手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「ガンディー 平和を紡ぐ人」竹中千春

ガンディー 平和を紡ぐ人」竹中千春 岩波新書 2018

ガンディーの評伝。読み終えて、世界は複雑だ、というどうしようもない凡庸な感想をもった。最近そういうことばかり考える。人間・歴史・宗教・国家などについて考えると、あまりに多面的かつ多層的で、さまざまな立場からさまざまなことが言える。その巨大な複雑さの前に立ちすくみ、何も判断できない、何も言えないという気持ちになる。

ガンディーは偉大だが、その強烈な個性は妻にとってたいへんな災難であったろうし、子にとっては解きがたい呪いとして機能した。長男ハリラールの不幸な経歴を知り、ううむと考え込んでしまった。

(孫のラージモーハン・ガンディーは)次のように述べる。「インド人がガンディーをそれほどに愛した理由は、彼が自分の子どもたちを贔屓しなかったからである。それこそが彼の強みだった。インドを奮い立たせるためには、自分自身の子どもさえネグレクトするような指導者が必要だと、彼にはよくわかっていたのである」。

 偉大な親を持つという試練を生き延びた三人の息子がいた。しかし、ハリラールは、弟たちのように幸運でも強靭でもなかった。下の三人の息子は、小さなときから父の背中を見て育つことができた。父に置き去りにされた寂しい幼子のハリラールには、それすら許されていなかった。 204-205頁

ガンディーの人格は実に興味深い。「十全な人格」とか「中庸」といったものではなかったようだ。非常に極端で、頑固で、周囲の人とも衝突をおこす。協力者や支持者が離れていくことも多かった。しかしその思考力、信仰心、アイディア、行動力は文字通り常人のそれではなく、誰でも「なんかスゲエ」と思わせるオーラがあったのだろう。

本書を読んで、ぼくはガンディーの事務能力の高さに驚いた。たとえば土地制度改革のために農民運動をやるとなったら、猛烈な速さで数千人の小作農から話を聞き、報告書をまとめて政府に提出する。そして交渉する。「塩の行進」とか「手紡ぎ車」の象徴的なガンディー像しか知らなかったから、事務能力に関する記述は新鮮だった。

ガンディーは短い時間に人とお金を集めてチームを組織する天才だった。地元の言語を通訳するボランティアを集め、問題を調査するためのチームを動かし、現実の困っている人々の声を聞き、記録し分析した。そのうえで、誰にもわかりやすく、実現可能な対策を示した。しかも、外国人の農園主や工場主や役人といった、対立する相手側の意見も調査し、政府から善政を引き出すような提案と交渉を行った。ガンディーの「エリート」としての力は、農民たちの権利と利益を代弁するために発揮されたのである。 211頁

実務家としての能力は「現実」に対応するために必要である。しかし「現実」はしばしば不正が横行し、圧制により貧しく弱い人々が苦しめられてゐる。これはおかしい。既存の秩序を根本から改変し、地上に真理を実現する必要がある。

そこで、ガンディーは非暴力抵抗運動・サッティヤーグラハ(真理と非暴力により生まれる力)をはじめる。おもしろいなと思ったのは、この運動は、計画そのものが「法を破って逮捕されることが前提」であることだ。

 ガンディーたちの非暴力的な市民不服従の戦略は、次のようなものであった。まず、人々が不正な法を破り、逮捕や財産没収といった政府の対応を引き出すが、あえてそれらを甘受し、必要ならば刑務所に入り、こうした自己犠牲によって法と政府の不正を公に訴える。つまり、法を破らなければならない。 84頁

(塩の行進の実行にあたって)二月上旬の運営委員会で、ガンディーは三段階の運動を提案した。第一段階は、ガンディーと少人数の弟子が非暴力的な抗議行動を行い、逮捕される。第二段階で、各州の会議派組織が運動を行い、大衆的な運動を展開する。州の指導者が逮捕されたら、第三段階に入り、新しい指導者が運動を引き継ぐ、という作戦である。107頁

作戦の第一段階がまづ「ガンディー逮捕」というところにちょっと笑ってしまった。でも笑ってはいけない。これがいちばん核心的なところで、こんなことができるのは、真理を信じてゐるからであり、民衆を信じてゐるからだ。不正な法を破って逮捕されると、民衆は怒り、自分達に味方するはずだという確信がある。

これは数億人におよぶインド人が各々ヒンドゥー教イスラーム教、シーク教ゾロアスター教、仏教、キリスト教などを信じてゐる、すなわち人定法とは別の倫理を信じてゐるという事情が大きいと思う。現在の秩序も法も、しょせんは時の権力者がつくったものにすぎない。真理は別のところにある。だから「不正な法を破る」という発想が出て来るのだし、民衆もそれを支持する。

これは少なくとも現在の日本では無理だと思う。日本では「いまの秩序=空気」が神であって、デモやストライキ程度のちいさな逸脱行為でさへ白い目で見られてしまう。現実がすべてであり、「真理」とか「理念」とか「夢」といったものをまるで信じてゐない。権力者の違法行為はすぐに忘れてしまういっぽうで、不倫や覚醒剤程度の軽罪で社会的に抹殺されてしまう。

こういう社会で「法を破って逮捕されることが前提」であるような社会運動は成立しないと思う。日本はなぜこんなに「俗」ばかりの国になってしまったのだろう。江戸の天下泰平のせいだろうか。廃仏毀釈国家神道がいけなかったのだろうか。敗戦してアメリカに占領されたトラウマが深すぎるのだろうか。

無学なぼくにはさっぱりわからない。けれども、あまりにも、という気持ちがある。日本人はあまりにも信仰や霊性の世界に関心がなさすぎだし、日本社会はあまりにものっぺりしすぎてゐる。ぼくはそのように感じる。

ただ何事も程度問題で、信仰にもとづく真理の探究も、先鋭化すれば原理主義となって排除と分断の論理に結び付く。近代インドはヒンドゥー教イスラーム教の対立を克服することができず、分離独立というかっこうになった。それはガンディーの望んだ姿ではなかった。

ガンディーはヒンドゥー至上主義者によって暗殺され、そのことがガンディーの英雄性を高めた。彼は神話的存在となり、「国民の歴史」の中心に座ることとなった。

 こうしてマハートマの死後、分離独立後の内乱と戦争を収拾していく上での国家の方針が定まってくるとともに、その方針に沿って国民的な理念が再確認され、「国民の物語」が叙述されていくことになった。インドの理念とは民主主義、多宗教の共存、多様性の統合、平和主義である。それらと結びついた「国民の物語」の基底には、ガンディー主義的な非暴力の市民不服従によって、国民会議派の指導のもと、民衆が独立を勝ち取り、大英帝国からの権力委譲によって平和的な独立が達成されたという議論が敷かれることになった。この理念が正統な「国民の歴史」の土台となり、将来の子どもたちに伝えていくべきメッセージとなった。 191頁

本書の最後で、著者はガンディーがもってゐた「殉死の思想」を紹介したうえで次のように述べる。

 偉人伝は、それを学ぶ後世の人々だけでなく、偉人の周りにいた人々もその後裔も、さらには偉人と呼ばれた人自身をも拘束する力を持つ。だからこそ問うべきなのは、偉人は偉大な死を遂げなければならないのか、という問いではないか。言い換えれば、崇高な理想のために捧げられる死、あるいは、自らを犠牲にする「殉教(サクリファイス)」への問いである。 207頁

これは非常に重要な問いであるように思う。つまり、超越的審級を抜きにして政治は可能かということだ(ちがうか)。とてもむづかしい、なんとなく無理なような気がする。

真理や思想のために死んだ人間がゐてはじめて、彼の奉じた崇高な理想は現実的に機能するのではないだろうか。世俗権力の背後には絶対に超越的なものの後ろ楯が必要で、それがないと民衆は権力を権力として認めないのではないか。近代インドの場合にはそれがガンディーだった。

しかしこのような大きな問題を考えるための学問がぼくには欠けている。下手の考え休みに似たりという。勉強するしかない。