手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「日本とドイツ 二つの戦後思想」仲正昌樹

日本とドイツ 二つの戦後思想仲正昌樹 光文社新書 2005

戦争責任をめぐる議論に関して、ドイツのヤスパースが提示した罪の概念が面白い。

 ヤスパースは各人が負っている可能性のある「罪」の内容をはっきりさせるために、①刑法上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪、④形而上学的な罪ーーという四つの罪概念を区別している。 37頁

①個人の行いについて、裁判で審理され判定され得る罪。

②政治的共同体が犯した過ちについて、それを直接間接に支持してゐた罪。

③他者から追求されないが、良心の呵責を起こす罪。

④生きてゐることが後ろめたいというような、人類への連帯意識からくる罪。

 このヤスパースの議論は、法や政治の場において公式的に清算することが可能な①②の罪と、自分自身でどこまでも追及し続けるしかない③④の罪を分けて考えることによって、具体的な”解決”を提示することと、個人が自らの良心の内で自問し続けることを両立可能にするものであった。 

 つまり、戦争犯罪の責任者を処罰したり、被害者に対して補償を行うことと、自らも負っている罪について道徳的・宗教的に内省するのは、別のことなのである。 40頁

 ヤスパースの四つの罪の区別は、ドイツにおける「過去の克服」論争において、戦争責任の更なる追及を主張する側(主に左派)ともう十分償ったはずだと主張する側(主に右派)の双方から絶えず参照される。どちらの立場を取るにしても、内面的な責任と、政治的・法的責任は、別だと考えたほうが論点がはっきりするからである。 42頁

日本にはヤスパースが出なかったため、天皇、軍部、兵士、メディア、国民といったように区分けして、だれにどのような責任があるかを問う細かな議論がなされなかった。戦後最初の首相に任命された東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)が言った「一億総懺悔」というぼんやりした内向きの責任論が受容された。

天皇の戦争責任。

 国家元首である天皇を中心とするコカの首脳たちに戦争を始めた主たる責任があり、末端にいる一般国民が誤った戦争遂行の犠牲になったという前提に立てば、加害/被害関係はそれなりにはっきりしたはずだが、天皇制の維持を至上命題としていた当時の政府としては、天皇が戦争を始めた責任者であり、その意味で加害者であるとあっさり認めるわけにはいかない。国家の最終的意思決定者である天皇の責任問題について敢えて触れないようにすると、敗戦をめぐる責任論の枠組み自体があやふやになり、誰が何をしたことが問題なのか確定できなくなる。そのため政府は、苦肉の策として、「戦争」の是非それ自体を論じることを回避したまま、「とにかくみんながだらしなかったので、こんなことになったのだ。だからみんなで反省しよう」という日本的な「みんな」の論理に落とし込んでしまうことを模索した。 47-48頁

おまけに当初は天皇の名のもとに始まった戦争に対する責任を追及してゐたGHQも占領統治を円滑に進めるために天皇を極東国際軍事法廷の戦犯から除いてしまった。かくして大日本帝国の元首として統治権を総攬する存在であった天皇が、同じ人物が、そのまま日本国憲法において「象徴」となった。

 大日本帝国の「国体」は公式的にはいったん解体されたものの、天皇制を核として文化的、宗教的なレベルでは生き残り、それが「国民国家」としての日本国の統合の象徴としてー政治的にもー機能しているので、右にとっても左にとっても、自分たちの立っている足場が見えにくくなっているのである。日本を国民国家たらしめてきた”中心”が生きているのか死んでいるのか分からない中途半端な状態にあるので、何を基準にして「日本国民」という共同体について語っているのかはっきりしなくなるのだ。 129頁

やはりここですよね。何度か書いたと思うけれど、天皇憲法とを切り離すことはできないのだろうか。皇統が途絶えてよいということではなく、立憲主義の日本国とは異なる次元で続いてゐる、別の天皇制を構想することが必要なのではないだろうか。