手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「加藤周一著作集8」

加藤周一著作集8加藤周一 平凡社 1979

理想主義がないということと、現状を現状であるからという理由で容認するのとは同じことである。

天皇制を論ず 1946年

敗戦の翌年に書かれた文章。加藤は27歳とまだ若い。天皇制を速やかにやめねばならないと論じてゐる。

 我々は決して忘れてはならない、日本的とは封建的と云うことに他ならず、日本の一切を代表したあの貧しい農民の存在は正に明治維新が予定し、実行した第一のプログラムであったと云うことを。そしてそれは絶対王政を中心としてのみ可能であり、資本主義社会の民主主義化を永久に妨げる封建主義をあのように強固に保存するためには天皇制が必要であり、天皇制のみが必要であったということを。嘗て中世宇宙の中心には地球があった如く、封建的農村の中心には最大の地主天皇があり軍国主義者の中心には大元帥陛下天皇があった。

 そしてこの封建的性格とそれに由来する軍国主義的傾向とこそは、日本資本主義の好戦的二大特徴に他ならない。天皇制が地主制度を保障し、地主制度が貧農と低賃金労働者とをつくり、それが日本の資本主義を急激に膨張させ、その膨張が植民地獲得戦争の本質そのものであったとすれば、天皇制は戦争の原因でなくて一体何であるか。 98頁

天皇制について 1957年

日本人の宗教意識と天皇制との関係を論じる。天皇制とは「陰鬱な、社会的虚構」であるとする。

 日本の宗門史には、天草の乱を除いてめだった殉教の例がなかった。おそらく殉教の理由が少かったからであろう。超越的な彼岸思想を通じて、人間的価値を絶対化することは、神道の仕事ではなかった。人間の理性も、自由も、生命さえも、それ自身絶対的な、究極の価値としては意識されなかった。そこではすべてが相対的であり、要するに感覚にしたがい、便宜と慣習によって決定され得るはずのものであった。そういう感覚的・実際的な心理的傾向は、儒教がその綿密な論理によってすべてのものの相対性を理論化した時に、日本の意識の根底となったのである。天皇制は宗教としてではなく、宗教にかわる一種の微妙な代用品として、そういう意識に受け入れられた。

(・・・)自明といえば自明だが、天皇制とはとにかく権力の支配機構だということである。明治以来の天皇と国民は直接に向き合っていたのではなく、巨大な権力機構を通して間接に相対していたのである。勿論、その他にも、意識の上で考慮すべき条件はいくつかある。中でも制度や社会の構造、したがってまた経済的条件と関連して、もっとも重要な条件は、すでにいわゆる法社会学者によって度々指摘されてきたように、日本の社会の人間関係が横に浅く、縦に深いということ、またそのために起る「縦の意識の構造」に特徴があるということである。そのことから、たとえば、先祖・家長・天皇に対する感情相互の間に密接に関連があるだろうと想像される。 132-133頁

 しかし、当面の問題は戦争責任ではなく、戦争責任と関連して議論されてきた天皇の傀儡性である。その程度を知ることはむつかしいであろうが、先にもふれたように、ある程度までの傀儡性は多くの史料と証言から判断して、殆ど定説といってよいのではないかと思われる。神格化され絶対化された天皇は、けっして独裁者ではなかった。天皇を主体にしていえば、その個人的な判断、意志、意志の実行は、大いに制限され、一定の枠の中で動いていたということになる。その枠は、戦前には軍国主義的権力支配機構の枠に他ならず、天皇はその機構の一部分であり、その権力の道具であった。その国民への働きかけは、軍国主義とその支配機構を通し、天皇自身の感情、判断、意志にかかわらず、その機構の線に沿っての働きかけであった。天皇の言葉は、天皇の言葉ではなく、天皇天皇という役割を演じていたということになる。 136頁

 私は島原の乱を除いて日本の歴史には殉教の事例がめだたないといった。たとえ正真正銘の宗教についてもだ。まして天皇については、その「人間宣言」を殆どすべての人々が当り前の事実として受け入れたのである。しかしはじめから信じていなかったのだとはいえないということを、私はすでに強調した。信じてはいた。しかし何時でも信じるのをやめることができるように、つまり、舞台で演じるように信じていたのである。実体は現人神だけではなく、忠良なる臣民にもなかった。実体があったのは、無名の権力支配機構そのものだけであろう。それが天皇制というものであり、世界にも類例のない大がかりで、陰鬱な、社会的虚構であった。 138-139頁

調査(1956年)の結果、加藤の予想通り、家族の延長として国を表象し、天皇を家長模型として理解する考え方が国民のあいだに広くゆきわたってゐることが分かった。2023年ならどういう結果になるだろう。わたしが知らないだけでそういう調査はあるのかしら。

関係ないが、最近興味深いなと思うのは、秋篠宮家に対する「税金ドロボー」的な批判がいちぶから強くあがってゐることだ。だったら天皇制廃止を訴えればいいのになぜそうせこい批判に乗っかるのかと思うが、国が貧しくなるとはこういうことなのだろう。

後継者不足とか税金ドロボー批判のような消極的な理由によって天皇制が消滅するとすれば、非常にかなしいことである。廃止するなら、やはり身分制度(人権意識)や権力構造への問題意識からなされるべきであろう。

天皇について 1975年 原文は英語

権力への権威づけのために天皇は存在してゐる。それこそが核心であると論じる。

 もし天皇裕仁が今日何ものかの象徴でありうるとすれば、それは政治的支配権力の象徴である。この点では過去も現在も違いはないのである。今日まで何世紀にもわたって世襲天皇が政府に正統性を与える権威として作用してきた。実際の政治権力は、別の人間が握っていたのである。摂政、大臣、将軍、内閣などであり、時にはエスタブリッシュメントの定かならぬ一群の人々であった。決定は下でくだされ、上がそれを権威づけたのだ。この形式の長い伝統が、天皇象徴制の核心である。

(・・・)

 かくして住民環境が破壊され、有力な野党が成熟せぬままに、三井・三菱の支配はつづき、自民党単独支配は不朽のものとなってゆく。天皇裕仁が象徴する制度は、日本社会のあらゆるレヴェルで作用しているし、これからもたぶん作用しつづけるだろう。したがって、この戦後の島国帝国に真の人権と議会制民主主義を確立するためには、まず第一にこの制度を正確に理解し、第二に、集団的責任制度もしくは無責任制度と有効にとり組むことが重大な課題となる。 388-389頁

風向きの変化と日本の現実主義 1958年

日本には理想主義がない。ということは現実主義もないということである。

 敗戦後日本の政治には、理想がないといわれてきた。しかし実は現実主義もなかった。その二つのことには関係があるだろうか。あるだろうと私は思う。

 

 理想主義がないということと、現状を現状であるからという理由で容認するのとは同じことである。別の言葉でいえば、未来への特定の方向がないということだが、未来への方向がなければ、過去のなかに特定の方向を見出すこともできない。すなわち過去は方向性をもった歴史的発展としてではなく、偶然的な事実の連続としてしかあらわれようがない。

 私は今この点を詳しく立ち入らないが、何らかの理想主義なしには長い眼でみた歴史的発展の方向を見定めることができないという点は、重要である。事実戦後日本の政治的責任者の多くは、何等の見透しもなしに政策の立案に従ってきたようにみえる。一方では実際の政策立案の仕事そのものが、短い眼でものを考える必要を絶えず生み出し、彼らのものの考え方は、いよいよ大局を離れていったのだ。

 しかし個別的な事実または政策が、現実的な意味をもつのは、他の事実や政策との関係においてであり、究極的には全体との関係においてである。ものの考え方が大局を離れるということと、現実を離れるということとは等しい。その結果国の外交政策は、国の利益を追求するという目的から、外れる他はないだろう。

 擬似現実主義は、理想主義を拝する。しかし理想主義を拝すれば歴史的な見透しを失い、歴史的な見透しを失えば、個々の事実の現実的な意味を失う。遂に右往左往しながら現実主義そのものを離れるということになるのだ。 170ー171頁 改行を追加した

「個別的な事実または政策が、現実的な意味をもつのは、他の事実や政策との関係においてであり、究極的には全体との関係においてである。」まさに。

岸田政権に至って見透しのなさも極まれりという感じだ。過去最高の税収があったところで、いかなる理想も、全体感覚も、見透しもないのだから、なんの課題も解決できはしない。

国民はそのことの気づいてゐて、だからこれだけ支持率が低いのだろうけれど、といって国民の側にも理想主義がなく、したがって野党が育たず、自民党単独支配は不朽のものとなってゆく・・・では困る。