手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「戸締まり」と「戸締り」ー送り仮名はなぜ伸び縮みするかー

送り仮名いろいろ

新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」が大ヒット公開中である。ぼくはまだ見てゐないのだけれど評価が気になるので批評文を読んだりしてゐる。

そこで面白いことに気がついた。映画にも批評にもまったく関係ないことだが、「戸締まり」の送り仮名の送り方がけっこうばらけてゐるのだ。

公式の送り方は「戸締まり」と「まり」の二字を送ってゐる(こちら)。だからもちろん感想を投稿する人達の文章も圧倒的に「まり」送りが多いのだけれど、「戸締り」と「り」だけ送ってゐる例もまれにある。

いや、まれ、というには多すぎるようだ。

note で「すずめの戸締り」を検索した結果(2022.12.13)

これはどういうことだろう。わざわざ note に批評文を投稿するくらいだから新海作品に対する熱量はみな相当なものであるはずだ。なのにこれほど多くのひとがこれほど簡単な「間違い」をしてゐる。

いや、これは間違いなのだろうか。いっぱんてきな感覚で間違いと認識されるようなものならこれほど多くの「戸締り」表記は出てこないはずである。ぼくたちは「戸締まり」も「戸締り」も本質的には同じだと考えてゐる。

送り仮名にはそういうところがある。

「戸締り」表記は公式の送り方と違ってはゐるが、送り仮名法として間違ってゐるとはいえない。日本語使用者にとって送り仮名は長く送っても短く送っても気にならない、そんなどうでもよいものとして観念されてゐる。

漢字と仮名遣いに対しては、ぼくたちはこのようなどっちでもよいという感覚をもってゐない。「戸締り」と書く彼らにしても、例えば「戸閉まり」とか「戸じまり」とか「戸ぢまり」と書くことはない。

打ち損じてこのような表記が出てきたとしても、すぐに誤りと気づいて修正するだろう。でも「戸締り」は気にならない。

送り仮名については長くても短くても「同じ」とみなしてゐる。ここに送り仮名の特殊性がある。

この特殊性を証する例をいくつか挙げてみよう。

☟の画像は「アーク引越センター」という引越会社のホームページから切り取ったものである。

アーク引越センター 引越しお役立ちガイド(2022.12.9 閲覧)

ここで「ヒッコシ」という語の漢字表記は「引越」「引越し」「引っ越し」の三種が用いられてゐる。使い分けにはどうやら基準がないらしく、いくらなんでも無原則すぎではと心配になるほどである。

でも、どの表記も間違いではない。ここまでばらばらではないにしろ、ほかの引越業者だって統一されてゐない点では同じである。

☟の画像はみずほ銀行UFJ銀行のホームページから切り取ったものである。

みずほ銀行(2022.12.9 閲覧)

三菱UFJ銀行(2022.12.9 閲覧)

ここで「フリコミ」という語について、みずほ銀行は「振込」とし、UFJ銀行は「振り込み」としてゐる。

ただUFJは「振り込み」としながらも「振込手数料」と他の語が後ろにくるときには「振込」としてゐる。「振り込み手数料」では長すぎるし不格好であるからだろう。でも「振り込み手数料」と書いてもいいのである。

☟の画像はサザオールスターズのホームページから切り取ったもので、1979年発売のシングル曲「思い過ごしも恋のうち」の歌詞である。

サザオールスターズ「思い過ごしも恋のうち」(2022.12.9 閲覧)

ここで「キモチ」という語について、Aメロでは「気持」となってをり、Bメロでは「気持ち」となってゐる。

たぶん桑田佳祐さんが詞を紙に手書きしたときに「気持」と「気持ち」だったのだ。それがそのまま公式の表記となった。もちろん「気持」も「気持ち」も間違いではなく、ばらけてゐても問題ない。

この種の送り仮名のゆれや不統一を挙げていけばキリがない。注意深く見ればいくらでも見つかる。

1939年の映画「The Wizard of Oz」は「オズの魔法使」だが、近年刊行されてゐる小説版はみな「オズの魔法使い」と「い」を送ってゐる。

アーサー・C・クラークの小説「Childhood's End」は1964年のハヤカワ文庫では「幼年期の終り」なのに、2007年の光文社古典新訳文庫では「幼年期の終わり」と長く送ってゐる。

全体的な傾向としては長く送るようになってゐるわけだが、WANDによる1994年のミリオンセラー「世界が終るまでは…」は「世界が終わるまでは...」ではなく、雑誌「暮しの手帖」は「暮らしの手帖」とせず短い送り方を保持してゐる。

そして令和4年、「戸締まり」を「戸締り」と書く例が多発してゐる(!)。

でも、こんなこと言われなければ気づかないし、気づいたところでどっちでも同じではないかいう感じがする。では、なぜ気づかないのか、またなぜ同じと感じるのか。

送り仮名は価値中立的・非政治的

ゆれが大きいとはいえ、全体の傾向として送り仮名は長く送るようになってゐる。「戸締り」ではなく「戸締まり」、「終り」ではなく「終わり」、「気持」ではなく「気持ち」、「暮し」ではなく「暮らし」と書くことが圧倒的に多い。

令和の日本人は前者より後者のほうが自然だと感じてゐる。

日本語は漢字と仮名という二種の文字を交ぜて書く(漢字仮名交じり文)。それゆえ第一に漢字の数、字体、用法について、第二に仮名遣いについて、第三に送り仮名について、なんらかの原則、よりどころが必要となる。

現在の日本語表記のよりどころの直接的な起源は1946年の国語改革である。「当用漢字表」および「現代かなづかい」が同時に公布され、行政、教育、新聞がこれにしたがったため一気に普及した。

ゆえに漢字と仮名遣いについては1946年に決定的な境界線がある。こんにち旧字・旧仮名などと呼ぶのは国語改革以前の漢字、仮名遣いを指してゐる。

(国語改革については「日本語表記と歴史意識」をお読みください)

このとき送り仮名法は発表されてゐない。なぜなら国語改革の当初の目的は漢字廃止だったからだ。漢字をぜんぶなくして、仮名だけで、あるいはローマ字で日本語を書くことを視野に入れてゐた。

送り仮名とは「漢字の訓を利用して和語を書く際にその読みを示すために漢字のうしろにおく仮名」であるから漢字をつかわないなら問題にならない。

送り仮名のよりどころが示されたのは1959年の「送りがなのつけ方」がはじめである。1973年に改訂されて「送り仮名の付け方」となり、これが数度の改訂を経ていまに至ってゐる。

この公的指針により「終り」が「終わり」に、「暮し」が「暮らし」に変わった。「変った」が「変わった」になった。

長く送るようになったのはこの政府方針の影響が大きいのだが、本稿ではこの政府文書の詳細には触れずに送り仮名について考えたい。なぜなら、

第一に、送り仮名について、政府指針の影響力は漢字・仮名遣いと比べると格段にちいさい。多くのひとは聞いたことがある程度であっても「常用漢字」や「現代仮名遣い」のことを知ってゐる。

けれども「送り仮名の付け方」は存在そのものがほとんど知られてゐない。

第二に、そもそも「送り仮名の付け方」自体がいろいろな送り方を認めてゐて、ひとつの「正しい」送り方を示してゐるわけではない。通則があり、例外があり、許容がある。かなり幅があり、規範力が弱い。

「表す」と「表わす」、「起る」と「起こる」、「当り」と「当たり」、「申込む」と「申し込む」、「取締り」と「取り締り」。どちらでもよいとしてゐる。

第三に、それゆえ、漢字と仮名遣いが1946年にはっきりとした境界線があるのに対し、送り仮名にはどこにも明確な境目がない。

このことは出版社の対応が象徴的に示してゐる。どこの出版社でも漱石や鴎外など国語改革以前に書かれた作品は、漢字と仮名遣いについては新字・新仮名に改めて出版してゐるのに、送り仮名は原文のままである。

要するに、送り仮名については、政府の指針の影響は大きいにしても決定的なものではない。そういうわけで傾向としては長く送るようになってゐるが、けっこうばらばらであり、ばらばらであることをぼくたちは気にしてゐない。

ばらばらであること、表記の多様性はむろん漢字と仮名遣いについてもいえる。しかし多様性の質が送り仮名とは異なる。

本稿でぼくが考えたいのはそこである。

漢字と仮名遣いの多様性には書くひとの意思や思想が反映してゐるのに対し、送り仮名についてはそれがない。

どういうことか。

まづ漢字について。あるひとが「急きょ」ではなく「急遽」と書くとき、そのひとの頭には「交ぜ書き」はよくないという価値判断がある。

あるひとが「障害」ではなく「障がい」と書くとき、「害」字のネガティブなイメージを避けるためにそうする。右翼氏が「国」ではなく「國」と書くのはそのほうが「伝統的」で権威ある感じがするからだ。

仮名遣いも同様のことがいえる。俳句や短歌をつくるひとが歴史的仮名遣いで書くのは文学的伝統に則ってそうするのである。

創作でなくても、古風な雰囲気を出したくて「君を想ふ」なんて書くときもある。助詞の「ずつ」だけは「づつ」と書くひともゐる。これは「現代仮名遣い」の表音化に対してちいさな抵抗をしてゐることになる。

このように漢字と仮名遣いが多様であるのには理由がある。なんらかの考えにもとづく判断があり、選択がある。そして読者にはそのことがわかる。ところが送り仮名の場合はそうではない。わけもなくただゆれてゐる。

「終わり」ではなく「終り」と書くことによりなにかの思想を表現することは不可能である。「気持ち」と「気持」の違いにはいかなるイデオロギーも関わりがない。短く送ってゐるほうが昔っぽい感じするけれども、その昔っぽさに「伝統」感は稀薄であり、政治性を感じさせる効果は乏しい。

すなわち、送り仮名は価値中立的・非政治的である。したがって送り仮名の操作によってなにかを主張することはむづかしい。

この性格は送り仮名の本質に由来する。

では、送り仮名とはなにか。

【漢字(意味)+仮名(読みを示唆)】=語

送り仮名とは「漢字の訓を利用して和語を書く際にその読みを示すために漢字のうしろにおく仮名」のことである。訓とは漢字に対応する和語(やまとことば)のことである。

漢字は中国の文字であり、ひとつの文字がひとつの語(ことば)をあらわす。ある漢字に対してその原義に対応する和語を当てることで、中国の文字を利用して和語を読んだり書いたりすることができる。これが訓という方法である。

ポイントは、読んだり書いたりする語(ことば)は和語(やまとことば)であること。けれども文字言語としては漢字が本体であり仮名は補助であること。この二点である。

漢字が本体。その漢字を和語としてどう読ませるのかを示すのが送り仮名。

したがって仮名がなくても訓があきらかな場合、送り仮名は不要となる。例えば「山」「川」「海」などの語は送り仮名をつけない。これら名詞は活用がないためにつける必要がないのである。

形容詞や動詞のように活用がある語の場合に、送り仮名をつけてどう読ませるかを示す必要が出てくる。「終」字のあとに仮名を送ることで「終わる」のか「終わった」のか「終わらない」のかを示す。

ここでぼくは「わ」から送ったが、あくまで漢字が本体で仮名は補助であるため「終る」「終った」「終らない」と書いても間違いではない。

名詞は活用がないために送り仮名は不要であると書いたが、実はこれはウソである。ぼくたちは「祭り」「答え」「情け」「趣き」「後ろ」といった名詞にも送り仮名をつけてゐる。つけないこともある。書くひとの判断である。

訓読法は、外国の文字に日本語を当てて読む/書くといういびつな方法であるため、送り仮名のつけかたについて合理的な原則を立てることができない。極論すれば「読めさへすればよい」ということになる。

日本語研究に巨大な業績を残した学者達も送り仮名についてはそろって慣用にしたがうしかないと言ってゐる。

最初の近代的国語辞典「言海」の編纂者である大槻文彦(1847~1928)は「広日本文典別記」で次のように述べてゐる。

 送仮名ノ法モ、文典二説クベキモノナルが如シト雖ドモ、到底、一定ノ法ヲ立テ難シ、(・・・)畢竟ハ、漢字ノ、音読スベキカ、訓読スベキカ、惑ハムモノ、又ハ、一字、数様二読マルベキモノニ、斟酌シテ送ラバ可ナラム、唯、大凡ソノ習慣二因襲スベキノミ、 227頁

一定の法を立てることはできないので読みがわかるように送ればよい、習慣にしたがうほかない、という。

「山田文法」で有名な山田孝雄(1873~1958)も「日本文字の歴史」の末尾で送り仮名にふれて次のようにいう。

 この送仮名といふものについては之を是非共合理的にせうとすることは実は不可能なものである。何となれば、漢字は元来わが国語の為に発生したものでも無く、又国語に都合よい様に発達したものでも無いのである。その上漢語と国語とは性質が著しく違ふからして、送り仮名が必ず合理的に用ゐられねばならないといふ根本的理由が存在しない。

(・・・)

これを一定の自然的規律の存する如くに説くのはかへつて事実に即せずして、一定せしめぬ原因となるものである。送仮名の法は学問でなくて、公共の便益の為に制定せらるべきものである。これは本論としては蛇足であるが、漢字と仮名の併用につれて常に起る問題であるから、それについて一言したのである。 231頁

送り仮名は学問的に合理的な基準を定めることはできない、公共の便益のために制定すべきものである、という。「本論としては蛇足」であると断ってゐる。

送り仮名は「日本文字の歴史」という230頁の本の最後に「蛇足」として言及する程度のものなのである。「常に起る問題」なのに。

「言語過程説」を唱えた時枝誠記(1900~1967)は「國語問題のために」で送り仮名についての本質論を展開して実に明快である。この説明を読めば、なぜ合理的な一定の法を立てることができないのかが理解できる。

(・・・)送りがなといふものは、表意文字である漢字の機能と、表音文字である仮名の機能との、二つの機能を合はせて一つの語を表記しようとする方法で、漢字によつて、その語の意味を表はし、送る仮名によつて、漢字の読み方を示唆しようとするのである。

例へば、「割」の字は、「く」を送ることによつて「サク」と読まれ、「る」を送ることによつて、「ワル」と読まれることが示される。従つて、「割」字が、時に「サ」と読まれ、時に「ワ」と読まれると解すべきではない。

「割」は、仮名を送る前に、既に「サク」か「ワル」かであるが、そのいづれかであるかを、送りがなが示さうとするのである。 69頁 改行を追加した

送り仮名とは「表意文字である漢字の機能と、表音文字である仮名の機能との、二つの機能を合はせて一つの語を表記しようとする方法」である。

【漢字(意味)+仮名(読みを示唆)】=語

である。「終わり」「悲しい」「必ず」「全く」「穏やか」「頑な」など具体的な語を書いてみると理解できる。漢字が意味をあらわし、送り仮名が読みを示唆してゐる。

この方法の特殊性は漢字または仮名のみによる表記と比較してみるとよくわかる。

漢字だけで表記する場合を考えてみる。

漢字はひとつの字がひとつの語をあらわす。語の本体は「意味」である。その「意味」は「音」と結合してゐる。したがって漢字表記とは漢字の「かたち」が「語」をあらわし、その「語」によって「音」をあらわすものだ。

一文字だと、

【漢字】=語(意味&音)

熟語だと、

【〈漢字=語(意味&音)〉+〈漢字=語(意味&音)〉】=語(意味&音)

となる。なんでもいいのだけれど、例として、訓読の「山」「川」「情」、音読の「達成」「運命」「踏襲」を挙げておく。

文字が音をあらわしてゐないというのは直感的には理解しづらいけれども、それはぼくたちが「読み」を暗記してをり、文字と意味と音が脳内で結合してゐるからそう感じるのであって、文字そのものが音を示してゐるのではない。

だから漢字だけの表記の場合には「どう読んだらいいか迷う」ことがあるし、「読み間違え」が起こる。「情」だけでは「ナサケ」なのか「ジョウ」なのかを文脈で判断せねばならないし、「踏襲」を「フシュウ」と読んでしまうことがある。

次に仮名だけで表記する場合を考えてみる。

仮名はひとつの文字がひとつの音をあらわし、その仮名を並べることで「語」をあらわす。仮名の並びのことを「つづり」という。したがって「つづり」は漢字の「かたち」に相当する。

三音節語を例にとると、

【仮名(音)+仮名(音)+仮名(音)】=語(意味)

である。例えば「あるく」「あつい」「とても」「うなぎ」など。和語でも外来語でも仮名だけで書くとすべてこの方式になる。文字を並べることで音の並びをあらわし、音の並びが語(意味)をあらわす。シンプルである。

さて、送り仮名を用いる場合、漢字と仮名の二種の文字に役割を分担させて語をあらわす。

【漢字(意味)+仮名(読みを示唆)】=語

これが非常に特殊だというのは、漢字としても仮名としても中途半端にしか機能を発揮してゐないことである。漢字は「語」全体をあらわす力があるのに読みを仮名に依存してゐるし、仮名は語全体の音を示さずに漢字の読みを「示唆」するだけである。

どうやら、「示唆」ということがポイントらしい。

送り仮名があったりなかったり、短かったり長かったりするのは、送り仮名の機能が語の全体の音を示すことではなく「示唆」するものだからだ。

送り仮名において、仮名は、仮名だけで語を表記するときと異なる働きかたをする。そこで仮名は「示唆性」をもつ。この示唆性ゆえに送り仮名は伸び縮みするのである。

「示唆」という概念をとっくり考えてみよう。

「示唆」ということ

送り仮名は語頭に置かれた漢字の読みを「示唆」するものである。

「示唆」とはなにか。辞書を引くと「それとなく物事を示し教えること」とある。それとなく、である。直接的にではなく間接的に示すというニュアンスがある。

時枝の説明をもう一度読んでみよう。

例へば、「割」の字は、「く」を送ることによつて「サク」と読まれ、「る」を送ることによつて、「ワル」と読まれることが示される。従つて、「割」字が、時に「サ」と読まれ、時に「ワ」と読まれると解すべきではない。

「割」は、仮名を送る前に、既に「サク」か「ワル」かであるが、そのいづれかであるかを、送りがなが示さうとするのである。

「割」は仮名を送る前にすでに「サク」であり「ワル」である、とある。「割」字には複数の和語が当てられてゐて(一字多訓)、一字が潜在的に「サク」であり「ワル」であるのだ。そこへ仮名を送り読みを示唆することによって語が確定するというこである。

【漢字(意味)+仮名(読みを示唆)】=語

という式に上記の考察を追加しよう。

【漢字(未確定の意味)+仮名(読みを示唆)】=語(確定された意味&全体の音)

漢字の意味は未確定であり、仮名も読みを示唆するだけですべてを示さない。漢字の後ろに仮名を送り、その「漢字+送り仮名」全体で語(確定された意味&全体の音)をあらわす。

だから文字と音とが一対一で対応しない。

「割く」と書いたとき、表面的には「割」字が「サ」の音に対応してゐるように見える。また「割る」と書いたとき、「割」字が「ワ」の音に対応してゐるように見える。しかしそれは仮名の表音性に引っ張られてそのように感じるだけなのだ。

別の字で考えてみよう。

「終」という字は仮名を送る前にすでに「オワリ」であり「シマイ」である。そのいづれであるかを示すために仮名を送る。「り」を送り「終り」と書くことによって「オワリ」と読まれ、「い」を送り「終い」と書くことによつて「シマイ」と読まれることが示される。

ここで「終り」と書いたとき「終」字が「オワ」に対応するのではない。また「終い」と書いたとき「終」字が「シマ」に対応するのではない。「終」は仮名を送る前にすでに「オワリ」であり「シマイ」であるから。

この理屈がわかると送り仮名がなぜ長くなったり短くなったりするのかが理解できる。

送り仮名の機能はあくまで漢字の読みを示唆することであり、語全体の音を直接的に示すものではない。一部の音だけを示す。

この点で送り仮名とルビ/振り仮名は似て非なるものである。ルビは漢字のかたわらに添えて読みを「明示」するものだ。「示唆」ではない。

だからルビは伸び縮みせず、送り仮名は伸びたり縮んだりする。

「オワリ」という語は「終り」と書くことも「終わり」と書くこともできる。ここで文字と音の対応関係を問うことは意味がない。前者は二字で、後者は三字で、「オワリ」なのである。

「終わり」と書いたときになんとなく「終」字が「オ」の音をあらわしてゐるように見えるが、それは語の音節数と文字数が一致してゐる(ともに3)ことによる錯覚である。現象的にはそのように見えるが、本質的には「終わり」全体が「オワリ」をあらわしてゐる。

すべて平仮名で「おわり」と書いた場合には仮名と音との対応が一対一であり、ここでは仮名が示す三音節の連なりが語(意味)を示してゐる。「仮名文字⇒音⇒語」と一直線である。仮名の表音性がまっすぐ語(意味)に向かってゐる。

しかし漢字を用いて、すなわち訓読法によって、「終り」または「終わり」と書く場合、仮名は頭におかれた漢字の読みを示唆し、それにより漢字の訓が限定され、語(意味&音)があきらかとなる。

つまり「仮名文字⇒音⇒漢字⇒語」という道をたどる。仮名の表音性は語に直結せず、漢字を経由する。意味は漢字が担ってゐるから。

これが「示唆」という言葉の含意である。

語頭の漢字がすでに意味をあらわしてゐるために、仮名は語の全音節を示す必要がない。示唆するだけでよい。だから送り方に幅が出てしまう。「これが正しい」「これが合理的」という決定版みたいな送り方は、原理的に存在しないのである。

「必ず」「全く」「勢い」「頑な」などの表記は完全に固定してゐるために、おそらくこれが「正しい」と感じるはずである。けれども、この送り方が「正しい」とする合理的説明は存在しない。「必らず」という表記も、ヘンテコだけれど、可能である。

さて、これで「戸締まり/戸締り」「引っ越し/引越し/引越」の表記が「みんな違ってみんな同じ」であることが了解されるはずである。これらの表記はどのように異なり、どのように同じなのか。

もちろん「語」としては同じなのである。しかし仮名による「示唆の程度」が異なる。

「トジマリ」は「ト」+「シマリ」で、「ト」は送り仮名が不要なのでそのまま「戸」、「シマリ」は「締り」「締まり」どちらでもかまわない。「オワリ」が「終り」「終わり」どちらでもよいのと同じことである。

「ヒッコシ」は「ヒキ」+「コシ」が訛ったかたち。複合動詞の連用形が名詞化したものと解される。それゆえ1両方送り(引っ越し)、2後ろ送り(引越し)、3送らず(引越)の3パターンが通用してゐる。どれも同じ語である。両方送っても「ヒッコシ」、送らなくても「ヒッコシ」。

だから「引っ越し」と書いたときに「引」の字が「ヒ」の音を「越」の字が「コ」の音を示してゐるのではない。送っても送らなくても「ヒッコシ」と読む。ただそのように読むことを示す、その示唆のパターンがいろいろあるということなのだ。

同様に「答」も「答え」も「コタエ」、「祭」も「祭り」も「マツリ」である。仮名を送っても送らなくても同じ語をあらわす。

漢字と仮名を並べる際に、漢字の表意性と仮名の表音性がたがいに主張し、どこかで調和点を見出すことになる。漢字の表音性だけでじゅうぶんな場合には仮名は送らない。表音性が強く主張してくると送り仮名が増える。

この調和点が浮動であるために、送り仮名もまた一定しない。

では、調和点はどのように決定されるのだろう。

手書きとワープロ書き

送り仮名が伸び縮みする理由があきらかとなった。それは送り仮名として用いられるときにのみ仮名が「示唆性」をもつからである。この性質は仮名だけで語を表記する場合にも、ルビを振るときにも生じない。

送り仮名は全体の読みを示さず、一部だけを示し、漢字の意味を限定する。

【漢字(未確定の意味)+仮名(読みを示唆)】=語(確定された意味&全体の音)

読みの一部を示して意味を確定できればよいので、送り方に幅が出てしまう。どうしても一定しない。

「生れる/生まれる」「終った/終わった」「振込/振り込み」「代り/代わり」「戸締り/戸締まり」など、送り仮名は伸びたり縮んだりすることになる。

送り仮名に合理的な送り方は存在せず、包括的な原則を立てることができない。書き手の感覚次第というところが大きい。この本質的な浮動性ゆえに、価値中立的で非政治的な性格をもつ。

漢字や仮名遣いには「こだわる」ことができる。表記によって政治的主張をおこない文学的効果をねらうことができる。けれども送り仮名には「こだわる」ことができない。

したがって、送り仮名の伸び縮みは理屈ではなく「感覚」が反映してゐるはずである。ひとが文字を書くというプロセスにおける無意識的な「感覚」が。

語を頭に浮かべ、手で書き/打ち、それを目で見る。この一連の流れのなかで、送り仮名が伸びようとする力と縮もうとする力が働き、どこかに調和点が見出されることになる。

伸びようとする力は仮名の表音性である。縮もうとする力は漢字の表意性である。

仮名の表音性が強く出ると送り仮名は長くなる。読みを示唆する度合いが高まり、語全体の音節数と文字数が接近する。

漢字の表意性が強く出ると送り仮名は短くなる。場合によっては送り仮名は消滅し、漢字だけになる。

伸びようとする力と縮もうとする力が調和を見出すポイントが浮動であるために、送り仮名は長くなったり短くなったりする。すでに述べたように、全体的としては長くなる傾向にある。漢字の表意性よりも、仮名の表音性が強くなってゐるのである。

その要因はいくつか考えられる。

第一に、日本が漢文を捨てたこと。かつて漢字だけで書かれた文章を日本語として読む習慣があった。漢籍をそのまま読むことが知識人の必須条件であり、読むだけでなく漢文を書いたり、漢詩をつくったりしてゐた。

そのような文化状況は完全に消滅した。学校教育においても漢文訓読の時間は減少傾向にある。

第二に、第一の要因とほとんど同じことだが、国語改革によって、一度は本気で漢字を廃止しようとしたこと。漢字を廃止しようとした途中経過が、例えば「ひっ迫」「改ざん」などの交ぜ書きとして跡を残してゐる。

第三に、政府の指針、1959年の「送りがなのつけ方」および1973年に改訂されて「送り仮名の付け方」の影響。この方針により「当る」が「当たる」に、「生れる」が「生まれる」に、「代り」が「代わり」に変わった。

ただ、前者の短い送り方も「許容」されてゐて、いまでもしばしば見られるものである。

繰り返しになるが、政府指針は送り方にかなりの幅を認めてゐるし、強制力もないため、「当用漢字」「現代かなづかい」のような決定的な影響を与えなかった。以前以後でぱっくり表記が割れてゐるわけではない。

政府指針が存在しなかったらどうなってゐたかということをぼくは考える。

無理して原則をつくろうとせずに、自然に固定してくるのを待ち、慣習として定着したものをひとつひとつ拾い上げていくような地道な方針をとったとしたら、送り仮名はどうなっただろうと。

思うに、やはり送り仮名は長くなったのではないだろうか。

それは手書きからワープロ書きへの移行によって、書くというプロセスにおけるぼくたちの「感覚」がまるで変わってしまったからだ。

表記における仮名の表音性、送り仮名が伸びようとする力が強くなった最大の要因として、手書きの衰退とワープロ書きの浸透をぼくは挙げたい。

ワープロ書きが送り仮名に影響を与えてゐることは従来から指摘されてきた。ただその理由として言われるのは「変換したときに上位に出て来た候補を選択する傾向が高い」というものである(こちら)。

ワープロに実装されてゐる文字変換ソフトは多くの場合政府の指針が推奨する長い送り方が上に出てくるので、それを選択する傾向が高いというのだ。おそらくそのとおりであろう。

が、それではちょっと面白くない。政府指針がなかったとしても、長い送り方が変換候補の上位でなかったとしても、自然な動きとして、送り仮名は伸びた/増えたのではないかとぼくは推測する。

まづ、手書きはけっこうな労力なので基本的に楽をしたいという気持ちがつねにある。漢字でも仮名でもアルファベットでも、異体字や筆写体は楽をして速く書くために生れたものだ。だから手書きでは送り仮名は最小限の送り方にとどまるはずだ。

しかるにワープロ書きの場合は短くても長くても労力が同じであるため、短く送りたいという気持ちは働かない。

そもそも、手書きでは実際に文字を手で書いてゐるのに対し、ワープロ書きでは音を打ってゐるだけだ。

手書きでは最初に漢字を書き、そのあとに送るべき最小限の仮名を書く。ところがワープロ書きの場合は、まづ語全体の音を打ち、最後に表記を選択する。漢字を書くという手の動きはどこにも存在しない。

これはワープロでもスマートフォンでも同じことで、まづすべての音を手で打ち、その後に漢字と仮名の視覚的なバランスを考えてゐる。漢字のかたちを手で感じることはないし、漢字を意識するのはいちばん最後である。

この手の感覚と、音の意識というものが、最後に変換したときに、表記全体に反映しないわけがない。表記に、音の意識が強く出てくるはずだ。

手の感覚と目の感覚が近いほうが自然と感じるはずだろう。とすると、語を構成する音節の数と、文字の数が接近してくるのではないだろうか。

漢字を手で書かずに、語を構成する音節を全部打ち出してゐるという手の感覚が文字としてあらわされることを求めるのではないだろうか。言い換えれば、そのことを脳の生理が要請するのではないだろうか。

つまり「引越」より「引っ越し」のほうが自然と感じるのではあるまいか。「終り」より「終わり」のほうが自然だと感じるのではないだろうか。

手のほうは「OWARI」とか「おわり」と打ってゐるのに、変換されたときに「終り」なのであれば、「WA」または「わ」を打った手の感覚が「なにか足りない」と訴えかけ、それが視覚的に反映されることを求めるのではないか。

もちろん政府指針がなかった場合に送り仮名がどう変化したかは完全にイフ(if)の話であり検証することはできない。しかし、手書きからワープロ書きへの移行による手の感覚の変化は継続的にぼくたちの書記意識へと影響をあたえてゐるはずである。

繰り返しになるが、漢字と仮名遣いは1946年にはっきりとした切れ目がある。もちろん国語改革に反対してしたがわなかったひともゐたが、全体からすればわづかである。

送り仮名は「送りがなのつけ方」が告示された1959年にも、「送り仮名の付け方」が公布された1973年にも、書記上の境界線は存在しない。以前以後でくっきり違ってゐるということはない。変化はもっとなだらかである。

日本全体の送り仮名の表記が一気に変化したポイントは存在しないが、個人についてはどうやらありそうである。手書きからワープロ書きへ移行したときに、そのひとの送り方がすっかり変わってしまったということはありうる。

村上春樹はその例である。

村上春樹の送り仮名

村上春樹は1987年の「ノルウェイの森」までは手書きで原稿を書き、1988年の「ダンス・ダンス・ダンス」からはワープロで書いてゐることをあきらかにしてゐる。

--生原稿の内訳について

「『ダンス・ダンス・ダンス』(昭和63年刊行)からはワープロ、パソコンで書いているので、生原稿はそれより前の段階(62年刊行の『ノルウェイの森』まで)です」 産経新聞2018.11.4

そこでぼくは、書記方法を変更した前後の長篇小説、

1985年「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

1987年「ノルウェイの森

1988年「ダンス・ダンス・ダンス

1992年「国境の南、太陽の西

の送り仮名を調べてみた。すると、「ノルウェイの森」までは短く送り、「ダンス・ダンス・ダンス」からは長く送ってゐることがわかった。

ノルウェイの森」以前は、

「終り」「向った」「暮して」「曲り」「気持」「答」

など短く送ってゐるのに対し、「ダンス・ダンス・ダンス」以降は、

「終わり」「向かった」「暮らして」「曲がり」「気持ち」「答え」

と長く送るようになってゐる。もちろんぜんぶ完全にというわけではない、例外もある。けれども、ここで切り替わったと判断してよいレベルで変化してゐる。

以下、「終り/終わり」と「気持/気持ち」を中心に拾ってみた。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」上巻33頁

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」上巻107頁

ノルウェイの森」上巻166-167頁

ダンス・ダンス・ダンス」上巻18頁

ダンス・ダンス・ダンス」上巻19頁

国境の南、太陽の西」70頁

ワープロ書きに切り替えた「ダンス・ダンス・ダンス」から長く送るようになったのは間違いないと思われる。

村上春樹ワープロ書きに移行してから、変換したときに上に出てくるものを選んだ結果、送り仮名を長く送るようになったのだろうか。これはよくわからない。

ただ、次の「国境の南、太陽の西」では長い送り方が基調であるなかで、短い送り方がけっこう多く見られる。上の画像のなかでは「向って」がそうだ。

すべての語についてリストをつくって数え上げたわけではないのでまったくの印象論なのだが、「ダンス・ダンス・ダンス」よりも「国境の南、太陽の西」のほうが短い送り方が多い。

部分的に手書きで書いたのかと疑いたくなるほどに「国境の南、太陽の西」の送り方にはゆれが大きい。「変った」「起った」「終り」「果して」「気持」等の短い送り方が散見される。なぜこのような揺り戻しがおこってゐるかは不明だ。

ワープロ導入以降に送り仮名が長くなったのはたしかとしても、単純に変換候補の上位を選択するともいえないようだ。まったく謎である。

ただ確かなのは、村上春樹は送り仮名に強いこだわりをもってゐないこと、政府の指針の影響による変化ではないこと、出版社の校閲部も送り仮名については無視してゐることである。

村上が送り仮名になんらかの思い入れがあるならば、ワープロ導入以降も短いままであるはずだし、政府の指針に賛成してゐたとするなら、デビュー時(1979年)から長い送り方をしてゐないと理屈に合わない。

出版社の校閲部が送り仮名を重んじてゐるなら、やはりデビュー時から長くなってゐるはずだし、ゆれの大きさも説明できない。

いまの感覚では「終り」「気持」「答」などはヘンな感じがするかもしれない。あるいは間違ってゐると感じるかもしれない。しかしそんなことはないのである。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」などは物凄い大ベストセラーであって、送り仮名が短くて読みづらいなどと感じるひとはゐなかった。要するに、慣れの問題ということになる。

村上春樹の送り仮名の変化を観察するうえで興味深いのが1990年に発表された紀行文集「遠い太鼓」である。

村上は1986年の秋から1989年の秋までの3年間、日本を離れヨーロッパを旅して暮してゐた。そしてこの3年の旅のあいだに「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」というふたつの長篇小説を書いた。

この長篇執筆のあいまに書かれた「スケッチの集積」が「遠い太鼓」である。

お察しのとおり、「遠い太鼓」には手書きで書かれた文章とワープロで書かれた文章が混在してゐる。だから送り方の長短を見れば、どのテクストが手書きなのか/ワープロ書きなのかを推測できる。

そんなことを抜きにしてもたいへん面白い本なので、ご一読をおすすめします。

「遠い太鼓」140-141頁

「遠い太鼓」557頁

自然な感覚

まとめよう。

送り仮名は、

畢竟ハ、漢字ノ、音読スベキカ、訓読スベキカ、惑ハムモノ、又ハ、一字、数様二読マルベキモノニ、斟酌シテ送ラバ可ナラム

是非共合理的にせうとすることは実は不可能

なものである。そうはいっても教育や行政など実務的な観点からなんらかの指針が必要となるため政府は指針を出してゐる。これにより、「暮し」→「暮らし」、「終り」→「終わり」のように以前と比べて長く送るようになった。

いちおうの理由としては前者なら「暮れる」と、後者なら「終える」との区別がつきやすいようにということである。でも村上春樹の送り仮名で確認したように、「暮し」や「終り」で問題が生じるかというとそうでもない。

現在、長い送り方が支配的だが、支配的であることは合理的であること、優れてゐること、正しいことを、必ずしも意味しない。そもそも法則性のないところに規則をつくろうとした結果、感覚的に不自然ところがあるかもしれない。

「戸締り」や「終った」という短い表記がときどき出てくるのは、ひょっとしたら、ぼくたちの感覚が規則に謀叛を起こした結果ではあるまいか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

送り仮名は、漢字の訓読みを利用して和語を表記しようするとき、漢字の読みを「示唆」するものである。それゆえ伸びたり縮んだりする。不要な場合は送らない。

伸びようとする力と縮もうとする力は常に働いてをり、さまざまな要因によって調和点が移動する。この移動が送り仮名の文字数としてあらわれる。

伸びようとする力は仮名の表音性である。縮もうとする力は漢字の表意性である。

現代の文化状況(漢文の衰退)、公的規範(政府指針)、書記環境(ワープロスマートフォン)のすべてが、仮名の表音性を強化する方向にはたらいてゐる。

ことに手書きからワープロ書きへの変化は決定的で、政府指針が変換候補の上位に出ることくわえて、書くプロセスにおいて「音」への意識が高まったと想像される。

なぜならワープロでもスマートフォンでも、まづ語を構成する音(仮名)をすべて打ち出し、それから変換して漢字と仮名のバランスを決めるからである。音を打ってゐる手の感覚が語のかたちを整える目の感覚に影響を与えてゐるはずである。

おそらく語全体の音節数と、それをあらわす文字数とが一致してゐるほうが「気持ちいい」はずだし、それが離れすぎると「なにか足りない」感じがする。

「引越」より「引っ越し」が、「気持」より「気持ち」が、自然と感じるのはそのためであろう。

もちろん、漢字をつかってゐる以上、その表意性は送り仮名を縮める力としてはたらき続けてゐる。問題は、どういう状況で送り仮名を吸収するかということである。

「戸締り」は好例だ。

冒頭に示した note 記事における「戸締り」表記は、彼らが「素人」だからあのような単純な「誤記」をしてしまったのだろうか。どうもそうではないらしい。本稿もそろそろ終わりにしようと考えてゐたつい先ほど、「プロ」による「戸締り」表記の例を発見した。

集英社新書プラスの「『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性」と題する土居伸彰・藤田直哉両氏の対談記事において、「戸締り」表記が5回出てくる。

集英社新書プラス 『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性(2022.12.18 閲覧)

政府指針が推奨するのは「戸締まり」であり、おそらく変換ソフトで最初に出るのも「戸締まり」である。だからこそ公式タイトルでは「戸締まり」となってゐる。そして映画広告にあのように大きく「戸締まり」と書いてあるのを目にしてゐる。

このように「戸締まり」と書くのが当り前である状況で、素人もプロも「戸締り」を選択してしまうケースがこれほど多い。これにはなにか意味があるだろう。

ひょっとすると、「戸締り」のほうが感覚的には自然なのかもしれない。なんとなく「しっくり」くる、「収まりがいい」感じがして、つい「戸締り」を選択してしまうのではないか。

似たかたちの例としてよく見られるのは、「見積り」「風変り」などである。「見積り」はとても多い。漢字がふたつ並ぶために表意性が強くなり、うしろの仮名を吸収してゐるのだ。

もうひとつ、「終わった」「変わった」「起こった」「向かった」「分かった」など動詞が活用して表記に促音がはいる場合に、「終った」「変った」「起った」「向った」「分った」と短く送る例もしばしば目にする。

漢字の表意性によって意味は直感的に理解できるために、四文字だと長すぎる感じがするのではないだろうか。「生まれる」なども長すぎるようだ。「生れる」でじゅうぶんという気がする。

漢字が頭にある以上、全体が四文字を超えるとちょっと余計な感じが出てくるのかもしれない。

送り仮名は本質的に浮動するものであり、合理的な基準を立てたり、統一的な原理を当てはめることのできないものである。手の感覚と目の感覚がどの語形を自然と感じるか。その自然な感覚をこそ重視すべきと考える。

上にも引用した時枝誠記の「國語問題のために」から引用して本稿を終えることにする。これは1962年の本である。60年後のいま、時枝の指摘はやはり正しかったのだと思う。

(・・・)どの程度の仮名を送るかは、その漢字の読み方の固定度、習熟度によつて定まるもので、法則的に定められるものではない。浮動の時期にあるものを無理に一方的に決定しようとするところに問題がおこるのであろう。大切なことは、今日の慣用を調査して、確定的に固定したものを示すことで、未決定のものを無理に決定して示すことではない。 71頁

(・・・)複合動詞の場合と、名詞に転成した場合とで、表記を異にする、「申し込む」「申込み」「申込書」のような区別は、いたづらに事柄を煩雑にするだけで、国語整理と合理化の眼目は、先づこの辺に手をつけるべきであらう。 73頁