手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「『コーラン』を読む」井筒俊彦

『コーラン』を読む井筒俊彦 岩波現代文庫 2013 原著は1983年刊行

花粉と低気圧のダブルパンチでひどい倦怠感だ。こんなふうに頭ぼんやり且つ無気力な状態で一日を過ごすことも、イスラーム的に考えれば、神が望まれたこと、ということになるので、まあ、それでいいんだろう。

ノートをば。

「読む」とはどういうことか。

(・・・)人間の意識の深層には、もうコトバで固定されてしまった意味と、それから自分を表現してくれるコトバを手探りしつつあるような、いわば現に生みの苦しみをなめつつあるとでもいえるような、意味の可能体とが混在しているわけで、それらが縦横無尽に錯綜する糸で結ばれて連鎖をなしているのです。 

(中略)

 このような意味聯関のつくり出す下意識的領域を私は仮りに潜在的意味空間とか言語アラヤ識とか読んでいるのですが、そのような意味空間というものが我々の意識の深部にある。 57頁 

コトバの奥底には下意識的意味聯関がある。この下部を含む全体的意味構造の総体がハイデガーのいう「世界」である。

 「世界」といっても、勿論、常識的な意味での世界じゃありません。人間が実存的、体験的に了解している自分の存在の地平ですね、そういうものを「世界」という。そういう世界が現出してくる源泉としての根源的意味聯関が人間の下意識の薄暗いところにひそんでいて、それがいちいちの発話に出て来るのです。

(中略)

 もしそうだとすると、人が喋るいちいちの文は断片的だけれども、そのどれにも必ずそこに「世界」全体が働いていると考えなくてはならない。 59頁

井筒にとって「読む」とは、テクストの意味を掘り下げ、この「世界」を浮かび上がらせることである。

ぼくは舞踊においても同じことが言えるとおもう。「コトバ」を「カラダ」に置き換えてみればよい。舞踊はカラダによって「かたち」と「リズム」を表現することである。舞踊を「見る」とは、カラダが表現する「かたち」と「リズム」から、「世界」全体を感じ取ることだ。

なるほど、いま書いて我ながらハっとした。まったくその通りだ。ダンスを見て強烈に感動するのはいったいどういうことなのかと考えてきたのだけれど、要するに、「かたち」と「リズム」から、「世界が現出してくる源泉としての根源的意味聯関」を読み、「世界」全体を感じ取ってゐるんだね。これだ。

「名」について。

神は絶対不可知である。神そのものは絶対に姿を見せない(「隠れた神」)。その神は、また自らを現す神でもある。自己顕現の神。どうやって自己顕現するか。名によって。

 アッラーという名前の以前は絶対不可知の神、取り付く島もない神です。 その絶対不可知不可測の神が、アッラーという自分の名前を明かす、それによって神と人との間にコミュニケーションの道ができる。神の自己顕現の始まりです。自己顕現はさらに続いて、次の段階でアッラーという名が二つの反対の方向に分岐します。 71頁

アッラーは九十九の神名を有し、それは二つの系統に分かれる。ジャマールとジャラールと。ただし、「アッラー」という名はいづれにも属さない綜合的な名前である。 

ジャマール:美しさ、やさしさ、愛、慈悲 など  

ジャラール:威厳、尊厳、峻厳、怒り、復讐 など

すべてのものは滅び去る、はかないもの。ただアッラーという名のみは永遠不滅。神が人間に見せる顔は仮面である。本当の顔というのはない。仮面をとおして、その彼方に、神の姿をわづかに垣間見る。この顔が神の名。

コーラン』の世界ではジャマールが主。世界は根源的に祝福されてゐる。ただ、それを認めまいとする人々、拒否する人々に神は罰を与える。それがジャラールの働きとして現れる。

なお、ヒンドゥー教聖典『バガヴァッド・ギーター』はこれと対照をなす。『ギーター』も『コーラン』も存在界の原点に人格的な唯一の神がゐて、その神が天地万有を創造し、自分の創った世界を支配するという世界観では同じ。ところが『ギーター』における絶対神クリシュナはジャラールの面、すなわち憤怒の相が本体的な姿である。

ジャマールとジャラールの二系統に対応するかたちで、預言者(ナビー)の資格、および信仰(イーマーン)の態度がある。

神がある人間を選んでその人に話しかけると、その人は預言者となる。預言者のうちある特別のミッションを与えられ、神のコトバを他の人々に伝えることを任とする人が使徒(ラスール)である。

神のジャマールの側面に対応する使徒、喜びの音信をつたえる使徒がナズィール。

神のジャラールの側面に対応する使徒、警告をあたえる使徒がバシ-ル。

ひとりの使徒の二つの面であってもよい。

信仰の内的構成も二の要素からなる。すなわち、ジャマールに対応する「感謝(シュクル)」と、ジャラールに対応する「畏れ(タクワー)」である。

熱狂的な神讃美の意識。

なぜ世界は存在してゐるのか。それは神が慈悲を示し、世界を創造したからである。この慈悲はなにものをも差別しない。善人も悪人も区別がない。虫けらも人間もみんなおなじ。存在してゐることそのものが神の慈悲の顕れ。

(・・・)イスラームという宗教は、結局、神讃美の宗教だといって過言ではないと思います。神にたいする宇宙的な讃美。すべてのものが、どこでどんなことをしていようとも、それで神を讃美している。悪いことをしている者も、悪いことをしているという形で神を讃美している。存在することが讃美なのですから当然です。そして、もし存在することがそのまま神の讃美であるならば、一切のものは、神を常住不断に讃美している、ということも真理でなくてはなりません。神の讃美は絶えることがない。神にたいする万有の讃美は、全宇宙で、宇宙的な広がりで、しかも不断に展開していく。 82頁 

  ですから、『コーラン』の存在感覚によりますと、アッラーに対する人間の、あるいは全存在者の、最も優れたあり方は、いちばんよく神を讃美するような仕方で存在することです。美しくあることによって神を讃美する。善をなすこと、善であること、によって神を讃美する。 109頁

この考え方がすごく好きだ。美しくあること、善をなすこと。それが自分のためでも人のためでも社会のためでもない。褒められたいからでも認めてほしいからでもない。神を讃美するため、「いちばんよく神を讃美するような仕方で」それをやる。

こっちのほうがいい。人間も社会も信用ならない、実にあぶなっかしい。神のほうを向いてゐたほうがよいように思う。

一切の存在者、一切の事物は神の「徴」である。これを「アーヤ」という。人間以外のすべての事物も生き物も自意識をもたない。人間だけが自意識をもち、自覚的に、神を讃美することができる。

イスラーム文化に入っていくのには、どうしてもそれをつかまなくちゃいけない。存在が恵みであるということ。それから転じて、存在することがすなわち讃美であるということ。神の恵みを感じる感じ方が限りなく深いからこそ、つまり、存在のアーヤ性を己れの実存そのもののなかに痛感するからこそ、讃美するということになる。この考え方を極限まで推し進めていくと、存在することが、そのまま神の讃美であるということになるのです。 136-137頁

人間だけが、アーヤに満ちた世界を一つの記号体系として読むことができる。人間だけに許された特権。