「やさしい神さまのお話」2008 ムスリム新聞社
このページで読んだ。たぶん、全文だと思う。
検索した限り、購入することはできないようだ。
おそらく、絶版になってしまったので、中田先生が自身のHPにあげたのだろう。
この本の成り立ちが面白い。
13世紀頃のイスラーム学者・アルスラーン・ブン・ヤークーブ・アル=ディマシュキーが「タウヒードについての書簡」というものを書いた。
そして18世紀のイスラーム学者・アブド・アル=ガニー・アル=ナーブルスィーがこの「タウヒードについての書簡」の注釈書「酒屋の芳香と器楽の音色-アルスラーン師の論考の注釈」を書いた。
そして、中田夫妻がその注釈書を翻案して「やさしい神さまのお話」を書いた。
こういうことにらしい。
著者のまえがきにこうある。
今、読み直してみると最初から終わりまで著者の言わんとすることはただ一つ、あらゆる二元論を退けてタウヒード(神の唯一性)の中に没入する、ということです。
読んでびっくり、ほんとに、ひたすらタウヒード(神の唯一性)の中に没入せよ、ということが書かれてある。
タウヒード(神の唯一性)とは何かというと、「アッラー以外に神はなし」ということである。
しかしそれだけではなくて、そう考えてゐる、「自分もない」ということだ。
たとえ、あなたがただおひとりの神さまを信じていたとしても、神さまと並んでじぶんも存在していると思うなら、あなたはシルクをおかしています。黒い岩のうえを這うアリよりももっと気づきにくい「かくれたシルク」です。 (3)「私がいる」という思い込み
じぶんのはかなさを忘れてじぶんが存在していると思うことは、じぶんが神さまのようだと思うことです。ですから、神さまの唯一性、つまり、神さまがたったひとりだということを知るためには、まず「私がいる」という思い込みからぬけださないといけません。 (3)「私がいる」という思い込み
シルクとは多神教のことである。
「私がいる」というのが「思い込み」だというのは、強烈だな、とぼくは思う。
自分というものは存在しない、完全なる他力、となると色即是空の仏教を思わせる。
自分の内側に入り込み、自分も世界も存在しないことを悟る。そうして人間を苦しめる渇愛や欲望から解放される。
イスラームではこれが全然違ってゐて、タウヒードに没入し、自我が消えたところに、「神」が見出される。
神だけが存在する。神以外に存在してゐるように感じられるものは、「神によって」存在する。
タウヒードとは、存在しているのは神さまだけであり、なにかが存在するとすれば、それは神さまの存在によって存在しているだけで、それ自身で存在しているわけではない、ということです。ただし、存在しているのは神さまだけだといっても、すべてが神さまの一部ということではありません。なぜなら、すべては虚しく、滅びるものであるのに対して、神さまは真実で、ゆらぎないものだからです。神さまを信じている人でも、その多くは、神さまが存在するようにほかのものも存在すると思い込んでいます。でも、それはかくれた多神教です。 (18)神さまに至る道
欲望によって来世を求めようとすれば、私たちは求めるものからますます外れることになります。来世は欲望によって得られるものではありません。それは、どんな状況においても、表向きも内面も、神さまにのみよって立つこと、つまり、自我の介入を完全に断つことによって得られるものです。なぜなら、神さまの命じることをおこなうのも、神さまの禁じることを避けるのも、じぶんの力によるものではないからです。じぶんの力で神さまの命令を守っていると考えることは、多神教であり、神さまの命令を守らないことよりももっと深刻な罪です。 (20)欲望による迷い
「自我の介入」を完全に絶つ。
自我によって神を求めることはシルクである。神によって神をもとめなくてはならない。
じぶんから消え去るとき、あなたは神さまに求められた人です。神さまは、あなたを望んだから、あなたをあなたから消し去ったのです。神さまはあなたを恩寵で包み、あなたをご自身の許にぐいと引き寄せたのです。神さまはモーセに言いました、「われは、われ自身のものにおまえを作り上げた」(クルアーン第20章41節)。
じぶんから消え去り、神さまの許に留まった人は、神さまにつかえる行為を厭いません。一方、じぶんに留まった人は、それを厭います。じぶんを神さまとならべ、思い上がっているからです。 (25)神さまから求められる人
自分が消えて、神を知る。
それは、神の化身になったり、神と一体化する、ということではない。
ここ、重要である。
ひとは、じぶんも、じぶん以外のものもみな、神さまが久遠の昔にごぞんじであったものを通して神さまがあらわれているだけであることに気づき、そうしてあらわれた神さまの存在以外にはじぶんもじぶん以外のどんなものも存在しないことに気づいたとき、神さまを知ります。そうなったとき、存在するのは神さまおひとりだけとなり、じぶんもじぶん以外のどんなものも、ほかのどんなものでもなくその神さまの存在によって存在するようになります。もちろん、それはわたしたちが神さまの化身になったり、神さまと一体になったりということとはまったくちがうものです。 (64)すべてのうごきは神さまのもの
存在するのは神のみである。
存在する神に照らされて、「不在」の自分が「存在」している。
しんじつを知った人とは、神さまとじぶん自身の両方を知った人、つまりその両方によって立つ人です。その人のもとにはひとつのものしかありません。それでいて、その人には2つのあらわれがあって、そのどちらにもそれにふさわしいものを与えているのです。つまり、その人はてんびんの2つの皿のつりあいを取っているのです。
その人がなにかに対して力を持つことがあるとすれば、それは神さまの存在におけるじぶん自身の不在によってでしかありません。 (66)神さまを知った人
本書は「それでは、サラーム(平安)あれ。」という言葉で終わる。
イスラームの勉強をはじめて、平安ということを知った。
成功や、快楽や、歓喜や、幸福ではなく、平安をこそ求めるべきなのかも知れない。
サラームって響き、きれいだ。