手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

江戸川カタック社(普請中)

舞踊教室の準備をしてゐる。

固定した場所と時間で継続して指導するためには様々な条件が整ってゐる必要がある。その条件が整うのはまだ先になりそう。

けれど構想を練ることは出来る。なぜなんのためにカタックを学ぶのか、それによって何を目指すのか、全体のビジョンについて。

あれこれ考えてゐるとき、ある友人が「カタックに関心を持ってゐる、思いついたのだけれど、あなたの最初の生徒になれたら面白い」と言った。

ニュアンスとしては、とりあえずちょっとやってみたい、という程度のものだ。踊るタイプのひとと思ってゐなかったので嬉しい驚きだった。

わたしからしても、軽くワークショップのようなものが出来ればこれほどありがたい機会はない。経験として、実績として、はじめのステップとして、まさに渡りに船のような話だ。

その友人はふたつ前の職場の同僚である。もうひとり交際が続いてゐる元同僚にも聲をかけた。久しぶりに飯でも、ついでに軽くダンスでも。

来ることになった。旧交を温めるついでにワークショップをというわけ。気軽なのがいい。ビールが飲みたい。

とはいえ構想は真剣なものである。本格的なものを提供したい。気軽に参加出来て、楽しく踊る。でも背後には高い理念とこころざしがある。そういう「場」にしたい。

以下、教室の構想を示します。

ホームページをつくる予定だけれどまだそこまで行けてゐない。メモ段階のものを、ワークショップの前に友人に見せるためと、静かなる読者にこんなことを考えてゐますよと報告するために、開陳します。

では、どうぞ。

名前

舞踊教室の名は「江戸川カタック社(Edo-River Kathak Association)」とする。

主宰者のわたしが江戸川沿いに住んでゐること。地域性をあらわす土地の名前を入れたかったこと。江戸という言葉は響きがいいし、外国人にも馴染みがあるはずなので、「江戸川」を頭に置いた。

「カタック」は教室で学ぶ伝統舞踊の名前です。ふつうはこのあとに「教室」とか「ダンススクール」などが来るはずだけれど、わたしは古風な「社」を置いて風情を出すとともに、教室の趣旨に関わる本質的な意味を象徴させることにした。

ここで「社」は株式会社の略称ではない。「社」は由来「やしろ」と訓じ、土地の神を祀ること、または祠(ほこら)を意味した(つまり「神社」の「社」)。それが転じて集団を意味するようになった字だ。

伝統舞踊は一般にそのような性格をもつが、インド舞踊はことにスピリチュアルなダンスである。踊りは神への捧げものであり、踊ることで霊的な次元への回路を開く。踊り手の身体は宇宙的秩序を象徴的にかたちづくる。

カタックを学ぶ教室には、神を祀ること、またその場を意味する「社」がふさわしいと考えました。

というわけで「江戸川カタック社(Edo-River Kathak Association)」です。

趣意

インド古典舞踊カタックの訓練を通じた霊的充実の探求。

Pursue spiritual well-being through training of Indian classical dance Kathak.

江戸川カタック社は、インドの伝統舞踊カタックを学ぶことを通じて霊的充実(spiritual well-being)を探求します。

わたしたちは日本舞踊ではなく、バレエではなく、ジャズではなく、ヒップホップではなく、北インドの伝統舞踊であるカタックを踊ります。

とすると理念は「カタックだからこそ」のものでないといけないでしょう。それがわたしの考えでは霊的充実(spiritual well-being)の探求なのです。

「日本人」のあなたが、なぜわざわざ「北インドの伝統舞踊」である「カタック」を学ぶのか。

以下の項目がその理由をあきらかにするでしょう。

あなたも踊れる、カタック

カタックは素晴らしいダンスです。

美しく、優雅で、敷居は低く、奥行きは深い。年齢も性別も気にせず、いつでもだれでも始められる、そして尽きせぬ魅力がある。

どんなビジュアルのダンスか、まづ映像で見て知っていただきましょう。気合を入れてすべて見る必要はありません。「ピンとこない」でも構いません。ただ全体の雰囲気がわかってもらえればよいのです。

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ひとつめの女性はわたしの先生で、ふたつめの男性はいま生きてゐるダンサーではおそらく最も有名で評価が高いひとです。現代カタックの最高峰がこんな感じというのを見ていただくために貼り付けました。

次に、実際に練習ではどういうことをやってゐるかを見ていただきましょう。

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このくらいだと出来る気がしませんか。かたちを真似するくらいまではいけそうぢゃないですか。そうなんです。出来るんです。

カタックはもの凄い柔軟性や筋力が必要なダンスではありません。また肥えてゐても痩せてゐてもいい。だから年齢を重ねてからでも全然始められるダンスです。

子供の教育によいのは言うまでもありません。身体を強くし、美意識を育て、情操を養います。脳力と集中力の鍛錬にも大きな効果がある。いいことづくめです。

あなたが誰であれ、どの程度のコミットであれ、人生の一時期カタックを習うことは、素晴らしい経験となるでしょう。

ですので、カタックをやってみましょう。

江戸川カタック社は、年齢・性別・国籍等、あらゆる属性不問で、あなたの参加をお待ちしていゐます。

インド舞踊の特徴

カタックは北インドの伝統舞踊です。

そこで、まづインドの伝統舞踊全体に共通する特徴を述べ、次に「北」インド発祥であることから来る個性を紹介することで、カタックの魅力を語りたいと思います。

インドの伝統舞踊すべてに共通してゐるのは、当然すぎる話ですが、インド神話と密接に関係があることです。

インド人は神様が好きです。いたるところに神様の造形と意匠があり、毎日どこかでお祭りをしてゐる。古代からの神々がこれほど活き活きと「現役」な地域は珍しいでしょう。

それはおそらくインド人の「いま見えてゐる世界が本当ではないかもしれない」「すべては幻影かもしれない」という直感、および「時間は必ずしも直線的に進むのではなく、ぐるぐる廻ってゐるのだ」という循環的時間感覚に関係がある。

彼らは近代化を進めてゐるとはいえ、古層と呼ばれるような時間をも同時に生きてゐるのだと思います。だから伝統舞踊が盛んで層が厚い。

神話にはインド人の世界観が凝縮されてゐます。神話を主題にした踊りを踊ると、彼らの霊性とつながる気がします。そして自分の霊性が開いていく感覚があります。

ひどく新鮮であると同時に、どこか懐かしい感覚もある。

それはきっと、インドが産んだ仏教が日本に唯一根付いた外来の宗教だからでしょう。日本仏教には1500年の歴史があり、仏教的世界観は血肉化してゐます。深いところでつながりがあるわけです。

だからインド舞踊を学ぶことは、彼らの世界観を学ぶことであると同時に、自分たちの伝統を顧み、自分たちの霊性を育てる契機となりうるのです。

カタックの特徴

次に「北」インドの舞踊がもつ個性について述べます。

インドには公的に認められた伝統舞踊が八つあります(そういうものを認定する機関があるのです)。うち北インドに由来するのはカタックだけです。

北インドで生まれた」とはどういうことか。ちょっと脇道から入ってみましょうか。

みなさんは仏像がお好きでしょう。柔和な表情と丸みを帯びた肉体をもつあの仏像です。仏像があのような造形をもつのは、紀元前後から5世紀頃に栄えたガンダーラ美術と呼ばれる様式の影響によります。

ガンダーラインド亜大陸北西部の地名です。アレクサンドロス大王がインドにまで侵入したことでギリシャ・ローマの彫刻技法が流入し、仏教美術と結びつくことで、ガンダーラ美術は生まれました。異なる文化が交じり合うことで新しい美が誕生した。

ガンダーラ美術から1000年、同じことがもっと巨大な規模で起こりました。

8世紀頃からイスラム勢力のインド侵攻が始まり、16世紀に成立したムガル帝国の成立によってその支配は決定的なものになりました。ムガル帝国は300年続き、最盛期にはインド亜大陸のほぼ全域を治めました。

数百年にわたり、中央アジアや西方ペルシアからひとと文化が流入し続けたのです。この間、インドとイスラムの文化が深く交わることで、様々な習合的な文化が生まれました。

例えば、ヒンドゥー教イスラム教を融合させたシク教が登場しました。北インドの言葉にペルシャ語アラビア語が入ってウルドゥー語が出来ました。

そして、アートの世界ではインド・イスラム美術が誕生した。

タージ・マハル 完全な左右対称、曲線と直線の見事な調和。

ムガルの宴 踊る少年たちの所作にカタックの面影。

タージ・マハルに代表される建築、宮廷絵画として発達した細密画が代表です。そしてカタックはまさに、このような習合藝術のひとつなのです。当時の北インドの舞踊が侵略者たちのそれに影響を受けることで、カタックは生まれました。

カタックのカタックたるゆえん、カタックの唯一性と普遍性はここにあります。中世インド、東西の建築家や画家が交流していた時代、舞踊家もまた影響を与え合い、新しいダンスを生み出してゐた。

もちろん映像技術がありませんから実際にどんな動きをしてゐたのかはわかりません。ただ現在に直接つながる起源がムガル帝国時代にあるというのは諸家一致した意見です。

イスラム唯一神アッラーへの絶対帰依と偶像崇拝の禁止を特徴とします。偶像、すなわち具体的な事物を描いてはいけないので、抽象的な線の美が発達しました。空間を細かく分割した幾何学模様や、植物の蔓や葉を図案化した装飾によって、神の荘厳を示します。

カタックはこのようなイスラム美術の特徴をもつに至りました。インド舞踊のなかでカタックだけが、モスクやコーランの装飾で目にするあの線の美をもってゐる。

舞踊は時間藝術でもありますから、カタックは時間にもまた精緻な設計をほどこします。タイルを蔓草模様の反復で埋め尽くすように、時間を細かく分割してリズムパタンを構築するのです。

イスラムの影響により高度に発達した抽象的な線の美と複雑なリズム構築、これがカタックをカタックたらしめてゐる二大要素であり、最大の魅力といえます

インドって「片足で何年も立ち続ける」みたいな修行をする聖者がゐますでしょう。神話系の表現を学んでゐると、そういういかにもインドな雰囲気に包まれます。またクリシュナ物語を主題にした作品からは愛嬌と遊び心を感じます。「かわいい」です。

他方で抽象舞踊をやってゐると、西方の乾いた風を感じる。アッラーだけが神である。アッラー以外はみな平等であるという圧倒的にクリアな世界観。偶像崇拝が禁止されてゐるがゆえの抽象度の高さ。これがなんとも清潔で気持ちいい。

カタックはこのようにインドとイスラム両方の美的世界を体験できる、豊穣で普遍的な、素晴らしいダンスです。

イスラムのカリグラフィー 神の言葉は美しい書体で書かれなくてはならない。

モスクのタイル 蔓草模様の反復が「無限」と「永遠」を象徴する。

以下、余談として

ここまで読んでいただければ、とりあえずダイジョーブです。

いちど教室に来て踊ってみて、その魅力をからだで感じていただきたく思います。踊ることは楽しいです。それがなにより大切です。それで充分です。

以下、余談として、その先のことをお話したいと思います。

というのは、「自分が楽しい」だけではなかなか続かないものだからです。モチベーションが保てなくなります。なぜこれをやってゐるんだろう、これでいいんだろうか、みたいな気持ちになり、教室に行くのがおっくうになる。

そこで情熱や使命感みたいなものが必要になります。そういうものがあって始めて主体的に取り組むことが出来るし、充実や喜びが感じられるものだと思います。

では情熱や使命感はどこから来るのか。自分のやってゐることが自分を越えた価値あるものにつながってゐる、参与してゐる、という感覚からです。

この感覚が持てると内側から力が湧き出てくるんですね。「よし、やろう」という。

以下、そういったことがらについて述べます。

江戸川カタック社の理念である「インド古典舞踊カタックの訓練を通じた霊的充実の探求」の「霊的充実の探求」についてです。

情熱や使命感が欲しいと思ったタイミングでお読みください。

霊性とはなにか

さて、霊性Spirituality)とはなんでしょうか。

ある有名なインド神話を材に定義してみたいと思います。

インドにクリシュナという神様がゐます。いちばん人気の神様です。ヒンドゥー教最大の聖典『バガヴァッド・ギーター』の実質的な主役であり、カタックにおいても最も重要な神様です。

幼児クリシュナの話、少年クリシュナの話、青年クリシュナの話。いろいろなクリシュナ神話があり、インドの子供たちは絵本やアニメーションでそれを覚えます。いたづら好きで、どんな悪魔も簡単にやっつけ、小指で山を持ち上げ、そして助平な色男でもある。

幼児クリシュナのちいさなお話を紹介しましょう。

クリシュナは兄とその友人たちと一緒に果樹園の果物を採って遊んでゐた。小さなクリシュナは木に成った実に手が届かないので、地面の泥を丸めて口に入れてしまう。

仲間のひとりがクリシュナの母ヤショーダのところへ行き、クリシュナが泥を食べてゐることを伝える。ヤショーダは駆けつけてクリシュナに口を見せなさいと言う。

最初は嫌がってゐたクリシュナも、厳しく言われてついに口を開ける。ヤショーダがクリシュナの口を覗き込むとそこに宇宙が拡がってゐた。ヤショーダはクリシュナが神であることを知った。

実にチャーミングなお話です。

この神話は、「ひとりの人間は全宇宙と同じだけの深さと広さをもつ」「ひとりの人間は宇宙そのものである」ということを教えてゐます。

みなさんは同意してくれると思うのですが、これは真実ですね。まったく、ひとりの人間を知りつくすことはついに出来ない。

では、鏡の前に立って口を開けてみてください。そこに宇宙が見えるでしょうか。もちろん見えないわけです。舌やら歯やら、口腔と呼ばれるものが見えるだけです。

とすると「ひとりの人間は宇宙そのものである」というのは嘘なのでしょうか。そんなことはありません。どちらも正しい。「口を開くと宇宙がある」と、「口を開くと口腔がある」はどちらも正しい、いづれも真実です。

なにが違うかというと、次元が違う。前者は霊的な次元において真実であり、後者は世俗の次元において真実なのです。

ここで霊性スピリチュアリティという言葉を次にように定義しましょう。すなわち、「ひとりの人間は全宇宙と同じだけの深さと広さをもつ」「ひとりの人間は宇宙そのものである」ということを真実だと感じさせる感性。

そして霊的/スピリチュアルという言葉を、霊性を刺激、喚起、覚醒するものごとの性質及び状態と定義します。

世俗の次元とはふだん生活してゐるふつうの世界です。五感でものを感じ、言語で世界を文節し、論理でなにかを説明する。リンゴは木から落ち、落ちたリンゴが戾ることはありません。

対して霊的な次元では、口のなかに宇宙が見えることがあり、東京の井戸を降りたらモンゴルの砂漠に出ることがあり、死んだはずのひとともう一度逢えたりする。

ふたつの次元は重なり合って存在してゐます。わたしたちはふだん世俗の次元しか生きてゐないし、実際そうしなければふつうの生活が出来ないのでそれでよいわけです。

けれどそれに満足できなくなる時がある。ときどき不安になる。死んだらどうなるのか、自分はなぜ存在してゐるのか、何のために生きてゐるのか、といった問題は、世俗の次元では答えを得られないからです。

ひとは霊的次元とのつながりを欲してゐる。

江戸川カタック社は、霊的充実(spiritual well-being)を探求します。それは「ひとりの人間は全宇宙と同じだけの深さと広さをもつ」「ひとりの人間は宇宙そのものである」という感覚が持てるような生を目指すということです。

蔽いを取る(アンヴェイル/unveil)

わたしたちはふだん世俗の世界を生きてゐます。霊的次元も存在してゐますが、ふつうにしてゐると見えません。それをここで「蔽い(ヴェイル/veil)が掛かってゐる」と表現しましょう。通常の意識、言語、時間感覚の蔽いによって覆われてゐる。

霊的次元とつながるためには、クリシュナの口の中を覗くためには、「蔽いを取る(アンヴェイル/unveil)」必要があります。

あちら側の世界を覗いたり、あちら側の世界に行って戾る、あるいはなにかを招喚したり送り返したりする。そのための技が必要です。つまり蔽いを取る(アンヴェイル/unveil)技です。

広く宗教と呼ばれる現象がこの技の開発と保持を担ってきました。

神話は比喩によって世界の真実を描きます。神秘家は瞑想で意識を変成させて霊的次元に移行します。音楽は音の、造形藝術は形の美によって蔽いを取り、向こう側の世界を顕現させます。

舞踊もまたそのような技のひとつです。インド人は、いわゆる民族性というものでしょう、とにかく踊りが好きです。二千年前にすでに精緻な舞踊理論を完成させ、その理論に基づく伝統舞踊がいまに生きてゐる。驚くべきことです。

身体で形をつくり、空間に線を引き、視線でこれを拡張する。空間設計が時間とともに変化し、蓄積されます。時間は足につけた鈴のリズムによって分割されることで複数のパタンを生み、反復が多層性を、差異が力を生みます。

舞踊は形とリズムで蔽いを取る(アンヴェイル/unveil)のです。

インドではその技が紀元前の昔から蓄積され、洗練され、師から弟子へと口伝されてきました。現在は映像技術がふつうに使われますが、師弟関係が重要であることに変わりはありません。

師(グル)から知と藝を学び、それを次の世代に伝えることが弟子の仕事です。伝統舞踊を学ぶことは、連綿と続く師弟間の伝承の一部となることです。

個人の時間を越えた価値ある営みに参与してゐるという感覚は、ひとに静かな自信と落ち着きを与えます。江戸川カタック社は、カタックによるアンヴェイルの技の習得と伝承を目指します。

異文化と向き合うこと

わたしは生まれも育ちも日本の日本人です。あなたもたぶん日本人でしょう。

日本人にとってカタックは異国の文化です。カタックはインドの舞踊ですから、インド人の骨格や容姿に似合うように出来てゐます。日本人が着物を着るとサマになるのと同じです。

異国の文化を学んで、それもある程度真剣に続けてゐると、どれだけがんばっても彼らのようになれない、どうも自分は不格好だ、恥づかしい。といった気持ちに襲われるものです。それでやめてしまうひとも多い。

でもそこが出発点だと考えてほしいのです。というのは不格好を引き受けてはじめて掴むことが出来る契機があるからです。

まづ、インド人とは違った視座からカタックを見ることが出来ます。誰でも自分を客観視するのがいちばんむづかしい。インド人にとってカタックは自国の文化ですから、それを客観的にとらえるのは簡単ではありません。

けれどもわたしたち日本人にとってカタックは始めから客体なのですから、ふつうに学ぶことが客観的に見ることになるわけです。

例えば、わたしは先にカタックの特徴としてイスラムの影響を挙げましたが、あそこまで強調した書き方をするのはいまのインド人には出来ないと思います。

独立インドではイスラム勢力が西のパキスタンと東のバングラデシュに分離し、特に90年代以降はヒンドゥー至上主義が盛んです。この政治情勢がカタックの見方に影響しないわけがないからです。

一方、日本人にとってはヒンドゥーイスラムも同じように他者ですから、どちらに肩入れする必要もないわけです。

もうひとつ。異文化と対決してこそ、自他の特殊性も普遍性も、深く理解することが出来るでしょう。カタックは日本人にとっては他者です。やればやるほど異物感に苦しめられることになります。

でも、異物感を足場に「考える」ことが出来ます。異物と出会うことで、それを異物と感じる「自分」が見えてくるでしょう。また異物感にも関わらずそれに魅了されてゐる事実から、自他に共通するもの、すなわち「普遍」が見えてくるでしょう。

カタックを客観的に見ることも、異物感から特殊と普遍について考えることも、インド人には出来ないことです。江戸川カタック社はこのような観点から、カタック及び両国の文化に貢献したいと考えます。

日本人の信仰

ここまで何度か仏教という言葉が登場しました。

仏教は日本に唯一根づいた外来の宗教で、日本は仏教国で、多くの日本人は仏教徒です。仏教徒といっても、自分のアイデンティティになるほど熱心ではない。非常にうっすらした仏教徒ですね。

日本人同士では自分を無宗教だといい、外国で訊かれると仏教徒だと答える。寺や仏像に魅力を感じるが、仏典を読むわけではない。そのくらいの温度感。葬式仏教と揶揄されるほど世俗化してゐます。

土着の宗教として神道がありますが、これはいわばアニミズム的な自然観とでも呼ぶほかないもので、多くの日本人は自然と切り離されて生活してゐますから、農耕をベースにした神事も身体感覚としてピンとくるものではない。

新宗教はどれも人口が減ってゐます。オウム真理教が起こした事件が大きな傷跡を残したことが大きいですが、ここ数年は旧統一教会自民党との深い関係があきらかとなり、日本では依然として宗教そのものにネガティブなイメージが染みついてゐる。

そのことと、様々な国際調査が示す日本人の自己肯定感の低さや幸福度の低さは関係があるのではないでしょうか。わたしはそう思うのです。

日本人はあまりにも世俗の世界でだけ生きてゐる。超越的な世界とつながってゐないので、とにかく「いまここ」しかなく、失敗することを極端におそれてゐる。それで息苦しくて、生きづらいのではないでしょうか。

特定の宗教を信じるのとは別の仕方で、超越的なものを信じる感性、広い意味での信仰心をもつというあり方が考えられると思います。

その方法として、カタックを学ぶのはまったくふさわしい。

なにもヒンドゥー教徒になる必要はありません。というかヒンドゥー教徒というのはインドに生まれ育ったひとが勝手になるもので、なろうとしてなれるものではない。

わたしたちはうっすら仏教徒のままカタックを学んでよいのです。カタックは蔽いを取る(アンヴェイル/unveil)技です。ですから参禅するとか、教会で祈りを捧げるといった宗教的な営みのひとつとして考えることが可能です。

江戸川カタック社は、宗教が苦手なふつうの日本人が信仰心を育む方法のひとつとして、伝統舞踊の修練を提案します。

アジアへの回帰

近代以前、日本は中華帝国を中心とする華夷秩序の東端に自己を位置づけてゐました。朝鮮半島を経由して中国から、さらに西方から文化文物を輸入し、消化する。日本はずっとそういう国でした。

近代に入るとこのモデルが崩壊します。欧米列強がアジアの国々を侵略し始めた。中国が「遅れた国」になってしまいました。仰ぎ見てゐる場合ではない。

ここでアジア主義というものが興ります。アジア諸国と連帯して列強の抑圧を撥ね退けようという考えです。

発想自体はまったく正しく、そのような思想と運動は戦前にずっとあったわけですが、国家全体としては逆のことをすることになりました。

欧米列強を撃退するためには、自分たちも彼らのような国家をつくらねばならない。選択肢はありません。実際に大日本帝国はそうしたわけです。こちらの知識人や軍人を留学させ、あちらの知識人や軍人を招聘し、国民を教育しました。

欧米のような国になった日本に「アジアを下に見る感覚」が埋め込まれるのは当然のことでした。大日本帝国は近隣アジア諸国を侵略しました。膨張のすえにアメリカに戦争を仕掛け、敗れ、占領されました。

長い時間が経ちました。

問題は、アジアを下に見る感覚がわたしたちの中に残ってゐることです。本当に差別的なひとは少数です。しかし、意識されないようなナチュラルなアジア蔑視が日本人の根っこにある。

アジア蔑視は、敗戦後長く、あまりに長く放置されてきた宿題といえます。ここを解体せねばなりません。欧米主導の世界が終わりつつあるいまを生きるわたしたちの仕事です。

カタックはインドとイスラムが出会って生まれました。インドの意匠に中央アジアやペルシアの様式美が融合した舞踊です。

日本人が出会うはずだった、出会い損ねてきたアジアがそこにあります。

江戸川カタック社は、カタックを学ぶことを通じて、インドからはるかペルシアにまで旅をしたいと思う。そしてその活動を、日本のアジア回帰という大きな歴史的文脈の中に位置付けたいと考えます。

踊ること、創造すること

以上、江戸川カタック社の理念を凝縮して書き込みましたので、なかなか一度で理解できないところも多いと思います。

飽きたとき、もっと知りたいと思ったとき、いったい何の意味があるのかと感じたとき。さまざまな機会に読み返していただければと思います。

最後にもうひとつ、ちいさなお話を紹介して終わりにしましょう。

さきほどクリシュナのお話をしました。クリシュナはヴィシュヌ神の化身です。ヴィシュヌはインドの最高神です。

もうひとりインドにはたいへん有力な最高神がゐまして(最高神がたくさんゐるのがインドなのです)、シヴァといいます。シヴァは破壊神として知られてゐます。

ブラフマーが創造し、ヴィシュヌが維持し、シヴァが破壊する。これら三神が実はひとつなのだという理論付けがなされてゐます。三位一体説というやつです。

三位一体説とは別に、シヴァこそが世界を創造したのだという神話があります。インド舞踊にとってはこれが非常に重要な意味をもちます。

なぜなら、シヴァは「踊って」世界を創造したからなんです。

舞踊神ナタラージャ。世界はリズムで出来てゐる。

踊るシヴァ、舞踊神としてのシヴァは「ナタラージャ」という別名で呼ばれます。ナタ(नट)は踊り、ラージャ(राज)は王という意味です。踊りの王です。

ナタラージャは右足で無知の象徴である悪魔を踏みつけ、創造の音を象徴する太鼓を右手に持ち、破壊を象徴する炎を左手にかかげ、眉間にある第三の目で悪を滅ぼします。炎の輪は破壊と創造の循環を意味します。

ナタラージャは踊りながら、破壊し、創造する。

古代インドの舞踊家は踊りのさなかに高度の瞑想状態に入り、世界はリズムで出来てゐると悟った。それがナタラージャの神話に結実したのでしょう。

踊るとき、わたしたちはクリシュナになり、ナタラージャになります。ひとりの人間は全宇宙であり、あなたは踊ることによって、世界を破壊し、創造するのです。

これは世俗の次元では比喩にすぎません。しかし霊性の次元では真実です。舞踊はこのように自己を変容させ、世界を変革する。あなたが豊かになることが、世界が豊かになることです。

ここにおいて、「インド古典舞踊カタックの訓練を通じた霊的充実の探求」という文句の意味するところがあきらかになったと信じます。

カタックは素晴らしいダンスです。

江戸川カタック社は、年齢・性別・国籍等、あらゆる属性不問で、あなたの参加をお待ちしていゐます。