「日本史に学ぶマネーの論理」飯田泰之 PHP研究所 2019
貨幣理論について知りたかったのでドンピシャの本だった。たいへん勉強になりました。
どうでもいいけれど、飯田さんは「むつかしい」と書く。「むずかしい」でも「難しい」でもなく。いわゆる発音のゆれというやつで、「ムズカシイ」のほうが優勢だけれど、「ムツカシイ」も通用してゐる。大辞林によれば西日本で多いらしい。たしかに関西では「そら、むつかしな」などという。
由緒でいえば「ムツカシイ」のほうが古形であり、正統ということになる。岩波古語辞典には「むつかし」で記載があり、「むつかり(不愉快がる、子供が駄々をこねる)」と同根とある。「むつかし」が濁って「むづかし」が登場し、17世紀に「四つ仮名(ジ・ヂ/ズ・ヅ)」の区別が消滅し、濁音のほうは「づ」と「ず」の混同が生じた、ということかな。
でも「むつかしい」が生き残ってゐる以上、自然な類推では「ムズカシイ」を「むづかしい」と書きたくなりゃしませんか。しかし「現代仮名遣い」では「むづかしい」と書いたら間違いで、「むずかしい」と書かねばならない。どちらが正統かというと歴史的仮名遣いの「むづかしい」である。
「四つ仮名」はこのように語意識から由来や関連を推測できるものが多いので、線引きがむづかしい。だから「現代仮名遣い」の「ぢ」「づ」の扱いには例外がやたら多い。原則は「じ」「ず」と規定しながら、「かたづく」や「もとづく」はよいとする。けれども「むづかしい」はダメなのだ。
これはおかしいと思う。だからぼくは「四つ仮名」を使用する語に関してはすべて歴史的仮名遣いに戻すことにした。
本の内容について何も書いてゐないけれど、今日の脳みそ稼働はもう終了となったので、以下ノートをとってイヌの散歩に行くことにする🐶
物々交換の中から交換を劇的に容易にする道具としての(金属)貨幣が誕生し、のちにはより取引に便利な紙幣が発明される。また、現金の持ち運びという盗難・紛失の危険性のある手段にかわって為替送金制度や銀行制度が発展していくという考え方は納得しやすく、説明の便宜としては有用だろう。しかし、世界経済の歴史を振り返ると、このような単線的な発展段階論は考古学・歴史学的な根拠を持たない。これは我が国の貨幣史においても同様である。 67-68頁
考古学や文化人類学の成果を見る限り、経済学が暗黙の内に想定する「貨幣以前の世界での物々交換」は、けっして一般的なものではなかったようだ。文化人類学者のデヴィッド・グレーバー(David Graeber)は「数世紀にもわたって研究者たちは、この物々交換のおとぎの国を発見しようと努力してきたが、誰一人として成功しなかった」(『負債論』、酒井隆史他訳)と断じている。私たちが思い浮かべる物々交換は、貨幣による取引が当然のものとなった近代以降において「もし貨幣がなかったら、どのような取引が行われるようになるか」を夢想したものにすぎない。 87頁
負債を貨幣の原理とする考え方(貨幣負債説)と貨幣法制説を貨幣誕生に関する対立的な仮説として紹介する論考もあるが、全面的には賛同できない。両者を全くの別物とすることは適切ではないからだ。ほとんどの貨幣法制説は貨幣負債説の一ケースに分類できる。その理由は法定貨幣のもつある性質にある。
政府が法・権力によって定めた貨幣は「政府負債としての貨幣」という性質を持たざるを得ない。政府がある対象を「貨幣とする」ということは、銭であれ紙幣であれ、それを政府への支払い手段として認めるということだ。繰り返しになるが、政府への支払いクーポン券は政府にとっての負債である。 96-97頁
その気になれば借り入れできるーー負債をかかえることができるという状況は、それ自体が大きな価値を持つ。言い換えるならば、「将来稼ぐことができるであろう所得」について「他者の(金融機関等の債権者の)理解を得られる」ことは大きな資産であり、負債はこの目に見えない資産を現金化する行為であるとまとめることができよう。
一方で、貨幣の問題を考えるときに重要になるのは私企業の資産・負債ではなく、政府のそれである。政府の資産や負債、そして負債の限度額はどのようにして定められるのだろう。直接的にトチやその他の資産を持っていなくとも、政府には大きな資産がある。それが「徴税権」という資産だ。現在から将来にわたり民間経済から合法的に財物を徴収する権利・権力こそが政府最大の財産である。ここから、政府の借入限度額は今後得られるであろう税収の大きさに左右されることになる。 124頁