さきほど「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」の読書ノートを書いた。日本は外国から取り入れた概念を十分に咀嚼し、その上で新しい概念を生み出す努力を怠ったと書いてあった。その箇所を筆写しながら、福田恆存の「私の國語教室」を思い出してゐた。
「私の國語教室」は国語改革を批判した本で、読み返すたびに新しい発見がある、いつまでも読み終わらない本だ。その発見というのがしばしば国語表記と関係のないことだったりするから驚きだ。
第六章「國語問題の背景」において、福田は文字言語と音聲言語がまったく異なる生理をもつことを説き、日本の表音主義者を批判する。彼らは十九世紀末のヨーロッパの言語学が音聲中心主義的であったのをそのまま受け入れて現代音韻が大事だと言ってゐるだけで、それが登場した背景を理解してゐないと。
(・・・)しかし、彼等が言語硏究において現代語の考察を重視したのは、それまでの言語學が文獻主義的だつたことにたいする反動としてであり、その前提、すなはち過去の硏究の方法と業績があつて、それを受けつぎながらアンティテーゼを出したからこそ意味があるのです。
日本では言語學、國語學ばかりでなく、すべての社會科學が同樣の誤謬を犯してをります。西洋の思想や學問の受入れ時代がたまたま向うの反動期に相當してゐたためですが、その前提ぬきで、いきなりアンティテーゼの中にのめりこんで行く。觀念論の歷史をもたずに唯物論の中に立てこもり、尻馬にのつて、いや、それを成りたたせるために、逆に日本の歷史にはありもしなかつた觀念論をなんとかしてこしらへあげて攻擊する。ですから、その唯物論はただ攻擊的、破壞的であり、觀念論よりも觀念的、非生產的なものになつてしまふのです。
ここは本当にそうだなと思う。いまでもまったく変わってゐない。外国から入ってきた概念を十分に咀嚼してゐない、定着してゐない、前提ぬきで、いきなりアンティテーゼの中にのめりこんで行く。
例えば、ポリコレ、ミー・トゥー、キャンセル・カルチャー、ブラック・ライブズ・マターなど。これらアメリカ由来の新しい言葉=概念が入ってきたが、日本にはまったく定着してゐないのに、アンチ言説が吹き荒れて、前進せぬままに反動が起こる。
ミー・トゥーなんて全然定着してゐないのに、本当に苦しいのは弱者男性だと憤慨し、ブラック・ライブズ・マターのない日本でオール・ライブズ・マターだと騒ぎ立てる。ありもしない前提をこしらえあげてアンチ言説を成り立たせてゐるわけだ。だから攻撃的なばかりでまったく生産性がない議論になる。
福田恆存は本当に賢いなあ。と関心されても、泉下の福田は喜ばないか。