手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「日本精神分析」柄谷行人

「日本精神分析柄谷行人 講談社学術文庫 2007

夏目漱石の「行人」が読みたくなって図書館に行ったら新潮文庫の「行人」がちょうど貸出中のようで、それは残念だと思ってちょっと別の棚を見たら柄谷行人の「日本精神分析」が目に入り、なるほどこっちの「行人」でもいいかといい加減な気持で借りてきた。こういう選書もいいよね。柄谷行人の本は数冊読んだことがありいつも面白いと思いながらもどうもしっくりこない印象を持ってゐたが本書は夢中になって読めた。

第一章の「言語と国家」、第二章の「日本精神分析」が特にいい。前者は帝国から国家が独立するときの音声主義が生まれ、その音声主義から新しい文字言語(=国語)が形成されるという議論。後者は日本語表記の特徴である漢字仮名併用システムが日本人の自我をつくった、すなわち漢字と仮名は日本における外来思想と土着思想との関係に対応してゐるという話。

第一章の「言語と国家」より

(・・・)ギリシャにかぎらず、古代においても一つの国家が「帝国」から自立しようとするとき、自らの文字言語をもつ、そして、その時、音声中心主義的な考えがとられたのです。

 音声中心主義は、九世紀はじめの日本にもあります。それは中国から密教をもちこんだ空海において典型的です。彼は、マントラ真言)が音声的であることから、漢字よりも仮名がより真実に近いことを主張し、和歌を高く評価しました。さらに、アマテラス神をブッダと同一視し、天皇制を仏教によって基礎づけた。その背景には、漢字にもとづく中国的律令体制に対する批判があったのです。すると、日本における音声中心主義は空海真言仏教にあった、同時にまた、それが日本のナショナリズムの基礎になった、ということができます。 14-15頁

(・・・)たとえば、ラテン語や漢字、アラビア文字は、多数の部族・国家によって使用される文字言語、つまり「帝国」の言語です。帝国の特徴は、そのような普遍言語(文字)をもつことにあります。帝国の中で語られている言語は無数にあるわけですが、そのようなものは「言語」と見なされない。大事なのは、世界言語、あるいは普遍的言語です。その特徴は、基本的に音声から独立して外在することです。普遍的な超越的な概念は、多様な音声(言語)から独立している。そうでなければ、普遍的・超越的ではありえないのです。 22頁

(・・・)一般的にいって、ネーションは、旧来隔絶していた書き言葉と話し言葉を、新たな書き言葉(言文一致)によって綜合していく過程なしには成立しません。ナショナルな言語は、それが書き言葉(ラテン語や漢字など)からの翻訳によるということが忘れられ、直接的な感情や内面に発すると思われた時点で完成します。 24頁

第二章の「日本精神分析」より

 このように漢字を訓で読むことは何を意味するでしょうか。第一に、それは外来的な漢字を内面化することです。日本人は、もはや漢字を訓で読んでいるとは考えず、たんに日本語を漢字で表現すると考えている。(・・・)

 第二に、もっと重要なのは、漢字は日本語の内部に吸収されながら、同時につねに外部的なものにとどまっているということです。たとえば、漢字で書かれたものは、外来的で抽象的なものだと見なされます。そのことは、明治以後の日本の書き言葉において、より複雑になります。最初、西洋概念は漢字に翻訳されたのですが、同時に、カタカナで表記するという方法が用いられたのです。カタカナは仏典など漢文を読むための補助として用いられてきたので、外国語を表示するのに向いていたといえます。 76頁

 とにかく、三種の文字を使って語の出自を区別している集団は、日本のほかには存在しない。しかも、それが千年以上に及んでいるわけです。こうした特徴を無視すれば、文学はいうまでもなく、日本のあらゆる諸制度・思考を理解することはできないはずです。というも、諸制度・思考は、そうしてエクリチュール(書き言葉)によって可能だからです。先述したように、丸山真男は、日本にはいかなる外来思想も受け入れられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがないといいましたが、それは、このような文字使用の形態において顕著です。

 たとえば、漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わらないのです。外来的な観念は所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、恐れる必要はない。それらは本質的に内面化されることもなく、また、それに対する抵抗もない。不必要だとみなされれば、たんに脇に片づけられるだけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されることになる。 77-78頁