手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「新しい共同体の思想とは」内山節

新しい共同体の思想とは」内山節 農山漁村文化協会 2021

普遍を求めた結果

近代ヨーロッパの思想は「普遍思想」である。誰もが納得できる、どこにでも適応できる思想があるはずだという考えかたが根本にある。フランス革命の「自由・平等・友愛」がそう、政治的には議会制民主主義がそう、そして経済的には資本主義が普遍的なものとして世界にひろがった。

もっとも普遍的(グローバル)なものはお金だ。どんなにモノにも、文化的、風土的、自然的、歴史的なものが付着してゐるが、そのすべてがお金という完全に透明で抽象的なものと交換される。普遍を追求する時代というのは、お金が最大の権力になる時代ということだ。

でもお金は虚構だ。日銀が印刷した紙切れを、国が支え、みんなも貨幣だと思いなし、そのことにより、虚構であるのに実体があるかのように機能してゐる。ただ実体に対して虚構としてのお金で値段をつけるというだけならまだいい。しかしいまはお金のほうが権力をもってそれが世の中を牛耳ってゐる。虚構社会のようだ。

 虚構が世界を支配しているがゆえに問題が起きる、そういう時代にだんだんなってきているのです。虚構が世界を支配した一番の原因は、普遍を求めたことにあると僕は思っています。普遍を求めた結果として、結局お金という虚構が世界を支配するという構造になり、実体が世界を支配するというかたちではなくなってしまった。そうするとその虚構が崩れていったときに果たして何が起こるのか? これからも虚構を維持できるのか? こういう時代にいまきているので、これから何が起きるのか、まったく私たちはわかりません。そういうふうにしか言いようがないということなのです。 26頁

一体的な生きかた

日本の社会は「強い共同体権力」と「中央権力」とのせめぎ合いのなかに展開した。卑弥呼の時代は地域豪族たちの時代で、6世紀頃に律令制が出てきて統一国家の形成がはじまる。しかし大和朝廷の勢力も近畿を中心にした列島の一部分にすぎなかった。勢力が拡大しても、荘園制という地域領主による代行支配のシステムが行われた。

中世に入ると地域共同体が自分で武装して、農民武士団の時代となる。江戸時代に入ると徳川幕府は農民から武器を取り上げ、武士を城下町に集め、武士と農民を分離させた。その結果、各地で城下町が形成され、武士がゐなくなった農村では百姓による惣村自治が確立した。

日本は共同体権力が強いのである。

明治になると、「国民」と「国家」が形成されて、歴史上はじめて共同体的世界に終止符が打たれた。民衆が社会を支配する時代が終わり、国民が統一的な国家のもとに一元管理される時代がはじまった。そうして150年ほどやってきたが、統一国家というシステムが壁にぶつかり、ひとびとはいま、共同体的な生きかたへと回帰をはじめてゐる。

近代社会は生きていくための要素をひとつひとつバラバラにした状態で成立してゐる。労働は労働、暮らしは暮らし、地域は地域、経済は経済・・・。これらが独立して存在し、そのうち経済だけが肥大化してしまい、暴走し、他の要素を壊してしまった。

伝統社会の共同体的な生きかたというのは、これらの要素が相互性をもち、一体として成立してゐて、どこかだけを切り取ることができないようなありかたである。労働とか暮らしとか文化とか自然とか、そういう諸要素が一体的に展開される世界。これが、虚構ではない、安心して生きていける世界ではないだろうか。

 経済だけが暴走して結果的にはお金によって支配される。虚構に支配されて私たちが生きる。ところが、その虚構がいま維持できるかどうか怪しくなってきた、というのがいまですから、やはりもう一度ちゃんとした実体に戻ることが必要でしょう。そうするとやはり、「相互性をもっていろんな要素が展開していたあのかたちを現代的に再構築することは不可能なのだろうか」という問いが必要になるという気がします。また、そういうことがあるから、いままた共同体なものに関心をもつ人たちがふえてきたという気がする。 52-53頁

華厳経の教え

日本社会にもっとも深く根付いた外来の思想は仏教である。とくに大乗仏教は世界でもいちばんといっていいくらい日本に定着した。

仏教は「私達が見てゐる現象にはすべて実体がない」という立場をとる。自分という実体もない。大乗仏教はこれをおしすすめて、「自分の本質というのは関係性である。自分というものがあらかじめあるわけではなく、自分というのは自分がもっている関係の総和だ」という視点をもった。

現象ではなくて関係のほうに本質がある。でも関係は実体的にとらえることができないので、自分も世界も「空」であるということになる。あらゆる関係が重なりあって自分達の生きる世界が存在してゐる。

この世界観をよくあらわしてゐる経典に「華厳経」がある。

華厳経の本尊は廬舎那仏だ。廬舎那仏は真理を知ってゐる仏であり、また真理が廬舎那仏でもある。宇宙の真理すべてが廬舎那仏というかたちをとったということになってゐる。華厳経では廬舎那仏に教えを乞うても最初から最後まで何もいわない。なぜなら、真理は関係しかないから「空」。「空」であるから語れない。

華厳経で重要なのは「一即一切」という考えかた。一とすべては同じだということだ。これは自然とともに生きてゐる人ならわかる。自然の全体系が一本の稲のなかにあるとう感覚。

(・・・)人間もまた単体であると考えるのが間違いであって、自分もまたあらゆるものと、わからないだけで関係を結んでいる。だから奥のほうでは僕と他の人はつながっている、それどころか全然見も知らないような人たちや生き物、石ころともつながっていて、最後は宇宙の果てまでつながっている。そういう関係的世界こそがこの宇宙だ。その関係的世界のなかにひとつのホコリのようなもののなかに全宇宙の真理が隠されている。 79-80頁

悲しさを引き受ける

どこの国でも政治は劣化してゐる。だから批判したり批判的な行動をとって社会を変えていく必要がある。「批判」についての感覚も、欧米思想と日本思想では異なる。

欧米思想は「正しい意見を提起して、社会を批判し、行動して変えていく。それが世の中をよくする。だから批判や行動は大事だ」という立場をとる。

他方、日本的世界の本質は「空」であるから、批判なんかしてもしょうがない、そのままで放っておけばいいというような感覚がある。けれども現実の世界にはさまざまな問題があり、それに対して批判したり行動しないといけない。これは矛盾だ。

日本において対決したり批判することはこの矛盾を引き受けることである。日本思想は明るい未来をつくるために対決や批判が必要だとは思ってゐない。本当は要らないのに、やるざるをえないからやる。それは悲しいことだ。

 つまり、「社会と対決していくのは悲しい行動である。本当だったら空とか悟りの世界で生きていればよい。だけれど、そんなことを言っては済まない問題を私たちの世界はいっぱい引き起こしていて、それを引き受けざるをえない。それは本当は悲しきこと、でもその悲しさから私たちは逃げない。それを引き受ける」というのが仏教的な対決理論です。「私は正しいことを知っているから、そこで頑張って批判する」という論法ではなく、「こんなこと本当はやらなくてもいいはずだけれど、現実の世界を生きている以上はこの問題から逃げるわけにはいかない」という、まさに悲しさも引き受けるという論法を日本の思想はとる。 148頁