手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「バガヴァット・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済」上村勝彦

「バガヴァット・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済」上村勝彦

ちくま学芸文庫 2007

自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。 (六・五)

これは本当にいい本だ。数年ぶりに再読し、改めて感激した。名著である。

バガヴァットは「崇高なる神や偉人」、ギーターは「歌」という意味。マハーバーラタの第六巻の一部だが独立して読まれる。戦闘を前に怖気づく戦士アルジュナと、その御者で実は至高の存在であるクリシュナとの対話。

結果に執着せず、成功・失敗、幸不幸を平等同一のものとして見、自分の定められた行為に専心することを説く。平等の境地に達すれば苦しみから離れ、輪廻転生から解放される。すなわち解脱できる。

行為(カルマン、業)はよい結果をもたらすこともあるが、悪い結果も残る。インドでは行為には悪がともなう、罪深いことだという考えがあった。そこで世を捨てて社会との関係を断ち山中に隠棲して修行せよという教えが出てくる。しかしそれでは一般の社会人、ふつうの人々は救われない。

現実の社会生活をまっとうしながら、罪に陥らない道があらねばならない。ギーターは世捨て人にならずに解脱する方法を教える。この世のすべてを平等なものとして見よ。

 苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。 (二・三八)

 

 苦楽、損得などのすべての相対的なことを離れ、すべてを平等に見れば、我々はもはや行為の結果に束縛されることがない。これこそ『ギーター』が繰り返し強調するところです。 47-48頁

行為を行うときに行為の結果のことを考えてはいけない。

 あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。 (二・四七)

 

 これは『ギーター』のうちでも非常に有名な文章です。フランスの思想家シモーヌ・ヴェーユなど、多くの人々をひきつけたのはこの文章であったと思われます。行為が必然的に悪い結果をもたらすとはいえ、我々は隠遁者のように社会生活を放棄し、行為を捨ててはいけない。つまり無為に執着するのは正しくないと教えています。 49頁

結果への執着を捨てること、成功と不成功を平等に見ること、これをギーターは「ヨーガ」と呼ぶ。ヨーガは平等の境地である。ヨーガの境地に達するためには「知性」の確立が必要である。ギーターにおける「知性」の原語は「ブッディ(「覚」と漢訳される)」で、プラクリティ(根本原質、物質的原理)から最初に生ずる「根源的思惟機能」である。知性が確立するとはいかなる状態を指すか。クリシュナは答える。

 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。

 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。

 すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している。

 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収めるとき、その人の智慧は確立している。 (二・五五~五八) 57頁

感官の対象から感官をすべて収めるとは執着から離れることである。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じ、怒りから迷妄が生じる。だから執着から自由にならねばならない。

 ここでクリシュナは初めて、最高神としての自分に専念すれば、感覚器官ないし思考器官を制御し、知性(心の最も奥底の部分の働き)を確立することができると説いています。

 

 すべての感官を制御して、専心し、私に専念して座すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。 (二・六一)

 

「専心し」と訳した原語は「ユクタ」ですが、「結びつけられた」という意味です。主として、心に何かを結びつけること、集中することで、ヨーガと同じ語根「ユジュ」からできたことばです。 59頁

アルジュナは行為を怖れてゐる。行為の結果にとらわれ、無為に逃げ込みたいと思ってゐる。そこで問う。あなたは知性を確立せよと言った。では行為より知性が優れてゐるなら行為は不要なのではないか、なぜ自分を恐ろしい行為に駆り立てるのか。

クリシュナは言う。「人は行為を企てずして、行為の超越に達することはなく、また単なる行為の放棄によって行為の超越(成就)に達することはない」

 実に、一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、すべての人は、プラクリティ(根本原質)から生ずる要素(グナ)により、否応なく行為をさせられるから。 (三・五) 63頁

ラクリティとは世界を構成する物質原理でありプルシャ(精神原理)と対をなす。サーンギヤ学派によれば、このふたつの原理から世界および人間が成る。そしてプラクリティを細かく見ると純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、暗質(タマス)の三要素(グナ)から成る。三要素のバランスによって人間含む個物の性質が決まるとされる。

さてヒンドゥー教では何かを考えたりものを言うこともまた行為である。運動器官をとめても、思考器官(マナス(「意」))が働いてゐる。だから行為をしないということは実はできないのである。

人間は行為に束縛されてゐる。ただ祭祀のための行為を除いては。クリシュナはすべての行為を絶対者・最高神に捧げる祭祀として行うことを説く。

 すべての行為を私のうちに放擲し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく、「私のもの」という思いなく、苦熱を離れて戦え。 (三・三〇)

 

「放擲」は難しい訳語ですが、放棄するということです。この原語「サンニヤーサ」は非常に重要なことばですので、「放擲」という硬い訳語を使いました。すべての行為を「私」(最高神であるクリシュナ)のうちに放擲する。つまり、最高神にゆだねる。そして真実の自己アートマンに関することを考察して、願望なく、「私のもの」という思いなく、苦しみを離れて戦えということです。

 ここに『ギーター』の主題が直接的に述べられております。ここでは、クリシュナがすべての行為の本源であることを知って、すべての行為をクリシュナに捧げるべきであると説かれています。自己に関することを考察するとは、真実の自己であるアートマンを考察することです。実はそのアートマンが絶対者にほかならないことを直観することです。 67-68頁

 彼の企てがすべて欲望と意図(願望)を離れ、彼の行為が知識の火により焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ。

 行為の結果への執着を捨て、常に充足し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していても、何も行為していない。 (四・一九、二〇) 78頁

 たまたま得たものに満足し、相対的なものを越え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。 (四・二二) 79頁

ウパニシャッド哲学によれば、真実の自己=アートマンは絶対者=ブラフマンにほかならない。そしてギーターにおいてはクリシュナが偉大な王(マヘーシュヴァラ)であり、ブラフマンと同一とされる。ここにおいて、アートマンブラフマン=クリシュナという等式が成立する。

インドの神話や思想に関する本を読んで混乱するのは、Aは実はBである式の強引とも感じられる等式システム、化身システムがたくさん登場することだ。さすがになんでもあり過ぎではないかとしばしば困惑する。

アートマンブラフマンである。そのブラフマンはクリシュナである。それだけではない。続いてクリシュナが実は「最高のプルシャ」なのだというとっておきの打ち明けがなされる。

 常修のヨーガに専心し、他に向かわぬ心によって念じつつ、人は神聖なる最高のプルシャに達する。 (八・八) 151頁

(・・・)

 プルシャとは一般には人間を意味することばです。インド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の第十巻に、「プルシャの讃歌」があります。そこではプルシャは原初の神なのです。「神人」、「原人」などと訳されます。そのプルシャは宇宙そのものである。神々が宇宙そのものである神人プルシャをいけにえとして祭祀を行ったとき、プルシャから、月や太陽や火、諸方位などが生じたと言われます。つまり、これは天地創造の神話です。 151-152頁

ギーターではそのプルシャが最高原理ブラフマンを神格化したものと設定されてゐる。ブラフマン=プルシャ。

(・・・)ブラフマンは中性の原理ですが、それを男性の神格と見なしたものが最高のプルシャなのです。

 仏教でいえば、ちょうど毘盧遮那仏のような法身仏に当たるといえるかもしれません。法身とは、法(ダルマ)、真理そのものとしての仏ではありますが、その場合、最高原理ブラフマンが法に当たるということができます。

 最高原理であるブラフマンは、抽象的ですから、愛(バクティ)を捧げる対象とはなりませんが、最高のプルシャは神格ですから、ブラフマンと比較するとより具体的であり、愛を捧げる対象となる可能性があります。

 そして『ギーター』の場合は、人間の姿をとったクリシュナが実は最高のプルシャであるというのです。そういう人間クリシュナであったら、より具体的になって、愛を捧げることが非常に容易になります。 156頁

ヴェーダ聖典と、ウパニシャッド哲学と、民間伝承を一緒にして、いろいろあるけど結局はひとつなんだという説明にもっていく。けだしその苦心が、等式・化身システムであろう。抽象度、位相、文脈が異なる概念をイコールで結びつける。

プルシャはブラフマンであり、ブラフマンアートマンは同一であり、クリシュナはブラフマンである。ということはクリシュナはブラフマンアートマンであり且つプルシャなので、クリシュナをひたむきに愛し(バクティ)、同一化できれば、プルシャ=ブラフマンと一体化し、平等の境地に達するはずである。