手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「天皇とアメリカ」吉見俊哉、テッサ・モーリス-スズキ

天皇とアメリカ吉見俊哉、テッサ・モーリス-スズキ 集英社新書 2010

頭がぼんやりしてゐる。頭がぼんやりしてゐるのは昨夜寝つけなくて1時くらいに睡眠導入剤を飲んだからである。わたしはちょっと睡眠時間が足りないと活動できなくなり抑鬱的な気分に襲われる人間なので、寝つきが悪いと感じたらさっさと睡眠導入剤を飲むことにしてゐる。

なぜ昨夜寝付けなかったかというと、夜遅くに漱石の「明暗」が読みたくなって、ペラペラめくってゐるうちに興奮してきて、勢い余って水村美苗の「続明暗」に手を出し、清子が津田に「だつてあなたは最後のところで信用できない方なんですもの」と快心の一撃をお見舞いする場面を読んでしまったからである。

朝食はシャウエッセン2本とホットコーヒーにした。シャウエッセンはどんどん小さくなってをり、この調子ではいつかポークビッツくらいになるのかもしれない。コーヒーを飲んでもまだ頭がぼんやりしてゐる。ぼんやりした頭で、以下もくもくと筆写。

「日本」という自意識

吉見 そもそも「天皇」という呼称や日本という自意識が成立したのは七世紀半ばから八世紀にかけてだと考えられていますが、これは七世紀の東アジアに、「唐」というかつてないスーパーパワーが誕生したことと切り離せません。唐の帝国化は、朝鮮半島地政学に決定的な影響を及ぼし、この唐と結んだ新羅を強大化させていく一方、百済高句麗を弱体化させ、やがて滅亡させてしまいます。大和朝廷百済と非常に深い関係にありましたから、大化の改新のクーデターで蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は各地の豪族兵士を集め、朝廷の総力を挙げた大軍を朝鮮半島の白村江に送り込みますが、唐・新羅の連合軍に大敗してしまいます。

 この敗北が、やがて大和政権の根幹を揺るがす壬申の乱の原因にもなり、乱を経て成立した天武政権は、唐のアジア全域での覇権に強く影響されつつ、新羅に接近し、親新羅的な政策をとっていきます。「天皇」も、「日本」も、このような危機の時代に、中国の律令制度を新国家建設の根本に取り入れながら、しかし「唐」に完全に従属することからは距離を取るという二面性をもって成立してきた言葉だったように思われます。だから、「天皇」は、それまでの「スメラミコト」のような和風の王権名称からすればずっと中国風でよそよそしいのですが、しかし中国のように「皇帝」にはしなかった、というかできなかった。「スメラミコト/天皇/皇帝」のグラデーションが、「土着/大和/中華」の軸に対応している。39-40頁

天皇」の復活

吉見 今のテッサさんのお話と関連して非常に重要なのは、「天皇」の名称自体、幕末に至るまで、ほぼ九〇〇年にわたって使われてはいなかったという事実です。近世史家の藤田覚さんが『幕末の天皇』(講談社、一九九四年)で詳細に検討されていますが、それによると天皇、というか厳密には大和朝廷の王ですが、その王の死後に「天皇」の諡号追号がおくられる慣例は、九六七年に没した村上天皇を最後に途絶えます。それからの天皇は、「天皇」ではなく「院」と呼ばれるのが通例で、そうした意味では、中世、近世を通じ、後に概念化されるような意味での「天皇」は存在しなかったともいえるのですね。たとえば南北朝時代後醍醐天皇にしても、同時代の人々は彼を「天皇」とは呼んでおらず、あくまで「後醍醐院」でした。

 しかし、村上天皇から約八七〇年後、一八四〇年に没した光格天皇において、初めて古代の「天皇」が復活するのです。以来、仁孝天皇孝明天皇明治天皇大正天皇昭和天皇というように、「天皇」号は天皇その人と一体をなすようなかたちで使われていきます。特に一九二五年には、政府が過去の天皇についてもすべて「院」を拝して「天皇」にすることを決めますので、まさしくこうした近代的な復古と改変の結果として、「天皇」の呼称が古代から連続して続いていたかのような錯覚が成立していくのです。しかし、これは錯覚で、「天皇」は十九世紀半ばに意図的に復活されたものでした。

 「天皇」復活の第一号となる光格天皇は、近代の皇室儀礼の成立を考えるときに重要な人物で、傍系から一七七九年に皇位に就いて以来、上皇の期間も含めると一八四〇年までの六一年間の長期にわたり幕末の朝廷を仕切りました。大嘗祭の復活、京都御所の平安様式への回帰、石清水・加茂神社の祭礼の復活など、古代朝廷の多くの儀式やシンボルを復興したのが彼です。「天皇」の復活は、そのような幕末朝廷の古代回帰戦略の一環としてなされたわけです。 41-42頁

占領期の天皇

吉見 占領期の天皇をめぐる議論やイメージは大変複雑です。超越的な天皇から人間に変わっていったというかたちで、いつも話がおさまってしまいますが、そんな単純な話ではない。たとえば当時、天皇をめぐるスキャンダルな噂話とかゴシップというものも占領期には頻繁に出ていたし、週刊誌でも、昭和天皇のラディカルなパロディがあって、かなりの部数が売れていたりして驚きます。

テッサ とりわけ一九四八には、日本の主要な新聞・雑誌で「昭和天皇は退位すべきか」という議論が活発化します。新憲法ができ、東京裁判A級戦犯などに関する判決が出た時期に当たります。「退位すべきだ」とする主張がかなりありました。もちろん「退位すべきでない」というのもありましたけれど。 106頁

共和制という選択肢、想像力の欠如

テッサ もうひとつ不思議なのは、たとえば憲法改正論議のときに、そろそろ共和制にすべきだという提案があっていいはずなのに、それがマスレベルでは出てこなかった。外から見ていると、共和制の議論は当たり前に存在すべきですよね。ところがそれが全然ない。実際に共和制に移行するかどうかはまったく別問題なのです。しかし討論がないことは大変不健全だと感じました。

(・・・)

吉見 日本でも、戦後憲法ができるころにはそういう議論があった。でも、今はなくなってしまった。それはタブーだからとか、検閲があるからというよりは、この国では人々の想像力そのものが、もうそこまで及ばないのだろうという気がします。そして現在では、日本国民の約八割が、象徴天皇制が現在のまま続くことを望んでいるといいます。積極的に「天皇」に何か幻想をいだいているというよりも、特にネガティブな要素があるわけでもないので、天皇制は存続させるのが「自然」だろうという感覚だと思います。「安心・安全」の天皇制ですね。今では天皇は、積極的に求められているわけでも、積極的に拒否されているわけでもありません。むしろ日本人には、天皇制のない日本というものが、もはや想像することすらできなくなっているのではないでしょうか。

テッサ 日本では近代国民国家の創設時から、天皇が中心的な表象になっていて、天皇制がさほど重要ではなくなった現在でも、天皇制がないと不安を感じてしまうのででしょうか。「天皇アメリカ」という枠組みから出たら、日本人としてのアイデンティティが薄れてしまうと思っている。だから多くの人たちは積極的に天皇制を支持しているわけでもないのに廃止することには不安を感じる。

吉見 廃止してみたことがないから、みんな怖さを感じる。 217-219頁

最後に引用したふたりの会話は本質を突いてゐると思う。想像力の問題だ。「天皇アメリカ」という枠組から出てもいいし、もう出ないといけないのだが、不安でしかたないから、「日米同盟は不変の原則(by 安倍晋三)」などと言って戦後レジームにしがみついてゐる。不変の原則ぢゃないんだ。