手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「ジプシー 歴史・社会・文化」水谷驍

ジプシー 歴史・社会・文化」水谷驍 2006 平凡社新書

カタックはフラメンコの起源である、あるいは、二つは共通の祖先をもつ、という説がある。☟のような動画を見ると実際よく似てゐる。

インドのジプシーがカタックの原型をつくった、あるいはカタックの影響を受けたダンスを有してゐた。彼らはやがて欧州へと移動してスペインのアンダルシア地方に定着し(ヒターノ)フラメンコをつくった。というのがこの説の大きなストーリーだ。

たとえば☟の記事などにそういう話が出てくる。

Exploring link between Kathak and Flamenco- The New Indian Express

https://dancersgroup.org/2014/09/kathak-flamenco-traditions-explored/

ぼくはこの種の起源説には基本的に懐疑的だ。人間は似てゐるものを見つけ出す能力が高く、似てゐるものを見つけ出したいという欲求も強い。

このフラメンコ・カタック起源説/同祖説についても、かねがね納得しかねる気持ちがあった。どうもジプシーという謎めいた存在を都合よく扱いすぎてゐるように思えたからだ。

それで「ジプシー 歴史・社会・文化」を読んだ。

水谷氏によれば、信頼のおけるジプシー研究が出て来るのは1970年代以降のことで、それまでに形成されたジプシー像、すなわち「青空と草原を愛する漂白/放浪の民」はおよそ科学的根拠のないものという。

 従来の定説は、彼らにはインドという共通の祖先があったとする。その可能性は否定できまい。だがこの説は、おもに言語学の分野の研究成果であって、歴史学民族誌学、社会人類学文化人類学によってはいまだ証明されていないことを忘れてはならない。有力ではあれ、ひとつの仮説にとどまっているのである。したがって「インド起源説」を当然の前提としてジプシー論を組み立てることには慎重でなければならない。

 現在の歴史学その他の到達点からすれば、彼らの歴史は十一世紀ごろ、バルカン半島で始まったと考えてよさそうである。ビザンツ帝国の衰退とオスマン勢力の進出という歴史的な激動の時代、多様な民族が入り混じって暮らすこの地に彼らは広く定住し、地域社会に深く統合されていった。中世末から近世はじめにかけて封建制から資本主義体制への移行過程にあったヨーロッパ中心部では、旧社会の解体から生じた大量の貧民・流民層のなかに彼らもいたようである。国民国家形成の過程で流民層を嫌った時の権力は、彼らに「ジプシー」とレッテルを貼って排除・排斥した。十九世紀に入ってジプシーはアメリカ大陸にも渡るようになって、その結果、今日にいたる世界的な分布の構造ができあがった。西ヨーロッパと北アメリカを中心とした新たな経済的機会の拡大が開いた「移民の世紀」の結果だった。 238頁

ジプシーが「インド出身の放浪の民」であるという「インド起源説」はいまだ仮説の域を出ないという。また、その説をとるにしても、彼らがインドを出発したのは11世紀以前なのだから、ムガル帝国よりだいぶん前である。したがってカタックがフラメンコの起源というのは無理があるように思う。ただ似てゐるだけではないだろうか。

この本にはジプシーが欧州で差別的な扱いを受けてきたことが詳しく書かれてゐる。ナチス・ドイツによるジェノサイドの犠牲になったことなど、まったく知らなかったからたいへん驚いた。

ジプシーという一つの名前があるからには、何か統一的な血脈とか文化があるように感じてしまうのだけれど、それがあるようでない、またないようであるというのがやっかいなところだ。

これも似てゐるものを見つけだし、一つの名付けを行い、その言葉によって現実を把握するという人間固有の認知の方法から起こる問題といえるかもしれない。

どうやら彼らは主流派からみた「その他」のような存在で、社会の外にゐる人達、排除された「あっち側」の人たちの総称というような意味が強いようだ。

そういう意味で、人間のなわばり意識と他者概念を知るうえでたいへん興味深い存在といえそうだ。