手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「日本習合論」内田樹

日本習合論内田樹 ミシマ社 2020

6世紀に仏教が到来してすぐに神仏の共生が始まった。神社の中に寺院があり、寺院の中に神社がある。お寺に祝詞をあげる神官がゐて、神社にお経を唱える社僧がゐる。この神仏習合の伝統は1300年続いたが、慶応4年の「神仏分離令別当職を廃し、神社を寺院から分離し、神官を政府の神祇官の所属とすることを命じたもの)」によって途絶してしまった。

たった一つの政令で、1300年続いた伝統があっさり終ってしまうということがあるのだ。しかもそれに対する組織的抵抗がまったくと言っていいほど起きなかった。これは不思議なことだ。

明治政府が土着の宗教形態である神道を利用して国家神道を創造し、これを民衆に根づかせて「国民」をつくりたい。その意図はわかる。しかし、民衆のほうでなんの反撥もしなかったというのはかなり変だ。これは宗教史の世界でもあまり議論されてゐないらしい(本書では宗教学者島薗進さんの言葉が引かれてゐる)。

どうにも解せないというわけで、内田樹さんはファンタジックな仮説を提示する。

(抵抗らしいものがほとんど見られなかった)ということは、たぶん民衆レベルで廃仏毀釈は、自分たちの現実とは直接かかわらない、霊的次元での戦いだと思われていたからではないかと想像します。つまり、明治政府はこの宗教政策を、世俗権力による宗教運動の弾圧・統制ではなく、天皇という一神教的な霊的権威による、多神教的な偶像崇拝の霊的浄化というドラマに仕立てて遂行したということです。 98-99頁

(・・・)そして僕の考えでは、この「霊的浄化」は二つの段階を経由して果たされた。たぶん、そうだと思います。

 第一段階が「分離」、第二段階が「格付け」です。

 第一段階で神と仏、土着の信仰と外来の信仰が分離された。そして土着の神々が単離された。これが神仏分離です、これは理屈としてはわかります。そのあとに、しばらくしてから第二段階が行われた。土着の神々を格付けして、格付け低位の神々を厄介払いするというプロセスです。これが神社統合である、と。そういうふうに経時的に並べると意味が少しわかる。まず水と油を分離する。次に油を精製して、揮発性の高い石油と、純度の低いねばねばした瀝青に分離する。そういうイメージでいいかと思います。神社統合は「瀝青」をゴミとして捨てる工程だった、と。 102-103頁

廃仏毀釈に抵抗が起きなかったのは、日本人が神々の戦いにさして関心がなかったからだというわけだ。なるほどそうかも知れない。たしかに日本人は総じていいかげんで、どの宗教のどの神がどういう性格であるかなんてことには、強い関心を示さない。

多くの人がクリスマスを祝い、神社に初詣に行き、葬式は仏式でやるけれども、聖書や仏典を読む人はまれである。そうであるから、神と仏が一緒になろうが、逆にとつぜん分離しようが、天皇が神になろうが、アメリカが神になろうが、どうでもいいのかもしれない。

  つまり、超越的なものが「どこか」にあるということは受け入れる。でも、それがどういうかたちで表象されるかについては、あまり関心がない。「どういうかたちでも、別にいいです」と涼しい顔をしている。 108-109頁

これは今のぼくにぴったり当てはまる。

というのは、ぼくは最近、毎日「バガヴァッド・ギーター」と「コーラン」を少しづつ読んでゐる。「ギーター」では人間クリシュナは、最高にして不滅の存在である絶対者ブラフマンが人間のかたちをとって顕現したものだということになってゐる。「コーラン」ではアッラーが唯一絶対神で、アッラーの他に神はない。

これを同時に読んでゐると、ぼくは「ぢゃあ、ブラフマンアッラーが同じってことでよくない?」とか思っちゃうのだ。どちらも「我こそが唯一絶対である」と言ってゐて、どっちも正しいのだとしたら、それは両者が同一であるということになるんぢゃないの?

我ながらテキトーだと思う。「どういうかたちでも、別にいいです」という感じ。どちらもたいへん有難いものだと思って、真剣に読んでゐるつもりなんですけどね。