたわれわれの精神生活の「糧」と言えるのである。 (同、一七二頁)
日本には「情況」を正当化する論理と、「情況」の枠内で正しいことをする倫理しかない。「あの情況ではああするほかなかった」「この情況ではこうするのが正しい」となる。それはよく言えば柔軟ということになりますが、悪く言えば無責任です。
また「情況」の絶対化によって外側に出ることが出来なくなるという問題がある。大日本帝国がそうでした。天皇制という「情況」が絶対化し、それを相対化する視座をもてなかった。でもずっとそうだったわけではありません。山本によれば、「空気」が猛威を振るい出したのは近代化の進行期なのです。
「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか? もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、猛威を振るい出したのはおそらく近代化の進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。
「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは・・・」といった言葉に表されているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「いまの空気では仕方がない」と言ってよい存在ではなかったはずである。
ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれを拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるようになった。 (同、二二一~二二二頁)
では近代化の進行期になにがあったのでしょうか。答えはこれまでの議論から必然的に導き出されるでしょう。ある時期までは「情況倫理」を相対化するものがあったわけですね。それが「固定倫理」です。時間も場所も超越した普遍的な規範を意味します。空気はこうである、しかし自分は別に信じるところがあるからそれを貫く、というときに自己を支える倫理体系です。
山本によれば、日本においては明治のある時期までは儒教的道徳体系がその役割を果たしていました。が、近代化の過程で内なる規範力を失い、その最も通俗的な部分が教育勅語に取り込まれ、天皇を現人神とする国家神道に吸収されてしまった。それも敗戦によって滅びました。かくして、戦後の日本には「空気」だけが残った。
われわれは戦後、自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。(・・・)そのため、自らが従っている規範がいかなる伝統に基づいているかさえ把握できない。
従ってそれが現実にわれわれにどう作用し、どう拘束しているかさえ、明らかでないから、何かに拘束されてもその対象は空気の如くに捉え得ず、あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している。 (同、二八八頁)
これがわたしたちの実感に近いのではないでしょうか。普通の日本人の規範は「空気」=「情況倫理」しかない。和を乱してはいけない=ひとに迷惑をかけてはいけない、それだけです。
しかし和を乱さねばならぬときがあり、ひとに迷惑をかけてでも何かをせねばならぬときがあるでしょう。そういうときに自己を支える規範がわたしたちにはありません。「固定倫理」を捨ててしまったからです。
ではどうしたらいいか。山本は明確な提案はしていませんが、「水」について論じた箇所で「新しい水」が必要だと言っています。蒸発して空気に転じてしまうこれまでの水とは異なる「新しい水」が。
(・・・)われわれは残念ながらまだ新しい「水」を発見していない。だがその新しい「水」は、おそらく伝統的な日本的な水の底にある考え方と西欧的な対立概念による把握とを総合することによって見い出されると思われる。 (同、八八頁)
西欧的な対立概念による把握とは、超越的な固定倫理によって現象を相対化したうで把握することを指します。日本の土着思想と西欧の固定倫理を総合したものが新しい「水」になるだろうと言っている。福田が真の意味での個人主義を説き、丸山が強靭な自己制御の力を具した主体を説いたのと同じです。
山本の西欧的固定倫理の説明は、さすがに彼自身がキリスト教徒でありユダヤ人のふりをして本を出すだけのことはあって気合が入っています。その箇所を引用して本章を閉じましょう。
(・・・)一言でいえば、これが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。
これについては後述するが、この相対化が徹底している世界、いわば旧約聖書の世界などは、一見つきあえそうに見えて、半世紀近くつきあっていると、「こりゃ、到底つきあいきれりないのではないか」と思わざるを得ないほど、徹底的に相対化しているのである。
これでは「空気」は発生しえない。発生してもその空気が相対化されてしまう。そして相対化のこの徹底が残すものは、最終的には契約だけということになる。 (同、六九頁)
固定的規範というものは、人間を規定する尺度でありながら、実は、人間がこれに関与してはならないのが原則であり、従って、きわめて「非人間的」であり、人間が自分の方からこれに触れることが不可能であるゆえに人間が使用できる尺度となりえて、平等に人間を規制しうる。
これがその考え方の基本であって、この基礎は、古代における「計り」の神聖視や神授による倫理的規範の絶対化――たとえばモーセの十戒――から、メートル法やさまざまの必然論にまで一貫している考え方である。(・・・)
これが彼らの考える「絶対」であり、この考え方は旧約聖書の「摂理」からマルクスの「必然」まで一貫していて、それもまた、人間も情況もそれに作用し得ないがゆえに「絶対」であり、従って規範でありうるわけである。(・・・)
われわれはこの生き方を、明治以降、さまざまな言葉で、《本能的》に拒否してきた。確かにわれわれはメートル法ぐらいなら耐えられる。しかしメートル法を造り出した精神には耐え得ない。
それは「なぜ、センチとキロとリットの間に関連がなければならないのか、尺・貫・升の間にはそういった関連はないが、生活を尺度の基準にすれば、いわば『人間』を基準にすれば、それで十分であって、そういう関連を一つの『宇宙的・超越的基準』から算出していきそれで人間を規制する必要はないではないか」と問われれば、これに対してその理由を明確に答えうる者がいない点から見ても明らかであろう。
ましてこれが人間の倫理的規範になった場合、「なぜそれが必要か」と問われれば、まるでバベルの塔のように構築された体系という名の言葉の構築物を見た場合、また、生活の最末端まで隙なく律したユダヤ教の律法を見た場合、見ただけで一種の拒否反応を起こすのが普通である。 (同、一一四~一一七頁)
加藤周一 いかなる価値も状況に超越しない
雑種文化論を提唱した加藤周一にたどり着きました。加藤は一九一九年生まれ二〇〇八年没、論文「日本文化の雑種性(一九五五年)」もまた教科書に載っていますので記憶に残っている方も多いでしょう。「九条の会」での活動も有名です。医師であり詩人であり、博覧強記の知識人です。
ここで紹介するのは雑種文化論ではなく、二十年後の一九七五年に上巻が、一九八〇年に下巻が刊行された「日本文学史序説」です。詩歌はもちろん記紀から仏典、草紙、戯作、儒者の書までなんでも、およそ日本人がものした「文」を網羅した大作で、文学史というより思想史と読んだほうが適切です。
分厚い本で通読には骨が折れますが、本稿で紹介する本のなかでわたしが最も強く推したいのが「日本文学史序説」です。
加藤は第一章「日本文学の特徴について」で日本文化の特徴および日本的土着思想を要約します。
(・・・)日本文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に則して、言葉を用いることにあったようである。 (日本文学史序説上巻、ちくま学芸文庫、一一頁)
この特徴は西洋と比べてどうか。
文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文学の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しく違う。
西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。中世の文化の中心は、文学でも、工芸的美術でもなく、宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。 (同、一二頁)
中国と比較してどうか。
(・・・)しかし二つの文化が決定的にちがうのは、中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。朱子学的綜合は、日本では到底成立するはずがなかった。
ということは、また、徳川時代のはじめに幕府の公式の教学として採用された宋学が、一世紀足らずのあいだに日本化されたことからも知られる。日本化の内容は、まさに包括的体系の分解であり、形而上学的世界観の実践倫理と政治学への還元ということであった。
中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に至り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に至ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。 (同、一三頁)
精神が形而上学的天空に舞い上がることをきらい、包括的体系を分解し、普遍ではなく特殊を指向する。これが日本の土着思想です。外から抽象的・包括的体系が入ってきてもことごとく日本化してしまう。加藤によればその代表は、大乗仏教とその哲学、儒学ことに朱子学、キリスト教、そしてマルクス主義です。
外来の四つの世界観は、すべて包括的な体系である。抽象的な理論を備え、ある場合に彼岸的であり(仏教・キリスト教)、他の場合には此岸的である(儒教・マルクス主義)が、いずれも超越的な存在または原理との関連において普遍的な価値を定義しようとする。すなわち大乗仏教における仏性、キリスト教における神、儒教における天または理、マルクス主義における歴史である。 (同、三五頁)
これら四つの世界観に対する日本の土着の世界観はどのようなものか。
(・・・)その世界観の特徴をさしあたり要約すれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。
そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)互に他を排除しない。
当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。
しかしもちろん、そういうことは、特定の個人にとっての絶対的な価値がありえないという意味ではない。それどころか特定集団の首長が、その集団の成員にとっては、しばしば絶対的な権威となり、忠誠が絶対的な価値となった(天皇制国家からヤクザまで)。しかし他の集団の成員にとっては、その権威は通用しないし、その首長への忠誠は価値ではない。 (同、三七頁)
日本に入ってきた外来思想はどうなったか。
(・・・)多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。外来の思想が高度に体系的な観念形態であった場合には(儒・仏・キリスト教・マルクス主義)、その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。
たしかに少数の例外もあった。また以上の方向のどの面がめだつかも、場合により異なっていた。しかし外来の世界観の体系が日本の歴史過程のなかで変化したとき、変化には必ず一定の方向があり、逆の方向へ変った例はない。 (同、三八頁)
見事な文章だと思います。ここまでお読みになったみなさんは、福田・丸山・山本が語っていた日本人論が実に綺麗にまとめられていることに気づくでしょう。超越的な原理を求めず、普遍性を拒否し、個別の状況の特殊性にとどまろうとする著しい傾向。いかなる価値も状況に超越しない、どこまでも「いまここ」に没入する世界観。
社会的に見れば、ひとり文学者のみならず、一般に個人がその属する集団に組みこまれる度合いは、日本社会において著しい。今かりにこれをムラ意識と称ぶことにしよう(そう称ぶ理由は、所属集団への組みこまれ現象が、おそらく農村地域共同体に見出されると思われるからである)。
思想的にみれば、日常的現実に超越する存在または価値を認めない世界観が、土着思想の特徴である(この点は、ある程度まで中国の場合とちがう。インドおよび西洋文明の思想的背景と著しくちがうことは、いうまでもない)。
以上の二つの特徴は、相互に関連する。集団に超越する価値を信じなけば、成員が集団から独立することはできない。逆に成員を強く組みこむ集団の内部には、集団を越える存在または価値を中心とした世界観の育つことが、困難であろう。
したがって、社会的特徴と思想的特徴のいずれかがより根源的であることには、おそらく意味がないだろうと思われる。二つの特徴は、同じ現実の二面であって、概念上二つに分けて扱うことが、便利だというにすぎない。 (同、四四頁)
しかし日本において、土着思想と対照的な彼岸的・超越的な思想が支配的となったときが史上一度だけあったと加藤は言います。鎌倉時代です。
しかし十三世紀には、いわゆる「鎌倉仏教」が興る。鎌倉仏教が、その現世否定的傾向、すなわち彼岸性と、その超越的絶対者(浄土真宗のアミダ、禅宗の大智、日蓮宗の法華教)の役割において、日本思想史上の例外となる。 (同、四〇頁)
浄土宗、禅宗、日蓮宗はいづれも超越性をそなえた思想です。ここでは加藤が「極めて稀な例外」と評した日蓮を論じた箇所を引きましょう。日蓮にとって法華経の説く法は、将軍よりも天皇よりも国家よりも上位にありました。
彼はその課題を『立正安国論(一二六〇)』に典型的なように、政府に対し建白書を奉じるという形で解決しようとした。(・・・)ここで注意すべきことは、その独断や予言ではなく、その国家権力に対する態度である。
その態度こそは、日本史上極めて稀な例外であって、彼は、そのいわゆる「法」(『法華経』)があらゆる権威に超越するとし、したがって、国家が法に奉仕すべきで、法が国家に奉仕すべきではない、とした。
日蓮と天台の教義上のちがいは、微妙でほとんど技術的なものにすぎない。しかし国家と仏教との関係については、その考え方がまったくちがう。天台を含めて、旧仏教は「鎮護国家」をめざした。すなわち国のための仏教である。日蓮においてはあきらかに仏教のための国である。 (同、二九九~三〇〇頁)
超越性をもっていた鎌倉仏教も室町時代に世俗化してしまいます。江戸期に流入した朱子学も徳川の儒者によって形而上学と体系性が解体される。残るはキリスト教とマルクス主義です。近代日本におけるこの二つの思想を代表する人物、内村鑑三と幸徳秋水(について書いた河上肇)の箇所を読みましょう。
キリスト教徒である内村鑑三(一八六一~一九三〇)は、一八九一年、教育勅語奉戴式において天皇の署名した勅語への敬礼を拒否しました。それは彼が天皇を敬しなかったからではなく、神以外のものを何ものかを礼拝することを良心が拒否したからでした。この「不敬」事件により彼および彼を支持した同僚のひとりが職を失いました。
この事件が日本の近代思想史の上で重要なのは、敬礼をためらった内村の良心において、天皇神格化の否定が明瞭にあらわれていたからである。内村の唯一神の信仰は、国家とその象徴としての天皇に、絶対に超越する。彼は烈しい愛国者であり、日本の国家に超越したその信仰が、日本以外の地上のあらゆる国家にも超越したことはいうまでもない。(・・・)
共同体への帰属と共同体の他にいかなる絶対者もみとめない価値観とを中心として築き上げられた日本的世界観のなかで、このような内村の信仰が、例外的であり、かつ画期的であったことは、当然である。 (下巻、三四四~三四五頁)
無政府主義者の幸徳秋水(一八七一~一九七一)が処刑された大逆事件についてマルクス主義者の河上肇(一八七九~一九四六)が書いた文章が素晴らしいのでこの章の最後に紹介したいと思います。
幸徳秋水は東洋のルソーこと中江兆民の弟子であり、マルクスの「共産党宣言」を翻訳した社会主義者であり、ロシアの革命家・クロポトキンと親交をもった無政府主義者(アナキスト)という複雑な人物でした。
彼は一九一一年に大逆罪で処刑されました。明治天皇の暗殺を企てた、というのがその理由です。ご承知のとおり、これは帝国政府が無政府主義・社会主義の根絶をはかってでっちあげた冤罪事件でした。事件を受けて、「資本論」の翻訳者で「貧乏物語」の著者であるマルクス主義者・河上肇が「日本独特の国家主義」という文章を書きました。
無政府主義者の処刑の意味を説いて、これほど深く、これほど理路整然たる文章は、おそらく他になかっただろう。河上は、日本国が無政府主義者を生かしておかないのは、西洋諸国の場合のようにその暴力をおそれるからではなく、「縦ひ彼等が極めて平和的であっても」、彼らの「思想主義そのもの」をおそれ、憎むからである、と書いた。
なぜならば、日本人にとっての「最大の至高の価値」は国家であり、日本人のもっともおそれるのは、「此の国家至上主義の破壊」に他ならないからである。
この議論を推して河上は、「日本人は国家に没我すれども国家以上のものに没我する能はず」といい、「故に学者は其の真理を国家に犠牲にし、僧侶は其の信仰を国家に犠牲にす。是れ即ち日本に大思想家出でず大宗教家出でざる所以なり」とつづけ、さらに進んで
「此の如く日本人の神は国家なり。然して天皇は此の神たる国体を代表し給ふ所の者にて、謂はば抽象的なる国家神を具体的にしたる者が吾国の天皇なり」とさえ書いた。(「日本独特の国家主義」)。死せる幸徳は、生ける河上にそこまで書かせたというべきか。 (同、三七四~三七五)
丸山眞男の「およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性から受けとる抵抗と反撥とをマルクス主義は一手に引き受ける結果となった」が思い出されます。
国家=天皇を絶対としてそれを否定するいかなる思想も許さなかった大日本帝国は、まさにその日本的絶対主義ゆえに、戦争に敗れ、日本は長い歴史上はじめて外国に占領されることとなりました。
「失敗の本質」 形而上学の脆弱さ
「失敗の本質」と次章の司馬遼太郎の紹介はおまけみたいなものですぐ終わります。もう少しお付き合い頂ければと思います。
明治以降、大日本帝国は帝国主義的政策を進め、領土の拡張を図りました。日清戦争(一八九四~一八九五)に勝利して台湾を獲得、日露戦争(一九〇四~一九〇五)に勝利して朝鮮半島での優位を確立し、一九一〇年には韓国を併合、植民地経営を開始しました。
第一次世界大戦(一九一四~一九一八)では連合国側として参戦し、中国大陸におけるドイツ権益を接収、並行してシベリア出兵(一九一八~一九二二)にも参加した。
一九三一年の柳条湖事件を契機に満州侵略を開始し、翌年には満州国を建設。一九三三年の国際連盟脱退により国際的孤立が深まると、一九三七年には盧溝橋事件を機に中国との全面戦争に突入。これが一九三九年にはじまった第二次世界大戦と連動して戦線はアジア・太平洋全域に拡大する。
一九四一年にはついにアメリカとの開戦に踏み切ります。しかし真珠湾への奇襲こそ成功したものの、翌年のミッドウェー海戦で制海権を失うと、以降は敗戦につぐ敗戦。講和の機を逸し続け、民間人が虐殺された東京大空襲、島民の四人に一人が亡くなった沖縄戦、そして「使うことが出来ない武器」として戦後「抑止力の平和」を担うほどの悲惨をもたらした二発の原子爆弾を経て、ついに一九四五年八月十五日、ポツダム宣言を受諾し敗戦を認めました。
圧倒的なまでに悲惨な敗け方でした。この敗戦によって日本は明治以降獲得した領土をすべて失い、歴史上はじめて外国の占領に置かれることになった。
日本占領のために連合国がつくった組織が連合国軍総司令部(GHQ)です。GHQが戦犯を裁き、GHQが主導で新しい憲法をつくりました。
その憲法では、統治を容易にするために象徴天皇制を導入し、日本が再び軍事的な脅威になることを防ぐために憲法九条で武力を放棄させ、にもかかわず、アメリカ軍が朝鮮戦争に出ている間の国内の治安を守るために警察予備隊(後の自衛隊)を結成させた。
一九五一年のサンフランシスコ講和条約で日本は「独立」しました。しかしそれは沖縄を「捨て石」にしての独立であり、しかも講和会議には日本が最も和解せねばならない隣国、中国や北朝鮮やソ連が参加していなかった。日本にはいまだに米軍基地がたくさんあり、周辺国とのあいだに領土問題を抱えている。日本はアメリカの軍事的属国であることを誰もが知っている。
いちはやく近代化に成功し欧米の植民地にならなかったのは立派なことです。しかしその結末がこのような敗北に終わり、占領から独立にいたる数年間につくられたさまざまな構造からこんにちもまだ抜け出せていない。
二十一世紀に入って四半世紀が経とうするいまでも、わたしたちは一連の日本国の形成をどう受け止めていいかわからずにいる。深刻です。
なぜここまで悲惨な敗け方をしてしまったのでしょう。それを対米開戦以降に焦点を絞り、さまざまな分野の六名の研究者(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)が共著したのが一九八四年刊行の「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」です。
本書はむしろ、なぜ敗けたのかという問いの本来の意味にこだわり、開戦したあとの日本の「戦い方」「敗け方」を研究対象とする。いかに国力に大差ある敵との戦争であっても、あるいはいかに最初から完璧な勝利は望みえない戦争であっても、そこにはそれなりの戦い方があったはずである。
しかし、大東亜戦争での日本は、どうひいき目に見ても、すぐれた戦い方をしたとはいえない。いくつかの作戦における戦略やその遂行過程でさまざまの誤りや欠陥が露呈されたことは、すでに戦史の教えるところである。
開戦という重大な失敗、つまり無謀な戦争への突入が敗戦を運命づけたとすれば、戦争遂行の過程においても日本は各作戦で失敗を重ね、敗北を決定づけたといえよう。
本書では、なぜ敗けたのかという問題意識を共有しながら、敗戦を運命づけた失敗の原因究明は他の研究に譲り、敗北を決定づけた各作戦での失敗、すなわち「戦い方」の失敗を扱おうとするものである。(・・・)
より明確にいえば、大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗としてとらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することが、本書の最も大きなねらいである。それは、組織としての日本軍の遺産を批判的に継承もしくは拒絶すること、といってもよい。
いうまでもないが、大東亜戦争の遺産を現代に生かすとは、次の戦争を準備することではない。それは、今日の日本における公的および私的組織一般にとって、日本軍が大東亜戦争で露呈した誤りや欠陥、失敗を役立てることにほかならない。 (失敗の本質 日本軍の組織論的研究、中公文庫、二二~二三)
このような構想のもとに「失敗の本質」はノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、そして沖縄戦における失敗について論じていきます。ここではそのいちいちを紹介するわけにいきませんので、全ての作戦における共通する特徴について論じた箇所を引用します。
われわれにとって日本軍の失敗の本質とは、組織としての日本軍が、環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなかったということにほかならない。戦略的合理性以上に、組織内の融和を重視し、その維持に多大のエネルギーと時間を投入せざるを得なかった。このため、組織としての自己革新能力を持つことができなかったのである。
それではなぜ、日本軍は、組織としての環境適応に失敗したのか。逆説的ではあるが、その原因の一つは、過去の成功への「過剰適応」が挙げられる。過剰適応は、適応能力を締め出すのである。(・・・)
組織が継続的に環境に適応していくためには、組織は主体的にその戦略・組織を核心していかなければならない。このような自己革新組織の本質は、自己と世界に関する新たな認識枠組みを作りだすこと、すなわち概念の創造にある。
しかしながら、既成の秩序を自ら解体したり既存の枠組みを組み換えたりして、新たな概念を創り出すことは、われわれの最も苦手とするところであった。日本軍のエリートには、狭義の現場主義を越えた形而上的思考が脆弱で、普遍的な概念の創造とその操作化ができる者は殆どいなかったといわれる所以である。
自らの依って立つ概念についての自覚が希薄だからこそ、いま行っていることが何なのかということの意味がわからないままに、パターン化された「模範解答」の繰り返しに終始する。それゆえ、戦略策定を誤った場合でもその誤りを的確に認識できず、責任の所在が不明なままに、フィードバックと反省による知の積み上げができないのである。
その結果、自己否定的学習、すなわちもはや無用もしくは有害となってしまった知識の棄却ができなくなる。過剰適応、過剰学習とはこれにほかならなかった。 (同、四〇九~四一〇)
ここまで紹介してきた福田・丸山・山本・加藤が論じていた日本人の特徴、その弱点の発露とまったく同じことが書かれています。形而上学的思考が脆弱であるため既存のやり方を否定できない。いまここの現実を動かす普遍的概念を操作できない。普遍的概念を操作できなければ、とうぜん全体を統合するビジョンを描くことができません。
結局、日本軍は六つの作戦のすべてにおいて、作戦目的に関する全軍一致を確立することに失敗している。このなかには、いくつかの陸海協働作戦も含まれていたが、往々にして両者の妥協による両論併記的折衷案が採用されることが多かったのである。
作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランド・デザインが欠如していたことにあることはいうまでもないであろう。
その結果、日本軍の戦略目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきたプロセスであったということができる。
このプロセスは、戦争の開始と終結の目標があいまいであるという事実によって、実に戦争全体をおおっていたのである。 (同、二七四頁)
日本軍が個人ならびに組織に共有されるべき戦闘に対する科学的方法を欠いていたのに対し、米軍の戦闘展開プロセスは、まさに論理実証主義の展開にほかならなかった。太平洋の開戦において一貫して示されたアメリカの作戦の特徴の一つは、たえず質と量のうえで安全性を確保したうで攻勢に出たことである。数が明らかに優勢になるまで攻撃を極力避け、物量的に整って初めて攻勢に打って出ている。(・・・)
他方、日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった。個々の戦闘における「戦機まさに塾せり」、「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「天祐神助」、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的な方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。
したがって事実を正確かつ冷静に直視するしつけをもたないために、フィクションの世界に身を置いたり、本質にかかわりない細かな庶務的仕事に没頭するということが頻繁に起こった。(・・・)
さらに、近代戦に関する戦略論の概念も、ほとんど英・米・独からの輸入であった。もっとも、概念を外国から取り入れること自体に問題があるわけではない。問題は、そうした概念を十分に咀嚼し、自らのものとするように努めなかったことであり、さらにそのなかから新しい概念の創造へ向かう方向性が欠けていた点にある。
したがって、日本軍エリートの学習は、現場体験による積み上げ以外になかったし、指揮官・参謀・兵ともに既存の戦略の枠組のなかでは力を発揮するが、その前提が崩れるとコンティンジェンシー・プラン(引用者註、不測の事態への対応計画)がないばかりか、まったく異なる戦略を策定する能力がなかったのである。 (同、二八七~二八九頁)
敗戦から来年で八十年です。わたしたちは形而上学的思考が得意になったでしょうか。新しい概念を創造し操作してグランド・デザインを描けるようになったでしょうか。本質にかかわりない細かな庶務的仕事に没頭してはいないでしょうか。
司馬遼太郎 普遍がわからないと日本は自滅する
日本人は与えられた枠組に適応しその中で成果を挙げるのは得意です。先述のとおり戦後の枠組はアメリカが設定しました。冷戦構造のなかでアジアにおける反共の砦となる。これが所与の条件でした。
このような軍事的属国としての性質を沖縄に集中させて隠蔽し、平和憲法のもと、日本は奇蹟の戦後復興をとげました。
一九八九年から一九九一年にかけて、このモデルが崩壊します。冷戦が終結し、昭和天皇が崩御し、バブルが弾ける。停滞がはじまり、失われた十年と呼ばれた時代が、やがて二十年に、そして三十年になりました。
わたしたちは新しい枠組をつくることにではなく、すでに失効した枠組をまだ失効していないかのように見せかけるために、またそれにしがみつくために、国力を蕩尽している。そうしてどんどん貧しくなっている。
戦後の日本人が最も愛した小説家・司馬遼太郎(一九二三~一九九六)が同じく小説家の陳舜臣(一九二四~二〇一五)との対談で、没落の兆候を感じとっていたのでしょうか、「普遍ということがわからなければ日本は自滅する」と言っています。そして「中国に普遍を学べば救われる」と。
バブル経済のまえ、高度経済成長のただなかの一九七〇年代の対談から、いづれも司馬の発言です。
ただわれわれ日本人には普遍的文明っていうのはわかりにくいねえ。生け花のお師匠さんが、これが生け花でございますって、アメリカに教えに行ってる。禅の坊さんが世界中旅行して、日本だ日本だと言ってる。どう考えても歴史的に考えたら日本ではないんだけどなと思うけどね。(・・・)
まあ、文明というのは相互に影響発展させあって共有すべきものだと、大らかに思えばね、日本人は救われる。ともかく文明というものは普遍的なものであり、普遍というのは中国で学べば日本人は身にしみてわかる。
中国というのは巨大な人口と、それぞれ条件の非常に違う――農耕とか遊牧とか商業とか――地帯を持った広大な土地ですから、いろんな物の考え方が起こりうる。ということは大文明が起こりうる条件があるということなんです。これは日本とか、ヴェトナムとか、イギリスでは起こらないんで、平べったい広大なところでないと生まれない。アラビアとかね。 (対談中国を考える、文春文庫、七〇頁)
近代において中国が西洋文明と出会ったとき、技術の背後には西洋の普遍があるはずだと考えた。でも普遍なら自分たちの普遍があるではないか。そう思ったために近代化まで百年かかった。しかし日本は普遍ではなく技術と道具そのものを見た。面ではなく点を見た。だから速かった。しかし、ついぞ面=普遍性がわからぬままである。
こういうことを考えると、日本はやっぱり元禄時代に開国すればよかったと思う。元禄時代に黒船が来てたら開国しましたよ。徳川幕府は倒れます。簡単です。
さらに歴史にもしがいえるとしたら、戦国のころに入ったキリシタンをそのまま大事にしていれば、世界性が身についたかもしれません。近代中国のカトリック、近代朝鮮のカトリック、これはみんな世界性があるから歓迎されたわけでしょう。
いまでもソウルはカトリックの金城湯池の一つですが、それは近代の朝鮮人が、自分は微弱である、小民族である、日本人に併合された、となげくときに、世界性へ自分を浮上させるにはカトリックが必要だった。カトリックの効用というのははかりしれんですな。
もっともあの時代のカトリックは大変侵略的で、当時の日本の支配者がそれを追い出したのはその面においては当然だったし、賢明でもあったわけですけれども・・・・・、しかしあの当時の船でやってくるわずかなポルトガル兵やイスパニア兵に日本が征服されるはずがない。
つまり、天文・天正のカトリックをなぜ日本は無にしたかということはくりかえし残念ですね。そのままでいていまも三割くらいがカトリックでおるとしたら、太平洋戦争を起こさなかったかもしれんな。情報がオープンに入ってくる。それから世界人みたいな意識がある。やっぱり普遍とは何ごとかということは、体でわかるでしょう。
僕ら普遍とは学校に行ってみんな習うけど、普遍という言語で学んでるだけで、普遍ということは日本でうまれるとわかりにくいですね。普遍を知らないと、中国もわからないわね。中国は国家というより多分に普遍的世界なんやね。少数民族をいっぱい抱えているからという問題もあるけどね。 (同、八四~八五頁)
中国が統一されたとき、彼らは国家や民族でなく、「人間が生きるとはどういうことか」に還元して考えた。ここに学ばないといけない。普遍をわかろうとせず、自身の特殊性のうちに気持ちよくなっているばかりだと、日本は自滅する。
(・・・)人間から考えるという発想を日本人の場合は公害で初めて気が付ついた。明治以来、国民という発想だけで住民という考えはなかった。公害が問題となって、日本人にも「住民」の部分が出てきたわけです。
社会主義というと、すぐアレルギーを起こす人が世界中にいるけど、中国はイデオロギーでやってるんじゃなく、中国民族はどうしたら生きられるかと問題を根源的に戻してやっている。
これを少し見習って、かりに自民党が社会主義をやったっていい、共産主義はなにも代々木の専売じゃないんだから、誰がやったっていい。またそんな《主義》をつけんでもいいわけだ。つまりそうしてやっていかないとわれわれは滅びるんじゃないかという気がする。 (同、一二六~一二七頁)
(・・・)僕はなにも中国贔屓とか、そんなんで言ってるんじゃない。日本人を救う方法として言ってるわけですね、日本人を救う方法は普遍性を知ることであって、普遍性を知る手近な方法は中国を知ることかもしれない。アメリカやフランスも普遍性は多分にあるわけですね。
ところが、アメリカ、フランスという文化で眩惑されてしまって、普遍性がよくわからなくなる。それよりも中国の庶民を見てたら、それでいい、インテリを見ずにね。それが日本人には永久にわからないかもしれないけど、これがわからなかったら、日本は自滅するな。
いよいよ世界は普遍性を帯びてゆく。むろん一面では世界は逆に国家時代になってるけどね。小国がいっぱいできて。だけど、それは内在的に普遍性が進行してるわけだから。それがわからなかったら、やっぱり自滅するのと違うかしら。ほうぼうで嫌われてね、ジャカルタでも、バンコクでも、あらゆるところで嫌われると思う。
いつでも日本人が安心立命できて、いい気持ちになるのは、さっきの話ではないけれど、扉のある便所でウンチしたりすることと同じで、自分の特殊なものに隠れていくときに、一番甘美になる。
日本的回帰ってよくいうけど、年とったら日本的回帰になる。「ふるさとへ帰る六部の気の弱り」というやつね。あれはいい川柳やと思うな。頑張って青年時代は普遍性に行こうと思ったけど、気が弱くて特殊性に入っていくわけでしょう。これが日本人全体のメンタリティ。これがある限りは日本はダメになると思う。
普遍性をどうやって身につけるかっていったら、マルクスを読んだり、フランス文学を読んだり、ヘーゲルを読んだり、フランス文学を読んだりすることによって、あるいはアメリカのモータリゼーションに憧れたり、そんなむずかしいことやらんでもいいんですよ。
寝たり起きたりしてる中国人を見てたら、それでいい。隣におるんだから、そういう意味での普遍性で国家をつくろうとしてる人間たちが。
その意味できょう僕は喋ってるんであって、国家としての中国を喋ってるんじゃない。その意味のところに日本人が尻を落ちつければ、われわれは救われるやろということで喋ってるんで、何も中国喋ってるんじゃない。中国については僕ばほとんど知らんわけや。
きょうはこればっかり言ってるけれども、「住民」としての感覚で中国の住民を見ていたら、それでいい。「住民」ということ以外のレベルで、つまり民族論や国家論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗しつづけてきたように、今後もそうなるな。あたりまえのことなんだけど、われわれ日本人にはむずかしいことなんです。 (同、一二九~一三〇頁)
エスカレーターの右側に立つという提案
お疲れ様でした。長かったですね。はじめに申しましたように、みな別の言葉で同じことを言っていましたね。
日本人の思惟形態の特徴は、いまここへの没入、現実への密着、自己を虚しうして周囲に同調する和のこころです。
裏側から言えば、超越的/抽象的/概念的なものを嫌い、それがゆえに自分の適応している現実を批判することができず、周囲と違和があるときにすごく不安である。
ここに紹介した議論は知識人なら誰でも知っていることで、「またこれか」と感じることでしょう。しかし知識人はわれわれの弱点を克服し得ているでしょうか。そうでもなさそうです。
大学やら論壇やら種々の界隈やらの集団に絡めとられているように見える。もちろん知識人だけを責めるのは不当で、大衆がそれを求め、普遍へ開こうとするのを許さないとも言える。
要するに、われわれはエスカレーターの右側に立つことが出来ない。いまここの現実、既存のシステムのなかで行き方/生き方を決めようとする。
所与の現実のなかで自己利益を最大化すること、うまいことやること、日本人はそれしかやっていない。だからその外へ出ようとするひとを見るとすごく不安になるのです。邪魔をされたとか否定されたと感じて攻撃してしまう。
エスカレーターの右側に立つひとをジロジロ見るでしょう。聞こえよがしに溜息をついたり舌打ちしたり。ひどい場合には前に立ったひとを押すひともある。日本の秩序はこのような「ルールを守れ」の圧力に支えられているのです。
「ルールを守れ」の圧力がどんどん強くなっていることをみなさんお感じのはずです。山本七平が「残ったものは「空気」だけ」といったのは一九七七年でした。情況倫理だけがあり、これを相対化する固定倫理がなくなったという意味でした。
彼は儒教道徳の消滅を指してそう言ったわけですが、ここまで紹介した議論を踏まえるなら、仏教が世俗化し、キリスト教は排除され、マルクス主義も退潮したので、「いまここ」を越える超越的価値がなくなったからということになります。
加えて経済成長神話も崩壊し、超少子高齢化の人口減少国です。適応すべき「いまここ」の現実がどんどん厳しいものになっている。中間共同体が消滅して人間関係が稀薄になりました。いちど転落したら這い上がれない。公助を求めると自己責任だとそしられる。
となると所与の現実に適応するという生き方が唯一の選択肢になりましょう。必死にしがみついているのに、その対象の現実を否定されたらたまったものではない。「ルールを守れ」の声が強くなり、なんにせよ否定的な言説が忌避されるゆえんです。
近年流行のタイパ・コスパやハックの思想も、超越的価値を喪失したいまここ主義と相性がいい。損得勘定がすべてで、損得を成立させている既存の制度や秩序の是非については問わない。
損得でしか考えない人間を昔は「小賢しい」「小利口」「小人物」などと言って軽んじたものですが、これが通じなくなってしまった。いまそう言っても嫉妬していると思われるだけです。
冒頭に形式主義ということをいいました。根拠やら批判やらむづかしいことはいいからとりあえずルールを守ろうという姿勢のことです。超越的価値や固定倫理が失われた日本において、ルールを守れ(=迷惑をかけるな)が唯一の道徳律になっている。
自分の内側に価値基準がないからルールを探すのです。
冒頭の写真を思い出してください。エスカレーターの左側にひとが並んでいると、右側がガラ空きでも右側に立てない。「ルールを守れ」という外からの声、「ルールを破ったらおしまいだ」という内からの声によってわたしたちは身動きがとれなくなっています。
形式主義が問題なのは、ルールを守るわたしたちの行儀のよさが、ルールさえ守っていれば何をやってもよいという倫理的退廃を生むことです。いまの日本をむしばんでいるのはこれです。
ルールの絶対化と、ルールの内側ならどれだけ卑怯なことをやってもよいという居直りは表裏の関係にある。「ルールを守れ!」が「ルール守ってますけどなにが悪いんすかー笑」に転じるわけです。
ルールの外側に出る知的緊張と、ルールの内と外の健全な往還がなければ、ひとは必ず形式主義に陥ります。わたしたちがこれを怠り続けてきたために、既存のシステムの受益者=権力者たちは「ルールの内側ならなにをやってもいい」と考えるようになってしまいました。
日本国を支配する最大にして最深のルールである「対米従属構造」の頂点にいる政治家たちがなにをやっているかを思い出してください。
いまここの自分の利益のために法律を制定し、解釈を変更し、恣意的に運用し、法律の内側で裏金をつくり、国民の貧窮など知らぬ存ぜぬで、料亭で美食をたしなみながら、マスコミが飛びつきそうなネタを相談しています。
腐敗システムの中で生きている彼らは日本がどれだけ没落しているか、わたしたちがどれほど苦しんでいるか、まったく分かっていません。
日本はもうオシマイです。なぜこんなことになるのでしょう。
あなたがエスカレーターの右側に立たないからです。ルールの外に出ないからです。ルールの外に出るための支点となる固定倫理/超越的価値/普遍とつながっていないからです。
主語が大きいひとはイヤだとか、思想が強いひとは怖いとか、自分のことをしろとか、正しさはひとそれぞれ違うとか言って、これら支点をつぶしてきた。
普遍を考えることから逃げ、知的な装いをした現状追認の言説をまとって自己を慰撫してばかりいる。だからルールの外に出ることが出来なくなってしまったのです。
ルールを守ることがつねに正しいとは限りません。ルールを破ることが正しく、ルールを守ることが間違っているということが、世界にはある。形式主義と倫理的退廃に侵されないためには、この緊張に身をさらさなくてはなりません。
もちろんいつも緊張しているわけにはいかない。けれども「ここぞ」というときにルールを破れる人間であるためには、「ときどき」ルールを破る生き方をしている必要があるでしょう。
そこで最後にわたしからみなさんに提案がある。エスカレーターの右側に立ってみてはどうでしょうか。
司馬遼太郎は戦国時代にキリスト教が入ってそのまま三割くらいがキリスト教徒のままであれば日本は太平洋戦争を起こさなかったかもしれないと言いました。この三割という数字は、直観的にたしかにそうかもしれぬと思わせる値です。
キリスト教でなくても、三割の日本人がなんらかの普遍とつながっていればよい。けれど司馬自身が言っているように、わたしたち普通の日本人が普遍を理解することは非常にむづかしい。
そこで基準をゆるめましょう。三割の日本人ではなく、あなたの生活の三割を普遍的価値にもとづいて律してみる。出来るかはわからないが、そう意志してみる、思ってみるだけでもかまいません。
そしていまここのルールと普遍が対立したとき、普遍の側についてみる。ときどきエスカレーターの右側に立ってみる。
そのとき自分の内側で何が起こるか、周りがどう反応するか、よくよく観察してみてください。うまくいけば冒頭に掲げたあの陰鬱なエスカレーター風景はまったく別のものに変わります。ひとりでも革命を起こせるわけです。
もちろん、ときどきエスカレーターの右側に立つといっても、愉快犯的なへらへらした逆張りではいけません。それでは迷惑系ユーチューバーと同じで、ただみんなを馬鹿にしているだけです。秩序にただ乗りして劣化させる連中です。
右側に立つ=ルールの外に出るという行動が、普遍に支えられていなければなりません。普遍に支えているときにのみ、ルールを破る行動が形式主義に陥ったひとのこころを解きほぐすことができる。
日本は極めて同質性の高い社会なので少しひとと違っているとすごく目立ってしまう。そうして自意識過剰になる。「オレって変わってんのかな~笑」とか「え、わたしだけ~笑」とか言いたがる。この自意識過剰が多数派の鼻につくわけです。
自意識過剰に陥ってはいけません。右側に立つとき、左側に立つひとを「アホなルールに従う思考停止の愚民ども」などと思って馬鹿にしてはいけません。平気に、超然と、なんの気負いもなく立つのです。
周りのひとに、ああこれは見事なものだ、ひとつ自分も立ってみるかと思わせたら立派なものです。それはつまり、あなたの立姿に現れたあなたの思想が周りの人間のこころを動かしたということです。
福田恆存が「日本および日本人」の最後にこのことを述べている。それを引用してこの長い文章を終わりにしましょう。
福田に敬意を表し、最後だけは彼の表記法すなわち歴史的仮名遣のまま引用します。
どんな立派な思想でも、衣服とおなじやうに、それを身につける自分の姿勢を他人の眼に、美しく見せうるやうになるまでは、ほんたうに自分のものとはいへません。私は日本人の昔ながらの短所を温存して生きぬけとも、西洋人の長所をものにしろともいひません。(・・・)
すでにいつたやうに、あとはひとりひとりの道があるだけです。ただ、そのばあひ、どういふ道を歩むにせよ、自分の姿勢の美しさ、正しさといふことを大事にして、ものをいひ、ことをおこなふこと、そのかぎりにおいて、私たちは日本人としての美感に頼るしかないと信じてをります。 (前掲書、二〇六頁)