手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「代替え」の勢力拡大について

みずほ銀行からのはがきに「代替え方法」と書いてあった。代替(だいたい)を代替え(だいがえ)と読む/書くことがあるのは知ってゐたが、銀行からの案内というきちんとした場面で出くわしたので驚いた。代替(だいたい)は代替え(だいがえ)に駆逐されつつあるのだろうか。

「代替え(だいがえ)」の勢力拡大理由を考える。

0.ネットで検索すると、「大体(だいたい)」と混同されることが多いので「代替え(だいがえ)」と読まれるようになったという説明を見つけた。化学を「ばけがく」と読むたぐいの工夫ということか。初耳だ。人生でこの「だいたい」は「大体」かな「代替」かなと迷った記憶がない。どうも腑に落ちないので、以下、自分で考える。

1.漢文からの離脱という大きな流れ。すなわち漢字の音読みを使う機会の減少、そして訓読みの伸長。漢字の音読みは中国音の読みだから音だけ聞いても意味がわからない。対して訓読みは大和言葉だから音で意味がわかる。そこで「代替え」と重箱読みにすることで意味を示唆するようにした。半分和語なので音と意味との連絡が強まる。

音だけ聞いて意味がわからないのは言葉のありようとして変態であるから、音読みではなく訓読みが勢力を拡大するのは日本語の発展として、正しいかどうかは知らないが、自然のなりゆきと思える。ところが、和語では抽象度が低く語の輪郭がぼやけ、まとわりつくような印象を与えてしまう。また音が間延びして締まりがない。

訓の利用という点では「見える化」が似た例で、「視覚化」の「視覚」を「見える」に換えたものと推測する。「化」は音読みだが使用頻度が高くほとんど和語化してゐるので「見える化」は耳で聞いてすんなりわかる。これはたいへんな傑作と思う。が、上記した和語の弱点がよく出てゐて、正直、ちょっと気持ち悪い。「代替え」もまた。

2.ルビの廃止。戦後の国語改革は漢字廃止を目指した。ルビも廃止した。ところが漢字は残った。漢文教育をやめてルビもないとなると、漢字の読み、特に音読みを学ぶ機会が少なくなる。そこで「代替」の意味はわかるが読みはわからないという状況が出現した。

ここで「だいがえ」読みが登場し、この読みが「代替え」と表記に反映されるようになった。  そして今度は「代替え」表記から「だいがえ」読みが拡がるという相互作用が生じ、やがてみずほ銀行の案内に使われるまでになった。このあたり、私の臆測であり、エビデンスはありません。

3.少し話がずれるが、送り仮名は伸び縮みするものだから(例:手続/手続き)、「代替」はこれだけで「だいがえ」と読むことができる。けれどもそれだと読みを限定できないから「え」を送って「だいがえ」と読ませる。で、この「送り仮名を送って読みを限定しよう」と思う、その思い方は、私たちの書記方法が手書きからワープロ打ちに移行したことと関係してゐる。

なぜなら手書きは文字を手で書いてゐるのに対し、ワープロ打ちは語を構成する音を打ち、音を字に変換してゐる。だから手書きでは「読みを知らない字を書く」とか「読みを限定せずに書く」ことが出来るが、ワープロ打ちでは出来ない。

手書きなら「代替」の読みを知らなくても「代替」と書けるが、ワープロ打ちではなんらかの音を打ってそれを変換しなくてはならない。「だいたい」という読みを知らないなら「だいがえ」と打つ。「だいがえ」と打つなら、わざわざ送り仮名を省いて「代替」とせず、そのまま「代替え」表記になるだろう。

このあたりのことは☟に書いたのでよろしければどうぞ。

ところで、私は

・助詞の「さへ」「づつ」

・存在を意味する「ゐる」「をる」

・「ぢ」「づ」「じ」「ず」、いわゆる「四つ仮名」を使用した語

を「歴史的仮名遣い」で書く、という原則で表記してゐるので、「みずほ銀行」をうっかり「みづほ銀行」と書きそうになる。「みずほ」はむろん古事記に出てくる「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)」という日本国の美称から取ったものだろう。

かように由緒正しい言葉の表記をなぜ「みづほ」から「みずほ」に変えたか。そういうところがダメなんぢゃないの! ということを書いたのが☟になります。細かいところは間違いもあると思う。しかし大きな話として、私の考えの筋道と方向性は正しいと確信してゐます。よろしければどうぞ。