手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「名著誕生『コーラン』」ブルース・ローレンス

名著誕生『コーラン』」ブルース・ローレンス 訳:池内恵 ポプラ社 2008

「すべての徴には外面と内面があり、限界と可能性がある」ムハンマド

「解釈」の学。

時間が経つとコーランの時代のアラビア語が分からなくなる。だから解釈が必要となる。また、コーランの言葉は徴(しるし)である。徴だから解釈が必要である。解釈という営みは永遠につづく。

以下、第六代イマーム、ジャアファル・サーディク(702-765)を論じた第5章より。

 当時コーランのテキストはアラビア語で読むことができた。しかしジャアファルの時代までに、コーランの言語の大部分と日用のアラビア語とは隔たりが出ていた。解釈するとは、一面ではコーランアラビア語を日々のアラビア語に翻訳することであった。しかし単に翻訳することよりも、「徴の書」の各章と各章句、各テーマの文脈を理解することが大切であった。この第二の次元での解釈には、歴史を探ることが肝心である。(・・・)第三の次元ではさらに先に進む。言語と歴史を超越し、想像の世界や神話、直感の領域にまで踏み入って解釈は行われる。これをコーランへの隠喩的な取り組み、と呼ぶ者もいる。これは「徴の書」の神秘を体感するための、厳しく、人を寄せ付けない道のりである。

 しかしこの第三の道、すなわち隠喩による道こそが、「高貴なるコーラン」に取り組む際に、最も創造的で、発展性がある。 94-95頁

面白い。すごく大事なことが書かれてゐる。神秘主義というものは解釈をどんどん深くしていくところに出てくるのだと。神の言葉、徴、解釈。解釈にはいくつかの段階がある。表面的な文字通りの意味を把握する解釈。歴史的文脈を調べる解釈。言葉の奥に深く沈んでゆく解釈。

以下、コーランの新しい隠喩的読解をもたらした神秘主義の哲学者、イブン・アラビー(1165-1240)を論じた第8章より。

 イブン・アラビーはコーランという大海の深層を掻い潜った。『智慧の壁龕(へきがん) フスース・アル・ヒカム』は彼の書物の中でも特に長く影響力を保っている。鑿で溝を薄く穿っていくように、あるいは球根の皮を剥がしていくように、各章を、一枚一枚理解し、イブン・アラビーの術語と語彙、入り組んだスタイルの細部を精査していって初めてその中心に到達できる。 128頁

 そしてわれら[神]はお前に繰り返し唱えるように七つの節と、偉大なコーランを授けた。(第15章「アル・ヒジュル」第87節)

 

 イブン・アラビーの大著『メッカ開示』はこの章句を縦横に解釈したのものだ。メッカへの巡礼の途上にいる時に、イブン・アラビーはあたかも啓示を受けるように、開眼した。このただ一つのコーラン章句から目くるめく洞察が導出されたが、その真実は一瞬の間に、一人の若者の姿としてイブン・アラビーに伝わったのである。イブン・アラビーが向かい合う間もなく若者は消えたが、その去り際にイブン・アラビーに告げていった。「私こそが読誦(すなわちコーラン)だ。読誦の七つの章句だ。」言い換えれば、その若者は神の使者だと主張したのである。「私こそがコーランの啓示の総体である。七つの繰り返し唱えられる、重複した章句が人格となったものだ」。 130頁

 真摯さと洞察と忍耐によって、イブン・アラビーがコーランの真理に取り組むその入り口に到達できる。彼のコーラン解釈では、さまざまなものの間に並行関係を見出していく。「憐れみ溢れ、情け深い」や「あなたの怒りを蒙る者」と「踏み迷う者」のように、対になっていたり重なりがあるように見える場合にも、単に同様の言葉や主題を並記しているのではない。伝承(ハディース)によれば「すべての徴には外面と内面があり、限界と可能性がある」と預言者ムハンマドは語ったそうである。目に見える世界に徴が溢れていても、人類という生き物が自らの被造物としての性質を認識し、創造者である神の属性の潜在的な似姿となれる存在であることに気づくまで、それは単なる徴で終わる。導きのともし火となりうる徴でさえも、ほのかな明かりにとどまるか、まったくの漆黒の闇にとどまってしまう。 133頁

イブン・アラビーの少し下の世代の神秘主義者にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207-1273)がゐる。「ペルシア語のコーラン」と呼ばれる「精神のマスナヴィー」を書いた人物。また旋回舞踊で有名なメヴレヴィー教団の創設者でもある。

ルーミーは人生の半ばで放浪の修道者(デルヴィーシュ)である師のシャムスッディーン・タブリーズィー(よく「シャムス」とのみ呼ばれる)と出会い神秘主義に開眼した。以下、第9章より。

 イブン・アラビーは「徴の書」の蔵する意味の層の無限の重なりに身をすくませたが、ルーミーは植物から惑星まで、そして太陽にまで至る自然界に生命を吹き込む神の魔術の虜となった。ルーミーにとって、師であるシャムスは太陽となった(この名前自体が「太陽」を意味する)。シャムスは神の恩寵を放射する。その光は至福だけでなく苦痛も照らし出すのだが。 141頁

 彼らの出会いの喜びは忘我の言葉を生み出すだけでなく、人間の力を横溢させた。閉じ籠もった学者を解放し、旋回するデルヴィーシュの輪舞の輪に投じたのである。もう一つの詩でルーミーは叫ぶ。

 

 スーフィーが踊る

 陽光の輪のきらめきのように

 夜更けから夜明けまで

 「これは悪魔の仕業だ」(第28章「物語」第15節)と彼らは言う

 たしかにその時、われらは甘美で喜びの悪魔と踊る

 悪魔もまた忘我に踊る

 

 わが胸のうちに湧き出る秘密、それが回るうちに

 「二つの世界」(第1章「開扉」第2節)も回る

 

 頭も足もない

 上も下もない

 すべては失われた

 この目くるめく旋回に

 

「目くるめく旋回」においてルーミーは言語の限界に挑戦し、内面の愛の動揺を表現する。動揺は、地上の太陽ーー聖なる太陽ーータブリーズィーの神秘の太陽からもたらされた。 142-143頁

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