手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「漢文の話」吉川幸次郎

漢文の話吉川幸次郎 ちくま学芸文庫 2006

中国の文章語(文言)

論語」や「孟子」を読むことは「源氏物語」や「枕草子」を読むほどにはむつかしくない。なぜなら日本のいわゆる古文は当時における口語であるのに対し、中国のそれ、すなわち漢文は発生のはじめから知的に洗練された文章語だったからである。

 紀元前の文献である「論語」、あるいは「孟子」、それらはすでに当時の口語ではない。むろん口語と連関をもちつつも、口語そのままでない。当時の口語がすでにもったであろうところの煩雑さ、それを整理して、より簡潔な形の文章語として、凝集させたものである。そうしてその文法は、せいぜい簡潔な表現というものを、意識とする。 36-37頁

口語と文章語とが大きく乖離してゐることは漢字の性質からくる。漢字は表音文字と異なり、新しい言葉が生まれた時に、口から出る音そのままを写すように表記することができない。

 表意文字である漢字では、そうはゆかない。口頭の語としては発生し存在しても、それを表記すべき漢字が用意されないかぎり、その語は文章に現れない。現在の中国では、口語をそのまま表記する方法がほぼ完備し、そのためほぼ言文一致であるが、それでもなお表記すべき漢字が用意されていないために、文章に入らない語がいくばくかある。古代では一そう甚しく、多くの語が表記すべき漢字をもたぬものとして、ただ口頭にのみ浮遊していたと思われる。 68頁

 また中国語には、それをゆるす性質がある。すなわち、孤立語と呼ばれるように、一語一語、すなわち字に書けば一字一字が、他から独立し、完成したものとして、あることである。

(・・・)

 助字の省略は一例にすぎない。文の意味の中心でなく、不必要と意識された語は、どんどん省略しても、文を成し得る。しからば、口語はAxByであるのを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。 69頁

孔子以後

紀元前6世紀、孔子は未来永遠の人類のために五つの古典を編集した。これが「五経」である。易、書、詩、礼、春秋。五経は最古にして最高の古典であるが、文章としては別格に古いものであり、ふつうの漢文の知識では読むことができない。

孔子の後、秦の始皇帝にいたるまでの300年の間、すなわち戦国時代に、読みやすい文体が成立した。この文体が20世紀初頭までの中国の文章語の基礎となった。

 まずあるのは孔子の言行録、「論語」である。ついではおなじく儒家の書として、「孟子」である。また道家の書として、「老子」「荘子」、法家の書として、「管氏」「韓非子」、墨家の書として、「墨子」、兵家の書として、「孫氏」「呉氏」など。

 うちもっとも名文は、「論語」である。それを「孟子」「大学」「中庸」とあわせて「四書」と呼び、「五経」が旧約に当るのに対し、新訳の地位としたのは、十三世紀、宋の新儒学によってであり、それ以後は、読みやすい文体で書かれたこの四つが、難解な「五経」よりも、より多く必読の書と、中国でも日本でもなった。

(「孟子」について)文章はなはだすぐれる。同時の諸学派の文章を圧倒してすぐれる。次の漢の時代に至って、孔子のとなえた儒家の学説が、独占的な優位を占めるのは、その思想内容がもっとも人道的であったということのほかに、孔子自身の言行の記録がある「論語」の文章が、甚だ美しかったこと、また祖述者としても孟子のような名文家がいて、その文章が深く人を動かしたということが、看過されてはならないであろう。 98-99頁

春秋左氏伝

戦国時代には論語のような議論の文章のほかに、叙事の文章も発達した。うち最高の名文とされるのは「春秋左氏伝」三十巻、略して「左伝」である。著者は孔子の弟子左丘明とされる。五経のひとつ「春秋」の解釈として書かれ、その文章は簡潔、そしてリズム整頓への強い意識がある。文言は特別に美しい言語でなければなないという思想がみえる。

(「左伝」における孔子は言う)

 不言論 誰知其志、言之無文、行而不遠

 言わざれば、誰かその志を知らん。言の文無きは、行われて遠からず。

 

 言語表現があってこそ、心理はわかる。しかしながら、ただの言語であってはいけないのであって、文章としての整頓の要素をもたない言語は、遠くまでの普及力をもたない。

 つまりリズムをもった文語にして、はじめて普及力をもつのであり、それは素朴な口語とことなるという思想である。 144-145頁

史書の文章

叙事の文章は漢の大歴史家司馬遷の大著「史記」によって完成される。史記は当時の意識における世界の歴史として書かれた通史であり、人類文明の総括及び批判として書かれた。史記は帝王の伝記である「本紀」と、歴史の組成にあづかった人物の伝記である「列伝」とからなる。

このように個人の伝記のモンタージュによって歴史を叙述する方法を「紀伝体」と呼ぶ。対して時間の順序に従って歴史を語る方法を「編年体」と呼ぶ。

(・・・)早く「春秋」もしくは「左伝」が、すなわちこの体裁の歴史であるが、後代の著述としては、十一世紀北宋の名宰相司馬光、すなわち司馬温公の、「資治通鑑」が、卓越した名著である。紀元前の戦国から、著者直前の世紀である十世紀、唐末五代まで、千三百六十二年間の通史であり、「史記」、「漢書」以下の「正史」をはじめ、利用し得るかぎりの材料が、厳密きわまる検討を加えられて、この書に再生している。検討は、史実非史実の弁別に厳密なばかりではない。文章のすみずみにもおよび、材料とした「正史」その他の文章を、できるだけ利用しつつ、より明晰的確な文章に再生する。全二百九十四巻、そこに感ぜられるものは、人間の希望と運命とを、歴史に託して語ろうとする著者司馬光の、誠実である。 186-187

古文

孟子」のごとき古代の議論の文章はしばらく祖述されない。かわりに後漢から三国六朝、唐の前半、つまり七八世紀まで、全体が対句のみによって構成された極度の美文が流行する。四六駢儷体。

美文は心地良いが不自由である。ゆえに、やがて反動が生じる。

 反動は八世紀、唐の中頃におこる。方法は、古代の議論の文章の文体、ことに戦国諸氏のそれによって、みずからの議論を書くことであった。その最初の成功者が、八、九世紀、唐の韓愈である。その文体は、古代の文体の復活である点から、「古文」と呼ばれた。しかし実は四六駢儷の窮屈なリズムから解放されて、自由な表現を志すところの、より近代的な文体であり、文章であった。その内容となるのは、新しい思考と観察であった。 218頁

 是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。且欲與常馬等、不可得。安求其能千里也、

 是の馬や、千里の能有りと雖も、食ろうて飽かずんば、力足らず、才美外に見われず。且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず。安んぞ其の能く千里なるを求めんや。

 

 凡庸な文章家ならば、なお費やすであろう多くのことばが省かれつつ、論理は進展する。 221-222頁

 駢文の勢力が全く後退し、韓愈ふうの「古文」が、普遍的な文体となるのは、次の北宋の時代、十一世紀においてである。そうして以後約千年、つい今ごろ今世紀の初めまで、支配的な文体となり、ひいてはわが江戸時代の儒者の文体ともなる。

(・・・)

 北宋の「古文」は、まず欧陽脩を主唱者とし、欧陽脩の弟子である蘇軾、すなわち蘇東坡、またその父、蘇洵、その弟蘇轍、また蘇軾と政治的には立場を対立した王安石、みなこの文体の名手であって、唐の韓愈、柳宗元に、宋の欧陽脩、蘇洵、蘇轍、王安石および曽鞏をあわせて、「唐宋八家」と呼ぶ。その議論の文章には、中国の知識人の責任として、政治論が必ず含まれ、エネルギーのたくましさを示すが、今日のわれわれには、何くれとない日常の経験なり随想を、記した小文が、かえって興味深く読まれる。 225-226頁