手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「力と交換様式」柄谷行人

力と交換様式柄谷行人 岩波書店 2022

政治的・観念的な上部構造は生産様式ではなく交換様式によって決定される。

交換様式には以下の四つがある。

A 互酬(贈与と返礼)

B 服従と保護(搾取と再分配)

C 商品交換(貨幣と商品)

D Aの高次元での回復

これら交換からそれぞれ異なる「力」が生じる。この力は物理的な力ではなく、観念的、あるいは霊的な力である。

交換様式A

贈与交換は強制的なものである。贈与されると、それが欲望や意志に反してゐても、返礼せねばならない。ここには霊的な力が働いてゐる。狩猟採集をしてゐた人々が定住に向かったとき、交換様式Aが生まれた。

遊動民がもってゐた「原遊動性」が定住によっていちど失われ、贈与交換を命じる霊としてあらわれた。霊が交換を命じる。

氏族社会やその拡大としての首長制社会は交換様式Aにもとづく。

(・・・)定住化とともに、小さな集団が多く結集するようになった。それとともに形成された共同体は、その内部での規律を必要とした。と同時に、他の共同体との交換を必要とした。そこに始まったのが交換様式A(贈与交換)である。これはたんに人々の合意や協力によってできたのではない。つまり、人々の「意識」によるものではない。もしそうであれば、交換は成り立たなかっただろう。それを成り立たせたのが、各人の意志を越えた「霊」の力である。 81頁

交換様式B

ホッブズが「リヴァイアサン(海の怪獣)」において、「恐怖に強要された契約」から生じる観念的な力としてとらえたように、国家もまた物理的に存在しない霊的な力をもつ。国家の力は交換様式Bにもとづく。

交換様式BはAの変形でありそれによって支えられる。Aの互酬性が水平的なものであるとするなら、それを垂直的な上下の関係にしたものがBである。服従すれば保護される、逆に、保護されるのでなければ服従しないという交換。

Bが確立するためにはAが制圧されねばならない。それをもたらしたのは人々の自発的な隷属である。

 国家の成立にとって必要なのは、奴隷ではなく、いわば ”自発的に服従する奴隷” つまり、臣民(subject)である。服従するものが自発的にそうするのは、それによって得をするからだ。いいかえれば、それは、支配することと自発的に服従すること、あるいは収奪されることと保護されることの「交換」である。そのとき、支配する側にも相手を保護する義務が生じる。そこに、交換様式Aとは異なるが、一種の互酬性(相互性)が存在することに注目すべきである。交換様式Bが確立されるのは、そのときである。 124-125頁

交換様式C

交換様式A、B、Cは相互にからまってゐる。Bが確立したからといってAが消えたわけではないし、BのあとにCが出来たのでもない。CはBと同じ時期に始まり、Cの根底にはAがある。というのは、A(贈与交換)によって「信用」が形成され、この信用に支えられてC(商品交換)が成立した。

またCの拡大=貨幣経済の発展はB=国家のそれと切り離せない。しかし重要なのは、貨幣の「力」は国家に由来しないということである。国家は貨幣が本物であることを保証する、それが貴金属であるならその含有量を保証するにすぎない。

貨幣に「力」を付与するのは、そこに付着した「何か」、つまり貨幣物神である。

マルクスは「資本論」で、物に憑いた霊が貨幣、資本へと発展し、社会総体を組織する歴史をえがいた。

 つまり、貨幣とは物に、一般的価値形態あるいは貨幣形態、つまり霊が「付着」した状態である。ゆえに、貨幣には、他の物と交換できる「力」がある。そのため、それは貨幣を得ようとする欲望をもたらす。それは何らかの使用価値への欲望とは異なる。いつでも物を手に入れることができる権利、すなわち観念的な「力」への欲望である。そして、これはたんなる物質的な欲望ではない。そのことを端的に示すのは、守銭奴(貨幣蓄蔵者)である。《貨幣蓄蔵者は、黄金物神のために自分の欲情を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実なのだ・・・・・勤勉、節約、そして貪欲が、彼の主徳をなし、多く売って少なく買うことが、彼の経済学のすべてをなす》(第一巻第一篇第三章、鈴木ほか訳)。 25頁

交換様式D

社会構成体は交換様式A、B、Cの結合体としてある。現在のバランスはCが支配的であり、CのもとでAとBが結合した状態である。しかし原初的なA(原遊動性)はBによって抑え込まれてをり、いまあるのはAの「低次元の回復」にすぎない。これがネーション(想像の共同体)である。

ヨーロッパにおける1848年の革命を通して、資本=ネーション=国家という構造が出現した。

 さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであって。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。

 このように、資本=ネーション=国家が出現するとともに、「資本の揚棄」という問題も、「国家の揚棄」という問題も、以前にもまして難しくなった。なぜなら、資本、ネーション、国家、すなわち交換様式C、A、Bが相互に助け合いつつ存続するからだ。したがって、それらを揚棄することを考えるとき、それらとは別の何かが不可欠となる。それがDにほかならない。 291-292頁

Aの「低次元の回復」=ネーションではなく、Aの「高次元の回復」が必要である。それがDなのだ。

Aの「高次元の回復」を通してBやCを超克しようとする動きは古代から存在した。普遍宗教がそれである。ここで普遍宗教は世界宗教と区別されねばならない。

世界宗教とは帝国を支える一神教であり、交換様式Bの極大化によって生じた。他方の普遍宗教は帝国の中心ではなく周辺部に登場した。イスラエル預言者ゾロアスター、イエスソクラテスブッダの言動にそれがあらわれてゐる。

彼らは「荒野に帰れ」という。これは原遊動性の回帰にほかならない。これが交換様式Dの到来である。

Dはいわゆる「宗教」とは異なる次元にあり、見たところ非宗教的な場合も少なくない。マルクスエンゲルス共産主義社会に交換様式Dの到来を見てゐた。

 Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンマルスクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 187-188頁

マルクスレーニン主義はBの力によってAにもとづく社会を実現することを企図した。が、この試みはソ連の崩壊によって失敗におわった。その結果、現在、議会制民主主義を通してBの力を制限しつつ同時にCを制御しようという考えが支持を集めてゐる。いわゆる社会民主主義である。

しかしCもBも人間の意志をこえた霊的な「力」をもつものであるから、人が制御できるものではない。人々は民主主義的な国家体制において自由になったと考えてゐるが、CやBの力に対して一層服従的になったにすぎない。

 では国家や資本を揚棄すること、すなわち、交換様式でいえばBやCを揚棄することはできないのだろうか。できない。というのは、揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだ。唯一可能なのは、Aにもとづく社会を形成することである。が、それはローカルにとどまる。BやCの力に抑えこまれ、広がることができないからだ。ゆえに、それを可能にするのは、高次元でのAの回復、すなわち、Dの力によってのみである。

(・・・)

 そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、”Aの高次元での回復” としてのDが必ず到来する、と。 396頁

 

 

・・・ホンマでっか!?