手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

憲法の日本語表記について

転換期

現下の世界情勢は、近代的価値観、そして欧米を中心とする世界秩序のゆらぎを誰の目にも直観させるほど、混乱を極めてゐます。

不安になります。

だからこそ世界中で極右勢力が伸張するのでしょうし、日本においても、多少とも伝統とか愛国とかの「保守」的な雰囲気をまとわなければ、支持を得ることがむづかしくなってゐるように感じます。

この世界史の動向を分析する能力はわたしにはありませんが、ざっくりと、次のようなことは言えると思う。

 

第一に、明治維新の際に断行し成功させた、脱亜入欧という自意識の転換を見直さなくてはならない。

麻生太郎元首相がかつて「G7の国の中でわれわれは唯一の有色人種であり、アジア人で出てゐるのは日本だけ」と言ったことがあります。

この発言にあらわれてゐる「名誉白人」としての自意識=欧米崇拝とアジア蔑視を解体しないことには、日本はいよいよ立ち行かなくなる。

第二に、敗戦以来の対米従属構造とそれを支えるアメリカへの依存心を克服する必要がある。

日本の敗戦処理アメリカの占領下でアメリカ主導で行われた。そしてアメリカはずっと世界最強国だった。

戦後日本に「国体」なるものがあるとすれば、それはアメリカが世界のリーダーで日本が一番の子分である状態を前提にして成立するものだった。

アメリカが自国第一主義をかかげ、世界から引っ込む姿勢を鮮明にしてゐる以上、前記「国体」はいよいよ賞味期限切れということになりそうです。

 

つまりわたしたちは、明治維新と敗戦という近代日本のふたつの転換を顧みながら、現在とこれからの世界史に対応できるような新しい自意識をつくり、国のかたちを構想する必要がある。

 

憲法改正いづれ政治日程にあがってくるでしょう。

憲法にとって大事なのはもちろん内容ですが、いざ改正するとなると最後の段階で表記が問題として登場してきます。

正版を印刷して、御名御璽を付し、各大臣が署名する段になって、はじめて日本語表記が問題になる。

ふつうに書けばいいではないかと思われるかもしれません。

が、いまわれわれが「ふつうに書く」表記法と、日本国憲法の表記法はまるで違ってゐるのです。

まづそのことを思い出しましょう。

 

日本国憲法と国語改革

上は国立公文書館所蔵の日本国憲法の原典です。(こちら

前文の冒頭部分を引用します。

日本國民は、正當に選󠄁擧された國會における代表者を通󠄁じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成󠄁果と、わが國全󠄁土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲󠄁法を確定する。

一見するに、

  • 漢字の字体が現在のそれと異なるのがわかります。「國」「戰」など。
  • それから促音(ハネる音)の「つ」が大きく書かれてゐます。
  • 「起る」の送り仮名が短く送られてゐます。
  • 現在は「よう」と書く長音「ヨー」が「やう」となってゐます。

このうち表記法として問題となるのは一番目の漢字の字体と、四番目の仮名遣いです。

(促音の大小と送り仮名の長短は表記法としては差異として扱わないので、ここでは無視します)

仮名遣いの相違は引用箇所では「やう」だけですが、前文ではほかに「ゐる」「思ふ」「いづれ」などが出てきます。

 

さて、日本国憲法で使われてゐる漢字の字体を康煕字典体といいます。中国清朝康熙帝の命によって編纂された字書に由来するものです。

そして「やう」「ゐる」「思ふ」「いづれ」といった仮名のつづり方を歴史的仮名遣いといいます。

契沖や本居宣長といった江戸時代の国学者たちが古典を研究するなかで明らかにした原理及びつづり方であり、明治期に整備されました。

明治から敗戦、そして日本国憲法の制定まではもっぱらこの康煕字典体と歴史的仮名遣いで文章が書かれてゐました。

最近は簡単に旧字・旧仮名と呼ばれることが多いように思います。

 

日本国憲法の公布は1946年の11月3日。

それから約2週間後の11月16日に「当用漢字表」と「現代かなづかい」が告示されました。これらふたつの施策による表記の変更を「国語改革」といいます。

当用漢字表」は漢字全廃を目指して字数を制限し、また字体を簡略化したものです。

「現代かなづかい」は歴史的仮名遣いから歴史性を排除し、仮名と音との関係を、現代の音韻とのそれだけに限定しようとしたものです。これを表音化といいます。

 

時間が経ち、漢字全廃も仮名遣いの表音化も無理であることが明らかとなり、政府国語機関は中途の状態を追認することにしました。

それが1981年の「常用漢字表」と1986年「現代仮名遣い」です。

いまわたしたちが慣れ親しんでゐる「ふつう」の書き方は、このふたつの指針とその改訂版に基づきます。

旧字・旧仮名と対照させて新字・新仮名と呼ばれます。

 

人間はなんでも慣れてしまいどんどん忘れていきますので、これが「中途の状態」などと感じないわけですが、ちょっと観察してみるとそこここに痕跡が見られます。

 

「ひっ迫」の「ひっ」を漢字で書かないのは、「ひっ」の部分の漢字が制限されたからです。

「迫」のシンニョウはもともと「辶」で点がふたつでしたが、当用漢字は点を減らしました。

「ひっ」の漢字は使わない、「迫」は画数を減らす、というようなやり方で漢字を廃止にもっていくつもりだった。それが「ひっ迫」で止まった次第です。

 

仮名遣いはどうでしょう。

「つまずく」と「つまづく」、「さしずめ」と「さしづめ」、迷うことがあると思いますが、どう書くのが正しいかお分かりになりますか。

「現代仮名遣い」はこれを教えてくれません。「じ」「ず」と書くのが本則で「ぢ」「づ」と書いてもよいとしてゐます。どちらでもいいのです。

かつては「音韻変化により複数の書き方が生じた語のつづり方」を仮名遣いと呼んでゐました。

だから「どちらでもいい」という態度は、本来的な意味での仮名遣いとは呼べません。

語を基準に考えるべき仮名遣いを、「現代音韻」を基準に定めようとした。そこに根本的な誤りがあります。

ここを改めない限り、「現代仮名遣い」は「どちらでもいい」式の投げやりな表記法であり続けるでしょう。

 

わづか二週間の差により、日本国憲法とそれ以後の文章で日本語表記がまったく異なるものになってゐる。

ふだんそれに気が付かないのは、六法全書はじめほとんどすべての出版物や各メディアでの参照に際しては、新字・新仮名に修正して表記されてゐるからです。

 

「あえて」ズレを残すという提案

では実際に憲法を改正するとなったとき、表記のズレをどうすべきでしょうか。

自民党は2012年に日本国憲法改正草案を発表しました。(こちら

二段組で現憲法との対照が示されてゐます。これを見ると、自民党は漢字も仮名遣いも新字・新仮名に変更するつもりのようです。

自民党に限りません。保守でもリベラルでも、政治家も国民も、ほとんどすべてのひとが、おそらくこの変更に同意するでしょう。

昔の表記は昔のこと。憲法の表記がいまのわたしたちのそれと違ってゐるのは不自然だ。表記も慣れ親しんだ新字・新仮名に変更すべきだ。

そんなふうに考えてゐるのだと思います。

 

わたしはそれに異を唱え、みなさんを説得したいのです。

 

と、大きく構えましたが、わたしの提案はシンプルです。

  1. 原本は日本国憲法の表記法、すなわち康煕字典体と歴史的仮名遣いを継承する。
  2. 一般のメディア発表、印刷物の頒布では現代仮名遣いと常用漢字を使用する。

つまり、いまと同じ状態にしよう、表記のズレを維持しようという提案です。

二週間の時間差によって生じたズレを、「あえて」そのままにする。

「あえて」の選択により、ズレに思想的な意味を与えようというのです。

順に説明します。

 

ひとつ。

康煕字典体と歴史的仮名遣いを、いまわたしたちは旧字・旧仮名と呼んでゐますが、その「旧」とは政府が指定し、教育がなされ、広く使われてゐたのが昔というだけで、現在消えてしまったわけではありません。

使用される量こそ少ないですが、新字・新仮名が存在できてゐるのは康煕字典体と歴史的仮名遣いがあるからです。

新字・新仮名は、実質的にはこれを簡略化したものであり、おそらくこれからも変わってゆくでしょう。

現在においても、表記の原則を考えるばあいに固定的な座標軸を求めるとすれば、康煕字典体と歴史的仮名遣いになります。それゆえこれを正統表記と認めるべきと思います。

憲法は普遍的理念を示す国家の基本法ですから、不安定な表記法ではなく、安定した正統表記で記すべきです。

 

ふたつ。

日本は戦前と戦後のあいだにおおきな断絶があります。国家体制も価値観もまるっと変わってしまった。

それが国内政治において長く保革の対立軸となり、国際政治ではアジアとの和解を妨げてきた。

表記のうえでもそうです。国語改革の前と後で、表記が異なります。

しかし興味深いことに、わづか二週間の差のために、戦後日本の根幹である日本国憲法の表記は戦前のそれなのです。

これはおそらく偶然です。ではこの偶然をこんなふうに解釈してみてはどうでしょう。

日本国憲法の表記は、戦前と戦後を架橋してゐるのだと。

いつか憲法を改正するとき、この橋を落としてしまう手はないと思います。

戦前と戦後を架橋し、現在と未来を架橋する任に、正統表記は耐えうるとわたしは考えます。

 

みっつ。

日本語は音韻構造は単純ですが、書記システムはたいへん複雑です。それは漢字を捨てなかったからです。

それで苦労するわけですが、個性とはそういうもので、捨てたら自分を失うだけです。

表記だけ考えても、日本語の歴史は実にドラマチックです。

漢字が入ってきた。はじめは漢字だけで書いた。訓を導入する。仮名が誕生する。仮名文が流行する。漢文も残ってゐる。国学が発達する。近代日本語散文が発明される。

ひとつひとつのプロセスが先人たちの知的な創造性の発露といえます。

その総体が巨大な知的遺産であること、いくら強調してもし過ぎることはないと思います。

このような日本語の歴史と先人の知的営為に対して敬意を示すためにも、憲法は正統表記で書くべきと考えます。

 

「いまここ」を越えて

冒頭に帰りましょう。

転換期です。

わたしたちは、明治維新と敗戦という近代日本のふたつの転換を顧みながら、現在とこれからの世界史に対応できるような新しい自意識をつくり、国のかたちを構想する必要がある。

二度の転換に共通してゐるのは、「過去の否定」という動力がおおきく働いてゐたことです。過去を切り離して新しい日本になるのだという気分です。

それは成功した。だから欧米列強の植民地にならなかったし、経済成長も出来た。

しかし国家としての成熟期、あるいは衰退期を迎えた21世紀のわたしたちが感じるのは、精神的な軸のなさ、そこからくる不安な気持ちです。

ここをなんとかしなければ日本人は救われない。言い換えれば、それがわたしたちの仕事ということです。

 

したがって次の転換は、「過去の否定」ではなく「過去との連続性」を基本思想として為されねばならないと考えます。

日本国憲法を破棄して別の憲法をもってくるなど論外です。

過去を切り捨てようなどと思わない。連続しながら、継続しながら変化してゆく。

憲法も表記も、「いまここ」のわたしたちだけではなく、もうこの世にゐないひと、まだこの世に存在しないひとと「ともに」あるというようなイメージが大切と思います。それが歴史性ということです。

そしてそうした思想はかたちにあらわれてゐなければならない。康煕字典体と歴史的仮名遣いを踏襲すれば、表記のレベルでは、大日本帝国憲法からの継続性を維持できます。

ぼんやりした言い方になりますが、こういうところが大事なのではないでしょうか。

「いまここ」を越える選択をしたことが、わたしたちに自信を与えるでしょう。また憲法に一種の風格と威厳を与えることにもなるはずです。

そうしてはじめてアメリカからの精神的自立が可能になる。

 

なお念押しですが、一般に目にする文書は新字・新仮名でという二層構造がわたしの提案ですので、みなさんがむづかしいとか読みにくいと感じることはありません。

 

以上です。

憲法改正が現実的な政治日程にあがってきましたら、こういう問題もあるということ、思い出していただければと思います。

 

余談、わたしの表記法について

上に述べたように、わたしは康煕字典体と歴史的仮名遣いを正統表記と考えてゐます。

国語改革は敗戦直後の極度の自信喪失時代になされたもので、過去を忘れたい、歴史から断絶したいという当時の気分が色濃く反映された政策です。

それゆえ漢字の制限・簡略化も、仮名遣いの表音化も「行き過ぎ」でした。

もう少し落ち着いて、例えば占領下ではなく、サンフランシスコ講和条約のあとに国語改革がなされてゐたとしたら、いまより正統表記に近いものになってゐたはずです。

 

それを個人的に実践してゐるのがわたしの表記法です。

新字・新仮名は「このくらい」だったかもしれない、あり得たはずの表記法です。

それも探り探りやってゐるところがありますので、記事によって表記が異なりますが気にしないでください。

 

仮名遣いについては、「現代仮名遣い」を基準に、

・助詞の「さへ」「づつ」

・存在を意味する「ゐる」「をる」

・「ぢ」「づ」「じ」「ず」、いわゆる「四つ仮名」を使用した語

を「歴史的仮名遣い」で書く、という原則で表記してゐます。

「四つ仮名」を使用した語とは、例えば「いづれ」「いづこ」「まづ」「むづかしい」「はづかしい」「すぢ」「いぢる」「ねぢる」「とぢる」「ぢゃあ」などです。

わたしも新字・新仮名で育った人間ですから、その感覚で、どこまで正統表記に寄せることが出来るか、という実験をしてゐるかたちです。

詳細は☟をお読みください。

 

漢字はたいへんな難問で、自分で漢字表をつくろうとしてはみましたが、やってみると個人で調整できる箇所はあまりないと分かり、長い間ほったらかしになってゐます。

 

送り仮名については☟をお読みください。

このブログのなかでいちばんふつうに面白い記事と思います。