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「文明の復興と啓蒙の未来」中田考

文明の復興と啓蒙の未来中田考 2017 太田出版

けっこう本格派のハードな内容で通読できなかった。だから飛ばし読みした。

でも、「通読せねば」というかたちでハードルを上げてしまうと読書がしんどくなってしまうので、それでもよいと思う。

関心の度合い、必要性、前提となる知識に応じて、いろんな読み方をしたらいい。

本書の主題は、西欧の覇権の衰退に伴う文明の再編、およびその過程で必要となる領域国民国家の解体、そしてその鍵となるイスラーム世界の動向である。

 現代において、人々の生活を実際に規定している真の宗教はリヴァイアサン偶像崇拝ナショナリズムであり、それはヒューマニティに反し人類の未来に影を落としている。そしてトインビーが指摘した通り、このリヴァイアサン偶像崇拝ナショナリズムと戦うことができるのは、覚醒したイスラーム文明、即ちナショナリズムによって分断されたイスラーム世界を再統合するカリフ制しかない、と筆者は信じている。 269項

ぼくは「信じてゐる」とは言えないまでも、中田氏の本を何冊か読み、その度に説得されて「確かにそうかもなあ」と思う程度にはイスラーム文明の重要性について理解してゐるつもり。

確かにナショナリズムは現代の宗教であり、それがどんどん悪性化して人類の未来に影を落としてゐるように思える。カリフ制再興は日本には直接には関係がないけれども、もし本当に実現すれば、少なくとも「領域国民国家ではないシステムがありうる」ことを知ることができる。

それは日本含む東アジアの人々が「リヴァイアサン偶像崇拝」を打ち砕くための、一つの契機となりうるものと考える。

そうわけで氏の提唱する「カリフ制再興」をぼくはひそかに応援してゐるのである。

(☟楽しそう)

本文で引用されてゐるエーリッヒ・フロムの言葉が印象に残った。

 領域国民国家の宗教性、それが偶像に他ならないことを指摘しているのは、トインビーだけではない。フランクフルト学派社会心理学者エーリッヒ・フロム(1980没)は言う。

 「現代を含めて人間の歴史の中で今日にいたるまでいかなる偶像が崇拝されてきたのかを逐一はっきりとつきとめなければならない。かつては偶像は動物、木、星、男または女のかたちをしたものなどであった。それは、バアルとか、アンタロテとか呼ばれ、またその他幾千という名で知られてきた。今日、それは、名誉、国旗、国家、母、家族、名声、生産、消費といったいろいろな名で呼ばれる。けれども正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝のほんとうの対象となっていることはなかなか見破られない。・・・中略・・・かつてアズデック族が神々に捧げた人柱と、戦争のさいにナショナリズム主権国家という偶像に捧げられる現代の人柱の間には、われわれが考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。」(E・フロム『ユダヤの人間観』、河出書房、1996年、63頁) 167頁

「国民は祖国のために命を捧げろ」みたいなことを言う政治家がゐるけれど、これはまさに「主権国家という偶像」に人柱を捧げるという儀式=戦争を欲する心性なんだと思う。

以下、ぼくが興味をもってゐる「インドへのイスラーム流入」に関する箇所をメモしておく。

 西方でイスラーム世界が政治的分裂に陥っていた時、東アジアでもツングース女真族が金を建て、宋を滅ぼし中華秩序が揺らいでいた。この東の中華世界と西のイスラーム世界の政治的弱体化の間隙をついて圧倒的な軍事力を背景に史上空前の遊牧帝国を築き上げたのがテムジン(チンギス・ハン、1227年没)の率いるモンゴル族であった。

 テムジンは、同族の絆ではなく個人的な主従関係で結ばれた遊牧戦士集団を率い、モンゴリアと統一し1206年(大集会)において全モンゴリアの王ハン(汗)に推戴され、チンギス・ハンとなった。

 即位したチンギス・ハンは南の西夏、天山ウイグル王国を服属させたのを手始めに、周辺諸国を次々と征服し、金に華北の首都中都を放棄させ河南の開封を首都とすり小国に転落させ、南シベリア、中央アジアまで勢力を広げた。

 天山ウイグル王国の帰順により、同王国のチュルク語文語として確立していた古典ウイグル語や漢語、イラン系言語に通じていたウイグル系官僚たちを取り組んだことは、その後のモンゴル帝国の整備に大きな影響を与えることになる。 147-148頁

 14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国と呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実験を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝創始者ティムール(1405年没)は傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。

 チャガタイ家の王族の改宗にはナクシュバンディー教団を中心とするスーフィー教団の影響が強かったとされるが、ナクシュバンディー教団はチュルク系諸民族の間で広く信奉され、その影響は中国の回族にまで及んでいる。

 チャガタイ・ハン国イスラーム化は遅かったが、中央アジアで成立しペルシャ語の影響を強く受けたチュルク系の文語は「チャガタイ語」と呼ばれ、イスラームを信奉し文芸を保護し一代でモンゴル帝国の西半分をほぼ支配下におさめたティムールの治世にはトルコ・イスラーム文化が確立される。ティムール朝の最後の君主でインドのムガール帝国(1526~1858年)の最初の皇帝でもあるバーブル(1530年没)の回想録『バーブル・ナーマ』はチャガタイ文学の傑作と言われる。 154-155頁

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157頁

 インドでは、1707年にアウラングゼーブ帝が死ぬとムガール帝国は急速に求心力を失い地方政権が分立する状況になっていた。そのインドで東インド会社による貿易独占を手掛かりに覇権を握ったのはイギリスであった。イギリスは1757年のプラッシーの戦いの勝利によってフランスの勢力を駆逐し、ベンガル地方を植民地化していったのを手始めに、1775年から1818年にかけての3度のマラータ戦争、1845~49年のスィク戦争でパンジャーブ支配下におさめ、1858年には実権を失い年金生活を送っていたムガール皇帝を廃位すると同時に東インド会社から統治権を剥奪し、女王の名においてイギリス政府が直接統治することになり、ここに名実共にインド全土の植民地化が完成した。またインドへのロシアの進出を抑えるため、イギリスはアフガン戦争によって1915年にはアフガニスタン保護国化する。 170頁

  インドのイスラーム化は早くも8世紀にウマイヤ朝ムハンマド・ブン・カースィムの率いる遠征軍によるシンド地方の征服に始まるが、本格的なイスラーム化は10世紀後半からのアフガニスタン方面からのガズナ朝とゴール朝の北インドへの侵入によるのであり、北インドの中心地デリーには、1206年にアイバクが建てた奴隷王朝以来、ハルジー朝トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝デリー・スルタン朝と総称されるイスラーム政権が続いた。この時期、イスラームは軍事力によって、征服王朝を樹立しただけでなかった。当時の北インドではヒンズー教や仏教が広まっていたが、イスラームはチシュティー教団などのスーフィー教団により民衆に広まり、ムスリム人口は増大し、インド=イスラーム文化が形成された。 197頁

  インドの宗教は、古代インドのバラモン教から、仏教の興隆を経て、バラモン教が「進化した」ヒンズー教に交代し、その後イスラームの支配により、イスラームヒンズー教の併存状況が生まれ、今日に至っている。しかし、近現代のインドは1858年から1947年までのイギリスによる植民地支配により、西欧流の政教分離世俗主義の政治、経済、社会体制を強制されることで、宗教の概念自体が根本的変質を被る。イギリスは、西欧流の宗教概念に基づきムスリムヒンズー教徒を差異化し対立を煽って分断統治する政策をとった。それゆえ英領インドにおいては「宗教の自由」が認められたので、一見するとインドはなお「宗教的」な社会であるかのような外観を呈していたが、その「宗教」は西欧的な宗教観に基づき政教を分離した政治、経済、社会などの人間の生の重要な側面から締め出され、去勢され矮小化された「歪なイスラーム」、「歪なヒンズー教」であった。 201頁

 しかし、領域国民国家システムの枠組みを離れて考えると、ことはそう単純ではない。今日のインドの経済的繁栄はインドの枠組みで語られるが、インドはブリティッシュ・ラージ(英領インド帝国)の後継国家として世俗主義を政体としているにもかかわらずヒンズー・ナショナリズムが高まりつつある。そもそもインドの独立はインド文明の世界国家であったブリティッシュ・ラージの解体であり、国家レベルでインドとパキスタン・イスラム共和国に分断され、更にパキスタンはその後東パキスタンがインドの支援で世俗主義バングラディシュ人民共和国として独立し、更に分かれ、インドとパキスタンの分離で100万人、パキスタンの分裂で300万人の犠牲者を出しており、今なおカシミールの帰属問題をめぐって紛争が続いている。

 インド亜大陸ヒンズー教徒の人口比が今後100年で逆転する事態はありそうもない。しかしインド文明は、トインビーの言うところの世界国家をヒンズー教が持ったことは4世紀半ばから6世紀初めまで続いたグプタ朝以来なく、近世のインド文明の政治的な統一をもたらしたのは、イスラーム文明に属するムガール・ラージと政教分離世俗主義に立つ西欧文明に属するブリティッシュ・ラージであった。文明史的観点からは、インドはまだ再編の過程にあり、政治的には領域国民国家システムの枠組み内で世俗主義のインド、バングラディシュ、イスラーム共和国のパキスタンとの分裂が維持されるのか、インドがヒンズー教に基づく世界国家となるのか、ムガール・ラージのように全土がイスラーム・カリフ制の下に統一されるのか、未来は不透明であり、多くの可能性に向けて開かれている。 248-249頁

中央アジア史は複雑でわかりづらい。

けれどカタック形成史を考える上では絶対に必要な知識。

このあたりの文明の流れ、影響の仕方がどういうものであったかを調べたい。

インドのムガール帝国はチュルク系の遊牧民族が建てたものだいうのはとても大事。