「漢字世界の地平 私たちにとって文字とは何か」齋藤希史 新潮選書 2014
今年読んだ本の中でいちばん面白かった。音声言語と文字言語(書記言語)の関係について、これほど原理的で射程の広い議論を読んだことがない。これはかなり凄い本なのでは? 衝撃でぼんやりしてゐる。「マッドマックス 怒りのデスロード」を見た直後のあの茫然とした心地に近いかもしれない(違うか)。
本書は「読み書きによって構成される世界のフロンティアとして、甲骨文から訓読体までを一つの展望のもとに論じること」を企図したものだ。
ぼくたちはある言語を話し、聞き、読み、書く。「話す」と「聞く」は音声言語に関わり、「読む」と「書く」は文字言語に関わる。音声と文字はおよそ別の記号体系であるのに、これが同じ言語として理解されてゐるのは実に不思議なことだ。
読んだり書いたりするとき、ぼくたちは音声言語と文字言語の間を行ったり来たりするわけだけれど、これが素直に出来るのは、いまの音声言語の秩序と文字言語の秩序が「対応してゐる」からである。
言語はもちろん文字に先立って存在する。言語のない社会は存在しないが、文字のない社会はある。そのため、文字は言語を表すために生まれたと考えられることが少なくない。たしかに、通念として文字が記号一般と区別されるのは、それが言語と緊密な関係を結んでいるかどうかにある。文字は一定の秩序で配置された文字列となって初めて記号ではなく文字として認識され、その配置の秩序は言語と何らかの関係を結んでいることが通例であろう。しかしそれは文字が言語のために存在しているということをただちに意味するわけではない。
端的に言えば、文字列の秩序が言語のシンタクスと相似形を為しているのは、日常用いている言語のシンタクスに文字列の配置ルールを従わせるのがもっとも効率的だからである。 102-103頁
この「対応してゐる」というのが実にとんでもないことで、文字が生れた当初は対応してゐなかったし、無文字社会に文字がやってきたその始めには、もちろん外国の言語を表す外国の文字なのである。漢字は殷代に生まれ、それが中国全土に広がり、さらにモンゴル、朝鮮、日本にまでやってきた。それぞれの社会が「外からやってきた文字」と現地の音声言語の対応関係をつくっていくのである。
すなわち「日常用いている言語のシンタクスに文字列の配置ルールを従わせる」わけだ。ぢゃあこれをどうやってやるか、またなにがおこるか。「訓読」は日本の専売特許ではない。漢字が外からやってきた社会はみなそれに類することをやったのだ。本書はその過程を実にスリリングに描いてゐる。
文字言語は、口頭言語を参照して成立しつつ、 ”記す” 機能をもつことで、音声言語とは異なる秩序を構成し、音声言語と相互に作用しあう関係を確立した。つまり、口頭/書記言語システムが成立したのである。むろん、このシステムはきわめて動的なものであって、相互の関係のありかたも一様ではない。本書で述べたのは、あくまで漢字圏におけるその動態、しかもその一端にすぎないが、口頭と書記との相互作用とそれによってあらわれる言語の諸相については、原理的には中国大陸であれ朝鮮半島であれ日本であれ観察しうることは了解されるだろう。何も日本列島においてのみこうした事象があるわけではない。 205頁