手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「海洋国家日本の構想」高坂正堯

海洋国家日本の構想高坂正堯 中公クラシックス 2008

本書に収められた論文が書かれたのは1963年から64年にかけてだから60年前ですか。いや凄い。深い学識、広い視野、大きな構想。なんて気持のいい文章だろう。丸谷才一がどこかで「偉い学者が書いた薄い本を読め」と言ってゐたけれど、この本なんかまさにそれぢゃないかしら。

高坂さんの本は学生時代に「文明が衰亡するとき」を読んで感銘を受けた記憶がある。大学の購買部に「講師の推薦図書」みたいなコーナーがあり、そこに並んでゐたのに興味をひかれて買ったのだ。なつかしい。

1934年生まれということは井上ひさしと同年か。63歳で死去は当時としても短命だろう。早すぎる。いまは70歳がちっとも稀ではなく、そこからの10年をどう生きるかというのが問題となってゐる。政治・社会システムの劣化と貧困化が急速にすすんでゐるからこれからはあやしいが。

理想や価値を保持したうえで、すなわちシニシズムに陥らず、いかに権力政治を動かすかという真の意味での「現実主義」が弱い。それは高坂さんが本書所収の論文「現実主義者の平和論」を書いた60年前から変ってゐない。なんということだ。この政治状況はつらいですね。実につらい。

 私が今日のいわゆる現実論について不満に思い、さらに言えば日本には現実主義的思考が存在しないとさえ思うのは、中共との関係の改善を説く議論がほとんど例外なしに道義的な立場からなされ、元外務次官田尻愛義氏のような例外はあっても、現実主義からする議論がきわめて少ないことである。アメリカとの連携をつづけながら、中共との関係を改善し、友好関係とまではいかなくても、敵には回さないこと、この困難な問題を解決しない限り、極東の緊張を緩和する手がかりもつかめず、したがって日本の真の安全保障もありえないことは、現実主義者こそ認識しうるものだと私は思う。 22頁 『現実主義者の平和論』

 知識人は異端であってよい。しかしその知識人によって支持される第二等はその意見にそのまま従っていてはいけないのだ。いかに異端者の説くゴールに共鳴しようと、第二党の任務は現状を認め、批判し、断続的でない仕方で、そのゴールに到達する道筋を示すことなのである。この苦しい任務を怠った場合、政党は第二党ではなく、異端になってしまう。第二党とは明日にでも実現できることを語る政党であり、異端とは、いつ実現できるか判らない理想を語る人々である。ともにその独自の使命を持っているが、その機能は全然異なるものである。 38-39頁『外交政策の不在と外交議論の不毛』

(・・・)そして、社会党が第二党として、どのような軍備を、どの程度持つべきか、という問いを発していないために、政府与党は健全な批判にさらされていない。政府は防衛が必要である、ということを証明しさえすれば、ほとんど何でもできる。それは、ますます大きな問題となりつつあるように思われる。 41頁 同上

(・・・)陳情=利益の還流という、安易な、しかし手堅い手段に頼っている自民党は、国民の間の漠然とした政治的意欲を吸い上げ、段階的な討議を通じて、これを綱領にまとめるという、本来の意味での政党活動をほとんど行っていない。つまり、自民党は、本来の意味での政党というよりも、後援会と圧力集団の連合体なのである。したがって、利害関係の調節に関しては、かなり満足に機能するが、そうでない問題、とくに外交については、国民の指示を得るための機能をほとんど果しえないのである。 45頁 同上

 しかし、日本において「あぶれ者」は「あぶれ者」として終ってしまう。それはエリートと国民全般がこれらの外に開かれた部分にしかるべき注意を払わないからなのである。そこにこそ、日本のエリートの最大の欠陥があると私は思う。つまり、彼らは外に開かれた部分への共感を持っていないのだ。彼らの目は国内の権力保持だけに向けられている。そこから、内に向いた部分と外に開かれた部分の接触の欠如が生まれるのである。 230頁『海洋国家日本の構想』

 問題は日本の外に開かれた部分に注意を払わず、調整も後押しもおこなわず、その結果彼らを「あぶれ者」としてしまう国内エリートたちの視野の狭さであり、国民全般の視野の狭さなのである。この問題性はいまだ重大な形をとって現われてはいないが、すでにいくつかの兆となってわれわれに警告を与えているのだ。端的にいえば、日本は第七艦隊の楯に守られた島国となりつつある。それは、アメリカの「力」の傘が日本をおおっているうちはまだよい。しかし、その傘が有効でなくなったとき、それは問題となるのだ。日本は海洋国として独自の力を持たなくてはならないのに、それを持っていないからだ。その場合、われわれはガロアの指摘した対米従属か対中従属のいずれかに追いこまれるであろう。それは十年以上先のことではあるにちがいない。しかし、それに対する対策は今から立てて置かなくてはならない。 237-238頁 同上