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「資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫

資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫 集英社新書 2014

資本主義の起源

資本主義は「中心」と「周辺」から構成される。「周辺」すなわちフロンティアを拡げ、そこに資本を投下し、利潤を得て、大きくなった資本をまた別のフロンティアに投下する。投資して利潤を得られなくては意味がない。利潤が上がらなければ利子率はゼロに近づく。したがって資本主義の状態は利子率をみることによって診断することができる。

「利子」とは時間に値段をつけることである。神の所有物である「時間」に値段をつけ、それを奪い取ることは冒涜である。だからキリスト教では元来、利子そのものにマイナスの評価を与え、高利貸を禁止してきた。

ところがローマ教会は、1215年、上限33%の利子率を「正当な価格」ぎりぎりの線として容認した。12~13世紀の市場金利が10%程度であったことを鑑みると、33%を認めるとはあきらかに「過剰」で「強欲」である。この「過剰」と「強欲」を認めたところを、資本主義の起源と認めてよいであろう。

(・・・)資本主義の起源もまた、ローマ教会が上限三三%の利子率を容認した一二一五年あたりに求められることに思い至りました。ここで重要なのは、不確実なものに貸付をするときも利息をつけてよい、と認められたことです。つまり、リスク性資本の誕生です。これが資本主義誕生の大きな契機となったのです。そして、資本は自己増殖を続け、「長い一六世紀」を経て、資本主義は発展してきました。 211頁

長い一六世紀(1450~1640)

中世から近代への転換期を歴史家フェルナン・ブローデルは「長い一六世紀」と呼んでゐる。この時期に政治・経済・社会体制が大きく変化し、中世の荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家システムへと移行した。

「長い一六世紀」には経済システムにおいても革命的な現象があらわれた。「利子率革命」である。16世紀末から17世紀初頭のイタリアでは金利2%を下回る時代が11年間続いた。これは歴史的に見て革命的といってよい低さである。

 当時のイタリアで金銀があふれる状態だったというのは、スペインの皇帝が南米で銀を掘り出し、スペインの取引先であるイタリアの銀行にそれらの銀が集まってきていたからです。よってイタリアではマネーはだいぶついているのに、投資先がない。 17頁

イタリア・ジェノバで起きた「利子率革命」は中世封建制の終焉と近代の幕開けを告げるものだった。超低金利は資本主義の限界を示すものであり、また大きな転換期の到来を暗示するものである。

長い二一世紀(1974~)

先進各国で超低金利の状態が続いてゐる。この状況は「長い一六世紀」のイタリアに似てゐる。「二一世紀の利子率革命」が起ってゐるのだ。利子率は長期的に見れば実物投資の利潤率を表す。もはやフロンティアは消滅し、利潤を得られる投資機会がなくなったのである。資本主義は終焉期に入ったのだ。

資本主義の前提は「もっと先へ(フロンティアの拡張)」と「ただ同然の資源(エネルギーコストの不変性)」である。1970年代にアメリカはベトナム戦争に敗れ、「もっと先へ」は継続不可能となり、さらに二度のオイル・ショックが起り、資源を安く買い叩くことも不可能となった。ここから資本の利潤率は低下をはじめる。当然の帰結である。

ここでアメリカは空間的拡張をあきらめ、「電子・金融空間」に新たな利潤のチャンスを見出し、資本主義の延命をはかった。1971年にアメリカが金とドルの兌換停止を発表したことがその始まりだ。金と切り離されたドルはペーパー・マネーとなり、バブルが生じやすくなった。また同じ年にインテルがCPUを開発した。ITと金融自由化の結合によって、「電子・金融空間」が誕生した。

そこへ新自由主義という思想が登場し、アメリカは金融帝国の建設に邁進するのである。「電子・金融空間」には国境がない。マネーは増殖の場を求めて新興国に流れ込み、バブル化して当該国の経済を不安定化させる。また国家の内部では中間層が没落し少数の超富裕層と膨大な貧困層との二極化を生み出し、民主主義を機能不全に追い込んだ。

 象徴的な例が第一章で述べたように、アメリカのサブプライム・ローンであり、日本の労働規制の緩和です。サブプライム・ローンでは「国内の低所得者」(周辺)を無理やり創出して、彼らに住宅ローンを貸しつけ、それを証券化することでウォール街(中心)が利益を独占していました。日本では労働規制を緩和して非正規雇用者を増やし、浮いた社会保険や福利厚生のコストを利益にするわけです。

 アメリカや日本に限らず、今や世界のあらゆる国で格差が拡大しているのは、グローバル資本主義が必然的にもたらす状況だといえます。 168頁

定常化・ゼロ成長社会へ

資本主義を延命させるフロンティア/周辺はもうほとんど残されてゐない。成長が問題を解決することはない。成長に期待をかければかけるほど、雇用を犠牲にし、格差の拡大を招く。この現実から目をそらし、成長イデオロギーにしがみついたままでゐては、中間層はこぞって没落するほかない。

近代資本主義・主権国家システムは別のシステムへと転換せざるをえない。しかしその別のシステムをまだ誰もしらない。そうである以上、グローバル資本主義にブレーキをかけて、ポスト近代に備えるための時間を確保することが現在取りうる最善の策である。

さしあたっては「定常状態」を目指すべきである。これはゼロ成長社会ということである。ゼロ成長社会は人類の歴史のうえでは珍しい状態ではない。一人あたりのGDPがゼロ成長を脱したのは、実に一六世紀以降のことなのだ。

ゼロ成長の状態を簡単にいうと、買い替えだけが経済の循環をつくっていくということである。人口の増減に応じて多少の変化はあっても、均せば一定の生産と消費で循環していく状態だ。そして実に、世界でもっとも早くゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレに突入した日本は、定常状態の維持を実現できるアドバンテージをもってゐるのである。

 ゼロインフレであるということは、今必要でないものは、値上がりがないのだから購入する必要がないということです。消費するかどうかの決定は消費者にあります。ミヒャエル・エンデが言うように豊かさを「必要な物が必要なときに、必要な場所で手に入る」と定義すれば、ゼロ金利ゼロインフレの社会である日本は、いち早く定常状態を実現することで、この豊かさを手に入れることができるのです。 208頁