手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「はじめてのインド哲学」立川武蔵

はじめてのインド哲学立川武蔵 講談社現代新書 1992

入門書だけれどけっこう歯ごたえのある本だった。途中でわからなくなることが多々あり、何度も頁を戻りながら読み進めた。これからインド思想・哲学を読んでいくにあたってのいい準備運動あるいは筋トレになったと思う。

終章「世界の聖化の歴史」が全体のまとめになってゐるので、こちらを最初に読んでから通読するのがよかったかもしれない。そういう本てけっこうあるよね。

舞踊について考えるうえでは、第一章「自己と宇宙の同一性を求めて」における「自己の時間と宇宙の時間」という節の議論にぐっときた。

 インドでは、自己空間と宇宙全体とが本来的には同一であると考えられたように、自己時間もまた、宇宙の時間と本質的なものを分有すると考えられた。単に、宇宙の誕生、生成、消滅の過程が個体にも見られるというのではなくて、宇宙の活動がまさに個体の活動にほかならないと考えられたのである。 19頁

 もともと時間と空間は無関係のものではない。両者は密接に結びついている。両者の関係は、ゴム風船をふくらます場合を例にとって説明することができよう。息を吹き入れて風船をふくらませる際、ちょうど地球の緯線と経線のように、垂直に交わる二種類の円のグループを考えることができる。送り込まれる息のまわりに想定される無数の同心円、つまり、緯線にあたる円のグループは空間を表し、口から放射状に広がり、口よりも遠い方へとすすんでいき、最後は一点へと収斂する無数の円、つまり、経線にあたる円のグループは時間を表している。 20頁

ぼくは、カタックがそのかたちとリズムによって作り出す時空というのはまさにここで言われてゐるゴム風船、すなわち時間と空間がひとつであるところの球体であると考えてゐる。聖化された時空だ。

著者によれば、インド精神史の特徴は、世界から超越した創造者の存在を認めなかったことである。世界の根本原理あるいは究極的存在としての神を、世界の外にではなく、世界の中に、または世界そのものに求めてきた。

今日の人間精神は究極的原理を求めることをやめてしまい、「絶対者」などという言葉を使うことには気恥ずかしささへともなう状況だ。世界の外部に存在する創造者の存在を信じられなくなってゐる。しかし一方で、人間はやはり「聖なるもの」の顕現を希求してゐる。

ここにおいて、「世界の中」に聖なるものを見出し、世界と自己に「聖なるもの」としての価値を与えようとしてきたインド哲学を学ぶ意義がある。

本書の結びの文章がいいぜ。

 そして今日、インドは他の民族と同様に、「俗なるもの」の洪水に見舞われている。「俗なるもの」が「聖なるもの」を侵してしまった今、「宗教における二つの極」の間を流れる水は止まっている。とはいえ、インドには他の国と比べるならば今日もなお「聖なるもの」と「俗なるもの」の間には強い流れがあり、それが人々をひきつけている。その水の流れをとりもどすためには、われわれはふたたび「世界を聖化」する行為をはじめねばならない。そのとき、われわれは多くのことをインド哲学の歴史から学ぶことができよう。 219-220頁