手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「自分を変える気づきの瞑想法」アルボムッレ・スマナサーラ

自分を変える気づきの瞑想法アルボムッレ・スマナサーラ サンガ 2004

瞑想とは

人間には「からだ」という物体と「こころ」という精神的なエネルギーがある。「こころ」をひと言で定義すると、「外の世界を認識する機能」である。「こころ」が認識し、「からだ」という道具をつかって行動に移す。

「からだ」を整えたり鍛えたりする人は多いが、「こころ」のトレーニングをする人は少ない。これはあべこべである。人生がうまくいかないのはそのせいなのだ。体力がないと思えば科学的に身体を動かして、運動して、「からだ」を丈夫にする。同じように、「こころ」も法則に則って育てなければうまくいかない。

「こころ」を鍛え、精神力を育てるトレーニングが瞑想だ。これは科学的な方法であって、宗教とは違うものだ。神秘的なものでもなく、非論理的なものでもない。

瞑想には「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の二つがある。「サマタ」とは「落ち着く」という意味で、静かなこころをつくる瞑想法をいう。「ヴィパッサナー」とは「明確に見る」という意味で、いま自分に起ってゐることをありのままに観察する瞑想法をいう。後者は前者を前提とする。

不幸とは

病気になること、失業すること、思うようにものごとが進まないこと、好きな人と別れること、老いること・・・こういうことを一般に不幸と呼んでゐる。これらは生きるうえでは当り前のことで、避けて通れないものだ。

人間はこういう当り前の不幸に出会っても、その小さな不幸をがん細胞のようにどんどん大きくしていってしまう生き物だ。不幸が増殖するほどに、なんとか幸せになりたいとふんばり、がんばり、焦るとうまくいかず、悪循環に陥ることになる。

病気になることや老いること自体は不幸ではない。なにかあると落ち込んでしまう、こころが問題なのだ。幸せになるためには、悪循環を断ち切らないといけない。不幸な出来事に出会っても落ち込まず、幸福な出来事に出会っても舞い上がらない、そのようにこころを育てる必要がある。

瞑想の実践によって、こころを育て、安らぎを得ることができる。

渇愛・知恵

苦しみの原因を仏教では「渇愛」であるという。現在の状態を不足に思い、満足せず、もっと欲しいと思うこころだ。この渇愛を取り除くためには「知恵」が必要だ。「知恵」とは「ありのままに知る能力」である。

人間はみな「こうであってほしい」という自分のフィルターを通して世界を見てゐる。ありのままを見ずに渇愛をつのらせる。だから苦しい。事実を否定するところに苦しみが生れる。

ものごとをありのままに見ると、渇愛状態が壊れ、知恵があらわれる。こころを覆ってゐる汚れを完全に取り除いた状態が「知恵」である。それは新しいものが生れることではなく、本来の状態に戻ることだ。だから、知恵が「消えていく」という概念は成り立たない。

暗い思考

瞑想によって取り除くべき暗い思考に、「怒り」「嫉妬」「ケチ」「後悔」がある。

「怒り」というのは、ひとつの精神的な病気である。何でもおもしろくないと思ってしまう感じ。~したい、~でないとダメだ、と思う気持ちがあまりに強いので、こころにストレスがたまっていつも脅えてゐる状態だ。自分の命を邪魔されるのではないかと、他の命や環境に対して拒否感を示して、攻撃する。すると周りもあなたを攻撃する。

「嫉妬」というのは、相手のことを認めない気持ちをいう。相手に起ったよいことや、美徳をねたむ。自分と他人を比べて、ちょっとでも嫉妬が生れると、幸せはたちまち壊れてしまう。嫉妬する気持ちが起ったとき、人はまた自分をも否定してゐるのだ。この世に似てゐる人はひとりもゐない。他人と比べるのはとてつもなく無知なことである。

「ケチ」というのは、自分の持ちものがなくなったらどうしようと心配ばかりする心性をいう。誰にも何もあげない。誰も助けてあげない。何かすると自分が損した気がしてしまう。人になにかすることをすごく惜しいと感じ、人に協力することを極端に嫌がる。これはたいへんな重病だ。ケチな人は他人との関係を拒否してゐることになる。でもそのたびに、みじめで孤独な人間になる。人の役に立つことが何よりも幸せだということに気づくべきである。

「後悔」というのは、過去の失敗を何度も思い出して、そのたびに恥かしさと悲しさに包まれることをいう。失敗は一度きりなのに、何度も思い出して、こころのほうも何度もダメージを受ける。後悔しても他人が許してくれるわけではない。それはただの暗い人間だ。失敗や間違いは一度しっかり認めて、まわりの人に伝えれば、それでよいのだ。

いつくしみの瞑想

「サマタ瞑想」はいつくしみの瞑想である。

すべての生命は自分のことしか考えてゐない。いいとか悪いとかではなく、すべての人が自分の主観でものを見てゐる。けれども、すべての命は一つのネットワークの中で、互いに関係しあって生きてゐる。だから自分のことしか考えない「我がまま」を修正しないと、協力したりされたりすることができない。

またすべての人間には「自信」がない。コンプレックスを持ってゐない人間は一人もをらず、すべての人間は精神的には病んでゐる。いつくしみの瞑想によって、我がままを抑え、健康な精神を育むことが、命の尊厳を守ることであり、それがまた幸福につながるのである。

以下の詩節を、こころのなかで願いを込めて言ってみること。時間がとれるなら背筋を伸ばして座り、目を閉ぢて行う。いつでもどこでもいい。電車のなかでも、お風呂のなかでも、布団のなかでも、何度も何度も願うこと。

私が幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとがかなえられますように

私に悟りの光があらわれますように

 

私の親しい人々が幸せでありますように

私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい人々の願いごとがかなえられますように

私の親しい人々に悟りの光があらわれますように

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように

生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように

 

私の嫌いな人々も幸せでありますように

私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように

私の嫌いな人々の願いごとがかなえられますように

私の嫌いな人々にも悟りの光があらわれますように

 

私を嫌っている人々も幸せでありますように

私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように

私を嫌っている人々の願いごとがかなえられますように

私を嫌っている人々にも悟りの光があらわれますように

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

82-83頁

いつくしみの瞑想は「自分自身が大事」ということから始まる。あなたは自分が大好きで、決して不幸になりたくない。自分が努力したことは、失敗したくない。成功したい。賢く、正しい生き方をしたいのだ。

そこを誤魔化してはならない。自分より人が大事なんで言ってはならない。それはウソだからだ。自分は自分を大切に思ってゐるのだということをまづ素直に認めること、自分自身にたいするいつくしみを育てること、そこが出発点だ。

知恵の瞑想

ブッダがこころの汚れを完全に落して、実際に悟りを開いた瞑想法が「ヴィパッサナー瞑想」である。ヴィパッサナーの「ヴィ」は「明確に」を意味し、「パッサティ」は「観察する、見る」を意味する。

ヴィパッサナー瞑想は観察する能力を育てる瞑想法である。観察が知恵の入口だ。ヴィパッサナーはこころを観察する。観察するのは「物」ではなく「こころ」。ヴィパッサナーは「こころ」の科学である。

人間のこころを汚す唯一の原因は「思考」である。人間は始終「思考」してゐるけれども、そのほとんどすべては生きるうえで必要なことではない。妄想、雑念、主観、感情である。

次から次へと目的を作っては先のことばかり考え、過程はどうでもいい、ということになってしまう。過去の思い出や将来の夢のことばかり考えて、考えることで時間がなくなり、忙しくなり、「今」がおろそかになる。考えれば考えるほど苦しみは増える。今は存在しない過去と将来にエネルギーを使うから、みな精神的に力がなく、自信がない。

人間の最大に問題点は、この回り続ける「思考」にある。このような思考の渦によって目はくもり、ありのままに事実を見ることができなくなる。そこに渇愛が生じ、人は不幸になる。

ヴィパッサナー瞑想の試みは、一切の思考を停止して、「今」に集中するチャレンジである。思考を停止させる努力によって、こころのくもりが晴れ、「知恵」があらわれる。

やり方は、「今の瞬間」に自分が何をやってゐるかを「実況中継」するという簡単なもの。基本的な方法は三つある。「立つ」「歩く」「座る」である。この三つの動きを、ノンストップで、スローモーションで、体の動きを感じながら、こころのなかで実況中継していくのである。

簡単にみえるけれども、こころにとってはかなり厳しい修行である。暴れ回って走り回ってゐる馬を強引に止まらせるようなものだから。

瞑想に際して注意すべきことは、自分で分析しようとしないこと、そして何か発見できるだろうと期待しないことである。そういう願いが入るとこころがずるい働きになってしまう。そこに「私」というものが隠れてゐるのだ。「私」は、やめようとしてゐる「思考」の燃料になってしまう。

 悟りなどというのは、自然の流れで起こることです。悟れるかなあ、と考えても意味がないし、逆効果です。とにかく思考だけ、妄想だけ、自分で踏ん張って押さえてみてください。それは個人の宿題。残りは法則の世界です。

 個人がすべきことは、雑念、妄想を敵に回すことだけです。敵に回して叩くのです。思考、雑念、妄想、それを叩いておけばよいのです。妄想を叩けば叩くほど知恵というものがあらわれてきますし、能力もついてきます。

 ですから、楽しくストレスなくリラックスして穏やかな気分で頑張ってください。難しいと思ってしまうと難しくなってしまいますよ。実況中継すればいいだけじゃないか、考えごとを止めりゃあいいんでしょう、という態度をとるのです。考えなきゃいいんでしょう、分かったよ、という感じでやるんですよ。軽い気持ちでね。 162-163頁