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「ヒンドゥー教の聖典二篇 ギータ・ゴーヴィンダ デーヴィー・マーハートミャ」

ヒンドゥー教の聖典二篇 ギータ・ゴーヴィンダ デーヴィー・マーハートミャ

小倉泰、横地優子 訳注 平凡社 2000

「ギータ・ゴーヴィンダ」クリシュナとラーダーの性愛が絶頂に達する場面。

ギータ・ゴーヴィンダ

解説から引く。

 牛飼いの乙女ラーダーとヴィシュヌ神の化身であるクリシュナの恋物語『ギータ・ゴーヴィンダ』は、十二世紀の東インドの詩人ジャヤデーヴァによるサンスクリット文学史の最後を飾る叙情詩である。恋人の自分をおいて他の牛飼い女たちと戯れるクリシュナに嫉妬し思い悩むラーダーは、親しい女友達に心のうちを綿々と語るが、女友達のとりなしで、やがてクリシュナの心もラーダーのもとに帰り、両者は再び結ばれる、という比較的単純な筋立てが、豊かな自然描写を背景に、劇的に謡われている。詩人は、この単純な内容から、サンスクリット語の可能性を極限まで追求したともいえる技巧によって独特の世界を創造し、不朽の名声を残した。

南インドを知る事典からも。

 ジャヤデーヴァ(12世紀)作のサンスクリット恋愛抒情詩。〈牛飼いの歌〉の意。12章から成り、牛飼いクリシュナとして化身したヴィシュヌ神と牧女ラーダーとの官能的恋愛を主題として、劇的要素も含まれているが、その背後に神と人間との関係を暗示するものとして、神秘的意義が説かれている。各種の韻律を用い、頭韻、脚韻などの修辞的技巧を駆使しつつ、熱烈なヴュシュヌ神崇拝の思想を高揚している。(・・・)この詩には各章ごとに音楽用語のターラ(拍子)とラーガ(旋律)の名が明示され、作者の音楽的知識をうかがわせるものがある。

各章ごとに音楽用語のターラ(拍子)とラーガ(旋律)の名が明示されてゐるので、そもそも目で(それも外国人が翻訳で)読むのではなく、サンスクリット語で謡い、聴くことを想定して書かれたものと言える。

サンスクリット語での朗読を、サンスクリット語が堪能でインド神話に精通するひとが聴けば、「神と人間との関係」を暗示するものとしてその神秘的意義を感得できるのかもしれないが、わたしの場合はそうではない。性愛の描写が面白いなというのがいちばんの感想だ。

あんまり露骨なので笑ってしまった。クリシュナもラーダーもセックスのことばかり考えてゐる。おおきな胸とおおきな尻がたくさん出てくる。そして下唇。「第六の歌」から拾ってみようか。ラーダーがクリシュナと初めて結ばれたときのことを思い出してゐる。

若芽の褥(しとね)に横になったわたしの胸のうえに、あのひとは長いあいだ横たわっていた。わたしは、あのひとを抱きしめ口づけした。あのひともわたしを抱きしめ、下唇を飲んだ。

註によれば「下唇を飲む」「下唇から甘露を飲む」は接吻するという意味の定型表現なのだそうだ。「下唇」うんぬんという文句は全篇にわたって繰り返し登場する。インド人は下唇に特に官能をそそられるのだろうか。興味深い。

疲れて、わたしの目は閉じた。一面に毛が逆立ったあのひとの美しい頬。わたしのからだじゅうから汗が流れた。強い情欲に酔ったあのひとは、いそがしく動いた。

わたしはコーキラ鳥のように甘い声でささやいた。あのひとは性愛の学問をきわめたひと。わたしの髪はとけ、(髪に挿した)花はゆるんだ。豊かな胸にはあのひとの爪の痕がつけられた。

「性愛の学問」とは有名な「カーマ・スートラ」に説かれた性的技巧のことである。クリシュナは性愛の達人なのだ。

わたしの足の宝石(をつけた)足環が響いた。あのひとは、いろいろに愛してくれた。緩んだわたしの帯が響いた。あのひとは、わたしの髪をつかんで、口づけしてくれた。

註によれば、「いろいろに愛して」とは「さまざまな体位を用いた」という意味、「足環が響いた」のは下になった女性の足を男性が持ち上げるから、そして「帯が響いた」のは女性が男性の上になってゐることを暗示しているんだと。要は素晴らしいセックスをしたということですね。

ラーダーはクリシュナに自分だけを愛してほしいのだけれど、クリシュナは多情でよそのいろんな女達を悦ばせて楽しんでゐる。ラーダーは嫉妬する。最後にクリシュナが帰ってきて最高の交わりを行う。「ギータ・ゴーヴィンダ」はそういう話。

さて、そのクライマックスの性交の箇所を上に貼り付けておいた。

愛戯と混在した戦いにおいて、マーラの印を押された戦いにおいて、愛人に勝利しようと、(クリシュナの)美しいからだの上になった(ラーダー)によって、なにか無謀なことが、性急に企てられた。大地にような尻は動きを止め、蔦草のような腕は弛緩し、胸は震え、目は閉じられた。女性にとって、どうして(男性の)勇猛のラサが成就しようか?

性愛という戦いにおいて女は男に勝てないと書いてある。わたしはここを読んだとき、あれ、ということは女性は昇天できないという意味なのか、と思った。けれど註によればそうではなく、ここでラーダーはイッったらしい。戦いの勝敗は果てる果てないではなく主導権に関わるようだ。

ラーダーとクリシュナの愛の交わりは、しばしば戦闘の比喩を用いて描写されてきた。ここで性愛の喜びが高まり、ついに絶頂に達して果てたラーダーを、クリシュナに対する必勝の一撃を撃退され、戦において敗れ、果てた、として、「どうして女性が、男性のものである勇猛のラサを成就して、(愛の)戦に勝利することができようか、できない」という意味。

映画でときどき見るような、オレがワタシがと主導権を奪いあう、喧嘩のようなセックスということか。「なにか無謀なことが、性急に企てられた」って面白いな。「ギータ・ゴーヴィンダ」は中世インドにおいて、あるいは現代においても、本当に神への熱烈な愛を暗示する神秘的な作品として享受され得るのだろうか。わたしには好色文学である。

ところで、神秘とも好色とも関係のない、うれしい発見をわたしはした。

わずかに(花)開くジャスミンの蔓に揺れる花粉が芳香のヴェールを広げて森をかぐわせ、ケータキーの香りに満ちた風は、今、愛神の息のようにやってきて、(別離の者たちの)心を焼く。

ここにある「ケータキー(ketaki)」というのは「ケータカ」という樹の名前で、雨季に白色または黄白色の花をつけると註にある。その葉は女性が髪にさして恋人をさそうという。わたしはここであっと聲をあげた。

ヌータン先生の娘さんキタキ先生の名は Ketaki とつづる。この樹が由来ではなかろうか。これには感激した。なんでも読んでみるものである。偶然とも思えない、間違いないであろう。こんど訊いてみよう。☟をこないだ習った。いいぜ!

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デーヴィー・マーハートミャ

南アジアを知る事典には「デーヴィー・マーハートミャ」の項が立ってゐない。それほど有名でないということだろうか。わたしは二篇つづけて読み「デーヴィー・マーハートミャ」のほうがだんぜん面白かった。

上記のとおり「ギータ・ゴーヴィンダ」はあんまりスケベなので笑いながら読んだ。「デーヴィー・マーハートミャ」には崇高を感じた。解説を引く。

『デーヴィー・マーハートミャ』は、ヒンドゥー教の女神信仰の伝統の中でもっとも人気があり、また尊ばれている聖典である。題名は「女神のすばらしさ」を意味し、この聖典の読誦は、女神を称えその加護を祈る行為として、現在でもインド全域において広く行われている。またインドの宗教史の中では、シャクティ(世界に遍満するエネルギーを指す女性名詞)を最高原理として、その顕現である女神を最高神として提示することで、女神信仰をヒンドゥー教の大伝統の中に押し上げた画期的な作品であり、その後のヒンドゥー教の展開に大きな影響を及ぼしている。

(・・・)この作品では女性名詞で表されるシャクティという概念が最高原理とみなされ、ゆえにこのシャクティの顕現である大女神は、すべての神々を超える最高神として位置付けられる。この作品に現れる他のさまざまな女神たちや第十二章で語られる未来の女神たちもまた、このシャクティの示現であり、最高女神の分身である。

(・・・)この作品作成の直接的な目的の一つは、秋の女神の大祭で読誦されることにあった。この大祭は現在インドとネパールの各地で秋に(地域によっては春にも)催される九日間の女神の祭(ナワラートリ、ドゥルガープージャ―等と呼ばれる)、及び十日目のヴィジャヤー・ダシャミー(ダサイン、ダサラー等)に継承されていると思われ、現在でもこの祭の際には、しばしばこの作品の読誦が行われている。祭の起源は不明であるが、その源の一つは女神に水牛の犠牲を捧げる供儀であろう。

なるほど。この作品に興奮したのは、わたしのなかの女性崇拝みたいなものがそうさせたのかもしれない。わたしにはそういうところがある。ヌータン先生やキム・ヨナさんの優雅さ、気品、強さ、知性、柔かさ、その女性的なあらわれに、ひざまづきたい気がする。なぜか知らないがとにかくそうである。神がそのようにつくられたとしか。

ダサラーといったら先週書いた「ダシェラ」のことだ。「デーヴィー・マーハートミャ」という作品はこの本を借りて初めて知ったのだけれど、ちょうどこの作品が読誦される祭りの時期に読んだのだね。奇遇である。

以下、女神がアスラをコテンパンにやっつける場面。怒り、圧倒的な暴力と破壊、最高だ。こうでなくっちゃ。

彼女は神の敵の軍に猛然と襲いかかって、

大アスラたちを薙ぎ倒し、その軍勢を食らった。

[背に乗る]後衛と鉤棒使い(前衛)と兵士と鈴ともども象たちを、

片手でつかんで口の中に放り込んだ。

同様に、馬とともに騎兵を、御者とともに戦車を、

口の中に放り込み、惨たらしく歯で咀嚼した。

ある者は髪をつかみ、ある者は首をつかみ、

またある者を足で踏みつけ、別の者を胸で押し潰した。

さらにアスラたちの放った打ち物と強力な飛び道具を、

怒り狂って口でつかみ、歯で噛み砕いた。

強くたくましいアスラたちの軍をすべて

彼女は粉砕した、ある者は食らい、ある者は叩き潰して。

ある者は剣で打たれ、ある者は髑髏杖で叩かれ、

また尖った歯に襲われ、アスラたちは壊滅した。

以下は女神を最高原理とする世界の成り立ちを説明する箇所。たくさんの神々も、世界そのものも、最高原理が自己を展開したものである。「デーヴィー・マーハートミャ」における最高原理はシャクティという女性名詞。インドの一神/多神並存システム、面白い。

女神よ、帰依する者の苦しみを除く女、慈しみあれ。慈しみあれ、全世界の母よ。

慈しみあれ、全世界の支配者よ、全世界を守れ。女神よ、あなたは動・浮動のもの(全世界)の支配者。

大地という姿をとりながら、あなたは独りで世界の礎となる。

水という姿をとりながら、あなたはこの全世界を豊かにする、犯し難い精気の主よ。

あなたは無限の活力をひめた、ヴィシュヌのシャクティ、全世界の種子、至高の幻惑(マーヤー)

女神よ、[あなたは]この世界すべてを惑わせているが、心和らぐと、あなたこそ地上において解脱の因となる。

どのような知もすべてあなたの変異である、女神よ、どの世界のどのような女もすべて。

あなたは母として独りでこの世界を満たす。あなたにどんな讃歌が捧げられようか。[あなたは]称えられるものを越えた、究極の言葉なのに。

諸学や弁別力を灯火(あかり)とする諸教理や始原の言説(ヴェーダ)があるにもかかわらず、この全世界が

闇濃く垂れ込める我執の深淵の中で回り続けているのは、あなた以外の誰の仕業だろうか。

羅刹や猛毒の蛇がいるところ、仇敵や群盗がいるところ、

野火が広がるところ、大海のただなか、あなたはそこにいて世界を守る。

全世界の主宰者として、あなたは全世界を守る。全世界があなた自身であるゆえに、あなたは全世界を保持する。

このように、かの尊き女神は不易であるにもかかわらず、

繰り返し繰り返し生まれて世界を守護する、王よ。

彼女はこの全世界を惑わす。この全世界を産むのは彼女である。

彼女は乞われれば知識を、満足すれば繁栄を授ける。

このブラフマンの卵(全世界)は隅々まで彼女に遍満されている、王よ、

世界の終末の際には、大殺戮者(マハーマーリー)の姿をとるマハーカーリーに。

生まれることなく、永遠なるものとして、同じ彼女が時には大殺戮者、

時には創造となり、時にはあらゆる生類を維持する。

順境においては、家にいる幸福の女神(ラクシュミー)として人々に繁栄を授け、

逆境においては、同じ彼女が災厄の女神(アラクシュミー)として人々を破滅させる。

称えられ、花、香煙、粉香などを捧げて崇められると、

彼女は富と子孫と、正しい生き方についての幸せをもたらす思慮を授ける。