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クリシュナ(Krishna)ノート

クリシュナ・ジャンマシュタミ(Krishna Janmashtami)

前回はナーティヤ・シャーストラ(Natya Shastra)&アビナヤ・ダルパナ(Abhinaya Darpana)ノートだった。そちらも全然終わらぬ段階でとりあえずこの記事をアップしてしまうのは、今日がクリシュナの誕生日だからである。今日の日付で投稿しておきたいと思った。

クリシュナの誕生日のことをクリシュナ・ジャンマシュタミ(Krishna Janmashtami)と呼ぶ。Wikipedia によれば、Janmashtami の "janma" は誕生、"ashtami" は8を意味するとのこと。

バーダラパダ(Bhadrapada、ヒンドゥー歴6番目の月)のクリシュナ・パクシャ(Krishna Paksha)から8日目に行われるとある。その日に生まれとされてゐるからである。後に書くように、クリシュナは8という数字に縁付けて神話化されてゐる。

クリシュナ・パクシャを調べてみると(こちら)、ようするに次のようなことらしい。

すなわち、新月(amavasya)からスタートして満月(purnima)を経て新月に戾る30日をひと月とし、この30日を新月からの15日と満月からの15日に二分する。そして新月から満月へ、暗から明へ向かう吉祥の半月をシュクラ・パクシャ(Shukla Paksha)とし、満月から新月へ、明から暗へ向かう不吉の半月をクリシュナ・パクシャ(Krishna Paksha)とする。

Paksha は片面という意味。Shukla は「白」「明るい」を、 Krishna は「黒」「暗い」を意味する。明るくなる半月がシュクラ・パクシャで、暗くなる半月がクリシュナ・パクシャである。満月から新月へ向かう8日目に、クリシュナは生まれた。暦から言えば不吉へと向かう期間に生まれた黒いクリシュナがいちばん人気の神様となる。

クリシュナは深夜に生まれたから夜中にお祝いのイベントがあるそうで、ヌータン先生も毎年呼ばれてクリシュナに関わる演目を披露してゐるそうだ。夜の11時とか12時とかにプージャ(お清めの儀式)をするという。楽しそうだ。

今回の演目は KRISHNA NEE BEGANE BARO である。

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予定では理論書の中身に入っていくつもりだったが、ダンスクラスでわたしども生徒もこの曲を習ってゐて、それが非常に楽しく、クリシュナ最高だなあという気分になったので、予定を変更してクリシュナについて書くことにした。

教室仲間のラジャさんに以下の記事を紹介してもらった。これを参考にクリシュナの個性を語る主要な物語についてまとめ、その魅力について考えたい。クリシュナは可愛くて、セクシーで、ときに暴力的で、口を開けたら中に全宇宙が見えちゃうという凄い奴なのだ。わたしは彼の肌の深い青が好きだ。

クリシュナという宇宙

クリシュナ物語に入る前に、そもそもクリシュナとは誰か、あるいはなにかという基本的な前提についてまとめておこう。以下、参考とするのは主に「南アジアを知る事典(平凡社)」「インド神話 マハーバーラタの神々(上村勝彦)」「Krishna - Wikipedia」である。

クリシュナは実在の人物でありかつ神である。神であると言われる、その神性は複数の文脈から参照されて多層的に構成されてをり、全貌を理解することは困難である。

人間クリシュナがをり、死後に神格化され、ヒンドゥー教に取り込まれ「ギーター」の主人公となり、ヴィシュヌの8番目の化身とされ、さらに「プラーナ文献」や「ギータ・ゴーヴィンダ」など文学的想像力の源となった。

数千年にわたり様々な神話、伝説、文藝作品に登場することでクリシュナという固有名の背後には厖大な言及の束が存在し、さながら循環参照の様相を呈してゐる。童子クリシュナが口を開けると宇宙があったという有名な伝説があるが、実際にその通りなのである。

クリシュナとは何か/誰かを知ろうと覗き込むと果てしない宇宙が拡がってゐる。その暗黒の宇宙に輝く星々がつくる星座が、おそらくは様々な物語であり、それぞれの星が登場人物であろう。クリシュナ宇宙の中にどのような星座を読みとるかはそのひと次第である。

実在の人物であったクリシュナが神格化される経緯について、上村勝彦は「インド神話 マハーバーラタの神々」において次のように述べてゐる。

(・・・)クリシュナはヤーダヴァ族の精神的指導者であり、新宗教創始者でもあった。それは、その神をバガヴァットと称し、主としてクシャトリヤ(王族)階級のために説かれた通俗的宗教で、実践的倫理を強調し、神に対する誠信の萌芽をも含んでいたと想像される。   

 クリシュナはその死後、自ら説いた神と同一視されるにいたったようである。この新興宗教は次第に勢力を拡大したので、バラモン教の側もこれを吸収しようとして、バガヴァット(クリシュナ・ヴァースデーヴァ)を太陽神ヴィシュヌの一権化と認めた。やがて、ヴィシュヌが最高神の位置を確保するにおよび、クリシュナ・ヴァースデーヴァは一種族の最高神から向上してバラモン教の主神と同化した。その後さらにウパニシャッドにおける最高原理ブラフマンも、ヴィシュヌ・クリシュナの一面とみなし、バーガヴァタ派のバラモン教化は完成した。 295-296頁

まづヴェーダ文献を聖典とするバラモン教があった。バラモン教は祭祀階級バラモンたちが保持してゐた信仰体系であり、ウパニシャッドに代表される高度に思弁的な哲学体系がその精華である。ブラフマンが宇宙唯一の根本原理とされる。ウパニシャッドの主要文献が整うのはおよそ紀元前500年ごろといわれてゐる。

バラモン教が土着の習俗と融合し民衆化したものがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教においてはシヴァとヴィシュヌの二神の地位が向上し、やがてブラフマーブラフマンの神格化)との三位一体が説かれるようになった。ヒンドゥー教最大の聖典とされる「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が成立したとされるのがおよそ紀元前後1~2世紀である。

人間クリシュナがヤーダヴァ族の精神的指導者として新宗教を説いたのは紀元前7世紀以前とされる。バラモン教ヒンドゥー教に変貌する過程で、クリシュナ=バガヴァッド信仰が取り込まれ、クリシュナはヴィシュヌの化身であるとされた。

「化身」という跳躍装置によって、複数の異なる神々をある全体性のなかに置くことが可能となる。民衆はバラモンのように抽象的な思惟を好まない。民衆は聖なるものを英雄が活躍する物語のなかに見いだす。

神々が、英雄が、さまざまな物語を自由に移動する。思うに、この跳躍の感覚は、民衆の霊性を考えるうえで決定的に重要である。言葉のうえでの跳躍が、此岸から彼岸への認知的跳躍を起動させるのではないか。

マハーバーラタ」第6巻の23~40章は独立して「バガヴァッド・ギーター」と呼ばれ、ヒンドゥー教徒のみならず世界中に愛読者をもつ。「ギーター」の主人公は戦士アルジュナと御者クリシュナ。親族を殺さねならぬ、そのような戦闘をまえにして総毛立ち座り込むアルジュナをクリシュナが説得する。曰く、

自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。 第3章35節

中世にいたるとクリシュナはさらに民衆の想像力を刺激し、藝術家の創造力の源となった。「ギーター」のように義務(ダルマ)の遂行を謳う神々しいクリシュナではなく、いたづら好きで、バターを盗み、悪魔を八つ裂きにし、山を持ち上げ、そしてなによりも美しい女を愛する、色男クリシュナが登場する。

色男クリシュナを描いた代表的書物が「バーガヴァタ・プラーナ」と「ギータ・ゴーヴィンダ」である。前者は10世紀頃に成立したとされるいわゆるプラーナ文献のひとつ。上掲の「子供に語るクリシュナ伝説」と知られるお話の多くはここから取られたものと思われる。後者はジャヤデーヴァの手になる12世紀の作品。牛飼いクリシュナと牧女(ゴーピー)との官能的恋愛を主題とする。

ラース・リーラ(Raas Leela)/ナタワレ(Natwar)

クリシュナ伝説のことを特にインド舞踊の文脈において「ラース・リーラ(Raas Leela)」と呼ぶ。もうひとつ、ラース・リーラに関連する概念でナタワレ(Natwar)というのがある。ナタワレとはカタックの神/主(Lord)としてのクリシュナ、踊るクリシュナのことをそう呼ぶのである。それゆえカタックはナタワレ・ヌリティヤ(Natwar Nritya)と呼ばれることがある。

ともにラチナ・ラムヤ氏の「カタックー語り部たちのダンスー」に詳しい説明がある。以下、重要と思われるので、つづけて訳出する。適宜改行を追加した。

ラース・リーラとカタック

 

ラース・リーラ(Raas Leela)は伝統的なクリシュナ物語の一要素であり、麗しい満月の夜、ヴリンダバンの森で、クリシュナがラーダー含む乙女たちと踊る場面のことをいう。raas はサンスクリット語 rasa の派生語で美学を意味する。leela は聖なる動作、聖なる芝居のことで、同時に、世界がそこから展開される究極的意識を示してゐるともみなされる。伝説によれば、クリシュナはその聖なる力によって満月の一夜をヒンドゥー教ヴェーダ周期におけるブラフマーの一夜の長さに引き伸ばした。これはおよそ43.2億年に相当する。

ラース・リーラはマンダラすなわち円形をなして演じられ、聖なる恋人ラーダーとクリシュナが円の中心に位置する。この踊りのあいだ、クリシュナはすべての牧女(ゴーピー)と踊るために自己の分身をつくりだす。それぞれの牧女は個人の魂を象徴してゐる。ラース・リーラは、魂が霊的次元において神と一体化することを希求するさまを描いてゐるのだ。

(・・・)

ラース・リーラがカタックにおおきな影響を与えたことは多くの研究者が認めてゐる。カタックはラース・リーラに始まる舞踊形式であると主張する者もゐるほどだ。またラース・リーラの方が古代カタックの動作および様式を取り入れた推測する者もゐる。

 

マトゥラーのブラジ区域におけるラース・リーラの出現は重要な発展である。それは音楽とダンスと物語を結びつけた。しかしラース・リーラにおけるダンスはカタック者(語り部)たちの基本的な表情や動作を拡張したものであった。つまり既存の伝統舞踊とたやすく融合したのである。

 

他方で、およそ同じ時代同じ地域にヴィシュヌ派哲学の副産物として誕生し互いに深い影響を与えあってきたことを認めた上で、カタックとラース・リーラがそれぞれ別々に発達したものと感じてゐる研究者も多く存在する。レジナルド・マッセイは以下のように述べてゐる。

 

地域藝術としてのラース・リーラが北インドの伝統的形式に多くを負ってゐるか否かに関しては多くの臆断がみられる。たしかに両者には多くの共通点があるが、それは両者がともにヴィシュヌ派の主題に関係があるからであろう。そしてカタックはそれに限定されるものではない。ラース・リーラの所作におけるバーヴァ(Bhava)は、カタックのそれと同様に、成熟してゐないにしろ自然なものである。また両者の類似はおよそ同じ地域に育ったことによるとも考えられる。カタックのカヴィッタ(kavita)とラース・リーラで歌唱されるカヴィッタの類似はその一例である。ラース・リーラがカタックから借りてきたと図式的に述べることはむづかしいが、たしかに可能である。なんとなれば、ふたつとも同じ時代に最盛期を迎え、いくつかの要素、主にガット(gaths)、がカタックのマスターたちによりラース・リーラに流入し、同時期に人気を博したのだから。

 

論争はおくとして、古代からバクティ運動の影響を受けたバクティ時代にいたるまで、最高神クリシュナがカッタクの発展の中核に位置したことは否定できない。カタックはアシャタ・チャープ(ashta chaap)を含む中世の重要な詩人たちーJayadeva, Nand Das, Paramanand Das, Meetabai, and Vidyapatiなどーからインスピレーションを受けてきた。カタックはバクティ時代の詩に影響を受け、また与えもしたのである。 

63-65頁

ナタワレ カタックダンスの神

 

シヴァは破壊の神である。そしてクリシュナは宇宙を保持する神ヴィシュヌの化身である。シヴァはすべてのインド舞踊を統べる舞踊神、ナタラージャ(Nataraja)でもある。そしてクリシュナはカタックの神としてナタワレ(Natwar)とも呼ばれ、彼のリーラすなわち聖なる芝居によって称えられる。シヴァとクリシュナは同じ根源的かつ究極的な力の対照的な面を象徴してゐる。シヴァのダンスは躍動的で活力に溢れ、暴力的でさへある。クリシュナのダンスは気品と情緒があり、いつも蠱惑的である。

秋、満月の夜、クリシュナが優美な横笛をかなでると、ゴーピー(ブラージ地方の乙女)たちは魅惑的な音楽のとりこになり、美しい青い神、クリシュナへの高潔な愛がこころに生まれる。

クリシュナの完全にして魔的な愛に満たされた彼女たちは森の茂みのなかにやってきて、チャーミングなクリシュナとラース(raas)の踊りを踊る。クリシュナはマーヤー(maya 幻覚力、この宇宙的魔力によって物質世界が現実として存在する)をつかって多くの自己の複製をつくりだす。

彼は各々のゴーピーと輪を成して神聖な愛の踊りを踊る。輪の中心にはクリシュナとそのミステリアスな愛人ラーダーがゐる。彼らのラース・リーラが天上的な忘我の域にまで達したとき、すべての二元性が消滅する。時間はブラフマーの一夜、およそ43.2億年にまで引き延ばされ、ゴーピーと彼女たちの魂は宇宙そのものであるクリシュナと合一する。

クリシュナ神話のラースは彼をナタワレ(Natwar)として伝える。ナタワレとは表現活動における究極のアーティストという意味だ。クリシュナのリーラーは宇宙の中軸であり、古代より多くのアーティストの創造力の源であった。11世紀までにはヴァイシュナヴァ・バクティ派が北インド一帯に拡がった。この思想運動はクリシュナへの無条件の愛を捧げることによって人生の霊的かつ献身的な側面を顕揚した。ヴァイシュナヴァ派はクリシュナを、ただの地上における化身ではなく、最高神とする。

カタックがある文脈においてナタワレ・ヌリティヤ(Natwar Nritya)と呼ばれるのはこのようなクリシュナ伝説の影響を受けてゐるからである。最初期のカタック者はカタカ(kathakars)すなわち語り部であった。彼らは演劇的手法によってヴィシュヌとその化身たちの物語を語った。クリシュナはサンスクリット語で書かれた世界最大の叙事詩であるマハーバーラタ(紀元前8-9世紀)の主要人物である。マハーバーラタにはさまざまなカタックダンスの萌芽が見られる。

後にカタックは北インドにおける音楽劇として発達したラース・リーラの影響を強く受けることになる。15世紀前半にはスワミ・スリ・ウッダヴァガマンダ・デヴァチャラヤ(Swami Sri Uddhavaghamanda Devacharya)がヴリンダヴァンにおいてラース・リーラの公的な発表を始めた。そのころ、詩人たちはクリシュナとラーダに捧げる敬神に満ちた美しいを詩を書いてゐる。最愛のひとラーダーに対するクリシュナの愛は魂と神との出会いである。クリシュナは宇宙すべてを魅了し、最高女神ラーダーはクリシュナを魅了する。ここでラーダー=クリシュナの関係はヴァイシュナヴァ派の献身哲学におけるシャクティ=シヴァに照応するのである。 23-24頁

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ようやくクリシュナのエピソードを記す段に到達した。そこでクリシュナのかわいらしい小話を翻訳しはじめたらどんどん長くなってしまった。すべてここに収めるとこの記事の分量が大きくなりすぎるため、「クリシュナ十話」として独立させることにした。