十数年ぶりに再読したらすごく良かったのでメモをとっておく。
1957年刊行ということはもう70年も前の本か。
戦後はいつ終わるのか、などという問いが出るほどに戦後という枠組みはわれわれの世界認識を規定していることを思えば、こういう昔の本をいま読んで現在を考えるきっかけにも、やはりなるわけである。
たまたまではあるが、これを書いた堀田は38歳39歳くらいで、いまのわたしと同じであることを、途中に奥付を見て気が付いた。
インドに滞在しながらは堀田は夏目漱石が「現代日本の開化」で提示した近代日本の問題を思い出す。日本の開化は内発的ではなく外発的で、皮相上滑りの開化である。涙を呑んで滑っていくしかない。
本当にそうなのか。「空虚の感」と「不満と不安の念」を充実感や自身や自発性に変えるエネルギーは日本にないのだろうか。「文化創造と社会革命のための根源的なエネルギー」を見い出すことはできないか。
次第に私は考えるようになっていった。われわれの、といってわるければ、私は、私のこれまでの努力というものが、ひょっとすると方角をとりちがえたものだったのではないか、ということを明らかに考え出した。
われわれに独自な理論を、また形而上学を生むべき基礎とは切断されたところで、逆にそれを殺すような方向で、空転していたのではないか、と考え出したのである。
それが、たとえば政治にあらわれた場合には先に云った二重性、二十底というかたちをとることになるのではないか。
そして、生活態度の基礎としては、結局、多かれ少なかれ「ケ・セラ・セラ」を出ないということになるのではないか。もし「ケ・セラ・セラ」が基礎であるならば、転向などは日常茶飯事ということになる。 185-186頁
政治にあらわれた「二重性、二重底」とは、戦争指導者を総理大臣にして平気であったり、核なき平和を叫びながら核開発への道は確保しておくような態度のことである。
これらの思想に、決定的に欠けているものは、一言で云って、責任、人間の責任という体系である。戦争責任者がふたたび首相になるということが日本では見事なほどに可能なのである。
そして日本の思想のうち、もっとも陰影豊かでリアリティに富み、民衆に対しても浸透度の深いのは、この「歴史」を形成しない凹型の思想なのである。これといかにして戦うか。どういう方法で・・・・・? 203頁
凹型の思想はインドにもある。堀田はこれを「死の思想」という。インドの知識人から講義を受けているときに、堀田はこの「死の思想」をそのまま「生の思想」に反転させる力を見た。
あるとき私は質問をした。
「しかし、それらはすべて死の思想ではないか?」
と。これに対して、言下に、「しかり、しかるが故に生の思想である」
という返答をえた。
(・・・)
「しかしその諦めの思想が、どういうきっかけでもって革命的なエネルギーに転化しうるのか?」
「そのきっかけは、『希望(ホープ)』だ」
外国語による問答では、このくらいのことしか出来ない。論理的には恐らく荒っぽすぎるのであろうが、その明らかな例をわれわれは中国国民党と共産党によって形成された近頃の中国の歴史に於てもっている筈である。
方向をとりちがえたかたち、つまり帝国主義的な方向に暴発したのではあったが、すなわち、革命、人間解放ということとはまるで正反対なかたちではあったが、終局的には、太平洋戦争という破局的、自殺的、ヤケクソのかたちで暴発した日本民族のエネルギー。
これをも私は、逆コースなどということとは別個に、あるいはそれとのけじめをより明らかにしつつ、もっと正当に評価する試みが歴史化の側にあってほしいと思う。アジア諸民族の抵抗運動、解放運動とのより近接した対比の上で。 205-207
大日本帝国の末期に暴発したエネルギーはなんだったのか。そこを問わなければ、「文化創造と社会革命のための根源的なエネルギー」を考えることは出来ないだろうと。
わたしはこの箇所を読んで虚を衝かれた気がした。重要な視点だと思う。
あのエネルギーはどこへ行ったのだろう。樺太からガダルカナルまで闘いに行くあのエネルギーがあれば、日米地位協定を改定したり、在日米軍を追い出したりすることは出来そうなものだ。
最終章、堀田の思索は内村鑑三にたどりつく。内発性を外発性に、死の思想を生の思想に反転させる契機をさぐる。
内村は日本に生まれキリスト教徒になった。キリスト教国に生まれなかった運命を、「神に選ばれたこと」と観念し、信仰に変えた。
もとより、内発性、外発性ということが、別々のものとして存在するわけがない。内村鑑三のエネルギーは、「むしろ異教徒であることをわが特権と見なし、クリスチャンとしてではなく、一人の『異教徒』として、この世に生を与えられたことを、一再ならず神に感謝したのである」というように、キリスト教という外発性の、外的証拠によって、内発的にひき出されて来たものである。
異教徒ということば、「後進国」ということばにかえてみたらどうなるか。
それをしも「わが特権」と見なす力、能力、自発的、内発的な力、そこに、大袈裟なことをいうようだが、日本を含めてアジア諸国の創造のための源泉があり、具体的にはたとえばインドの平和のための倫理的発現の基礎があると思う。
死の思想を生の思想に転化しうべききっかけというのも、このあたりを去ることそう遠くないところにあると思う。 208頁