手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

カタック探訪2024

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マードゥリー・ディークシトのダンス

カタックというダンスの存在を知ったのは2013年6月のこと。わたしは26歳、いまよりもっと貧しく、スマートフォンを持たずまだガラケーで、家にはテレビもネット環境もなかった。ずっとTBSラジオを流し、休みの日に近所の図書館で新聞を読んだ。調べものがしたいときはノートパソコンを漫画喫茶に持ち込んで店のWi-Fiに接続して検索した。

ネット環境を整えればいいだけの話なのだが、当時は新しい便利なもの、さらには世相や潮流にあえてキャッチアップしないことにある種の誇りを感じてゐて、スマホなど持ったら人間だめになると考えて踏ん張ってゐたのである。いまでもいくぶんそういうところがあるけれど。

その日も漫画喫茶にノートパソコンを持ち込んで、ユーチューブで音楽を聴いたりダンスを見たりしてゐた。なんとなくインドのダンスを見ようと思って「India Dance」と入れて検索した。このひとつの検索が人生を変えた。

美しい女性がテレビショウで踊ってゐる動画が出てきた。その冒頭部分を見た瞬間、わたしはアッと思った。一瞬にして凄い力に捉えられて、瞬きも呼吸もせずというような集中力で全篇を見た。6分程度の動画。見終ったあと、わたしはあまりの衝撃にしばらく放心状態となった。

落ち着いてからもう一度見た。もう一度、もう一度、何度見たかしれない。制限時間のあいだその動画だけを見続けた。それはボリウッドダンスだった。しかしよくある普通のボリウッドダンスではなかった。いや、音楽も振付もよくあるボリウッドダンスといえるかもしれない。けれども中心で踊るひとりの女性が特別だった。

ジャクソン5が踊ってゐて、みんな上手だけれどマイケル・ジャクソンだけが異質の動きをしてゐるのと同じといえばよいだろうか。彼女はそのような意味で別の次元で踊ってゐた。名を Madhuri Dixit というらしい。

わたしが見たのは「People's choice award 2012」というイベントでのパフォーマンスで、その動画はいまはユーチューブから消えてゐる。ウィキペディアによれば、People's choice award はアメリカ発の視聴者参加型の賞で、インドでは2012年から始まったらしいので、初回のパフォーマンスということになる。

わたしは一時期「Madhuri Dixit」で検索して出てくる動画を網羅的に見てゐたのだが、この「People's choice award 2012」のものが最も優れてゐると思う。第一回の開催ということで最大のスターであるマードゥリーを中心に据え、ボリウッドの凄さを見せてやるという意気込みでパフォーマンスを作り上げたものと思われる。

女優以外の選択肢はないであろうというほどの美貌とは別に、ダンスもまた群を抜いて素晴らしい。才能といってしまえばそれまでだが、長期的に何かの訓練をしなければこのような動きにはならないはずだ。いったい何が彼女のダンスを特別にしてゐるのだろう。わたしはそれが知りたいと思った。

2013年の時点で日本語版ウィキペディアに「マードゥリー・ディークシト」の項はなかった(いまでも貧相なものである)。だから英語版を読んだ。幼少期から北インドの伝統舞踊・カタックを学んでゐると書いてあった。これだと思った。彼女のダンスを特別にしてゐるのはカタックだ。わたしのカタック探求が始まった。

マードゥリーがカタックを踊ったものでは2002年公開の映画「デーヴダース」の一場面が圧巻である。三十代半ば、すでにスターとしての地位を確立し、俳優としてダンサーとして円熟期にある。そして振付はいまはなき伝説的舞踊家のビルジュ・マハラジ。ここには奇蹟のような達成がある。マードゥリーやマハラジについて何も知らなくても、舞踊にまったく関心がなくても、感じることができると思う。

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ヌータン先生のダンス

マードゥリーからカタックを知り、カタックについて調べ始めた。ユーチューブの検索窓に「Kathak」と入れて検索し、出て来たものを片っ端から見ていった。男女問わずたくさんダンサーの映像を見て、Nutan Patwardhan というひとの表現が最も強くわたしの感受性をとらえた。

その気品と優雅さはまさにわたしの求めてゐるものだった。特に肘から手首の形と動きは比類ない美しさだと感じた。カタックの動きはすごく速いので手首を放り投げるようなダンサーも多いが、このひとは全然ちがう。速くてもしなやかさを保ち、線の美しさを壊さない。静と動の緩急、リズム把握の仕方も他のダンサーにない特別なものがあると思った。

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本稿執筆時点でこの動画の再生回数は2,380回である。優れた表現が必ずしもアテンションエコノミーにおいて成功するわけではない。そしてそれは良いことだとわたしは思う。物事には適切なサイズがあり、アテンションエコノミーで成功した途端にだめになってしまう種類の善きことがある。

卑近な例を挙げると、テレビやネットで話題になったとたんに近所のひとが気軽に利用できなくなる飲食店がそれだ。観光地化すると以前とは別の存在になってしまう。それでは困るのでバズらないように苦心して運営してゐる飲食店も多いはずである。

ヌータン先生の動画を初めてみたとき、このひとも有名になりすぎないよう気をつけてゐるひとだと感じた。SNSでの発信には不熱心で、バスらせるための加工や編集は一切しない。そういうところも好きだと思った。実際のところ、有名になって仕事が来すぎても受けられないし、生徒が来すぎても取れる数には限度がある。

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このひとの弟子になりたいと思った。インドに移住するのはどうかと考えて日本語教師の資格を取った。けれども20代後半のわたしはあまりに経済的に不安定で、それゆえ精神的にも不安定で、海外移住に挑戦できる状態ではなかった。なにかを夢見ても、無理に決まってゐる、うまく行くはずがないと思いなすのが癖になってゐた。成功体験がなさすぎた。

それでもカタックを学びたかったから、東京の教室に通うことにした。2016年5月、あと3か月で30歳になるころだ。週に1回、2年と少しのあいだ通ったけれど、満足できなかった。指導方針、内容、生徒への態度、さまざまな面で疑問を感じた。ここは違うという感じを早い段階で持った。

その間もヌータン先生を中心にいろいろなひとのダンスを見てゐた。見るほどに目が肥えて、やっぱりこのひとに習いたいという気になり、東京の教室に通う気力を失くし、2018年の9月にやめてしまった。

自主練を始めた。ヌータン先生が昔テレビの企画で放送したカタック教室のビデオがユーチューブに残ってゐたから、それを見て気に入ったものをコピーした。週に一度スタジオを借りて自分で練習して、年に一度インドに行き現地で先生に習う。そういうことができるのではないかと考えたのだ。意志あるところに道あり。

とにかく先生の知己を得る必要がある。だから翌2019年の黄金週間にムンバイに行くことにした。とりあえず行ってみようぢゃないか。というわけで飛行機とホテルの予約をした。3泊4日の旅である。わたしはヌータン先生のダンスをコピーしてビデオに撮り、フェイスブックを介して送った。返信が来た。

Please do come to India. 

これがヌータン先生との交流の始まりだ。そのときの感激ときたら、わたしは手の舞い足の踏む所を知らなかった(この慣用句の置き所としてこれ以上ふさわしい場面もあるまい)。何往復かやりとりした。相手が入力中であることを示す「~~」みたいな記号を震えながら見てゐた。職場の昼休みだった。いまでもよく覚えてゐる。

インドでは4月と5月がいちばん暑い時節だから多くの学校が夏休みとなり、労働者もバカンスを取る。先生も5月は休息の月で働かない。バカンスだから授業はないが会いに来ていいといわれた。それで自宅まで会いに行った。お茶をして、翌日にはディナーに招かれ、夫さんのミスター・マヘーシュにも会った。

会って挨拶して、自分がまともな人間であることをわかってもらえた。なにごとも信頼が大事。「また来ます、そのときは先生の指導を受けさせてください」「もちろんです。あなたを待ってゐる。踊り続けなさい」。さあ、自主練にも俄然気合が入ります。

待てば海路の日和あり

週に一度の自主練を続けた。わたしは当時もいまも派遣社員である。派遣社員というのは簡単に解雇される代わりに正社員より自由が利く。わたしは週に一度平日の朝に休暇を取り、近所のスタジオを借りて練習した。そうして2019年末、翌年の夏に再渡印するために飛行機のチケットをとった。

ところが少しすると、中国で発生した疫病が各国に拡がってゐるという報道が出て、それに新型コロナウイルスという名が付けられ、あっという間に世界規模の大流行となった。インドでもたいへんな被害が出てゐる。すぐにキャンセルした。

ヌータン先生からオンラインクラスを始めたから参加しないかと連絡があった。できれば直接習いたい、英語力にも自信がない、パンデミックも収まるかもしれないから少し様子を見たいといってそのときは断った。2020年が終った。

2021年。ワクチンはまだ開発されない。わたしは、パンデミックも遠因のひとつではあるだろう、派遣切りにあい職を失った。ハローワークに行き失業給付を申請した。給付が下りることになった。ところが解雇された一月後に同じ職場に呼び戻された。断わる理由もないので戻ることにした。

夏に引越をして犬を飼い始めた。そして9月からオンラインレッスンに参加することにした。コロナパンデミックは続いてゐて自分の経済状況もこんな状態では、こんどいつインドに行けるかわからない。オンラインレッスンに参加すべきだというふうに考えが変ったのだ。

だから2021年9月1日(水)が正式な弟子入りの日付ということになる。緊張したけれどヌータン先生の指導を受けられるのがとにかく嬉しかった。素晴らしい先生だと思った。先生が見本を見せると本当に美しくてみんな拍手をした。わたしは自分の選択が正しかったことを確信した。自分の直感と感受性は信ずるに足る。

2021年の終わり、わたしは仕事を辞めることにした。派遣切りされたことに対する心理的なしこりが膨らんできて、なんだかイヤになってしまったのだ。それで年内で辞めてしまった。2022年は職業訓練学校に通って会計を学んで簿記2級を取った。2023年は某流通関連の企業で経理の経験を積んだ。

その間、ダンスの方は順調だった。週に二回のレッスンを一度も休まなかった。わたしは親が健康で妻子なく、非正規労働者だから残業もほとんどしないので、ダンスを休むような状況にならないのである。正社員を目指すべきとひとはいうが、現状まだ正社員は「通勤+8時間労働+残業」がデフォルトで、これがわたしの体力では無理なのである。

働きながらインド行きの機会を探ってゐた。派遣期間は産休で休職中の前任者が戾ってくる2024年3月までという話だった。だから契約終了後の4月に行くことにした。辞めて、インドに行って修行して、帰ってきて失業給付を受けながらまた就活をするという算段だ。

ところが4月以降も契約延長をという依頼がきた。産休明けのひとは在宅がメインで時短勤務になる、子供が体調を崩せば欠勤することもある、完全復帰まで時間がかかるからというのが理由だ。インド行きは日程変更はできないから4月まるまる休むことなる、それでもよいなら延長可能である旨を派遣会社に伝えた。よいということだったので派遣が継続することになった。帰国後も就活しなくてよいのはありがたい。

そして2024年4月11日、わたしはムンバイに飛び立った。

光陰矢の如し。カタックを知って11年、学び始めて8年、初めてヌータン先生を訪ねて5年、オンラインクラスに参加して2年と半年の月日が流れた。追憶するに、実にいろいろなことがあった。いろいろあったが続けてきた。根気、根気、根気。粘ってゐたら機会がやってきた。待てば海路の日和ありだ。

ダンス漬けの日々

成田を発ち香港を経由してムンバイに着いた。ANAで成田ームンバイの直通が出てゐるがスケジュールに合わなかったから今回は経由便にした。そのほうが経済的には安上がりでいいのだが、体力的にはきつい。次回はやはり直通便にしたい。

ムンバイのホテルに着いたのが深夜の2時。午前中は部屋で休み、午後にリキシャに乗ってヌータン先生の家に行った。5年ぶりの再会だ。お茶をいただき、近況を交換し、スケジュールの打ち合わせをした。

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今回の滞在の目的は先生のダンスを自分の眼で見ることである。先生が指導する授業に可能な限り多く出席したいという希望を伝えた。先生は諾した。求めよ、さらば与えられん、である。先生は踊るのが好きなのと同時に教えることにも大きな喜びを、と同時に義務を感じてゐる。意欲あるものには年齢も性別も国籍も関係なく情熱をもって指導してくださる。

自身の才能と、これまで蓄積してきた知識と経験について自覚的であり、それをなんとかして次世代に伝えたいと考えてゐる。指導にあたる情熱、激しさ、妥協のなさには驚かされた。わたしはそれに応えねばならない。

先生はどんな基本的な動作でも、必要だと思えば何度もやって見せ、ビデオに撮らせる。自分が見本を見せるときにまったく躊躇がない。こうやるんだ、見なさいといってパっとやる。満足できなければ、いまのはミスした、もう一度、いまのがいいからこれをシェアしなさい。という具合。わたしはカタック以前に別の習い事を複数やってゐたが、ここまで惜しみなく実演して、ビデオも全然OKという指導者を知らない。

初日の打ち合わせで、「ヒロキは自分の教室を開いたほうがよい」といわれたのには驚いた。「あなたは教えるべきだ。生きてゐる限りわたしは全力でサポートする」と。わたしは教室をもちたいと思ってゐるが、自分がそんなレベルに達してゐるとは思ってゐなかった。だから教室を持ちなさいとあっさりいわれてヒョっとした。ここにもわたしは先生の躊躇のなさを感じる。学んだら、教える。それは当然で自然のことだという考えなのだと思う。先生のそういう直截さがまた好きだ。

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ヌータン先生は朝も夜も働くハードワーカーである。ちょっと心配になるくらい働いてゐる。一流のひとは一般にそうだが、すごくタフである。二十日間ほとんど毎日先生に会い、指導を受けたが、身体的及び精神的なタフさには驚くばかりだった。

朝6時に起きて1時間散歩をしてシャワーを浴びて朝食を取り、9時から12時(または13時)までクラスをもつ。昼飯を食べて短い昼寝をして、夕方5時半から8時半まで夜のクラスがある。だから平日は6、7時間教えてゐる。毎日。ただしここまでハードなスケジュールはバカンス前の4月だけのはずだ。にしてもたいへんですよ。

わたしはすべてのクラスの出たいと要望し許可されたので、全部出ましたよ。ムンバイの4月は日本の8月と同じかそれより少し暑いくらい。毎日38度。雨は見事に一滴も降らなかった。いつでもどこでも暑い。その暑いムンバイで毎朝9時から基礎練習をする。暑いなあ、しんどいなあと思いながら、楽しくて仕方なかった。

あんまり楽しくて腰痛が治ってしまった。筋力がついて治ったのではない。だって着いた翌日には痛みを感じなくなってゐたから。完全に心的要因、すなわち開放感で治ったのだ。日本での生活がそんなにつらかったのかと我ながら苦笑を禁じ得なかった。

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先生のルーティンは、先生の居住してゐるコミュニティの社交ホールで毎朝9時に始まる。まづ足踏みだ。足踏みはタッカル(Tatkar)と呼ばれ(なお、わたしはこの種の現地語の日本語表記をどうしたらよいかいまだ決めかねてゐる)、足裏で床を叩いて音を出す。同時に、足首についてゐる鈴を揺らして音を出す。

タブラマシン(複雑なメトロノームのようなもの)で16拍周期のリズムパタンを流し、それに合わせて足踏みする。1拍に1度床を打つのから始めて、どんどん速くしていき、いちばん速いのだと1拍に8度打つ。これら拍の分割を指すのに使われる概念をグン(Gun)という。1拍に1度打つのが1Gun、2度が2Gun、3度が3Gun である。要するに1Gun は四分音符、2Gunは八分音符、3Gunは三連符である。

8Gun までいくとかなり速い。基礎練習ではその速い8Gun を日によっては30分以上続けるからたいへんだ。けれどもわたしはこの時間が好きだった。足踏みしてゐるから身体全体が振動し、鈴の音に共鳴を始める。いつしかしんどいことを忘れて一種の瞑想状態に入る。これが実に気持ちいいのだ。

長いシンプルな8Gun のタッカルがもう充分という感じになったら、足踏みそのままにアバルタン・タッカル(Avartan Tatkkar)に移行する。これは少し複雑なリズムパタンを数種類並べたもので、ヌータン先生の生徒は必ず覚えるものだ。ここで一区切り。つぎにチャッカル(Chakkar)と呼ばれる回転、ターンの練習をしてルーティンは完了。少し休んだらその時々に練習中のレパートリーに取り組むことになる。

これが朝の練習。朝の時間は一般のひとは学校に行ったり働きに出てゐるから来ない。来るのは藝能人と呼ぶべきか、上流階級と呼ぶべきか、その種のひとたちがだいたい毎日二人か三人、順番にパーソナルレッスンを受けにくる。ヌータン先生が教え、そこに娘さんのキタキ先生が加わることもある。わたしは彼らが受けるパーソナルレッスンにいわば同伴することになった。

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夜のクラスは集団レッスンである。場所は先生の家の近くの学校の一階。小学校か中学校か知らない、たぶん朝礼とか集会が開かれる場所だろう、写真のような広々としたホールがあって、そこを定期で借りてゐるらしい。そこでだいたい入門、初級、中級くらいのレベルに分かれて練習する。

全部のクラスを合わせると何人くらいだろう。まったくの肌感覚だけれど50人は越えてゐるはずだ。ヌータン先生がグルで、娘のキタキ先生がメインのアシスタント。それから舞踊の専門学校で博士課程在籍中のプルヴィさんもほとんど毎日来て先生を補佐してゐる。臨時的に上級の生徒がアシスタントにまわることも多い。

わたし以外に男性はひとりもゐない。カタックは女性的なものであるという通念があるらしい。日本もそうだが、そもそも論として習い事をするのは女性が多い。趣味や教養のために習い事をするという営みを支えてゐるのは女性である。男の甲斐性は働いて稼ぐことであるという常識を前提に社会が動いてゐるからだ。わたしはそのような男性ではないので、いわば女性らしい生き方をしてゐることになる。

平日は朝3時間に夜3時間で合計6時間、土日はキタキ先生の家で1時間づつ練習した。ずっと動いてゐるわけではなく問答やおしゃべりや休憩があるにしても、これだけ練習したのは初めてだ。体調面のことも少し書いておくと、真夏のインド滞在にもかかわらず、腹も壊さず熱中症にもならず完走することができた。さきに書いたように着いてすぐに腰痛が治ったので、要するにすごく健康だった。

唯一痛みが出たのは踵である。あきらかに練習のしすぎで、しかもインドの石の床を足裏で打つので、滞在後半に入って右足の踵がひどく痛んだ。神経がヒリヒリして右足で床を叩くのが怖くなってしまい閉口した。でもよくあることだし、放っておけば治ることはわかってゐるので、痛いなりに適当に加減しながら続けた。

とにかくよく練習した。これだけの負荷をかけて踵を痛めたくらいというのは実にありがたいことである。毎日へとへとだったけれど、練習するのが嬉しくて、自分にこんなエネルギーがあったのかと驚くほどだった。

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インド舞踊のレパートリー、抽象舞踊/具象舞踊

学んだ内容を少しく具体的に書こうと思う。けれどもいきなりレパートリーの名前を記しても、そもそもカタックでレパートリーというとき何を意味するのかがたぶんピンとこないと思うので、先にそこを説明しましょう。

柔道の練習を例にとる(柔道やったことないんですけどね)。まづ呼吸法、膝行、受け身などすべての技の土台をつくるための基礎練習がある。つぎに内股とか大外刈りとか背負い投げなど名前のついた個別の技がある。そしてこれら技を組み合わせたものや、知っておくべきパターン(こう来たらこう返すとか)を選んでパッケージ化したものを練習する。最後に乱取りといって自由に技を繰り出す練習がある。

カタックも同じように基礎をやって、個別の技を練習して、次にそれらを組み合わせるというふうに進んでいきます。さきほど書いた足踏みやターンが基礎練習。内股とか大外刈りなどの個別の技に相当するのが Tukra(トゥクラ)や Paran(パラン)などのレパートリーです。

レパートリーそれぞれに定義があって、定義の内部で自由な振付が行われる。だからトゥクラもパランもたくさんある。識別するための呼称に決まりはなく。トゥクラ・ナンバー1とか、何某のトゥクラとか、いちぶを朗誦してこのリズムのトゥクラだと指示する。ひとつひとつはそう長いものではない。数十秒から1分とかそんなもの。

通常これらレパートリーのひとつかふたつを取り上げて覚えることがメインの練習となります。ちいさなレパートリーをたくさん覚えて反復することで、さまざまな振付のパターン、すなわちカタック・ボキャブラリーを学び、それを通じてカタックの「型」を身体に馴染ませる。

このプロセスがある練度に達すると身体と「型」とが一致してくる。身体そのものが型になる。ここまでいけば今度は逆に自分の身体=型からカタック・ボキャブラリーを出力できるようになる。つまり振付である。身体にリズムや音楽を流し込むと振付というアウトプットが成るわけです。

ちいさなレパートリーを複数並べてパッケージ化すればぐっと表演風になります。柔道との対応付けを続けるならこれは乱取りといえるでしょう。それらしい雰囲気が出るように形式を整え、衣裳を着て舞台で提示すれば、もう試合=表演です。

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さて、わたしが滞在中に習ったレパートリーを挙げると、前記した Tukra(トゥクラ)と Paran に加えて Tihai(ティハイ)、Kavitta(カヴィッタ)、そして Tarana(タラーナ)がある。各レパートリーの定義や条件を書くのは煩雑なので控えますが、すべてのレパートリーを包括するところの上位概念について一言しておきます。

インド舞踊には、表現を二項対立で把握分析するための概念的枠組が存在する。Nritta(ヌリッタ)と Nritya(ヌリティヤ)である。ヌリッタは英語で Pure Dance、ヌリティヤは Expressive Dance と訳されてゐる。日本語に定訳はない。ヌリッタ/ヌリティヤとカタカナで覚えてしまえばよい。強いて訳すなら、対立構造を明確にするために抽象舞踊/具象舞踊とでもしておけばよいと思う。

ヌリッタは抽象的で意味のない踊り。形を形として、リズムをリズムとして楽しむ。だから解釈はない。これに対してヌリティヤは具体的で意味のある踊り。身体で自然や人間や神を演じ、詩を吟じ、物語を語る。だから踊るほうも見るほうも背景知識が必要とされる。

どんなレパートリーもヌリッタ/ヌリティヤという上位概念のもとに分類することができる。ただ、容易に理解されることと思うが、実際の表現においてはほとんど常に両方の要素を含みます。混じりっけない純粋のヌリッタ/ヌリティヤはまれである。理論とはそういうもので、複雑な現実から性格を抽出して名(概念)を与え、こんどはそれをつかって現実を分析するために存在する。

わたしが習ったものだと、トゥクラとティハイとパランはかなり純粋にヌリッタで、カヴィッタはかなり純粋にヌリティヤである。タラーナはどちらも含む。少なくともわたしの理解ではそうである。

上記したとおり、ヌリティヤのほうは背景知識、神話を中心にインド文化への理解が必要だから、外国人には始めとっつきにくい気がする。表情、視線、手先の細かな演技が必要なので独学はまづ不可能。オンラインレッスンにも向いてゐない。

わたしも始めのほうはヌリッタを好んでゐた。しかしインド神話への理解が深まるにつれてヌリティヤが好きになった。そして今回ヌータン先生の直接指導を受けていっそうその気持ちが深まった。ひとつカタックといってもまったく別種の魅力がある。見る側からいっても踊る側からいってもぜんぜん感覚が違う。

ヌリッタは非言語的・非意味的で、リズムとかたちが異次元の時空をつくりだす。対してヌリティヤは言語的・意味的で、身ぶり手ぶりと詩が情緒をつくりだす。そしてインド舞踊においては人間的情緒が高次の霊的情緒に道を通じてゐる。ヌリッタとヌリティヤは霊性へ至るふたつの道といえます。

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収穫

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習ったレパートリーのうち印象深いものを挙げるなら、まづ Kavitta (カヴィッタ)ですね。カヴィッタはヌリティヤ(具象舞踊)の代表的なレパートリーで、詩の吟唱にあわせて踊る。詩の題材の多くはクリシュナである。ちいさいクリシュナがいたづらするのとか、豪雨から村を守るために神人・クリシュナが小指で山を持ち上げるとか。そういったクリシュナ神話のいいところを切り取る。

詩節の意味に応じた振付がついてゐるので、いわゆる表現力と呼ばれる力が求められる。さまざまなマイムによって物事を説明し説得できないといけないし、主として顔の演技で喜怒哀楽を表現し、見てゐるひとに感染させなければならない。だからぶっちゃけると才能依存的で、練習しづらいし、なかなか上達しない。やっぱり顔の演技とかむづかしいですから。

カヴィッタのように繊細な表現が求められるレパートリーの伝授はやはりオンラインに適さない。目の前で先生の見本を見ないと細かな動きはつかめない。あとやっぱり感情表現なので、全体の空気感みたいなものをからだで感じる必要があると思う。それは現地で直接習ってみて強く感じたところです。

カヴィッタを4曲習った。ひとつだいたい1分とか2分くらいで短い。とはいえ駆け抜けるように習うので充分に練習できたのは1曲だけ。その曲は朝、夕、週末すべての授業でやったので、たぶん20日間でいちばん練習したレパートリーだ。先生の姉弟子の方がつくったもので、牛飼いの女性がクリシュナを愛しく想うという内容。

これはすっかり覚えてしまって、先生とふたりで踊ったし、みんなの前でひとりで踊りもした。いい思い出だ。残りの3曲はこれから自分で練習する。

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さて、ほかにTukra(トゥクラ)、Tihai(ティハイ)、Paran(パラン)を習った。数え方によるけれど、みんなあわせると10くらいにはなりそうだ。いづれもヌリッタ(抽象舞踊)の代表的なレパートリーである。

特に印象に残ってゐるのはパランです。パランというのはパカワジという打楽器の音を模した音節を用いるレパートリーである。初日に習ったのがパランだったし、数もいちばん多いと思う。むづかしくて難儀した。今回習ったパランはリズム構成が複雑で、朗誦自体が難物であった。

ヌータン先生によれば、これらは先生のグルであるシャマ師がつくったパランである。パランに限らずシャマ師の作品は複雑でリズム把握が容易でない、だからこれに慣れてしまうと他のひとのつくったレパートリーを習うと簡単に感じるとのことだ。

習って感じたのは0から1へもっていくのにすごく時間がかかること。朗誦できて、リズムと振りとの連動をいちおうつかめる状態までいくのが実にたいへんだ。1に達するとなるほどよくできてるなあ、これは素晴らしいなという気持ちになる。慣れてくるとリズムのうねりが快く感じる。

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さて最後にTarana(タラーナ)。これはカタックのレパートリーである以前にインド音楽の概念であって、カヴィッタとかパランよりうんと長い、3分なり5分なりの曲です。タラーナはペルシア語で「メロディ」を意味する。これも音節に特徴があり、Tana Denena とか Dina Dina Dimとかいう。ヌリッタ色が強いけれど、曲の中でいろんなことをするのでヌリティヤの要素もある。

タラーナは曲のなかにトゥクラやティハイやパランが挿入され、そこがいわば見せ場となる。優雅なメロディパートと華やかなリズムパートが交互にやってきて、カタックの魅力とダンサーの能力を存分に披露することができるので、たいへん人気のあるレパートリーである。

わたしが習ったのはマラハジ(去年亡くなったカタック界のレジェンド)作曲のタラーナ。ヌータン先生と生徒さんは8月になんとかいうイベントに出るらしく、そのために準備中のプログラムであった。6分くらいかしら。ヌータン先生が振付でキタキ先生が補佐してゐる。

夜のクラスの上級者グループが練習してゐたのでわたしもそこに交じってやるようになった。せっかくならなんとか全体を覚えたいと思って、最後の土日にキタキ先生に集中的に教えてもらった。さらっただけなのできちんと覚えているのは最初の3分の1くらい。

これくらいの長さの曲を一通り踊れますよというのは大事なことだ。ひとつの基準になるでしょう。そういうわけで、わたしはこの曲の完成形を覚えたいと思う。イベントまでに時間があるからあちこち変更が加えられるはずだ。完成したリハーサルのビデオを撮って送ってくれるようプルヴィさんにお願いしておいた。それを見て練習する。

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さて、上記レパートリーはどれも素晴らしく、現地で学んだ想い出とともに大切な宝物になったわけだけれど、個別のアイテムのほかに、大きな収穫がふたつある。

ひとつは指導法である。わたしは全クラスに参加したので、どのクラスでどういう順番でなにをどれくらい教えてゐるかを知ることができた。オンラインクラスはやっぱりちょっと特殊なんですね。どうしても基礎練習が少なくなる。結果、なんとなくヴォリュームに欠けた感じがする。

現地のクラスでは基本的にはタッカルからティハイ、それからチャッカルなんかは、初級クラスでは必ずやる。その組み立てを知りたいと長らく思ってゐたから、今回先生の朝のルーティンとあわせてオンラインクラスでの内容を知ることができてすごく嬉しい。これを真似すればよい。

もうひとつは先生のダンスを自分の目で見て身体で感じた記憶そのもの。これまではモニター越しのヌータン先生の動きしか知らなかった。いまは違う。脳の皺に刻み込んでやるぞという気合で観察したから、先生の動きをいつでも呼び出すことができる。

わたしは「基準」を得た。20日間の滞在で、わたしは常に参照し立ち返るべき絶対的な「基準」を得た。これからの練習はまったく別のものになるはずだ。これが最大の収穫にして財産だ。

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キタキ先生のこと

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ヌータン先生の娘さんのキタキ先生のことを書いておきたい。 キタキ先生はヌータン先生のひとり娘で、たしか1985年生まれといってゐた。いや87年かもしれない。わたしが86年生まれで、なんしか1歳しか違わないというのを覚えてゐる。1年の差なんてないようなものだ。

キタキ先生は楽しいひとだ。これだけ愉快なひともそうゐないのではないだろうか。ユーモアがあってファンキーで、教室のムードメーカーだ。勢い余って周りが引いてしまうような下品な動作や言葉をつかうことがあり、わたしはその種の野蛮な笑いが好きだからいつも大笑いしてゐた。ヌータン先生はおよそ下品さや野蛮のないひとなので、ふたりは好対照で、そのコンビ感を生徒たちは愛してゐる。

ヌータン先生は教室では非常に厳しい。特にキタキ先生に厳しい。それはキタキ先生がすでに指導者であるからでもあれば、さらなる成長を期待してゐるためでもある。娘だから遠慮がないというのもあると思う。はたから見るとその叱責ぶりはときに猛烈でびっくりすることもあるのだが、つぎの瞬間には友達のように楽しく話してゐる。

いちどキタキ先生を含む上級クラスに最大級のカミナリが落とされたことがあった。10分はお説教が続いたな。聲も表情も見事な怒りの表現で、さすが一流の舞踊家はちがうなと妙な感想をもったくらいだ。あとで「わたしは教室ではあんなふうに叱責する。びっくりしたかもしれないけれど、ヒロキは怖がる必要はない」とヌータン先生はいった。

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キタキ先生の夫さんは航海士で一年の半分くらいは船に乗ってゐるらしく、わたしの滞在中は日本近海にゐるとかで、残念ながら会うことはできなかった。夫さんのお父さんつまりキタキ先生の義理の父には会うことができた。同じく航海士で船長だったらしい、横浜や神戸など日本の港のことも詳しかった。

キタキ先生にはタクシュヴィという女の子がゐて、この子が死ぬほどかわいい。タクシュヴィという名前は神様のラクシュミから来てゐるが、ラクシュミがなぜタクシュヴィなのかわたしにはわからない。説明を聞いた気がするが聞き取れなかったか忘れたかしてしまった。

20日間の滞在中、わたしは何度もキタキ先生の家を訪れた。ヌータン先生の家から歩いて10分くらい、夜のクラスが行われる学校からは2分くらいの距離である。火曜と水曜の夜はキタキ先生が自宅でオンラインクラスの指導をする。わたしはその時間になると学校でのクラスを抜けてキタキ先生の家に行きオンラインクラスに参加し、終ったらまた学校に戾った。

土日のプライベートレッスンもキタキ先生の家で行われた。ヌータン先生の家は階下の住人が神経質で音を出すとすぐにクレームが来るんだそうだ。だから都合8回か9回はキタキ先生の家に行ったことになる。毎回必ずジンジャーティーを出してくれてこれが実に美味しかった。それから日本人の口に合うようにとスパイシー過ぎない軽めの家庭料理を出してくれた。

とくにウプマ(upma)とかいうなにか知らぬ穀物でつくる朝食はあっさりしてすごく美味しかった。「なにか知らぬ穀物」とか我ながらひどい書き方と思うが、わたしは食への関心が薄いので、食に関する知識は入ってこないし、聞いても覚えられないのである。

キタキ先生にはあらゆる面で本当にお世話になりました。いいレストランがないかと訊けばどこそこがいい、インド服が欲しいといえばどこそこへ行けと即答してくれて、それがことごとく大正解なのだ。わたしはキタキ先生が紹介してくれたレストランで毎日昼食をとり、キタキ先生オススメの服飾店でインド服を買った。感謝である。

またウプマ食べさせてください。

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ミスター・マヘーシュのこと

ヌータン先生の夫のマヘーシュさんはいいひとだ。温厚で知的で親切でチャーミングである。工学部出身の技術者でITコンサルタントみたいな仕事をしてゐるらしい。もうフルタイムの労働からは引退し、在宅でアメリカIBMの仕事を請け負ってゐるとのことだ。写真と映画が好きで、黒澤明の作品を愛してゐる。

ヌータン先生に、あなたの夫は素敵で立派なひとだという意味のことをいったことがある。するとヌータン先生は嬉しそうに夫の美点を教えてくれた。「マヘーシュがあのようなひとだからわたしは自分の藝術を追求できてゐる」「彼は勉強家でなんでも知ってゐる。なにか話題をふるとすぐに的確な反応がかえってくる」「彼は藝術を理解し、趣味がいい、特に彼の撮る写真にはスタイルがある」等々。

相性のいい夫婦というのは実によいものである。

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わたしにも本当のよくしていただいて、初日とランチとディナーと週末のお出かけと、都合4回会ったかしら。上流階級の洗練と余裕を感じた。気遣いと礼節が自然で、相手に負債感を与えない。上流としての過剰な自意識がなく、したがって嫌味がない。マッチョな感じも皆無である。ひとことでいえば、落ち着き。このくらいの人格的落ち着きに達した男性はまれではなかろうか。

ある週末、会員制の「クラブ」に連れていったもらった。どういう審査があるのか知らないが、要は一定の社会的地位のひとしか入れない「クラブ」である。レストランやらプール・テニス・スカッシュ等のスポーツ施設があり、さらにはダーツ、ギャンブル等なんでもできる。上流階級のための遊び場。

そこでディナーをご馳走になったのだが、こういう場面でのマヘーシュさんのふるまいも見事なもので、日本人の口に合うものはこのへんだろうと考えて注文したのが、ずばり美味しいのだ。とりわけ鶏肉のステーキは絶品。楽しい夜会でありました。キングフィッシャー・ビールも美味しかった🍺

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そのつぎの週末、おふたりとわたしと孫のタクシュヴィ嬢で南ムンバイへ観光に行った。車を運転するのは専属ドライバー氏である。ここでもマヘーシュさんの趣味の良さにうなった。道中で音楽をかけるんだけれど、その選曲がたまらなくいいのです。

夏の夕暮れ、北ムンバイから南ムンバイへと向かう海岸通り、少しづつ建築様式がイギリス帝国風に変ってゆく、その感じにぴたりとあった絶妙な選曲をする。わたしが「素晴らしい選曲ですね」というと、ヌータン先生は「ヒロキ、そうでしょう。マヘーシュはいつもふさわしいものを選択するのよ、ふふふ」とほほえんだ。

ふたりとも青春時代を過した70年代80年代のアメリカ・イギリスのポップスやロックがお好みのようで、ビリー・ジョエルとかビージーズとかエルトン・ジョンとか。そういうのですね。エルビス・プレスリーもあったな。ドライブっていいもんだと思った。

ムンバイ最南端では真っ赤に燃える夕日を見た。美しいと思った。この夕日を見るためにたくさんの家族連れ、若者、恋人たちが来てゐた。キタキ先生は体調不良のために来られなかったのだが、この写真を送ると、「ヒロキ、ムンバイはうるさくて煙たくて汚いところだけど、世界で一番美しい街よ」と返信が来た。さすがはキタキ先生、詩人である。

生徒さん

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ここまで書き進めたところで素敵なニュースが飛び込んできた。ヌータン先生がDadasaheb Phalke Award というのを授賞されたそうだ。インド映画界における大きな賞らしい。Cine Artists and Technicians 部門での授賞。ヌータン先生が映画の振付をしたという話は聞いたことがないが、わたしが知ってゐるのは、まさにこれから書こうとしてゐたことで、多くの俳優を指導してきたということだ。

ムンバイはボリウッド映画に代表されるようにエンターテインメント産業が盛んで、藝能人、関係者、それらを目指すひとがたくさん住んでゐる。俳優にダンスの教養は必須で、カタックは特に人気がある。夜のグループレッスンには若者がたくさん来てゐたが、俳優を目指してゐるとかモデルをやってゐるというひとがけっこうゐた。

朝のプライベートレッスンにはすでに活躍中の藝能人、または時間にもお金にも余裕がある上流階級のひとが来てゐる。わたしはインドに藝能界については無知に等しく、知ってゐるスターといえばマードリー・ディークシトとシャールク・カーンくらいのもの。だから彼らがどのくらい有名で、ふつうのインド人にとってどういう存在なのかさっぱりわからないのだが、オーとなるようなひとが来てゐるらしい。

こういった俳優を指導及び輩出するというかたちでの貢献が評価されて今回の授賞につながったと想像する。以下、出会った順番に書いていこう。

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まづ、カシュヴィ(Kaashhv)さん。俳優。綺麗なひと。彼女の瞳には野心があり、ガッツがある。ダークな肌がセクシーである。そしてカタックがすごく上手だ。彼女は教えるのも好きらしく、わたしがうまく出来ないところを見つけると、これこれこうでこうやるんだと丁寧に教えてくれた。わたしはすっかりファンになってしまった。

多い時で週に三日くらい来てゐたと思う。はじめの2週間はよく一緒に練習させてもらった。後半来る回数が減って、残念ながらお別れの挨拶をすることができなかった。出演した映画の数もインスタのフォロワー数もまだそこまで多くないようだから、売り出し中なのだろう。成功を祈ります。

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つぎにキャサリンさん。生まれ育ちがアメリカで、数年前にインドに来たらしい。カタック歴もさほど長くない。アメリカではモデルや俳優をやってゐたようだ。チャーミングで明るく華やかなひとである。肥えてゐるからオーバーサイズモデルというやつかもしれない。ふくよかさを完全に魅力として押し出してゐるあたり、さすがアメリカだなあと感じた。日本でこのくらいの体格だと線を隠したがるものだ。

キャサリンさんの夫氏はベニー・ダヤールというインドの歌手で、超がつく大物らしい。プレイバック・シンガーというやつで、俳優が歌って踊るシーンで実際に歌ってゐるひとだ。わたしは名前も知らなかったけれど、インド人ならみんな知ってるんだって。キャサリンさんもすごく優しいかたで、わたしが一緒に練習するのをこころよく許してくださった。一緒にカヴィッタを習ったのが楽しかった。

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つぎにスィマー(Simar)さん。売り出し中の若い俳優。初主演映画「IKKIS」の撮影が終ったところだといってゐた。スィマーさんはおそらくは階級社会インドの最上層にゐるひとだ。スーパーリッチでウルトラセレブである。母はアルカ・バティアというんだけれど、その兄のアクシャイ・クマール(Akshay Kumar)というひとがボリウッド最大のスターのひとりなんだって。たしかに画像を検索すると見た事のある顔だ。

そして、アルカ・バティアさんの二番目の夫、つまりスィマーさんの義理の父はサレンドラ・ヒラナンダニ(Surendra Hiranandani)というインドの不動産王みたいなひとで、とてつもない大富豪。実の父がどういうひとなのかは聞いてゐないが、ふつうに考えて同じ階層のひとだろう。

そういうわけでスィマーさんは育ちがいい。イヤミがなく、清潔でピュアなひとである。カタックは数ヵ月前にはじめたばかりだった。その学ぶ姿を見るに、非常に知的で勤勉、そして気合もある。

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ある日のこと、ヌータン先生にいわれて例のカヴィッタを披露した。思いきや、スィマーさんはわたしのカヴィッタに感激し、これから家でちいさなイベントがあるから見に来ないかと誘ってくださった。行くことにした。でっかいリムジンで海辺の超高級マンションに連れていかれた。ゲーティッド・コミュニティというやつで、富裕層が集って住んでゐる。ムンバイにこんなところがあるのかと感じるほど綺麗な区画だった。

写真のとおりの大きな家で、部屋のあちこちに使用人が立ち、指示されるのを待ってゐる。ひとつの作業にひとつの使用人が雇われてゐるのではないかしら。富裕層にとってたくさんの使用人をもつことは雇用創出という社会貢献なのかもしれない。部屋が多いにしてもあきらかに使用人が余ってゐる。だからちょっと暇そうにしてるのがおかしかった。

御母堂のアルカ・バティアさんにも会った。綺麗な方である。スィマーさんのボーイ・フレンドにも会ったが、面白くなかったらしく、わたしをからかうような冗談を連発してゐた。まあ自分の恋人がわけのわからぬ極東のチンチクリンを連れてきたのだから当然ではあるが。

ここまで超上流・超富裕層の生活を見るのはふつうにしてゐたらないことなので、いい経験をさせてもらった。スィマーさんは熱心なひとで上達も速そうだから、こんど行ったらすごいダンサーになってゐるだろう。再会を楽しみにしてゐる。

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最後に、シュリヤ・サランさん。ボリウッドのスターである。最近だと「RRR」にも出てゐたらしい。インスタのフォロワーが500万近くあるからすごいもんだ。週に2回くらいヌータン先生のところに習いに来てゐた。

サラン氏は感じ悪かったですね。キタキ先生がせっかくだから写真をお願いしてみろというからちゃっかり撮ってもらったりしたのだが、いまとなってはそれも不愉快ですよ。カシュヴィさんもキャサリンさんもスィマーさんも、みなわたしの相伴を快く認めてくれ、また楽しんでくれてゐたが、サラン氏は違ってゐた。

初対面からサラン氏の顔には「あんた誰よ」「わたしを誰だと思ってるの」と書いてあり、そのような緊張感を周囲に与えてゐた。先生が話してゐるときも気が散じ、スマホを触るなどすることがあり、高慢だという印象をもった。ちいさな女の子とベビーシッターを連れてきてゐたが、そのベビーシッターにしてからがわたしと目をあわそうともしないのである。

いちどサラン氏にパインアメをあげようとしたとき、「ノー、センキュー」と拒否されたことがある。いろんなひとにパインアメをプレゼントしたが、断わったのはシュリヤ氏のみであります。「ノー、センキュー」といったときの下のものを見るような表情は忘れがたい。わけのわからぬ極東のチンチクリン(2回目)からアメちゃんなんかもらうかいというわけだな。食べなくても受け取るのが礼節だと思いますよ。

それでもわたしは端っこのほうで同じレッスンを受けてゐた。そしたら滞在も半ばを過ぎたころ、サラン氏からヌータン先生に「他のひとが一緒の環境で練習したくない」とのメールが来た。それからは彼女が来る前に教室を去ることにした。もう会うことはないでしょう。

インドの多様性

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さて、以下いくつかインドで考えたことを記してこの文章を終わりにしたい。

インドといったらつぎにくる言葉は多様性である。わたしもまた多様性を感じた。いちばんの印象はインド人自身がインドの多様性を持て余してゐることだ。「自分はインド人だけれど、正直いって多様すぎてインドのことがよくわかりません」。そういいたげな困惑した表情をわたしは何度も目にした。どこでも多様性はあるものだが、インドの場合の「持て余してゐる」感じがわたしには新鮮だった。どういうことかというと、インド人もインドの全体感を持ててゐないのである。

ある生徒さんがこんなことをいった。「ヒロキ、あなたがムンバイの街を歩くとあちこちで何かイベントをやってゐるでしょう。お祭りとか、婚礼とか、どれも宗教的な背景がある。それらがどういうものかについて、インド人であっても、自分が育った文化習俗に関わるものでない限り、よくわからないんです。だからあなたに説明することができない。わたしたちにとってもインドは不思議な場所です。」

わたしはこれを聞いてなるほどと思った。すごく腑に落ちた。古代より文明を育み、現在においても巨大な人口を抱える大国として、インドはしばしば中国と比較される。中国も多民族・多言語・多宗教国家である。けれども漢族の文化・言語が圧倒的に強い。中華文明といったら漢族のものであって、モンゴル人も満州人も文化的には呑み込まれた。漢族の文化という柱が中心にあるから全体感をもつことができる。

インドの場合はそれがないようである。現代のヒンドゥーナショナリズムはそのような柱を構築しようとしてゐるのだろうか。わからない。そうだとして、成功するとも思えない。あまりに長い歴史と、あまりに深い階級の断絶と、あまりに大きな地域差がそれを許さないのではあるまいか。

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彼らと話してゐて、増えすぎた人口や、巨大な貧困層、大気汚染といった社会問題に話題が及ぶと、だいたい「どうしようもない、手の施しようがない」みたいな回答がかえってくる。あまりにカオスすぎるインド世界に彼ら自身がうんざりしてゐる。その諦念と脱力感にわたしは不思議な親しみを感じた。こんなに混沌としてゐたら「知らんがな」ってなるよなと。

中流以上の家庭にはだいたい使用人がゐるようだ。ドライバーや料理人を雇ってゐる家庭もある。階級社会のおかげである。使用人をつかい、家事をしない。彼らは「する」というが、わたしから見ると「しない」のと同じである。だから彼らが「忙しい」というのを聞くと内心で苦笑しないわけにいかなかった。わたしは多くの日本人と同じく(日本はいまや単身世帯が最大である)家事をぜんぶ自分でやってゐるので。

ヌータン先生も使用人をつかい、ドライバーを雇ってゐる。興味深いことに、ドライバーの子供に教育の機会を与えてゐるといってゐた。血縁とも関係なく、市場経済のそとで、対価を求めず贈与する。「面倒を見る」というやつだと思う。「面倒を見る」なんて懐かしい響きだ。等価交換の外側の人間関係が日本では失われつつあるから。

ヒロキは結婚しないの?

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等価交換を求める思想(タイパ・コスパ)が生活の全領域を侵食してゐるわけだが、その最後の砦ともいえるのが恋愛、出産、子育て、すなわち家族形成である。日本では戦況は厳しい。損したくない、投資に見合ったリターンがないとイヤ、偶然性に賭けたくないという感覚が一般化してゐる。これでは少子化になるわけだ。

インドで何度も「ヒロキは結婚してるの?」と訊かれた。そのこと自体が新鮮だった。日本ではコンプライアンス意識が高くなって、恋人はゐるか、結婚する気はあるのかなんてほとんど訊かれない。プライベートに踏みこむこと/踏みこまれることへの忌避が強く、肉薄せずにコミュニケーションを取る作法が求められるようになったのがこの10年の趨勢である。

インドではまだひとは結婚して子供をもつべきだという規範意識が強いようだ。わたしはヌータン先生に訊かれて、「いま相手を探してゐるところです。なかなか厳しいですが、そのうち結婚できるでしょう」と応えた。ヌータン先生は「そうだそうだ、それが当然だ。だれでも結婚する。そうして子供を産む。」といった。健全だと思った。

家族形成への規範は強い一方で、ジェンダー意識については変わりつつあるらしい。急激に、とヌータン先生はいった。家庭における夫婦の役割、子育てへの参加度合いが自分の世代と娘の世代とは全然違うとのこと。このへんは日本も同じだ。

あと、インド人男性のマッチョなところがいやだという意味の言葉を複数の女性から聞いたのが印象に残ってゐる。ダンスを習いに来てゐる女性は教育水準が高いひとが多く、男尊女卑に対して意識的なのだろう。ボーイフレンドの男性主義的思想が気になってしまうようだ。これも日本と同じ。

恋愛・結婚は共同体の慣習と変化がいちばん生々しく出てくるところだからやっぱり面白いですね。次回はもっと詳しく聞きたいところです。

インド中華うっま

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最後に食べ物のことを書いておこう。わたしは好き嫌いが激しい。もちろんグルメではない。珍しいものを食べて楽しみたいという冒険心はないし、口にあわないものを食べて面白がる胆力もない。大事なのは「食べられるものを見つける」ことであり、見つけたら同じものばかりでいい。

ムンバイの料理は香辛料、とくにパクチーの量が多くてしんどく感じることが多かった。そういえばスィマーさんもパクチーがだめだといってゐた。そのためかスィマーさんの家で食べたランチはペロリとたいらげることができた。

宿泊先のホテルは食事の提供がなかったから、毎日通えるレストランを見つける必要があった。キタキ先生に訊いたら High Point がいいといわれた。さすがキタキ先生、ここが素晴らしいレストランで、はじめて食べた Pav Bhaj が美味しかったから、ランチは毎日ここで食べることにした。

High Point はベジタリアン・レストランである。インドには菜食主義者が多いので、レストランのメニューはどこでも Veg(ベジタリアン)と Non Veg(非ベジタリアン)で分けて記載されてゐる。High Point のようなベジ専門の店も多い。わたしは日本で牛・豚・鶏・魚を毎日のように食べてゐるからベジタリアンなんて絶対無理と思ってゐたけれど、インドにゐるとこれもありかもしれないと感じた。

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High Point で気になるものを順番に食べてゐるうちに、わたしはインド中華に出会った。スパイシーすぎる地元の料理よりもインド中華のほうが自分の口と胃にはあってゐた。最初に食べたインド風ニンニクチャーハンに感激し、これなら毎日食べたいと思った。野菜たっぷり油少なめで実にヘルシーだ。

インド風焼きそばも素晴らしかった。インドと中国は仲が悪くて、インドにゐると中国人の悪口をしばしば耳にするが、中華料理の魅力には抗いがたいものがあり、インド人はこれを取り入れて独自に発達させたのだ。友人のリアさんもインド中華はわれわれの誇るところであるといってゐた。

ふたつの文化が交じりあって生まれたという意味では、カタックもそうである。カタックは中世インドにイスラーム勢力がインドに進出してきたことによって誕生した舞踊形式だ。土着の舞踊と、ムガル帝国経由で入ってきた中央アジア・ペルシアの様式及び美意識とが混合したことでカタックが生まれた。カタックのカタック的な要素、カタックをカタックたらしめてゐる性質はまさにここにある。

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次の海路の日和まで

カタック探訪から帰ってきてもう二ヶ月が経つ。それなのにまだ日本の生活の馴染むことができずにゐる。ぬけがらみたいだ。からだは東京にゐても、こころはまだムンバイの路上にある気がする。

東京の街を歩いてゐるとき、ふいにムンバイの景色が降りてきて自分の歩いてゐる道と重なることがある。ムンバイの暑気と喧騒と匂いを思い出す。ずいぶん遠いところまで来てしまった。つぎいつ行けるかわからないが、またあの道を歩きたい。

その日まではこれまで通り、練習して、本を読み、文を書く。先生はわたしが教室を開くことを勧めたが、その前に文章を書きたい。ふたつ書きたい。ひとつはカタックを含むすべての伝統舞踊が参照するところのインド舞踊理論を解説するもの。いまひとつはカタックの歴史と特徴の概略を示すもの。

ダンスを習いに行くひとはちらほらゐるけれど、理論を学んで紹介するひとがゐない。そこがすっぽり抜け落ちてゐるように思える。そのことをかねてより残念に感じてきた。だからわたしがやる。

次の海路の日和まで、根気根気でやっていく。

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