「死に急ぐ鯨たち」安部公房 新潮文庫 1991(1986刊行本の文庫化)
動物は「本能」で動いてゐる。本能は「閉じたプログラム」である。
人間は「ことば」という概念把握能力を獲得したことによって、この「閉じたプログラム」を開いてしまった。
それにより、人間は何を失い、何を得たのだろうか。
儀式、ことば、国家をめぐる安倍公房の思考が展開される。
どうも言語には、矛盾する二つの機能があるような気がするんだよ。一つは個体間を密着させて集団を強化する接着剤的な機能、いま一つはそれを分解して分散個別化する溶剤的な機能。動物の場合は最初から「群れ派」と「縄張り派」の二つのタイプがあって(時期によって相互移行するタイプもあるけど)、外からの刺激に対して反応するかしないかの区別しかない。これどうあがいても絶対に逆らえない強力な本能なんだ。人間は言語と引き換えに多少の本能を犠牲にした、でも、かわりに言語には接着剤と溶剤の療法の機能が備わっているから、「群れ」も「縄張り」もいぜんとして動物なみの強さを維持できるんだね。 168頁
ことばには接着剤と溶剤という二つの相反する機能がある。
本書では、
接着剤的機能 溶剤的機能
集団化 個別化
儀式化 例外化
国家 ?
というような図式が提示されてゐる。
安部の基本的な認識は、接着剤的な機能のほうが強すぎ、個別化の力、儀式を拒否するほうの言語による解毒作用が、じゅうぶんに機能してゐないのではないかというものだ。
靖国神社の閣僚公式参拝なんて、麻薬の効果を見はからっての計算じゃないかな。大胆すぎるものね。反対派は、憲法に定められている信仰の自由の侵害だとか、あそこには戦犯も一緒に祀られているとか言っているけど、そんなことは実はどうでもいいのであって、理由のいかんを問わず、国家儀式の整備強化そのものを拒否すべきだと思う。 174-175頁
どうしたら「国家」の暴力を抑制することができるだろうか。
「もし政治家にあえて戦略を求めるとしたら、どんなことでしょう」と問われて、安部は答える。
当然すぎるけど、平和でしょう。現在の日本は平和と言えば平和だけど、いわば、戦争の一形態としての平和だからね。平和を単なる理念としてでなく、はっきりした政治戦略として示してほしい。国益を盾にして、戦争もまた平和の一形態だなんてすぐに言いだしかねない連中なんだ。これは世界中の政治家にたいする注文でもあるけどね。 95頁
しかし、そんなことが可能だろうか。人間の政治能力によっては国家を超えるものをつくりだすことはできないのかもしれない。
国家のなかに巣食っている不信の構造に光を当ててみたい。良い国家や悪い国家ではなく、国家の存在自体を疑ってみるべき事態がきたようだ。国家だけにはなぜ暴力が許されるのか、尋ねてみるときがきたようである。国家の主権を超えた司法権の装置は絶対に不可能なのだろうか。現状ではとても見込みなどありそうにない。司法権が有効に力を発揮できるためには、犯人の武装解除が出来るだけの暴力の裏付けがなければ駄目だろう。もともと自分を超えるものを許容できないのが国家の本質である。人間の政治能力の限界に行き着いてしまったのだろうか。 38頁
安部がこう語って30年以上が経ったが、「現状ではとても見込みなどありそうにない」。国家の存在自体を疑うなどという発想のかけらもない人間ばかりが権力の座についてゐる。
アメリカが一番強い国家であり、アメリカの大統領が世界一の権力者だ。なぜならアメリカが一番の経済力を持ってをり、その経済力で世界一の軍事力を維持してゐるからだ。
「犯人の武装解除が出来るだけの暴力の裏付けがなければ駄目だろう」
やっぱり、そういうことになるのか。国家のエゴイズムを抑制するには、それを超える暴力の裏付けが必要なのか。
それではどのみち駄目だよね。
やはり、人間の政治能力の限界ということかもしれない。
国家のエゴイズムが最後には優先されるという現在の人間の思惟形態と世界システムでは、結局のところ、環境問題も、国際紛争も、解決できないということになりそうだ。
人類はもうダメなのかもね。