手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

アーナンダ・ビンドゥ(Anandabindu)ノート

一昨日のレッスンは座学だった。その中でヒンドゥスターニー音楽の「Sum」について「Anandabindu と呼ぶことがある」とキタキ先生が言った。

まづ、Sum とは Taal の始まりの拍のことである。Taal とは拍の周期構成のことである。Sum から始まり Sum に終わる周期が反復されるから、終わりの Sum はまた始まりの Sum でもある。Sum は時間が重なりあう「点」であるわけだ。この時間の凝集が快をもたらす。

さてキタキ先生は、その Sum は Anandabindu なんだと言った。わたしは Anandabindu なる言葉を初めて耳にしたので、それはどういう意味ですかと訊いた。先生は Aananda は joy(喜び)、Bindu は dot(点)という意味だと応えた。面白いと思った。喜びの点、とはなんと素敵な文句だろう。Sum の快を見事に表現してゐる。

「アーナンダ・ビンドゥというのは喜びの点、期待された何かが成就した瞬間の喜びのことを言う。ヒロキ、例えばあなたは来年インドに来たいと思ってゐる。飛行機にのってやってくる。ついにインドに降り立った。その瞬間はアーナンダ・ビンドゥと言えるでしょう」

キタキ先生はこういうときにいつも見事な例を出してくる。可愛らしいユーモアのあるひとである。

「アーナンダ・ビンドゥ」はインドにおいて有名な、一般的にふつうに使われる言葉なのだろうか。Anandabindu で検索してみた。ところがいい具合の解説がなかなか見つからない。目ぼしいと言えそうな唯一のページが☟である。

シャクティズムに関連する言葉らしい。

Ānandabindu (आनन्दबिन्दु) refers to the “drop of bliss” とある。至福の雫。関連ページでそれぞれ Ānanda と bindu を見ると、Ānandā は “bliss, happiness” で、Bindu は “dot” でありシャクティ(力)を象徴してゐるという。

なるほど、ビンドゥがシャクティか。では「南アジアを知る事典」で「シャークタ派」を引いてみよう。

しばしば〈性力派〉と訳される。ヒンドゥー教はシヴァ派とヴィシュヌ派の2派を基本とするが、3番目にシャークタ派をたてることがある。〈シャークタ Śakta 〉とはシャクティ Śakti の形容詞形で、シャクティを信じる人々を意味する。シャクティという語は元来〈力〉〈エネルギー〉を意味する普通女性名詞であるが、静的男性に対して動的女性というインド的観念から、絶対神の力の側面としてのシャクティは神妃として人格化されるようになった。

性神を主神とするタントリズム諸派においても、静的な絶対者に対して実際の世界展開を司るのはシャクティである。こうした観念が、男性中心的なヴェーダ的伝統の背後に常に存在していた女神崇拝の潮流と結びついて、実はシャクティこそが最高原理であるとする考え方が成立した。これがシャークタ派である。

男性器に巻きつく蛇がシャクティだそうな。

次に「タントリズム」を引く。「インド思想史において最も定義困難なものの一つである」「明確な学派として定義することはでき」ないそうだが、簡単に言えば、祭式中心のヴェーダ主義に対抗するものとして現世否定的なウパニシャッド哲学や仏教があり、さらにそのウパニシャッド哲学や仏教に対抗するものとしてタントリズムがあるらしい。

1.ヴェーダ的祭式は行為(業)の無限の輪廻を引き起こすだけであって解脱できない。2.だから瞑想によってブラフマンとの合一を目指そう。これが現世否定的なウパニシャッド哲学の方法。3.しかしそれでは行為/欲望の主体が完全に否定されてゐることになる。もっと積極的な、動的な解脱の方法があるのではないか。

ここにタントリズムが誕生する。

この根底にあるのは、神と等しい完全に自由で独立した(svatantra)行為主体であろうとする欲求であり、これは現世においては、超自然力の獲得やさまざまな呪術的儀礼の実践によって表現されることになる。しかしながら、この場合の行為と欲望の主体の復権は単なるヴェーダ的な儀礼の主体への回帰ではない。いったんカルマ(業)の理論の洗礼を受けた後では、行為が輪廻の原因とならないとする理論的保証が必要とされるのである。

行為における主体のカルマからの自由を保証しているのが、人格的な絶対者との完全な不二一元論である。この場合、いったん自分自身が絶対者(シヴァあるいはシャクティ)と同一であるという認識を得たならば(これが生前解脱の状態である)、意識は宇宙的に拡大され、あらゆる行為は神の行為としてカルマを越えたものとなり、超自然力はもとよりのこと、非倫理的な呪術的儀礼ですら悪行をもたらすものではなくなるのである。

なるほど。主体を滅して解脱を目指す(ウパニシャッド哲学・仏教)か、主体を残して解脱を目指す(タントリズム)かの違いということか。主体回復のために必要とされるのが師への入門式、マントラ、性的儀礼など。実にややこしい。定義困難というのも納得である。

ところで、コーマルさんに「アーナンダ・ビンドゥというのはよく使われる言葉でしょうか。検索してもあまり出てこないですが」と訊いてみた。「はい。踊っているときに、観衆のなかで生み出されるような。まさに喜びの点、ある帰着点(end result )と言えます」と返ってきた。

キタキ先生もコーマルさんもプロの舞踊家・指導者であって、ふつうのひとよりこの種の古語に造詣が深いことは間違いない。一般的にどの程度知られた言い廻しであるかは不明である。ともあれ、わたしはアーナンダ・ビンドゥという言葉が好きである。ここぞというタイミングで使ってインド人をニヤリとさせたいものだ。

帰着点はまた次の周期の出発点でもある。実にいいですね。

追記

Anandabindu で検索してもほとんど記事が出てこないのが気になった。それでさらに別のひと、ラジャさんに訊いてみた。ふつうのひとが日常的に使う語彙でしょうか。すると次のような回答を得た。

Anand も Bindu もヒンディー語でよく使われますが、それがひとつになった語はあまり見かけません。おそらく歴史文献、とくに文学作品や詩などで使われる語かと思います。

そうであろう。この説明がいちばん腑に落ちる。「もの」や「あわれ」を我々は使うが「もののあはれ」は特殊平安的な言葉であって現代人には馴染みがない。それと同じであろう。ヒンディー語サンスクリット語の直系であることを考えると、この種の例はいくらもありそうである。