手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「聖と俗 宗教的なるものの本質について」ミルチャ・エリアーデ

聖と俗 宗教的なるものの本質について

ミルチャ・エリアーデ 法政大学出版局 1969

神話の主要な機能は、すべての祭儀ならびにすべての人間の本質的活動(食事、性生活、労働、教育)に対する模範的典型を確立することである。人間が人間存在として充分な責任を以て振舞うには、神々の模範的所業を模倣し、彼らの行為を反復する。

第一章 聖なる空間と世界の浄化

空間は均質ではない、という経験は原初的な宗教的体験を表す。ひとつの絶対的な「固定点」「中心」が現れたとき、周囲にひろがる無限の空間の均質性が破られる。そうして「現実」が出現する。あるいは開示される。

 この聖なる空間の発見ーこの啓示ーが宗教的人間の存在にとってどんな価値をもつかは、容易に理解できる。なぜならば、まず何よりも前に方向づけがなければ、何事も始まらないし、何事も起こり得ない。さらにおよそ方向づけというものは、一つの固定点を前提するからである。それゆえ宗教的人間はまた、常に〈世界の中心に〉居を定めようと努めた。世界のなかで生きることができるためには、世界を創建せねばならぬーーそして世界は、俗なる空間の均質性相対性〈混沌(カオス)〉のなかには決して成立しない。固定点、〈中心〉を発見あるいは投射することは、世界創造にひとしい。この点でわれわれは更にのちほど実例をあげて、聖なる空間の祭式による見当づけと構成には、世界創造的な意味が含まれていることを確証するであろう。 13-14頁

第二章 聖なる時間と神話

神々が世界を創造したとき、時間をもまた創始した。それは聖なる時間。聖なる時間は過ぎ去ることがない、回転的、可逆的である。変わることも尽きることもない、永遠という相。ひとは神々の行為の際限=祭りによって聖なる時の最初の出現へと立ち返る。

ひとは神話の中にあらゆる行動の原理と先例とを見出す。神話の教えに則り、神々の行為を模倣することによってのみ、人間は聖なるものの中に、したがって実在のなかに地位を確保することが出来る。すなわち真の人間となる。

神話に語られるところの、世界への聖なるものの侵入は、実は世界を根拠づける侵入である。神話はみないかにして実在が成立したかを物語るのであって、それが総体としての実在であるコスモス(宇宙)であろうと、あるいはそのほんの一部である一つの島とか、或る草木の種類とか、また或る人間の制度であっても同じである。諸物が「いかにして」成立したかを物語ることによって、人は諸物を解明し、かつ間接的に、「何故」諸物が成立したかというもう一つの問いに答える。「何故」は「いかにして」の中にいつもすでに含まれている、それも「いかにして」或る物が成立したかを物語ることによって、聖なるものの世界への侵入と、したがってあらゆる現存する実在の究極原因が開示されるという、単純な理由からである。 88ー89頁

宗教的人間にとって、同一の神話的事件の際限は、あらゆる希望の中の最大のものである。なぜなら、再現するたびごとに、またその生存を変じて神的典型に同化する可能性が得られるからである。原始ならびに古代社会の宗教的人間にとっては、模範的行為を永久に反復し、神々によって浄められた同一の神話的起源の時に永久に遭遇することは、何ら悲観的人生観の条件とはならない。反対にこの神聖にして真実なるものの根源へ〈永久に回帰〉することのみが、彼らの目から見れば、人間存在を無と死から救うのである。 99頁