手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「インド美術」ヴィディヤ・デヘージア

インド美術」ヴィディヤ・デヘージア 著、宮治昭・平岡三保子 訳 岩波書店2002

自分で簡単な年表をつくり、地図を横において、ゆっくり読んだ。最高に面白かった。再読三読すべき名著だと思う。時間をおいて読み返したい。

さきほど投稿した「日米地位協定」には日本はひどい国だと書いたが、こういう本を簡単に母国語で読める日本の翻訳文化は本当に素晴らしいと思う。ありがたい。

ぼくはインド古典舞踊カタックを学んでゐるから主たる関心は舞踊史にある。しかし舞踊に関する書物は多くないし、そもそもぼくは「全体」というものに関心がある。文化の総体を把握したい。そして総体と個別的現象との関係を考えたい。

だから文学作品を読むし、思想・哲学の本も読む。いろいろな方向からアプローチしていくと少しづつ知識が積み上がり、そこから全体の姿が立ち上がってくる気がする。いまはまだぼんやりと遠くに望見されるような感じだけれど。

勉強の過程で、そういえばこの話は別の本でも読んだ気がする、あれとこれはこういうふうな連関があるのか、そういう気づきがある。それが楽しい。

 商業関係の部門でも、1から64までを倍加したり、16という数字を非常にうまく利用する複雑な十進法の類で加算していく、正確に等級づけられた石の分銅のセットが見られる。16という数字が後々まで重視されたことは興味深い。つまり1950年代にインド通貨が十進法化される以前には、1ルピーは16アナだったのだ。分銅や印章は国内商業においても、対外交易においても欠くことのできないものでった。 31頁

興味深い。カタックに、というかインド音楽に teentaal というのがあるが、これは16拍をひとかたまりとした単位のことで、taal の王と呼ばれてゐる。このあたり面白い。カタックのリズム構成とインド人の数感覚(=時間・空間をどのように分割、把握してゐるか)の関係について。

 ヒンドゥー教寺院を訪れる者の多くは、多種多様のおびただしい数の神像を見てとまどいを覚える。歴史的にヒンドゥー教は多くの神々を受け容れてきたものの、儀礼においてはいかなる場合でも、ただ一神のみにすべての神性を託して祈りが捧げられる。少なくとも礼拝の最中は、特定の一神のみが一切なのである。ヒンドゥー教徒が多くの神々の存在を認めるのは、彼らが複数の視点を許容しているからである。彼らにとって一神教は1つの道にすぎない。

(・・・)

 神というダイヤモンドの1面をシヴァとして讃えたからといって、ヴィシュヌ、クリシュナ、ガネーシャなどの他の面の価値を否定することにはならないのである。より古い伝承に根差した言葉を用いれば、神は「多のなかに存する一なるもの」と説明される。レンガも皿も花瓶も、それぞれ形は違うがすべて同じ土からなり立っているということである。同様に、インドには形姿を異にする神々がいる。ヒンドゥー教は究極的な実在の同一性を説きながら、同時にそれが多様な呼称や形をとることを受け容れるのである。 137-138頁

とても重要。よく一神教多神教が二項対立的に語られるが、両者は必ずしも排他的ではないんだ。

ぼくはこれまで厳格な一神教であるイスラーム教との対比、そしてインド神話のあの混沌としたさまが強く意識にあり、ヒンドゥー教一神教的な性質が見えてゐなかった。けれども最近は、ヒンドゥー教においても究極的な実在への志向性が相当強いことが理解できるようになった。

人間は一神教的なるものと多神教的なるものと、両方を欲してゐるのだろう。

ヒンドゥー教はそもそもが多神教的であったのが、それですまなくなって、一神教的な論理をうちに宿すようになった。イスラーム教の場合は前段にユダヤキリスト教があり、歴史的に新しいものであるため、はじめから高度に抽象化された一神教である。ヒンドゥー教における一神教的要素は、イスラームとの出会いによって、これに対抗するためにまた強くなった。

こんな感じかしら。よく知りませんけどね。