手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー」安丸良夫

神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈ー安丸良夫 岩波書店 1979

日本人の宗教生活。難問。

いま存在してゐる宗教的習俗や制度の多くが維新時に急ごしらえされた「つくられた伝統」であるにしても、これを全否定するわけにはいかない。いかにそこから国家神道的要素や大日本帝国的価値観を取り除く、あるいは薄めることができるか。

ここも結局のところ敗戦処理の失敗が放置されていまにいたるという話だ。端的にぼくたちは天皇に頼りすぎてゐる。右も左も、保守もリベラルも、天皇を利用できるなら利用したいと思ってゐる状況は不健全だ。

皇后雅子さんが心の病気に苦しんだことも、小室圭さん眞子さん夫妻が国粋主義者たちに粘着攻撃されてゐることも、気の毒でならない。

皇統を維持し、神事に則って国民の安寧を祈るにしても、もっと政治権力から離れたしづかな環境で為すというような制度をつくることはできないものか。

ノートをば。

国体イデオロギーの内面化

(・・・)神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象になったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。

 記紀神話延喜式神名帳に記された神々に、歴代の天皇南北朝の功臣などを加え、要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目ざされたことであった。 6-7頁 (改行を追加した 以下同)

神々の体系

 あらたに樹立されていった神々の体系は、水戸学や後期国学に由来する国体神学がつくりだしたもので、明治以前の大部分の日本人にとっては、思いもかけないような性格のものだった。伊勢信仰でさえ、江戸時代のそれは農業神としての外宮に重点があり、天照大神信仰も、民衆信仰の次元では、皇祖神崇拝としてのそれではなかった。

 だが、天皇の親権的絶対性を押しだすことで、近代民族国家形成の課題をになおうとする明治維新という社会変革のなかで、皇統と国家の功臣こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに反対することができなかった。

 当時の日本人の宗教意識に現実に可能であったことは、そうした神々への崇拝をできるだけ儀礼的な次元におしこめ、その代償として、そうした神々への崇拝に含意されていたはずのイデオロギー的内実を内面化し、国家意思の前にそれぞれの宗教の存在意義を証することだった。

 それは、近代日本の天皇制国家のための良民鍛冶の役割を各宗教がにない、その点での存在価値を国家意思の面前に競いあうことであった。

 この良民鍛冶の役割からすれば、仏教の反世俗性や来世主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服されねばならなかった。しかし、仏教よりもさらにきびしく抑圧されたり否定されたりされなければならないのは、民俗信仰であった。

 幕藩制下において民衆強化の実績をもつ仏教は、ほぼ明治三年末をさかいとして、国家の教化政策の側に組みいれられる方向にすすみ、民俗信仰への抑圧は、それ以後いっそうきびしくなっていったという全体状況の推移は、右のような事情によるものだった。 7-8頁

過剰同調的特質

 近代社会への転換にさいして、旧い生活様式や意識形態が改められ、民俗的な規模でのあらたな生活や意識の様式が成立してゆくのは、どの民俗にも見られる普遍史的な事実であり、それは、近代的な国家と社会の成立をその基底部からささえる過程である。

 だが、日本のばあい、近代的民族国家の形成過程は、人々の生活や意識の様式をとりわけ過剰同調型のものにつくりかえていったように思われる。神仏分離にはじまる近代日本の宗教史は、こうした編成替えの一環であり、そこに今日の私たちにまでつらなる精神史的な問題状況が露呈しているのではないだろうか。 9-10頁

(初詣、家屋新築の際の御祓い、明治三十三年の大正天皇の婚儀にさいして定められた神前結婚の様式などを挙げたうえで)

 これらの宗教的行為がふかい宗教性なしになされるのは、その由来からしても当然のことなのである。ふかい内省なしに、雑多な宗教的なものがほとんど習俗化して受容されている、といえよう。

 そして、ほとんど無自覚のうちにそのなかに住むことを強要してくる習俗的なものが圧倒的に優勢で、そこからはみだすとおちつかなくなり、ついにはほとんど神経症的な不安にさえとりつかれてしまうところに、私たちの社会の過剰同調的な特質があるのであろう。 10-11頁

祭祀による人心統合

 近世後期には、たとえば山片蟠桃のように、徹底した無神論を主張する思想家もいた。しかし、その蟠桃自身が、「大テイ人情奇怪を信ズルコトハ、ミナ凡俗ノ免ガレザル処ナランカ」としたように、鬼神の実在を信ずることの方がはるかに一般的であり、それが人々の「人情」であった(子安宣邦宣長と篤胤の世界』)。

 このことを客観的に事実として認め、それを国家的に祭祀することに政治の要諦の一つを求めたのは徂徠学派であったが、この考え方は、中井竹山・履軒などをへて、水戸学や平田篤胤以降の国学にうけつがれたのであった。

 水戸藩長州藩の寺院と淫祠の整理は、こうした考え方にそって、民衆の宗教意識の世界に権力が介入し、祭祀すべき神々と祭祀すべきでない神々のあいだに明確な分割線をひき、そのことによって人心を統合しようとする試みにほかならなかった。

(・・・)

 幕藩制下に宗教的世界のすべてを敵対的なものとして措定しかねないこの把握は、もとより誇張であり、歪曲であった。

 しかし、宗教的世界は、日常的な通念や常識をこえた、なにか巨大な威力の存在をものがたるにふさわしい領域であるから、みずからの手に負えない社会的な力の存在は、宗教的な魔力のかたりをとることで、人間の幻想形成力にいっきょに訴えて、いきいきとした実在感をもつことができるだろう。

 こうした観念には、内からも外からも脅かされているものとしての不安と弱さが映しだされていたが、しかし、誰にも漠然と感じられていた不安と危機の感覚は、こうした観念によって明瞭な危機意識へと構成され、そこに、状況を突破してゆくような活動性も生まれてきたのである。

 やがて、明治初年の宗教政策の基調となる国家的祭祀による人心統合という方策は、こうした時代を画する危機意識の産物であり、国家の掌握のそとに逸脱し去ろうとしている人心(宗教性)を再掌握しようとする壮大な戦略の展開であった。 42-44頁

招魂社

 国事に殉じた人々を祀る招魂社は、こうした人々の多かった幕末期の長州藩では、宰判(長州藩の行政区画で、郡にあたる)ごとにつくられていた。そして、この招魂社と招魂祭の思想は、新政府にうけつがれ、慶応四年五月、ペリー来航以降に国事にたおれた人々の霊を京都東山に祠宇を設けて祀ることが定められた。

 同年六月、関東・東北の内戦で戦死した人々のための招魂祭が江戸城でおこなわれ、七月には京都の河東操練場で、やはり戦死者の招魂祭がなされた。さらに、諸藩に戦死者の調査を命じ、明治二年には東京九段に招魂社の仮神殿がつくられた。

 これが東京招魂社で、同八年、嘉永六(一八五三)年以来国事にたおれた人々の霊は、すべて同社に祀ることとなり、同社は、翌九年、靖国神社と改称された。こうした慰霊の祭祀は、幕末期以来、すべて神道式でおこなわれたが、そのことが日本人の宗教体系の全体を神道へ傾斜させた意義は大きかった。 63頁

宗教心の衰退

 第四に、廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。

 ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。

 そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。ここに仏教が民衆強化の実績をふまえて、その存在価値を浮上させてくる根拠があろうし、さらにもっとのちまでの見通しとしては、キリスト教や民衆宗教が活発に活動する分野が存在していたことも理解できよう。

 明治政府の指導者が確保したいのは、天皇を中心とするあたらしい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者神道家の祭政一致しそうや復古神道的な教説は、わりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたのであったから、国民的忠誠心を有効に確保してくれそうなどんなイデオロギーも、新政府と結びつきうる可能性があった。

 だから、国民の宗教生活に長い伝統をもつ仏教には、国民的忠誠心の確保という焦眉の課題についてのみずからの有効性を証明してみせることによって、その再生の道が拓けてくるはずであった。 117-118頁

あらたな宗教体系の強制

 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまなの政策を推進した。

 伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。

 そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。 142-143頁

民俗信仰の位置

 一方に猥雑と懶惰と浪費と迷信があり、他方に良俗と勤労と文明と合理性があるというとき、誰も前者に積極的な意味をあたえて、これを後者に対決すべきものとしてつきつけることはできない。

 こうして民族信仰の世界は、意味や価値としての自立性をあらかじめ奪われた否定的な次元として、明治政府の開化政策にむきあってしまう。

 政府の開化主義的な抑圧政策にたいして、不安・不満・恐怖などが不可避的に生まれても、しかしそれは、筋道たてて意味づけられて表わされることのできない鬱屈した意識(むしろ自己抑圧された下意識)として、漠然と存在するほかない。

 そして、そのためにまた、権力の抑圧性とそれにたいする不満や不安なども、時間の経過のうちにしだいに意識下の次元に葬られ、開明的諸政策とその諸理念が曖昧に受容されてしまうのであった。 178-179頁

啓蒙主義と信教の自由

森有礼西周の議論を紹介したうえで)

 これらの事例から理解できるように、啓蒙思想家たちの「信教の自由」論も、人間精神の自由の根源的なあらわれとして信教の自由を求めていたというよりも、政教分離の原則にたつ近代国家の模倣にすぎなかったことが理解されよう。

 彼らの論理では、国家の安寧や秩序の方が「信教の自由」よりも優先しているのだが、さらにその啓蒙家としての立場からして、国家の秩序と対立する異端の教派はもとより、民衆の民俗信仰的な宗教生活の大部分も、おなじ立場から、当然のように否定されてしまうのである。 207頁

日本型政教分離

 神道非宗教説にたつ国家神道は、このようにして成立したものである。それは、神社祭祀へまで退くことで国境主義を継承しながらも、神道国教化政策の失敗と国体神学の独善性にこりて、宗教的な意味での教説化の責任から逃れようとした。

 それは実際には宗教として機能しながら、近代国家の制度上のタテマエとしては、儀礼や習俗だと強弁されることになった。

 そして、この祭儀へと後退した神道を、イデオロギー的な内実から補ったのが教育勅語であるが、後者もまた、「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめめて他を怒らしむるの語気あるべからず」(井上毅)という原則によってつくられた。

 国家は各宗派の上に超然とたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは、各宗派の自由競争に任されたのである。 208頁

”信教の自由”

(帝国憲法において「信教の自由」は「安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限」において認められてゐる)

 このあいまいな制限規定は、実際問題としては、一般的な規範や習俗への同調化をそれみずからで強要したり、そうした強要を容認したりすることを容易にした。

 もちろん、時代の状況や各宗教の社会的位置のいかんなどによって、各宗教に認められた「自由」の実際上の範囲や性格に多様性があったが、こうした漠然とした制限規定のもとでは、「信教の自由」は、国家が要求する秩序原理へすすんで同調することと同義にさえなりかねなかった。

 そして、神社崇拝は、その基盤で民衆の日常的宗教行為につらなることで現実に機能しているのだから、法的には神社崇拝と宗教はべつだと強弁されても、「安寧秩序」や「臣民タルノ義務」に背くまいとすれば、神社神道の受容とそれへの同調化が、それぞれの宗派教団にほとんど極限的なきびしさで求められてしまうことにさえなったのである。 210頁