手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「ヒンドゥー教10講」赤松明彦

ヒンドゥー教10講」赤松明彦 岩波新書 2021

図書館で借りてきて、ちょっと読んで、これは買うべき本だと思い直し、すぐに購入した。勉強になった。いよいよ面白くなってきた。

ノートをば。

・「ヒンドゥー」という語は古代イラン語に最初に現れる。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』に「七つの川(ハプタ・ヒンドゥー)」という地名が出て来る。これはインダス川とその支流が流れる地域を指してゐる。また、古代インド語ではインダス川とその支流は「シンドゥ」と呼ばれてゐた(現代のヒンディー語ウルドゥー語でも「シンドゥ」という)。「川」を意味する「ヒンドゥー/シンドゥ」がインダス川を表す固有名詞に転化したと考えられる。これがギリシア語に入って「インドース(Indos)」となりラテン語で「インドゥス(Indus)」となったのが、「インド(India)」という語の由来。

ヴェーダ(「知識」の意)の世界は多神教の世界である。しかし、その中心にあったのは神ではなく祭式であり、主役は神ではなく祭官だった。神々は、祭式を執行する祭官にコントロールされる存在だった。祭式は、神々との交流を通じて、現実生活における果報を得ることを目的として実行される。すなわちその性格は、現世利益的といってよい。祭官が唱える言葉、神々への讃歌にこそ力が備わってゐると考えられた。その力が「ブラフマン」と呼ばれ、ウパニシャッド哲学に至って「宇宙の最高原理」とみなされるようになる。

・紀元前六世紀から五世紀頃になると、従来の現世利益的なヴェーダ的な考え方、バラモン中心の祭式主義的な考え方を否定するような思想が登場する。それは現世拒否的な思想だった。この性質は、ウパニシャッドにも、仏教にも、ジャイナ教にも通底し、吟遊詩人達が謡う言葉ともなり、叙事詩にまとめられた。

ヴェーダの祭式は自然界の諸事象を模倣した象徴体系であり、それは世界の諸事象間の連関を示し、世界(宇宙)と人間と祭式を構成する諸要素間に観念連合的な対応を認める。この外的な「祭式」を内的な「知識」へと転換したのがウパニシャッドの思想である(梵我一如)。この内的な知的操作はヨーガ(結合)と関連する。

・「バガヴァッド・ギーター」にヨーガからバクティへの劇的な転換が現れてゐる。ヨーガにおいていったん内面へと向った精神の集中が、絶対的な神が外部に出現したことによって、再びそのベクトルを外部へと逆転させたのである。すなわち、ヴェーダ(外へ)⇒ウパニシャッド・ヨーガ(内へ)⇒バクティ(外へ)である。ただし、ヴェーダウパニシャッド・ヨーガは「自力」の思想であるが、バクティは「他力」的な思想傾向を有する。哲学から宗教へという流れ。

バクティには「知的バクティ」と「情的バクティ」の二つの大きな流れに分けることができる。「知的バクティ」は『ギーター』に代表され、これはヨーガの思想と結びついてをり、感覚器官を制御することで、心を最高神に結びつけ霊的な感性に到達しようとする、「帰依」の思想である。「情的バクティ」は『バーガヴァタ・プラーナ』に代表され、これは、クリシュナに対するロマンティックな、ときにエロティックでさへある、恍惚的な情愛をいう。「知的バクティ」は超越的な神を知的に理解しようとした宗教エリートの心に生れたものである(神から人へ)。他方「情的バクティ」は、民衆から神への直接的な感情の働きが表されたものである(人から神へ)。すなわち、バクティは、信者と神との間に成り立つ双方向の関係である。