手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「資本主義を乗りこえる」内山節

資本主義を乗りこえる」内山節 農山漁村文化協会 2021

資本主義の矛盾

資本主義以前の経済は労働の連鎖によって成立してゐた。農民が作物をつくり、それを仲買商が別の場所に届け、職人が料理をして、人の口に入る。労働があり、連鎖があり、それが結果として経済活動を成立させてゐた。資本主義のメカニズムはこれと異なり、出発点は労働ではなく貨幣である。貨幣をどのようにして増殖させるか、資本主義はこの極めてシンプルなメカニズムにもとづく。

課題は貨幣の増殖であり、その手段として資本の拡大再生産を目指す。貨幣の増殖に失敗すると市場から退出させられる。資本主義の原理には倫理感や人間性は存在しない。ただそれが貨幣の増殖に資する場合にのみ称讃される。

資本主義の原理が社会全体を覆うようになると、悪質な経営や投機目的の投資がはびこり、結果として労働者の賃金が下がり、健康状態も悪化し、市場は縮小する。また拝金主義がひろがり、それが社会を荒廃させてしまう。

そこへ資本主義に対抗する思想や勢力が出てくる。労働組合や市民の活動が悪質な経営を批判し、その圧力によって国が規制を強め、倫理的企業人の登場が待望される。このような反資本主義的な動きが資本主義の退廃に歯止めをかける。しかし、それがまた資本主義の延命に力を貸すことになる。

 資本主義は、資本主義をすすめる側、批判する側、どっちの側にとっても非常に矛盾のある仕組みになっています。資本主義の側としては、いま言ったような労働運動や環境規則みたいな困った動きが発生して、資本主義が原理どおりにうまくできないと、そのことによってむしろ健全に経済発展をするという一面がある。反対に資本主義に批判的な側からすると、資本主義を批判していろいろな運動や規則を実現させていくと、かえって資本主義が延命していくという一面がある。だから、社会主義的なものを支持する人がたくさんいて、資本主義をいろいろと批判したり、あるいは「資本主義を倒すんだ、次は社会主義だ」というように真っ向対決していくと、そっちのほうが資本主義にとっては結果的には延命になるという一面をもっているのです。 59-60頁

新しい思想家・ケインズ

ケインズ経済学は一般的に「国による有効需要の管理」を説いたといわれてゐる。不況になったら国は公共事業を増やして需要を創出し、失業者を吸収して、不況があまり進行しないようにする。逆に好況期には財政を減らして金利を上げて、経済が過熱しないようにする。こういうのがケインズ政策であると。

けれども、これだけだとケインズ思想を正確に受け取ったとはいえない。ケインズは、資本主義は「要はカネを増やせばいいんでしょう」というものであり、貨幣愛の社会をつくってしまい、それが社会を破壊するといってゐる。だから拝金主義の社会にしないために、投機的活動(株や債券やビットコインなど)ができるだけ儲からないようにしなくてはならないのだ。

 そのためにやれることは限界があるのだけれど、国の政策として可能なことは、貨幣価値の安定を図らなければいけないというのがケインズの意見でした。貨幣価値の安定ということは、インフレもなければデフレもないということです。投機活動が一番儲かるのは貨幣価値が変動するときだからです。 64頁

ケインズは資本主義の支持者だった。すべてのものを貨幣量で計算する経済だから合理的で効率がよい。それが大事だと考えた。「資本主義以上に優れた経済システムを私はみたことがない」とまでいってゐる。他方で、「それは貨幣愛の社会をつくって、いつか自ら滅んでいく。だからそれに対して国に手を打て」ともいう。

要するに「理想の社会はできない、社会にはいつも矛盾がある」というのがケインズの思想だ。完璧な社会・理想的な世界は出現しないから、矛盾を少なくして、健全さを少しでもいいから大きくするほかないのだという穏当な経済学を提示した。これはヨーロッパの思想の伝統を考えると新しい発想だ。

なぜなら、ヨーロッパの発想の根底には「最終的には矛盾のない素晴らしい社会をつくる」というのがあったからだ。これはキリスト教的といってもよい。もしも神の教えを皆がしっかり守って生きる社会ができれば、みんな幸せになれる天国みたいな社会ができるという考え方だ。その延長に、例えば社会主義というものがあった。

 いまの哲学の流れも、そういう点ではケインズ的です。「理想の王国ができる」という発想ではなくて、「いつの時代も矛盾だらけだ」という方向にきている。自然と人間の関係をみても矛盾がある。理想の自然なんてない。「ありがたいな」と思っていたらひどいことをしてくれるのが自然なのです。そういうものとともに生きてきたから人間たちは知恵を使ってきた。共同体もそうで、理想の共同体はありません。共同体もいろんな問題を抱えているのです、ただ、問題を自分たちで解決してきたのが共同体で、そこが共同体のすごい力なのです。いまみたいに「行政に駆け込んでなんとかしてもらおう」という社会のほうが力がない。こういう点でも、今日では、すべてのものに矛盾があって、そのことを前提にしながら、でも矛盾を自分たちで解決できるという社会をつくろうと、むしろ現代ではそういうふうに考える人がふえている。 106頁

日本の利他と大乗仏教

6世紀ごろに日本に大乗仏教が入ってきた。大乗仏教は、中国にも朝鮮にも伝わったが、一番定着したのは日本だった。

大乗仏教は出家仏教ではなく在家仏教である。在家の人達が悟りを開いて成仏し、あるいは菩薩になることを目指す、民衆のための仏教である。自分が出家して自分が解脱して菩薩になることを考える上座部仏教とは異なり、大乗仏教は、自分の修行がみなのためになる。自分の修行が自分のためではなく、すべてのためになっていく。それを追求する。

それが日本にストンと入ったのは、おそらくもともとあった日本的なものの見方や考え方に大乗仏教が合致したからだ。「我々は単体ではなくて、つながり合って生きてゐる」という認識が大乗仏教のいちばん底のところにある。この感覚が、おそらく古代日本から今にいたるまで日本人の意識を規定してゐる。「我々はいろんなものとつながって生きてゐる」という生命感がある。自然ともつながりながら生きてゐる、人間どうしもつながりながら生きてゐる。

 つながり合う世界のほうに本質をみてきたという古代からの日本の発想があったために、「祈祷すれば出世する」式の、自分の利益だけの宗教や呪術は定着しなくて、むしろ排斥されて、全体の利益のほうを重視する仏教ができあがってきた。ですから、大乗仏教の基本的な考え方もむしろ日本でよく定着した。そういう歴史をもっているのです。

 戦後の日本はそういう考え方を痛めつけて、「自分のために行きましょう」という時代をつくりました。そこで洗脳された人もたくさんいます。でも、結局、個人の利益の社会には移りきれなかった。そういうものが展開しはじめてわずか半世紀ぐらい経つと、もうそれに嫌気がさす人がたくさんでてきた。そしていま、若い人たちのなかからも、自分の利益だけ考えるのはイヤだ、個人の利益の追求とは違う生き方をしたいという人たちがでてきています。やはりここでも伝統回帰が発生しているのです。もしかすると、これからおもしろくなっていくかもしれないという気持ちを強くもっています。 102-103頁

これまでの常識が通用しない

さまざまな経済指標が有効性を失いつつある。例えばGDP。経済成長が今年は何%だ、というときの基準として使われる概念だ。でもこれがすべての経済活動を反映してゐるかというとそうではない。農産物をつくって出荷すればGDPに計上されるが、それを誰かにあげればGDPにならない。

メルカリなどを使って自分の家の不用品を販売する。ここでモノが動き、お金も動いてゐる。けれども、これもまたGDPとして計上されない。でもそれも経済だ。こういうGDPに換算できない経済、把握できない経済がふえてきてゐる。

為替もそうだ。円高とか円安とかいうもの。昔はあるていど貿易収支で決ってゐた。つまり日本がアメリカに100億ドル輸出して、80億ドル輸入したとすると、20億ドル輸出超過になる。すると20%分の不均衡が修正されるまで円高がすすみ、やがて均衡を回復する。こういうふうに考えられてきた。

しかし、いまのお金の動きは輸出入のような実態とは完全にかけ離れてゐる。金融市場において、実態をはるかに超える投機的なお金がゆきかい、それで為替が動いてしまって、貿易収支が赤字/黒字だからという話はまったく通用しない。

要するに、これまでの経済指標をもちだしても、実際のところいまの経済はどうなってゐるかを認識することができないのだ。

かつては経済成長すると労働力不足になるから賃金が上がり、その結果として格差が解消するというのが法則だった。でもいまは世界的に、経済成長すると格差が拡大してゐる。統計的にもそうなってゐる。これもはじめてのことで、実際のところ、これを説明できる理論がない。

 この間の日銀の政策のように、伝統的な金融政策とかあるいは国の財政政策とかがもう通用しなくなっている。いまの金融緩和も、目標はインフレづくりにありました。簡単に言えば、インフレを起こして物価を倍にすれば、日本の国債は半分になっちゃいますから。ところが、これだけ金融緩和をしてもインフレにならない。全然効果がなくなったということです。公共事業もそうで、国が公共事業をふやしても経済浮揚策にならないというのも、これも10年ぐらい前から言われているのに、依然としてやっている。そのために東京などは道路工事が多くなって、夜は走りにくくてしょうがないのですけれど、だけももう実際はなんの効果もない。こんなふうにお金を無駄遣いしているのがいまの状況です。

 つまりいままでの基準でみていたものが片っ端から通用しなくなっている、そういう時代なのです。資本主義なりの統制とか支援ができなくなってきたわけで、やっぱり資本主義もそろそろ終焉の方向に向かっているということでしょう。 123-124頁