手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「日本二千六百年史」大川周明

日本二千六百年史大川周明 毎日ワンズ 2017

大川周明は昔の凄い知識人のひとりだ。語学に堪能で、万巻の書を読破し、日本ではじめてコーランの全訳をしたひと。間違いなく破格の人物である。敗戦後には民間人としてただ一人、極東国際軍事裁判A級戦犯として起訴された。

「平和に対する罪」「人道に対する罪」を問われたのである。なぜなら大川は大東亜戦争の理論的指導者であったから。現在保守を自称する人達の歴史認識、すなわち安倍ー高市ー百田ラインの立場は、大川に代表される戦前の皇国思想が100年分劣化したものと思われる。

100年分劣化してもまだ権力の中枢にあるのは、大川思想を上書きする、日本と日本人を支え得るような歴史認識が登場してゐないからだ。理想をいえば、戦後民主主義とそれ以前の日本の歴史を接続する大きな物語が、そのダイナミズムが、大日本帝国イデオロギーを塗り替えるべきだった。

でもその試みはどこかの時点で挫折したかに見える。いや、いくらか成功し、またいくらか失敗したのだろう。などとぼんやりした書き方をするのは、よく分からないことをよく分からないながらに書いてゐるからである。政治思想史の勉強が必要である。

成功失敗いづれの見方をするにせよ、天皇制がその中核にあることは間違いない。象徴天皇制は特に現上皇の努力によってうまく機能してゐるようだ。他方で、天皇制が存続してゐる以上、劣化版大日本帝国もまた延命してしまうのではないかとも思う。

「日本二千六百年史」を読んで感じるのは、万世一系天皇家の物語を強調することで外来の思想を切り離し、純粋日本みたいなものを構築するのはどうしても無理があるということだ。大川の強記博覧が凄いので面白く読めるのだが、純粋素朴で善良勤勉な日本(天皇)/外来の思想文物という設定自体から生じる矛盾が気になる。

はやい話が天皇という概念だって中国の皇帝に対抗して作られたものだ。古代日本語を最初に書いたのは朝鮮からやって来た渡来人で、日本人が最初に読んだ書物は「論語」である。古事記日本書紀も漢字で書かれてゐる。そもそもが雑種なのだと考える方がただしいように思える。

雑種という言葉をつかったのは、本書を読んでゐる途中で加藤周一の「雑種文化論」を思い出したからだ。加藤の「日本文化の雑種性」というちいさな論文を中学生だったか高校生だったか、なんしか国語の授業で読んだ記憶がある。そして先生に勧められて「羊の歌」を読んだ。(「羊の歌」は素晴らしい)

加藤周一の雑種文化論を読み直そうと思った。そして加藤が天皇制について論じてゐる文章が読みたい。

だからいま、わたしは「加藤周一著作集」を読んでゐる。読書の秋。