手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

ナティヤ・クラマ(Natya Krama)ノート

先日「トゥムリ(Thumri)ノート」という記事を書いた。気楽に書くことが出来ていい具合だと思った。この方法でたくさんちいさな記事を書き溜めて、それをまとめるかたちで長めの文章を書けばよい。

いま頭には三つある。一、インド舞踊およびカタックの全体像が分かるもの。ニ、カタックのヌリッタ(Nritta=抽象舞踊)について詳述したもの。三、カタックのヌリティヤ(Nritiya=具象舞踊)について詳述したもの。

で、トゥムリに続いてなにを書こうと考えとき、ナティヤ・クラマ(Natya Krama)がよいと思った。ここからいろんなテーマに派生、展開していくことが可能だ。ナティヤ・クラマはカタックに特有のものではない。インド舞踊全体を支える舞踊理論における、有名なシュローカ(歌)である。

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上掲動画から引く。いろいろ見てみたがこの方の解説が最も分かりやすかった。

Yatho Hasta thatho Drishti

Yatho Drishti thatho Manah

Yatho Manah thatho Bhaava

Yatho Bhaava thatho Rasa

Where the hands (hasta) are, go the eyes (drishti).

Where the eyes are, goes the mind (manah).

Where the mind goes, there is an expression of inner feeling (bhaava).

Where there is feeling, mood or sentiment - emotion (rasa) is evoked.

日本語風の発音と日本語訳を書いてみる。

ヤトー ハスタ     タトー ドゥリシュティ

ヤトー ドゥリシュティ タトー マナハ

ヤトー マナハ     タトー バーヴァ

ヤトー バーヴァ    タトー ラーサ

手のゆくところに目したがい

目の向く先に心ゆき

心ゆくところに情生まれ

情あるところに花香る

すべての行に「Yatho」と「thatho」が共通で、だからこそ韻律をもつ歌になってゐるわけで、それを活かした訳が出来たらいいのだが、古文の教養が足りず巧くいかなかった。最後に「花香る」と洒落気を出して訳したのは、サンスクリット語の「rasa」が味とか香りとかいう意味だからと、あと日本には世阿弥の「風姿花伝」があるので「花」とすれば雰囲気が出ると思った。

日本語訳はともかく、このシュローカは素晴らしいと思う。素朴で美しい詩だ。その素朴で美しい詩が、舞踊の魔法を説明する理論にもなってゐる。からだの動きがこころの動きとどう関連するかがすっと理解できる。2000年前にこのような洗練された理論が存在したのは驚くべきことだ。

2000年前と書いたが、正確な年代は不明である。出典は Nandikeshvara(ナンディケーシュバラ)による舞踊理論書「Abhinaya Darpana(アビナヤ・ダルパナ)」。動画の女性は1080年頃に成立と言ってゐる(と思う)。

日本の舞踊研究家、宮尾慈良氏の論文「インド舞踊聖典『アビナヤダルパナ』」には5から7世紀頃とある。ラチナ・ラムヤ氏の「カタックー語り部たちのダンスー」は2世紀と書いてゐる。この本の出版は2019年と新しい。参考文献を見ても網羅的に資料を集めて書いてゐると思われるので信頼してよいと考える。

ウィキペディアに「Nandikeshvara」のページがあり、紀元前5から4世紀と書いてあるが、よく分からない。よく分からないと言えば、出典そのものが「Abhinaya Darpana」ではなく「Natya Shastra(ナーティヤ・シャーストラ)」とする記事や動画もけっこうある。年代が古すぎて確定できないことと、そもそもインド人だってみんなが出典を気にするわけでもないから、こういうことになってゐるのだろう。

私の手元に「アビナヤ・ダルパナ」の英訳本「The Mirror of Gesture」があり第三章の最後に Natya Krama が出てくる。やはり出典は「アビナヤ・ダルパナ」である。

インドの友人、コーマル・クシュワニさんに「Natya Krama はインド舞踊を学ぶひとがみんな知ってゐるくらい有名なものと考えてよいでしょうか」と訊くと「イエス」ということだった。

次のノートでは上掲動画で絶対に知っておいてほしい二つの重要な理論書「ナーティヤ・シャーストラ」及び「アビナヤ・ダルパナ」について書こうと思う。そこから「Rasa」理論に進むのが綺麗な流れなのではないか。

さて、私はこのノートを書いてゐる途中で、自分でも驚いたのだが、夏目漱石の「文学論」を思い出した。漱石は子供のころ漢文が好きで漢籍から自分の文学観をつくった。ところが帝国大学で英文学を学ぶと漢文で培った文学観と相容れない。どちらも文学である。これを如何せん。

そうして一念発起、ロンドン留学中の漱石は自身の文学理論を打ち立てることを決意したのであった(経緯は講演「私の個人主義」に詳しい)。漱石は帰国後に帝国大学で文学論を講じる。ロンドンの下宿で万巻の書を読破した漱石が文学とは何かと問い、導き出した答えは、

凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。

大文字のFは「Focus(焦点)」または「Fact(事実)」 、小文字の f は「feeling(情緒)」を指すとされる。文学=(F+f)。この式について具体例を出しながら解説していくのが漱石の「文学論」なのだが、むづかしくて私は挫折した。

しかし限界まで抽象化された 文学=(F+f)があまりにカッコよくて、この式だけは頭にあった。漱石マジでヤバイなと。Fだけではだめで、f だけでもだめで、Fに f が附着したものが文学であるという。

これは Natya Krama に似てゐると思う。

Hasta(手) → Drishti(目) → Manah(心) → Bhaava(情) → Rasa(花)

というのは、漱石風に言い換えれば、手と目に心と情が附着したものとでもなるか。

 花(舞踊)=(H+D)+( m+b)

ちょっと強引な気もするし、Manah とか Bhaava の意味するものがいまいちピンと来てゐないのだが、そのうち分かるだろう。とにかく私は漱石の文学理論を思い出し、自分のなかで舞踊と文学が繋がったことに感激したのでした。