手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「岡倉天心『茶の本』を読む」若松英輔

岡倉天心『茶の本』を読む若松英輔 岩波現代文庫 2013

すごく感動した。遠くない未来に、もう一度読み返したい。そうしてここで紹介されてゐる人達、霊性の探求者達の書いたものを読みたい。まさにいま、ぼくはこの本を読まねばならないんだ、そのように感じる、素晴らしい出会いだった。

少し前に、2018年に書いた「キム・ヨナの芸術」を読み返した。これはヨナさんの表現に宿った「哀しみ」 に力点をおいて書いたものだ。いつもそうだけれど、ヨナさんのスケートを見直してまた深い感動を覚えた。

いま書くとしたら、また毛色の違ったものになるのかなと思った。あれを書いたのはもう3年近く前になる。3年でもっと深く感じることができるようになった。もちろん、感じるのと同じように深く書くことはできないのだけれど。

そんなときに「岡倉天心茶の本』を読む」を手に取った。これは「愛」と「霊性」についての本だ。それはまさに今回ヨナさんの作品を見て感じたものだった。

 「愛」と天心が書いたものは、抽象的な概念ではなく、存在の根底にあって万物を生かす働きである。『東洋の理想』を貫くのは「愛」の存在論であり、情愛の形而上学である。まず、「愛」があり、「愛」が万物に変じる。ここで「愛」とは人間が抱く感情の動きではない。究極的一者の異名である。 3頁

ぼくはカタックのことを考える。カタックはヒンドゥー的なるものとイスラーム的なるものとが融合した舞踊形態だ(いわゆるひとつの「習合」というやつですな)。インド世界の宗教対立は続いてゐるが、舞踊においては調和を示し、完璧な美をつくり出してゐる。ぼくはこのことをどう理解したらよいかと考えてきた。

若松英輔さんに導かれて井筒俊彦の「意識と本質」、「イスラーム文化」、「イスラーム哲学の原像」を読んだ。彼の哲学では、絶対者ブラフマンを想定するインド哲学と、唯一神アッラーを崇拝するイスラーム哲学とが、ひとつ「東洋」の名において同質の構造をもつ形而上学として体系化されてゐる。

岡倉天心茶の本』を読む」でも井筒の著作が繰り返し紹介される。

 不二一元論、あるいは存在一性論を生きるとは、超越を前にした存在の平等を実感すること、すなわち神の働きにまざまざとふれることに究極する。

 かつてあった完全なる球形が、無数の破片となって世界へと広がる。不二一元論は、その失われた球形を取り戻そうとする存在の衝動だと言えるかもしれない。わずかな破片もその完全を構成することにおいては、大きな何かと同等の意味を有する。大小、高低、優劣は人間が付与するものであり、それは存在それ自体がもつ価値とは関係がない。アジアには多くの国がある。それらはすべてブラフマンの顕れである点において一切の優劣を超える。むしろ、差異は一なるものへ帰還してゆく動きを物語る。 5-6頁

カタックのリズムと動きは「失われた球形を取り戻そうとする存在の衝動」ではないだろうか。カタックにおいてヒンドゥー的なるものとイスラーム的なるものとが調和するさまに、ぼくは「一なるものへ帰還してゆく動き」を感じる。二つのものが霊性の次元で統合され、それが舞踊として顕れたものがカタックなのだと思う。

ぼくはカタックの美に究極的一者を見ようと欲してゐるのだと思う。つまりカタックの探求を通じて宗教としての美を求めたいというのだ。

  ここでの「芸術」は、美を窓に、実在の世界を希求する営みの異名である。美を感じることそれ自体が「神聖」なる出来事であり、自己を超えることとなる。また、永遠をかいま見ることでもある。そのとき、人は、個として存在すると共に、世界の一部になっていることを感じる。神聖〔spirit〕は、物質界の束縛を超えて、存在の律動に順応する。このとき芸術は、ほとんど宗教と同義となる。天心にとって「芸術」が、見て、ふれ、そして交わるものだったように、「宗教」もまた、知る対象ではなく、生きるものだった。 65頁

ヨナさんのスケートに感動したときにも、カタックを知ったときにも、こんなことを考えるようになるとは思いもしなかった。不思議なことだ。ただ感動して、その秘密が知りたくて、見て、練習して、読んだり書いたりしてゐるうちに、いつのまにか「愛と霊性が大事だ」とかいうところまできてしまった。びっくりだね😵

以下、本書の名言集。

人は、何ものかの「通路」となったとき、もっとも創造的な働きをなす。 103頁

「完全」とは、美のもう一つの名前である。 121頁

現代で、真に和解を生む可能性が残されているのは、 真によってでも、 善によってでもなく美によってである。 132頁

人間の「偉大さ」とは人が自らをいかに表現するかではなく、むしろ、いかにそれぞれの生涯において「大霊」の働きを表現できるかにある。 146-147頁

人は「霊」が内在するために、その本源である「大霊」を求めずにはいられない。ここにおいて「霊性」は「愛」の営みに限りなく接近する。 162頁