手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「イスラーム文化 その根底にあるもの」井筒俊彦

イスラーム文化 その根底にあるもの

井筒俊彦 岩波文庫 1991(原著:1981)

名著すぎる。学問てほんとスゴイなと思う。

こういう本を読んでゐるときが一番幸せ。最高の時間だった。

「ひとつの文化構造体としてのイスラームの最も特徴的と考えられるところ、つまりイスラーム文化を他の文化から区別して、それを真にイスラーム的たらしめているもの」

イスラーム文化のすぐ誰にでも目につく表面に現れた姿ではなくて、そういう表面的な形態の奥深くところ、いわば底辺領域にひそんでいる精神と申しますか、本質的な部分と申しますか、とにかくふつう簡単には見えてこないような、イスラームの文化的エネルギーの源泉」

について、Ⅰ宗教、Ⅱ法と倫理、Ⅲ内面への道、の三部構成で論述する。

ぼくは「〇〇を真に〇〇的たらしめてゐるもの」みたいな本質論が大好きで、野心としては「カタックを真にカタック的たらしめてゐるもの」 を解明しそれについて書きたいと思ってゐる。

本書は舞踊とはなんの関係もない本だけれど、読んでゐるときにどういうわけかカタックについて重大な着想を得た。自分的にはこれは大発見だったから、余白にメモをした。読んでゐる文章でなされてゐる議論とおよそ無関係なものについて、あっと驚くようなひらめきが起こるというのは不思議なことだ。

それが学問のすごいところで、要するに優れた書物は知性を刺激し、高揚させ、活性化させるので、常時には出てこないようなアイディアが浮かぶということなんだろう。

Ⅰ宗教

 イスラームの神アッラーは、まず何よりも生ける神、生きた人格神として自らを現します。まさに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、人間がこれと我・汝の人格的関係に入りうる神でありまして、哲学者の神ではありません。つまり形而上学的絶対者ではありません。古代インドの梵=ブラフマン、のような存在の非人格的、純形而上的根源としての絶対的実在とはぜんぜん違ったものであります。 61頁

なるほどアッラーは「生きた人格神」で、ブラフマンは「形而上学的絶対者」なのだな。この対比はすごくわかりやすい。

アラブの時間意識についての解説がすこぶる面白い。世界は神の意志のとおりに動く。それは一度創られたものが因果律によって連続的に発展していくのではなしに、瞬間ごとに世界が新しく創造されていくのである。いまこの瞬間と次の瞬間とのあいだには何ら内的関連性がない。

 哲学的にはこのようなものの見方を一般的に非連続的存在観と呼ぶことができると思います。存在の根源的非連続性。もちろん時間的にばかりではなく、空間的にもです。空間的に世界は互いに内的に連絡のないバラバラの単位、つまりアトムの一大集合として表象されます。 75頁

これと対照的に、イラン人(ペルシア人)の世界認識は存在の空間的、時間的連続性を特徴とするので、ここにおいてアラブとペルシアが衝突するという。

Ⅱ法と倫理

神が人格的であるということは倫理的な神であるということである。神の倫理的性格、これが人格神の最も顕著な特徴。神の倫理学のことを神学と呼ぶ。理屈の上では神は主人で人間は奴隷であり、相手にたいして義務を負うのは人間の側だけである。しかし神が徹底的に倫理的であることによって、神の側にも人間に対して義務に近いものが生じてくる。すなわち、神の属性としての、慈悲、正義。

神は人間の不義不正を絶対に許さない。人間が有する根強い悪への傾向を自覚し「怖れを知る」ことが信仰への道である。

(・・・)元来、メッカ期における神と人との関係においては、強烈な倫理性を発揮する神にたいして、人間もそれに対応するだけの倫理性を示さなくてはならない。それが宗教というものなのです。ところが現実の人間にはとてもそんな倫理性はありません。人間実存のこの根源的な倫理的蹉跌の自覚から、自分のあるがままの姿は実に罪深い存在だという意識が生じてきます。人間がこの意識に目覚めること、それがメッカ期の『コーラン』の考えでは宗教のはじめであり、イスラームそのものの出発的であります。 90頁

イスラーム関連本を読むたびに「人格神」という概念をいまいちつかみきれない感じがしてゐたのだけれど、これを読んでかなりすっきりした。わかるわかる。

Ⅲ内面への道

メッカ期の啓示に基づく終末論的実存的な態度をそのまま推し進めていったものがスーフィズムである。現世を本質的に迷いの世界と観じて、徹底的に現世否定の道を進む。スーフィーは現世に背を向け、ただ一人の神の前に、ただ一人で立つ、ただ一人の実存。

 われわれの実存の中核には自我意識がある。「我」、わたし、というものが先ずあって、その周りに光の輪のように世界が広がる。自我意識は人間存在の、人間実存の中心であると同時に、世界現出の中心点でもあります。しかし、それは同時にすべての人間的苦しみと悪の根源でもあるのです。人間に我があるから苦しみがあり、悪がある。ふつう世間で悪と呼び、苦悩と呼ばれているもの、また、シャリーアで罪と考えられているものは、ことごとく我に淵源する。だが、それだけではありません。スーフィーの見地からすれば、自我意識、我の意識こそ、神の対する最大の悪であり、罪であるのです。 217頁

私が我の意識をもつ限り、我と神とが対立する。それが悪なのだ。我が存在する限り、真の一神教にはならない。真に実在するものはただ神だけ、全存在界ただ神一色でなければならない。

ぢゃによってスーフィーは自己否定、つまり自我意識の払拭に全力を尽くす。自己否定の道の極限において、人間の主体性の意識は完全に消滅し、我が虚無と化す。そして、

 ところが、この人間的主体性の無の底に、スーフィーは突如として燦然として輝き出す神の顔を見る。つまり人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪を入れず、神の実在性の顕現に転生するのであります。 220頁

神的実在から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化す。神的実在とは存在の絶対的、形而上的根源のことであり、これが一種の光、この世のものならぬ霊光による意識の照明として体験される。これを「照明体験」という。

自我性を完全に脱却した私は、もはや私ではなく、神そのものである。